碧い入江の迷子たち
@Lily_Yamada4812
人魚のためらい
ヴァーティゴという言葉がある。ダイビング中に平衡感覚や方向感覚を失うことらしい。水面に上がろうとしているのに、むしろより深く潜り込んでしまうのだ。じゃあ、人魚はどうしているのかしら。
海深く潜ったときのような耳鳴りが消えない。「こんなはずじゃなかった」もう何度呟いたか分からない。でもきっと誰の耳にも届かない。私のようにならないで。私は、見知らぬ誰かのために海の中から水面に上がる方向を必死で示しているのだ。より深い海の中でもがきながら。
「すぐにオフィスに来て」ヒカリさんからのメッセージは既読をつけたら1分以内に返す。そして、ボスの仰せのままにオフィスに向かうのだった、35度の雲ひとつない青空と都心部特有の熱風のなかで。毎回急かされる呼び出しに緊急性がないのはわかっている。
Radient Blue のオフィスは、JR原宿駅から青山方向に徒歩10分。毎朝道すがらに立ち並ぶフォトジェニックなフードスタンドやカフェが視界に飛び込んでくる。それらは決して座って食べることを許さない広さしか持ち合わせていないので、オフィスアワーのランチには向いていない。平日だというよに一際混んでいる。こんな時にカメラを回して、インスタのストーリー用のショート動画を撮り溜めておくと賑やかな雰囲気が伝わるのだ。
「サトミン、さすが早いね」毎日キレイに巻いた髪、新しくしたばかりのネイル、愛用のマノロブラニクをまとってヒカリさんは出迎えてくれた。いつも通りの美しさと華やかさ。いかにもキャリアウーマンのようないでたちだが、笑顔はチャーミングで喋り方は優しい。持って生まれた美しさと育ちの良さのなせる技だ。リーマンショックまでは有名な外資企業に勤めていたという。
「今日はシュークリームだったの。最近銀座に新しく出来たお店だって。皆次から次へと目新しい差し入れ持ってきてくれるんだけど、全然分からないの。知ってる?」
箱を見るとフレデリック・カッセルだった。たしか銀座三越にしかない。ミルフィーユをイメージしたフランスの巨匠のスペシャリテであることを伝えると大袈裟に感心してくれた。
今日のシュークリームは1個¥540で全部で6個入りだ。賞味期限が短いから、と2人でハーブティーと一緒に1つずついただくことになった。残りはオフィスに持ち帰って山分け。こんなバニラの効いた濃厚なカスタードに合うのは間違いなくコーヒーだが、ヒカリさんはハーブティーしか飲まない。正確にいうとお金になる、つまりRadiant Blue のハーブティーしか飲まない。
「美味しいシュークリームをうちのハーブティーといただきました」と投稿するのだろう。あるいはエルメスのカップに淹れたハーブティーの写真とハッシュタグだけかもしれない。テーブルのうえには無造作に置かれたセリーヌの16の金具を抜かりなく映りこませる。自分の商品価値を上げるために抜かりなく使用するが、ハッシュタグに#エルメスなんて入れることはしない。分かる人だけ分かってくれればいいのだから。
毎週ミーティングはあるし、差し入れの度に呼び出されるけれど、未だにヒカリさんと会う時はドキドキする。40歳を過ぎているとは思えないほど、頭のてっぺんから指先、靴まで抜かりないし、それに見合うスタイルを維持している。肌は不自然に発光するビニールみたいな白さじゃなくて、均一でハリがある。よく見れば細かいシワもちゃんとある。ずっと憧れてきた人のアシスタントとして働いているのだ。
エレベーターをおりたところで、岡野コウダイとすれ違った。会釈だけして立ち去ったが、相変わらず、ヒカリさんとは美男美女でお似合いだ。うちのCEO、大嶋ヒカリの「ビジネスの」パートナーで、マリンスポーツと前妻との息子を生き甲斐にしている。
窓いっぱいに光が差し込むエントランスを抜けて、ビルの正面玄関の自動ドアから狭い歩道に出る。信号を渡って、2分歩いて、重たいガラス戸を開ければ、薄暗いエレベーターホールが出迎えてくれる。学習塾やクリニックがテナントに入っているからなのか、メンテナンスだけは入念にされている旧式のエレベーターに乗り込み、3のボタンを押す。隣のビルに景色を遮られて、天気の確認も危うい廊下を通って自分たちのオフィスに戻る。
「あ〜、サトミン、おかえり。早かったやん」関西まじりのアクセントとフレンドリーという名の図々しさで、30分前まで一緒にいたとは思えない熱量でユイさんが出迎えてくれた。私がこのオフィスで働き始めて半年が過ぎた。私の肩書きはジュニアアシスタント、彼女のはシニアアシスタントだ。関西出身の姉御肌。流行りのメークアップアーティストに似ていて、サバサバしているファッショニスタだ。オフィスの常勤はこの2人。時々、ボランティアのメンバーをよんだり、インターンの女の子が現れたりするからそれなりに賑わいはある。
ヒカリさんが、我が社のCEOで、仕事は女性専門の起業コンシェルジュになる。ユイさんはオフィスに来てからは3年目だが、もともとヒカリさんとは「長い付き合い」らしい。二人とも、その辺のことを時系列にそって話そうとしないので、こちらも詮索することはない。時々、二人しか知らないレストランだのインフルエンサーだの大成功したプロジェクトだの、話に花を咲かせているが、そんな時はニコニコしながら相槌を打てばいいだけだ。
インスタを開くとヒカリさんが早速インスタを更新していた。「スタッフちゃんとのMTG無事に終了」里見リアの名前が載ることはない。半年たっても呼び方は「スタッフちゃん」だ。ユイさんは、良い名前だと言ってくれたが、「リアだと外国人みたいで、近づきがたい」と言ったので、より日本人らしい里見をつかうようにしている。ツーショットで、同じ画面に映り込むことができたのは数えるほどだ。大抵は今日のように、「自分以外のニンゲンが存在していますよ」というアピールに使われるに過ぎない。それでも、この気まぐれな呼び出しのために、毎日メイクをして、カラコンをして、月に1回のネイルとマツエクを止めることはできない。「皆の憧れの仕事」をして、ヒカリさんの横に並ぶには少しでもキレイでいなければならない。
19時を過ぎても原宿の風は熱を帯びている。耳の奥がキーンとする。痛くはないが、違和感が少しずつ積み重なる。18時半の定時とともに、タイムカードをきり、外国人で埋め尽くされた山手線の車両に乗って、スマホを開く。画面左端にヒビが入っている一昨年のモデルのiPhoneだ。カメラは問題なく使えるし、仕事中はオフィスのPCでやりとりすることがほとんどだから、困ることもないと自分に言い聞かせながら、新宿駅で中央線に乗り換える。ワイヤレスイヤホンが流行りの曲を響かせるが、歌詞が全く入ってこない。
改札を通過して頭をよぎった28という数字が自分の年齢だったらどんなによかったか。28万円、というのが今現在の総資産だ。もちろん端数はあるのだが、怖くて銀行アプリを見るのをやめた。車も所有していないし、持ち家でもない。中央線に揺られて三鷹駅から5分歩いて、ようやく帰宅。最寄り駅は三鷹だが、吉祥寺に住んでいる、と言っている。吉祥寺徒歩圏内という条件で不動産サイトから見つけだした物件で、吉祥寺からは徒歩28分だった。家賃9万8500円の1Kの部屋の中から「こんなはずじゃなかった」という訴えをSNSの海の中に放り投げるが、その嘆きが水面に上がってくることはない。
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