憂鬱と旧世界と新世界

かお湯♨️

第1話 私が実家に帰るわけ1

「君、鬱だね」

 まだ名前も覚えてない、今さっき会ったばかりの初老の男は、私にそう言った。

「……はい?」

「最近多いんだよね。君みたいに働き盛りの20代の若者が病んじゃうの。毎月のように診察してるよ。今日会社に連絡できる? 休職か退職かしてもらうことになるからとりあえず連絡だけはしとい」

「いやいやいや。僕まだ元気ですよ! 気だって病んでないですし、先週だって同僚と遊んだりして……」

 土曜日の午前に寄った総合病院。そこで私は不眠症を診てもらうはずだった。内科で診察して、睡眠薬をもらえばそれで終わりのはずだったのに、呼びだされたのは心療内科だった。

「青山さんね、本人が自覚してなくても体はいろんな危険信号を出してるわけよ。今回の眠れないのもその一つ。気づかないまま悪化する前に本人にイエローカード出してあげるのも医師の仕事なのよ」

 初老の先生はひげを触りながらそういった。僕にとってあり得ない事実を淡々と述べるこの先生は、今までに何人もの私みたいな人の診断をしたのだろう。

「とりあえず仕事は休むこと。今回はお薬出して様子見ますから、また来週来てください。もし実家に帰ったりすることがありましたら紹介状書くので」

「はあ」

 先生がPCに何か打ち込むと、今日の診察が終わった。帰り際に薬をもらうとそのまま返された。睡眠薬もちゃんとつけてくれていた。


 私の過ごした半生は実に自虐的な世界だった。高度経済成長期で高く羽ばたいた私の生まれた国は、逆に地深くに潜るようにここ数十年で悪いニュースばかりだった。子供時代、親が見ていたニュースは悪い内容ばかり。私が大学を卒業するころには、社会とは陰鬱なものだという認識がすっかりこびりついていた。そんな中、私はとある自動車メーカーで働くことになった。別にやりがいや誇りを求めて就職したわけじゃなく、この不景気に金払いがよかったからその会社を選んだ。

 そんな事情で会社員生活を始めて早4年。今まで吹いていた向かい風が向きを変えた。

「……ということで、わが社は新たにアジアでのシェアを広げるべく、新たな貿易経路を開拓することになった! 青山!」

「は、はい!」

 オフィスでの集会、暇そうに女性社員のうなじを見ていた私は、部長に呼ばれて裏声で答えた。

「お前にはインドネシアに供給するための港を担当してもらうことになった。みんな拍手」

 皆が私の方を向いて拍手した。まだ何も成しちゃいないが、悪い気はしなかった。とても大きな仕事を任されたのだ。

 世界の流れが変わった。僕の上司も、テレビのコメンテーターも、そこら辺の主婦も、革命がおこるのを期待し始めた。少しずついいニュースが増えた。給料も増えた。合コンで社名を出すとモテるようになった。期待もされるようになった。少しずつ、それでいて明確に日常にいい出来事が増えるようになった。

 だから俺は、頑張りたいと思えるようになった。


 病院の待合室。私は会社にメールを書いた。「うつ病で休みます」内容はそれだけなのに何度も文章を書いては消した。

「やっぱ部長に怒られちゃうかな」

 やましい気持ちが客先に送るようなへりくだった文章にさせる。

 別に悪いことをしたわけじゃない。多分誰も俺を責めないだろう。それでも、少し後ろめたさがあるし、私の代わりを誰かがこなしていると思うと、申し訳なさが残る。これが日本特有の社畜魂だろうか。

 とにかく、適切なビジネスマナーを用いたメールを会社宛てに送った。私はPCを閉じて家に帰った。

 家に帰ってPCを見ると、返信が来ていた。上司からだ。

『メール拝読しました。しっかり休んでまた会えることを楽しみにしています』

 それだけ? 一度メールを更新してみたが追加の連絡は無かった。案外あっけないものだ。

 実感が湧かないが僕は休職中ということだそうだ。明日から何をして過ごせばよいのだろうか。家のソファで考えてみたが結論は出なかった。日が暮れた。僕は病院でもらった睡眠薬を一つ飲んで寝ることにした。

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