第2話
6:45。体はまだ重い。しかし普段の習慣で私はベッドから身を起こした。洗面台に向かうとぬるい水で顔を洗った。初めて睡眠に薬を使ったが、案外睡眠の質までは向上しないのもなのだな。
昨日の病院の帰りから考えたが、私は一度実家に帰ることにした。実家には定年後も働いている父と専業主婦の母がいる。そういえば、地元で結婚した妹のサトミもちょくちょく顔を出しているはずだ。久しぶりに青山一家が揃うかもしれない。
家にいてもやることも無いので帰る支度をした。PCで新幹線の予約をすると出張用のスーツケースに服と剃刀、それと煙草をしまった。不思議な感覚だ。本来家に帰るはずなのに、親戚の家にホームステイでもするような感覚に陥る。それも無理はない。大学に入ってから10年はまともに実家に帰っていない。居場所を上書きするには十分すぎる時間だ。
クローゼットにある私服よりも着慣れたスーツが目に留まった。持っていくか悩んだが、ないと落ち着かなくてそれも詰め込んだ。
3時間半の移動。大学に向かうために利用した頃と変わらない駅のロータリーが出迎えてくれた。実家はここからバスで20分。日差しを避けるように建物の陰でバスを待つ。私はそこら辺を歩いているハトを見ながら煙草を吸った。餌をくれると勘違いしているようで、私の半径1メートルを囲んだ。
「すいません。もしかしてですけど……」
通行人に声をかけられた。若い女性の声。声の方を向いてみたが、日差しで顔が見えない。
「やっぱり! 青山先輩ですよね。お久しぶりです!」
「あ、おお。お久しぶり、です」
「やだな先輩。絶対わかってないじゃないですか。私ですよ。中高部活が一緒だった」
「お……。おお! 浜松か!」
話しかけてきた彼女は1個下の部活の後輩だった。昔の記憶と今の彼女の輪郭がリンクする。高校卒業以降連絡を取っていなかったが、彼女も地元で暮らしているのか。
「バス、待ってるんですか?」
「そう、実家に帰る予定でさ」
「私も帰るところだったんですよ。バス、席あったら隣座ってもいいですか?」
「いいよ」
そういっているとバスが来た。わかっていたがバスはガラガラだった。当たり前だ。都会じゃあるまいし。
「え、うつ病なんですか? なんかその割に元気そうですね」
「いや、なんで残念そうなんだよ」
バスの最後部の座席を私たち二人で占領した。窓側に座った俺の目に日差しがちらちら差す。
浜松にはすぐ地元に帰った理由を話した。話さなくてもよかったのだが、今まで実家を離れていたと言う話のついでに言った。
「やっぱ都会の仕事って大変なんですね。あの青山先輩が病むとは」
「まあほどほどに忙しかったよ。それはどこで働いても変わらんと思うけど」
私は車窓の外を眺めた。日差しが刺さってる広葉樹がどこか懐かしい。
「じゃあ、当分こっちにいるんですか?」
「調子が戻るまではいるよ。浜松も地元にいるのか?」
「はい。わたし、近所の児童クラブのスタッフしてるんですよ。よかったら先輩も来ます?」
「ははっ。気が向いたら」
学生時代のころ、一度だけ浜松と将来の話をしたことがある。その時は確か、幼稚園の先生をしたいと言っていたはず。そのころと形は違うが、変わらず子供と関わりたかったのだろう。
浜松は降車ボタンを押した。
「次、わたし降りちゃいますね。月曜から来てくれるの期待してますよ」
「それは約束できないかもな。じゃあな」
バスがゆっくり停止すると、浜松はお辞儀をして降りた。
バスを降りてから実家までは近い。最寄りのバス停につくと、少しだけ坂を上ると私の育った一軒家が見えた。
「ただいまー」
数年ぶりに実家のカギを使った。玄関はカーペットや置いてある靴がおぼろげな記憶と異なる。そのせいであまり懐かしさは感じなかった。
返事がないがそのまま上がった。いるとしたら母がいるはず。キッチンの方に歩くと、案の定母が台所に立っていた。
「母さんただいま」
「うわっ、びっくりした! さとる?」
母は驚いた拍子に握っていた包丁をこちらに向けた。
「うわ! こっち向けるなよ危ないなあ!」
「いや、今日帰ってくるなんて一言も言ってなかったじゃない。一瞬泥棒かと」
目を丸くしている母もだいぶ変化していた。変化と言うか、老けた。顔の皮膚が満遍なくたるんで、まるで母の空間だけ重力が大きいように見える。
「ちょうどよかった。ちょっとエアコンの掃除してくれない?」
「いや、今帰ってきたばかりで結構疲れて」
「疲れてるなら涼みたいでしょ? お父さんもお母さんも体弱っちゃって、掃除なんてできたもんじゃないの? はいこれ、雑巾とブラシ。脚立は押入れにあるから」
私は渋々受け取った。笑顔は昔と変わらないのに、体弱っちゃって、なんて。そんなこと、断れるものも断れない。
憂鬱と旧世界と新世界 かお湯♨️ @makenyanko30
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