革命は失敗に終わった

秋犬

革命は失敗に終わった

 薄くて白いカーテンがたなびいている。窓を開け放つと冬の気配がどこかへ行き、久しぶりに気持ちのいい風が入ってくる。そんな暖かな日射しの中、私たちは音楽棟にいた。今日は入試の準備とやらで在校生の授業は午前中で終わり、生徒は校内に立ち入ることはできなかった。帰ろうとした私を呼び止めたのは、ピアノ仲間の真由美まゆみ先輩だった。


「先輩は家に帰らなくていいんですか?」


 3年生は自由登校で、もう卒業式に来るだけになっている。先輩はそもそも学校に来る必要がないはずだった。


「だって恵理えりちゃんとこうしてピアノが弾けるのは最後かもしれないから」


 そう言って先輩はいたずらっぽく笑うと、森山直太朗の『さくら』を弾き始める。


「やめてくださいよ、卒業式っぽいじゃないですか」

「泣くのは早いよ、ふふふ」


 それから先輩はレミオロメンの『3月9日』を弾く。やばい、涙腺が崩壊しそうだ。


「あはは、卒業式本番も大いに泣いてくれよな」

「もう、先輩ったら」

「じゃあ今度は恵理ちゃんの番ね」


 先輩は私に椅子を譲る。こうして私たちは放課後によく音楽棟のピアノで遊んでいた。私は仕返しに卒業式の定番曲『旅立ちの日に』の伴奏を弾く。


「ちょっとやめてよ、それは今卑怯!」

「お返しですよ!」


 そう言って先輩は涙を滲ませながら笑う。笑った顔がとてもキレイで、その度私は何だかムカついていた。ああ、この人は本当に恵まれているんだなって。嫌だな、これは妬みとかきっとそんな感情。先輩はきっと傷ついたことなんかない。きっと眩しすぎるキレイな魂なんだろうな。


「じゃあ最後に、先輩の本気を聞かせてください」

「私の本気? すごいよ?」


 先輩は桜が咲いたら音大のピアノ科に行くことが決まっていた。恵まれた家庭環境、ピアノをするのに恵まれた身体、ピアノをするために生まれてきた魂。


「先輩の本気を浴びたら、私も頑張れる気がするんです」

「じゃあちょっと本気出しちゃおうかなー?」


 そう言って先輩にピアノを譲る。先輩の短く息を吸い込む音の後、ショパンの『革命のエチュード』がピアノ室に響く。


 ああまたか、と私は嘆息する一方で先輩がこの曲をとても好んでいることもよく知っている。「だってピアノ何か弾いてってなったとき、一番映える曲じゃない?」だそうだ。それに私も異存はない。


 先輩の長くて細い指は、白と黒の鍵盤の上をなめらかに力強く滑っていく。その度に先輩の長くて黒い髪がゆらゆらと揺れ、しなやかで白い先輩の肌をくすぐる。「知ってる? この曲は怒りの曲なんだよ」とヘラヘラした調子で先輩は言いながら、いつも目だけは真剣だった。革命を招くほどの民衆の怒りが、先輩の指の上で踊っていた。それはこちらを突き刺さんばかりに感情を剥き出しにして激しく襲いかかってくる。


 ああ、もうこの人を見ていたくない。きれいなストレートの黒髪も「発表会の時に映えるから、ピアニストって全身で音楽を表現するんだ」って艶々に手入れされているし、多分白い肌も念入りにスキンケアしている結果だし、何よりピアノの才能が私なんかと大違い。だって音大のピアノ科に行く人だもの。眩しい、眩しすぎて私なんかとは全然違う世界の人。


 きっとこれは嫉妬なのだ。私はくせっ毛だしそんなに自分の身体を手入れなんかしないし、家も先輩みたいに毎年家族旅行でヨーロッパに行けるほどのものでもないし、多分ピアノは高校生まで。そこから先は趣味の世界の悲しいまでの一般庶民なんだ。


 全然違うもの、先輩と私。生きる世界が全然違う。生まれたときから音楽一家の先輩はすごく生き生きとピアノを弾いていて、それが自分の存在証明なんでしょう? 私は知ってる、先輩はピアノのために生きてるんだって。だから辛い練習も身体を作るのも平気なんでしょう?


 こんなにもこの人は私にないものを持っている。ずるい、羨ましい、妬ましい。その黒髪を思い切り掴んで振り回せたらどんなに心がすっとすることか。そうすれば先輩はピアノなんか弾かないで、私のことを見てくれるかな。私がこんなに惨めな思いでいるってことに気がついてくれるかな。先輩がこっちを見てくれたら、それだけで私は救われるのに、きっと。


 革命のエチュードは怒りを持ったまま終わった。ふう、とため息をついた先輩は晴れやかな表情をしていた。


「じゃあ次は恵理ちゃんが本気を出す番ね」


 本気? 私の本気なんか、先輩の足元にも及ばないのに。


 私は仕方なく椅子に座ると、メンデルスゾーンの『春の歌』を奏で始める。春だし、なんだか門出の曲っぽくていいよね。


 ピアノを弾きながら、私は先輩のことだけ考えていた。多分このピアノ室でふたりきりでピアノを弾くのは今日が最後だ。高校に入学してから「上級生にピアノが上手な子がいる」と噂で音楽棟に行ったら、ものすごい怒りが聞こえてきた。それが先輩の『革命のエチュード』だった。この人のことをもっと知りたい、そう思った私は先輩と仲良くなった。私もピアノが好きだった。ずっとずっと好きだった。だから、私よりもピアノを好きな人に出会えて嬉しかった。


 でも現実を知るたびに、私にはピアノなんか似合わないんじゃないかって悔しくて仕方がなくなってきた。中学までの世界はとても狭かった。今、私という存在は真由美先輩という怒りの前に沈黙している。努力、才能、家柄、なにひとつ叶わない。


 ああ、春の歌なのに全然春っぽくない。なんでだろう、春なのに、すごく辛い。ううん、春だからすごく辛い。もっともっと先輩のピアノを聞いていたかった。彼女の怒りに応えたかった。もっと認めてもらいたかった。私、私は……。


 曲が終わってしまった。震える身体を隠すように私は先輩に向き直る。


「素敵なはなむけの曲、ありがとう」


 先輩の目には今度こそ涙が溜まっていた。

 

「だけど、ちょっと嫉妬しちゃった。やっぱり恵理ちゃん、とっても上手」

「そんな……私なんて、先輩の足元にも及ばないのに」

「ううん、恵理ちゃんの演奏には私には足りないものが入ってるの」


 それを聞いて、私はきょとんとした。


「何ですか、それ?」

「ふふふ、教えない」


 先輩は黒い髪を揺らして泣きながら笑う。私は先輩とお別れのハグをした。ああ、すごくいい匂い。きっとこんな人には一生出会うことはないんだろうな、可愛い人、妬ましい人、素敵な人。さようなら、真由美先輩。私は、私のピアノの道を歩いて行きます。


***


 数年後、ピアノとは無縁の大学に進学した私は真由美先輩の大学で在学生のコンサートが行われることを知った。花束を持って本番前の楽屋に駆けつけると、更に美しくなった真由美先輩がいた。


「今日は来てくれてありがとう、とっても嬉しい」


 相変わらず真由美先輩は黒と白が美しく、ピアノみたいな人だった。


「ピアノ、続けてるんでしょう?」

「辞めませんよ、生きがいみたいなものですから」


 私は細々とネットに『弾いてみた』という動画をあげたり、ストリートピアノでたまに注目されるくらいの人になっていた。ピアノを弾く度に、私は真由美先輩を思い出す。今となっては私の中で真由美先輩はひとつの目標くらいになっていた。


「そうそう、あの時最後に言った言葉を覚えている?」

「ああ、あの私の演奏にはあって、先輩には足りないものって奴ですか?」

「恵理ちゃんはわかった?」


 私は首を傾げる。すると先輩はスマホで画像を見せてくれた。そこには男の人とツーショットでピースをしている先輩が写っていた。


「恋よ。好きな男の子がいたんでしょう? 羨ましいわ」


 呆気にとられている私に、先輩はふふんと胸を張った。


「恋なら私も負けてないからね、バージョンアップした私を見ていって」


 それからどんなことを喋ったのかよくわからないままそれじゃあ、と私は楽屋を後にした。


 恋、恋か……。


 ああそうか、そういうことだったんだと私は気がついた。でも、全ては何もかもが遅すぎた。あの日が最後のチャンスだったのに。ああ嫌だ、どうしよう。私って、なんて情けなくて惨めなんだろう!


 それから後に聞いた先輩の演奏はあまり覚えていない。きっと素晴らしいものだったのだろう。家に帰って、私はピアノの蓋を開けると思い切り『革命のエチュード』を弾いた。革命に参加できなくて、そして革命が失敗に終わって、ショパンが自分の中の怒りをぶつけたこの曲。私は私自身に腹が立って仕方なかった。弾きながら、涙が後から後から流れてきた。ちくしょう、ショパンのばかやろう、私のばかやろう、みんな、みんな大嫌いだ!!


 恋に気づけないなんて、私はなんて大馬鹿野郎なんだ!!!


***


 渾身の怒りを込めた『革命のエチュード』の動画をアップすると、先輩から「すごくいいね、すごく怒ってる!」とコメントが来た。誰のせいで怒ってるんだ、と返そうとしたけれど私は「そうなんです、腹が立つことがあって!」と無難にコメントした。


 それで、何だか私の怒りはどこかに行ってしまった。きっとショパンがどこかに連れて行ってくれたんだ。私はそう思うことにして、清々しい気持ちで『春の歌』を奏でた。多分ピアノは辞めないだろう。ピアノを弾く度にあの美しい黒髪の少女に私は出会えるのだから。


〈了〉

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