後宮の食膳妃
霜月華月
第1話 プロローグ
どこぞかの世界の天才料理人の命の灯火が消え、その天才料理人の能力と料理知識は大国の宗周国の後宮で働く侍女に受け継がれた。どういう運命なのか解らない。でもここから考えられもしなかった女官、梅連華〈メイ・レンカ」の物語が始まる。
宗周国の後宮、西門近くにある揚〈ヤン〉徳妃の殿舎である翠令宮の離れにある女官たちの部屋の一室に連華は住んでいた。
下級女官や端女ならば部屋の一室も与えられず、豚小屋のように一室に集められて過ごし、寝食を共にするのであろうが揚徳妃の侍女の梅連華の場合は違っていた。家が没落し、悪い親戚に売られこの後宮に来たのだが、それでも元より時が書け、更に格式高い家系としての位もあり、尚且つ常識や作法、そして育ちもよかったので端女か下級女官にならずに揚徳妃の侍女という位に就くことができた。
真面目に働いていたある日連華は倒れた。後宮の医官の見立てでは生きれる確率は五分五分とのことだったが、昼になり、帝の昼食の時間頃には意識を奇跡的に回復し連華は目を覚ました。
「ううん……ここは……」
連華は手の甲を額に当てここはどこかを考える。まだ脳内は微睡みに包まれているようだった。そんな連華を心配そうに見る同僚の明凛〈ミンリン〉の姿があった。今日も幼い顔で目鼻立ちが可愛く、リスのように見える頬をぷつくりと膨らましているのが見えて、なぜだか連華は安心した。
「ああ、ここは私の部屋なのね」
「お、起きた、連華が起きた! ううっうええええええええんん――このまま死んじゃうかと!ぐず、ぐず……」
連華はゆっくり起き上がると人には美しい顔と言われる瞳に涙を浮かべ、ゆっくりと明凛を抱き寄せた。どうやらこの子が健気に私の看病をしてくれていたのだと思うと、この欲望渦巻く後宮内で一つの清水を見つけた気分になり愛おしくなった。頭を撫でてもう大丈夫よと耳元で囁いてやると明凛はなんとか泣き止んだ。余談だが連華と明凛は宗周国の南にある南周〈なんしゅう〉の生まれなので、名前の呼び方が宗周国の標準とは異なりこのように特徴的になる。
同じところの生まれということも相まって連華と明凛は仕事仲間や友達というより、兄弟姉妹のような感情を両方が抱いていた。
暫く時間が経ち、連華は明凛から揚徳妃も心配しているという話を聞いた。上級妃なのに非常に優しいことで有名な揚徳妃にも感謝を覚えた。
自分が寝ている間に色々なことが起きたことを教えてくれた。その中に、
「連華、帝が料理人を再募集したいだって。どうもね、今の内膳省には満足してらっしゃらないみたい」
人に聞こえないように連華の耳に口を近づけて小声で喋ってくる明凛。こそばゆさを感じながらも耳に声を傾ける。
「そ、それでね、それでね、なんとこの後宮にいるものならば誰でもその試験を受けてもいいんだって」
「そ、そうなんだ」
ここで連華は顎に手を置いた。起きたときから感づいていたことではあったが、どうやら自分の脳内にはどこぞかの人間の膨大な料理知識が入っているということを。それを聞いてなんだか連華の心は浮き足だった。藍色の裳に同色の桃色の袍がふわりと動く。
「どこでその試験受付されているのかな?」
「え? まさか受けるつもりなの連華? だめだよ!まだ起き上がれるようになって間もないのに。それに徳妃様の了承も得ないと……」
了承を得ないとのあたりで声が尻すぼみになる明凛。そこで連華は明凛の肩に手を乗せ紅色の袍を触る。
「大丈夫あとから私が揚徳妃様になんとかうまく説明するから」
「……もう言い出したら聞かないんだから……どうなっても知らない!」
それだけ言うと明凛は子供のようにぷいっと顔を背けてしまう。そんな明凛に一礼して側を通りすようとすると、明凛は連華の袖をひっぱり瞳に涙を溜めながら涙声をこぼすように囁く。
「本当に気をつけてね」
それから暫く時間が経ち、連華は後宮内を歩いていた。仕事中に宮を抜けるなんてとんでもないことだが、それでも連華の心の奥にある料理という二言がその恐怖さえ塗りつぶしてしまうかのように行動をさせた。内膳省で働く女官や宦官からは冷めたような粘り付くような目で見られたが、それでも内膳省で試験の受付をし、龍の彫り物をしてある内膳省の門の外に出た。
これで宮に戻って徳妃様の許可を得ないといけないと思い、歩を翠令宮の方に戻そうとした瞬間、大勢の人が急にこの内膳省の門前まで集まってきた。
「な、なにごとなの?」
あまりの人の多さに連華は足を取られ倒れそうになる。ふらつきそのまま地面に転ぼうとした瞬間、男の手が連華の手を取り転倒から助けた。
その刹那連華の脳裏に濁流の如きと言っていいほどに、手を握ってくれた人物の今まで食べてきた料理や今食べたい料理、そして思い出の料理などの光景が流れていく。
「こ、これは、と、鶏肉……し、失礼しました」
「いいえ」
男は連華の手を取りながら身を起こさせると、にっこりと妖狐のように微笑んだ。非常に綺麗な男だ。格好は宦官の格好だが、美しさの方が先に立つ。内股ではなく肩幅もちゃんとあり、大人になりきれなかった宦官のそれとは全く違っていた。
「あ、ありがとうございます!」
「いいえ、これからはお気をつけて、といいたいところですが……まずはあれを見ますか」
「え?」
「あなたも大家の料理を見学されたいのでしょう? だからここに居たのでは?」
「わ、私は試験を受けにきたのでございます」
連華のその言葉を聞いて男は顎に手を置くと、皇帝の料理が内膳省の前に置かれていくのを見やる。
「試験というのは大家の料理の試験のことで?」
「は、はい!」
見下ろされるように見られると、少し顔を背けたくなる。なぜだか今の自分が少し恥ずかしく感じた。好きとか嫌いじゃなく、なんだかむず痒い。
「ならば見た方がいいでしょう。ここに運ばれてきた料理は全て大家が拒絶した料理なのです」
「そ、そうなんですか?」
「はい、なのでなぜ大家がここの料理が嫌になったか判断する勉強にもなるでしょう。試験の課題としては最高の材料だと思いますが」
「そ、そうですね」
ここに集まった周りの人間は真剣に帝の料理を見聞している。それに引き換え自分はなにをしているのだろう、むず痒くなっている場合ではない。
男に案内されるかのようにして連華は帝の料理を見ていく。
蒸し物、煮物、酢の物、焼き物、果物と皿も豪華だが料理も豪華絢爛だ。こんなに多く食べられないにももったいないと連華は思ってしまう。
端女や下女、宦官、女官ですら皇帝の料理を見て喉を鳴らしている。しかし今の連華の脳裏は違っていた。
(もったいない。まるでまともな味付けをしていない。あれでは単なる蒸した鳥だ。もっと魚醬を言い風に使えそうなのに。野菜も味見は出来ないけど似たようなものなのかな。魚に至っては塩焼きなだけかな。まだこの宗周国ではまともな料理を作る術が確率されてないんだわ)
顎に手を置いて考え込んでいた連華の顔を覗き込むように男は見てくると、興味深そうに言ってきた。
「あなたは喉を鳴らさないんですね」
「す、すみません」
ここはわざとでも喉を鳴らすべきだったか。自分の中にある料理の知識がそうさせるよりも料理の研究を先立たせたようだ。
「わざと喉を鳴らさなくてもいいですよ」
自分が今やろうとしたことを先に言われて連華は身に寒気が走った。今自分はとんでもない不敬をしているのではないかと。しかし男はそこでにっと笑うと連華に囁くようにして言った。
「そうです、それぐらいでないと大家の試験を受ける意味がない。この料理で感動している時点では駄目なのです。先ほども言いましたが、ここにあるのは全て大家に拒否された料理なのですからね」
連華は唾液を嚥下する。お腹が減って喉を鳴らしたのではない。妖狐のような笑みを浮かべる男に連華は恐れを感じたのだ。
「それよりあなた先ほど鶏肉って私の手を握ったときに言いましたね。どうやって私の今が死ぬほどに鳥料理を食べたいと判ったのですか?」
「そ、それは」
「ふむ。言えないと」
あなたの心の中を覗きましたとは到底言えることではない。連華は背中に冷や汗を浮かべながら次の言葉を考えていると、男はこう言った。
「あなたならあの鳥料理をどのような料理にされましたか?」
ここは正直に答えるべきだろう。自分ならどうするかを。そうしないと身の危険性をすら感じる。
「た、例えばフライドチキンとか、サクッとした鶏肉の甘酢ダレとか、エスニックチキンとか色々です」
連華の言葉に男はぽかんと口を開く。
「ふらいどちきん、さくっとした鶏肉のあまずだれ……えすにっくちきんとは……」
「し、失礼しました。た、大した料理を言えずに」
実際問題緊張しすぎて今の自分が言える料理を言ったまでに過ぎない。脳内にはこれとは別の何千パターンという料理が浮かんでいる。
しかしそこで男はおかしそうに笑う。
「くっくっく、いやーなかなかいい。聞いたこともない料理だ。私はあなたの料理を是非食べてみたい。というわけで今から作っていただけますか? 私の厨房をお貸ししますので」
「え、で、でも」
驚き怯える連華。見知らぬ宦官について行く度胸はない。それこそ命の危険性を感じる。
「ああ、私は怪しい者ではありません。私は内侍庁長官兼中宮尚書の任・藤蒼〈レン・トウヘキ〉と言います」
この自己紹介を聞いた瞬間連華は目の視覚が細まり細い細い紐の上の歩いている感覚になった。この男は宦官のトップであり皇后様の側近でもあるのだ。なぜこんなついてないことになるのか自分は。家は没落して後宮に売られるは倒れて死ににかかるや、今の最悪のパターンになるやら。
(どうして)
そんな心の悲鳴が虫の息のようなものに変わる。
「ああ……」
「逃げることも許しませんので」
「は、はぁい……」
明凛の気をつけてねという言葉が最後にフラッシュバックしたのは言うまでもなかった。
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