短編:テセウスの船
のいげる
テセウスの船
1)
ベッドの端に背をもたれさせかけて考え事をしているシュバリエ・マーマン総帥を見ながら、筆頭秘書の私は視線を医師へと戻した。
豪華な個室だ。セキュリティも万全。隣の部屋には武装したボディガードたちが待機している。
当然だ。彼は世界の持ち主なのだから。
表向きはこの世界の全資産の10%を所有していることになっている。だがそこから派生する様々な金の流れは実質的に世界そのものを支配している。
その偉大な帝国の皇帝が彼だ。
もっともその膨大な金でも彼の病気を治すことはできなかったが。
悪性の脳腫瘍。それも単純に腫瘍が膨れ上がるタイプではなく、正常な組織に食い込み浸潤するタイプだ。正確には脳変成と呼ぶべきだろう。百を越える医師団たちによりそれは極めて特殊な遺伝病だと診断された。
発見が早かったのは不幸中の幸いだ。我々百人で構成される秘書団はその中でも最高の医師を見つけることができたのだから。
その医師はいま、マーマンの前で今後の治療の内容を説明している。
悪性腫瘍と化した脳の一部を切除するのだ。
「先生。教えてくれ。それでその結果、私はどうなる。つまり私の頭は正常に戻るのかね?」
マーマンは訊ねた。その鋼鉄の意思はこの危機にも揺らいでいない。
「それは無理です。脳のかなりの部分を切除するわけですから。恐らくこの部位だと言葉が喋れなくなります」
医師は断言した。
自分の命がいかにあやうい所にあるのかをこの医師は知らない。マーマンは自分の気分を害した人間を許さない。歴史上で彼のエゴに匹敵するのは古代ローマのネロ皇帝ぐらいのものだろう。
「それは困る」
マーマンは一言だけ言うとどこかに電話を掛けた。
*
次の日、見知らぬ男がやってきた。もちろんマーマンの百人秘書団である私たちはその身元と身辺調査は終えていた。
マーマンの持ち物であるビルマート生物化学研究所の研究主任だ。それともう一人、こちらはギャリソンナノ工学社の同じく研究主任だ。
「まず私たちの研究について説明します」ビルマート研究所の技術者が口を開いた。
彼は簡潔な口調で説明を開始した。マーマンは自分の時間をとても大事にすることは予め伝えてある。彼の一秒は何万ドルに相当するし、大っぴらには言えないが秒毎に百人単位の人間の生死にも関わっている。
「端的に言えば幹細胞を使用しての脳組織の再生です。脳の欠けた部分に自分の細胞から作ったまっさらの脳組織を移植するのです。移植された脳は他の脳との連携を取り戻し、移植された場所に相応しい脳の働きをするようになります」
「その手術の後に私は元のように話せるようになるのかね?」
マーマンの頭脳は鋭い。悪性腫瘍に蝕まれているにも関わらず。
「なれます。学習は必要ですが。どんな言語でも習得できます」
この言葉の裏をマーマンはすばやく見通した。
「記憶は。たとえば今私が使っている言語はそのまま使えるのかね?」
技術者は言い淀んだ。
「削除された脳に元々蓄えられていた記憶は取り戻せません。新しく教え込んだものだけです」
その場でマーマンは彼を帰らせた。
彼の頭の中は決して失われてはいけない記憶で満ちているのだ。主に秘密口座の暗証番号などであり、それらは決して紙や電子媒体には記録されないし記録してはいけない類のものでもある。
残されたのはギャリソンナノ工学社の技術者だ。
「我々の技術は欠損した脳の代わりをするナノブロックで構成された電子頭脳です。これらは元の脳の機能をすべて代替します」
「さきほどの会話を聞いていただろう。その場合は私の元の記憶はどうなる?」
「予め記録器を頭につけます。これはナノ・フィラメントを除去する予定の脳の中に張り巡らし、脳の電気的パターンおよびグリア細胞の配列を記憶します。こうして集められたデータは新しい電子頭脳に記録しなおされます。つまり記憶も意識もそのまま継続されて保持されます」
マーマンの右の眉が上がった。話に満足したときの彼の癖だ。
「すぐにでもかかれるか?」
そこで初めてその技術者は躊躇った。
「そのう。マーマン様。技術自体は完成しているのですが、試験がまだなのです。安全性を確保するためには人体実験が必要になります。しかし申請は出しているのですが許可がなかなか下りないのです。被験者を集めるのにも苦労しています。
治験の目的は記憶が正しく継承されているのか、あるいは態度や性格に違いが出ないかなどです。つまり単純な被検者だけではなく、その被検者と親密な関係にある人間による観察も必要になるわけです」
「ああ、そんなことか」マーマンは深いため息をついた。「それなら任せてくれ。ただちに百人分の治験の用意に取り掛かってくれ。もう残り時間はあまりない」
マーマンはそうした。
私たち秘書団に命令が下ったのだ。それぞれが誰か一人身内の者を差し出せと。
断ることはできなかった。彼がどういう男なのか秘書団の全員が知っていたから。
世界中の戦争を陰からコントロールしている男には容赦という言葉はないのだ。
2)
両親か義両親を差し出そうとしたがそれはマーマンに拒否された。普段から一緒に生活している人間でなければ正しい観察ができないかというのがその理由だ。
マーマンの息のかかった病院に職場の定期健診だからと妻を連れて行った。
そこで妻の頭の中に腫瘍が見つかったと医師は説明した。見せられたレントゲンは実はマーマンのものだ。
泣き続ける妻に医師は解決策を説明した。新しい方式の電子プラント脳への置き換えだ。命を救うためにはこれしかないのだと、マーマンに買収された医師は丁寧に丁寧に優しい口調で説明した。
それを横で見ていた私は拳が真っ白になるまで握りしめていた。
周囲の反対を押し切って大恋愛の末に一緒になった妻だった。彼女を犠牲にするよりも自分の心臓を握りつぶした方がまだマシだ。
だがクソ野郎のマーマンが何かを決めたらそれは覆せない。ここまで彼に貢献してきた私でさえ逆らえばあっさりと殺されるだろう。彼にとって言うことを聞かない人間は単なる壊れた道具なのだ。捨てることに躊躇はない。そしてそれには絶対に私と妻と二人の両親が含まれる。消しても騒ぎが起きない範囲ですっぱりと家族ごと切り取ってこの世から消すのがマーマンのやり方だ。
誰かが十数年経ってから遠い親戚からの便りがまったく無いことに気づいた頃には追跡はできなくなっている。そういう仕組みだ。
三日後、秘書の内二人を除く全員がマーマンに呼ばれた。
会議室の大スクリーンにはここにはいない二人の秘書が映っていた。二十九番と八十一番だ。怯えた顔の彼らの親族たちと一緒に。
全員が叫んでいた。
足下には酸の海が作られていて、足が溶け落ちる痛みに耐えられなくなった者からその中に倒れ込むようになっていた。子供を抱きあげて最後まで耐えようとしていた者もいたし、覚悟したのか自分でその中に飛び込む者もいた。
これをやっているのはマーマンの私兵。どんな汚いことでもやるマーマンズ・ハンドと呼ばれる最悪の傭兵たちだった。
「彼らは私の頼みを断ったんでな。私も心苦しいよ」
顔色一つ買えずにマーマンは怯えた顔の私たちに向けて言った。
皇帝に逆らえる者などこの世にはいない。その言葉一つで国が滅ぶ。
次の日から妻への処置が始まった。
*
妻の髪の左半分の毛が剃られ、そこに顔の半分を覆うマスクが付けられた。
マスクは極めて高度な電子装置で、無数のナノ・フィラメントを脳の中へと伸ばし、そこでのあらゆる神経活動を記録していく。
脳の中には痛覚はない。そしてもし痛覚があったとしてもナノ・フィラメントは細すぎて痛覚神経の受容体はそれに反応できない。もしいまマスクを引き剥がせば無数の糸が顔から生えているのが見えるはずだ。糸一本一本は見えないほど細いが数があり、それが霧の流れのように見えるからだ。
山のようなテストが行われ、万の質問が妻に投げかけられた。その度に起こる神経活動電位を機械は克明に記録していった。
ありったけのアルバムを私は用意した。二人で行った旅行の写真を見て思い出に浸った。
彼女の秘密の日記や写真は私には見せて貰えなった。だが彼女の顔に張り付いたマスクはそのすべてを記録した。
私の知る妻の姿。私の知らない妻の姿。少女時代。青春時代。結婚してからの愛の時代。義両親の語る過去。二人で話し合う未来。良いことも悪いことも、すべてだ。
他の秘書たちの身内も同じことをされた。
やがて一週間が経った頃、生身の脳と電子頭脳との置換手術が行われた。
「怖いわ。あなた」妻は必死で私に縋りついた。
だが私にはどうしようもない。二人で逃げようにも、今この時も監視の目が私たちには注がれている。マーマンズ・ハンドは常に徹底した仕事をする。だからこそ彼らの働きには常に大金が支払われるのだ。
「大丈夫だ。大丈夫だ」
妻にはそれしか言えなかった。本当にこの手術が大丈夫なのかは疑問でしかない。
手術室へ運ばれる彼女の姿を見ながら、居たたまれなくなって私は仕事に戻った。
マーマンの秘書団はひと時も休むわけにはいかない。我々が休めば世界が止まってしまう。
マーマンは一人ベッドの上で電子書類に目を通していた。
そのサイン一つである国に兵器が届けられ、次のサインで相手側の国に兵器が届けられる。三番目のサインで両者の紛争地帯で非合法活動が行われ、ドミノ倒しのように戦争が始まる。
これらすべては彼に取ってはただの金儲けだ。
その日の内に四十の凶悪で無慈悲な指示が出された。その間に妻の手術は終わった。私は祈るような気持ちで病院に向かうと医師から頼んでいたものを受け取り、その足で妻の病室に向かった。
妻の顔の左半分には包帯が巻かれ、まだ眠りについたままだ。私はその横で無言のままただ待った。
明け方近くに妻は目覚め、私の胸の中で長く長く静かに泣いた。
「私どこか変? どこか変わった?」
「元のままのお前だよ」
私は強く彼女を抱きしめた。
「愛しているわ。あなた」
「私もだよ」
自分でも分かる。嘘に塗れた虚しい言葉だ。
実際に妻は以前とどこも変わった所は無かった。
じきに包帯は取れ、頭の傷跡は新しいカツラで隠された。
ようやく妻も微笑みを見せるようになり、二人に訪れた危機は去ったかのように見えた。
九十八人の被験者の結果に満足したマーマンは自らも同じ手術を受けて、元のように自分の足で歩いて病院を出た。
すべては元に戻ったかのように見えた。
マーマンの病状が再び進行するまでは。
3)
マーマンの脳変成は遺伝病だ。治療の方法は今の所ない。遺伝子治療なら何とかなるかもしれないがその結果マーマンの脳全体が破壊される可能性もあり、それはマーマン自身が拒否した。
今度異常が見られた部位は頭頂部だ。再び私たちの身内に同じ処置が取られた。電子回路の量が多くなると今までとは別の現象が起きる可能性があったためだ。
マーマンは慎重な男だ。地雷原は必ず最初に他人に渡らせる。
私は妻を病院に連れて行き、そこで再び新しい腫瘍が見つかったと医師が妻に説明した。
彼女は泣き、それは嘘だと喚き、医師に怒り、神に祈り、ひどく落ち込み、そして最後に諦めた。
彼女の頭には新しい機械がはめ込まれ、ナノ・フィラメントがその触手を彼女の脳の奥深くへと伸ばした。
*
今度の脱走者は秘書五人だった。罪の意識に苛まれて被験者となった身内に話してしまった連中だ。
マーマンは今必要としているのはよりたくさんの血が流れる残虐な処刑だと考えたらしく、今度はチェーンソーが使用された。
何人ものマーマンズ・ハンドたちがチェーンソーを持って、秘書五人とその一家を切り刻んだ。泣きわめく幼児や赤ん坊も区別せずに。
その光景を見ながら、マーマンは世界中にばら撒く予定の危険なウイルス散布に承認のサインを入れていた。もちろんこれに効く唯一のワクチンはマーマンの会社ですでに大量生産に入っている。
その会社の株価はじきに大暴騰するだろう。
*
マーマンが手術の準備を進めている頃、妻は病院を退院してきた。
その手を握って、新しく建てた家のドアを開ける。前の家の三倍の広さだ。日光をふんだんに取り入れた広い邸宅。庭師が丹精を込めた見事な中庭。将来作る予定の子供たちのための大きな部屋も三つついている。この家はマーマンが出した特別ボーナスで購入したものだ。
その晩、新居の大きなベッドの上で私たちは愛し合った。
私の胸に妻は顔を埋めた。
「ねえ、信じられる。電子回路がオーガズムを感じるなんて」
「馬鹿だな。お医者さまが保証していたじゃないか。その機械は完全に人間の脳と同じ働きをするって。たった一つの違いは」
「違いがあるの?」
「電子頭脳はガンにはならないってことさ」
彼女はそれを聞いて神に感謝し、泣き、最後に再び神に呪いをかけた。
*
欧州では少数民族のテロ活動が活発になり、中東では新たな戦争が始まっていた。
すべてその背後にはマーマンが関わっている。彼の持つ無数の兵器工場は増産につぐ増産を重ねていた。
アフリカの民族対立も激化させていた。そこには中古武器の他に大量の麻薬も流し込まれていた。
こうして生産が激減した場所には新しく秘密の麻薬工場を作り、逆に先進諸国へと還流させる。どこにもタグはついていないがマーマン印のハイ・ドラッグだ。
マーマンがなぜここまでやるのかは秘書である私にもわからない。彼ぐらい金持ちになると後はいくら儲けても資産を示す数字が増える。ただそれだけなのだ。
マーマンこそは人間が産み出した悪魔そのものなのかもしれない。そして彼が罹患した病気こそは神の怒りの表れなのかもしれない。
だとすれば今回の彼は金と技術の力で神の怒りから逃れたということなのか。
いつの日か彼がそれに失敗して塩の柱に変わったとしても私は驚かない。
だが神は今までの路線を続けることにしたようだ。
マーマンの脳に再び変異の兆候が見え始めたのだ。
4)
残りの脳すべて。マーマンはそう宣言した。
医師の宣告を聞いた後に妻は部屋に閉じこもった。
私は湯気を立てるコーヒーカップを持って彼女の部屋のドアをノックした。
「熱いコーヒーはいかがかな? お姫さま」
罵声が返って来るだけだった。
もう一度ノックする。叫び声が飛んで来た。
「嫌よ! もうアタシの部分はほとんど残っていないのよ。これもすべて電子のガラクタに代えろというの」
「だがそれでも君は君だ。前と何も変わっていないだろ!?」
「でも貴方は私じゃない。この気持ちが分かるわけがない」
「そんなことはない。ボクがどれだけ心苦しいか。それに誓うよ。君がどうなろうとボクは君を愛し続けると」
「私を愛しているって何のこと。私が何も知らないと思っているの!?」
それを聞いて心臓が躍り上がった。彼女は何を知っている?
私はごまかした。
「いったいなにを言おうとしているのか分からない。君は病気で気が立っているんだ。手術を受けないと君は死ぬ。ボクは君を失いたくないんだ」
「じゃあ答えて。どうして秘書仲間のジョーンズさんの奥さんも私が同じ手術を受けているのよ!」
私は言葉に詰まった。致命的な嘘がバレてしまった。こうなるとどうにも言い訳ができない。
「マーマンね。あいつのせいね」
正解だ。
その後、ひとしきり彼女は泣き続けた。
やがて泣き声が止むとそっと扉が開いた。
私は中に入りコーヒーカップを差し出した。
「すっかり冷えてしまったが。入れなおしてこようか?」
「これでいいわ」
彼女は冷めたコーヒーを一気に飲み干すと、その中に入っていた薬のせいですぐに眠りに落ちた。
「愛しているよ。おまえ」
そう言いながら私は彼女の頭を静かに撫でると、配下のチームを呼んだ。
*
今度は早かった。
前回彼女の頭頂部に移植した電子脳には最初からナノ・フィラメントが組み込んであったからだ。彼女の脳の全情報はすでに入手されている。
途中で一度も目覚めることなく彼女は手術室へと送り込まれ、そして返って来た。その脳をすべて電子装置に置き換えられて。
目が覚めて自分が病室に寝ていることを知った彼女はすべてを悟った。賢い女性なのだ。いや、賢い女性だったというべきか。
頭を左右に振り、私の目を見つめ、そして確信を得ると、彼女は静かに笑って言った。
「オ・ハ・ヨ・ウ ゴ・ザ・イ・マ・ス ゴ・シ・ュ・ジ・ン・サ・マ」
「笑えない冗談だな」かろうじてそれだけを答えた。
妻はもう喋ろうとはしなかった。それっきり退院まで一言も発しなかった。
*
自宅に帰ると妻は自分の部屋に閉じこもるようになった。この広い家の中を静寂が支配している。
それでもやがて最低限の会話だけはするようになった。
「僕たちの庭に花が咲き誇っているよ。二人で見ないか」そう誘ってみた。
「あら。電子頭脳に花の美しさが分かると思うの?」
それきりまた口を閉じた。
高価な宝石を買ってみた。彼女はそれを一度お店に持っていくと再び取り戻し、接着剤で自分の額に張り付けた。
後で回収して調べてみると表面にレーザーで小さく『機械』と刻印されていた。
家族計画の計画書を書いてテーブルに置いてみた。彼女は脳だけが機械だ。体は健康な女性だ。だから子供を産むことができる。今日から仕込みを始めれば数年後には・・。
母なし児を作るつもりはありませんと計画書の上に赤書きされた。子供たちが機械に育てられるなんて可哀そうだとは思わないのかとも書かれていた。
我が家を監視していたマーマンはこの有様にご満悦だったようだ。
完全電子頭脳の妻がここまで怒ることこそが、脳の置き換えに成功している印に見えたからだ。
やがてこの生活にも終わりが来た。
*
ある夜、書斎に居ると彼女が足音も高く近づいて来た。無理にドアを開けようとしてカギをガチャガチャさせる。
私は手にしていたものを隠した。それからカギを開けると怒った表情の彼女が入って来た。
「もう耐えられない」叫んだ。
「何がだ?」
「何もかもよ。この機械頭にも。あなたが毎夜愛し合っているそれにも」
「いったい何のことだ?」
「あたしが知らないとでも思っているの!」
彼女はどこからか拳銃を取り出した。
冷たい銃口を正面から覗き込むと冷や汗が出た。ここまで妻に憎まれていたのかと改めて実感じた。
動けなくなった私の横へ手を伸ばすとそこに拳銃を置き、代わりに私が必死に隠していたモノを彼女は掴みだした。
それは手提げになったホルマリンの瓶だ。中には三つの欠片が浮かんでいる。
私がかって愛していたものの残骸。
「私の本当の脳ね」
妻は勝ち誇ったように笑うとビンに頬ずりした。
「ああ、あたし。あたし。こんなになっちゃって。今そこから出してあげるね。元の場所に戻してあげる」
「止めろ!」
思わず制止した。ホルマリン漬けなのだ。いまさら元には戻せない。それにビンから出せば柔らかい脳が崩れてしまう。
「馬鹿なことは止めろ。な。な。お前。そうだ。子供を作ろう。可愛い子供たちに囲まれたらそんな寂しい考えも消えるさ」
「知らないの。あなた。機械は子供を作れないのよ」
「そんなことはない。現にお前は生きている。子供だって産めるとお医者さまも言っていただろ」
「生物学的には産めるかもしれない。でも駄目なのよ」
「なんだ。何を言っている」
「二十年前に自分の全財産を自分に似せて作ったアンドロイドに相続しようとした事件があったことを貴方、覚えている?」
もちろん覚えている。結構有名な事件だったからだ。
その相続はキャンセルされた。アンドロイドへの相続なんか認めたら私有財産制度が根底から覆ってしまう。
妻は続けた。
「そのときに国際条約で規則が作られたのよ。大脳を完全に持たないモノには人権を認めないという規則が。私はもう人間じゃないの。ただの機械なのよ!」
だからと言って彼女の元の脳をその頭蓋に戻してもすべてが元に戻るわけではない。ホルマリンに漬けた段階でそれは死んでいるのだから。
「とりあえず落ち着け。話し合おう」
苦し紛れに伸ばした手が妻が置いた拳銃に触れた。それを必死に掴むと妻に向けた。マーマンの秘書団はみなセキュリティ訓練を受けている。だから拳銃の扱いはできる。
「止めないわ」
妻はガラス瓶を叩きつける先の硬い部分を目で探す。それからガラス瓶を大きく振り上げた。
私は意識もせずに拳銃を撃った。
弾は妻の顔に命中し、柔らかな目を突き抜け、その背後の電子脳を突き抜けると壁に当たって止まった。
妻の体が崩れ落ちた。
「なんて馬鹿なことを。ああ、人を殺してしまった」
崩れ落ちた妻の体を支える。妻の目からは血が流れていたがその奥の空洞では電子機器がLEDを光らせていた。精巧なナノブロック電子頭脳はほぼ半壊している。これではもう修理はできない。
力ない妻の手がそっと上がり、私の頬を優しく撫でた。
「馬鹿ね。あなた。これは殺人じゃなくてただの器物破損よ」
そして最後にもう一言だけ付け加えた。
「いつまでも愛しているわ」
LEDが消えた。
そして私の妻は永遠にこの世から消え去った。
5)
マーマンの手術の日が近づいたので私は色々と準備に忙殺された。
マーマンは上機嫌だった。
「これで私は永遠への切符を手に入れたことになる。老いた体はいずれ機械に置き換えれば良いのだ。それに良いこともあるぞ」
彼はその歪んだ笑みを私に向けた。
「これからは頭痛も怖くないし、二日酔いも気にしなくてよい。君もどうだね?
そうだ、いっそのことみんなに同じ手術をさせるか。そうすればいちいち秘書を入れ替える必要がなくなる」
マーマンは恐ろしいことを言いだした。半ば本気の言だと感じた。
もちろんいつものように録音した。本来はマーマンの命令を聞き逃さないための習慣だが。
偶然を装い、秘書ネットワークにこの情報を流す。
秘書団の中から苦渋を顔に隠しきれていない人間を狙い、それとなく誘導した。
切り札と一緒に。
妻の葬儀は滞りなく済ました。どこから現れたのかマーマンズ・ハンドの連中が来て、妻の死体を手際よく事故に偽装した。もちろん警察にもマーマンの手は伸びている。
誰にも怪しまれなかった。
棺の中には彼女の体と一緒に脳の欠片が入ったままのガラス瓶も入れた。
深い土の中に降ろされる棺を眺めながら、どちらが私の本当の妻だったのかと考える。
もちろん結論は出なかった。
*
ついにマーマンが手術をする日がやってきた。
医師には予め金を渡してある。マーマンの頭から病んだ脳が取り除かれ、代わりに電子脳が埋め込まれたちょうどその時刻に報告を送って貰えるようにだ。
秘書団の大部分がその瞬間を待った。
電子脳が組み込まれてから最初から入っていた電子脳との同期が完了し、全体が再起動するまでの時間は分かっている。私の妻がその貴重なデータをくれていた。
ベルが鳴る。たったいま、マーマンの頭蓋骨から最後の大脳が除去されたのだ。
秘書団の動きが一斉に活気づいた。
あらゆる通信回線が満杯になるまで大量の情報が流れた。それはマーマンのオフィスだけじゃない。少し遅れて世界中の通信網がフル活動に入った。
莫大な経済的変動。あらゆる権力関係の組み換え。知られてはいけない数々の秘密の暴露。声にならない絶叫と悲鳴。
行動は素早かった。ピラニアのいる川に血まみれの肉を放り込んだときのように。
マーマンが持っていたあらゆる富と権力が新たな秩序に向けて動きだしたのだ。
この瞬間から、世界の所有者はもはやマーマンではない。
手術室が開き、中からマーマンを載せたベッドが出て来るまでに全ては終わった。
電子脳は麻酔を受け付けない。マーマンはすでに目覚めていた。
「私が手術を受けている間に何かあったか?」
マーマンは手術中も傍に置いておいたタブレットを叩いた。
「繋がらなくなっている。故障か? すぐに予備を持ってこい」
豪華な自分の病室に鎮座してマーマンが指示を出す。
だが彼の周りにいる秘書は誰も動かなかった。
「みんな、どうした?」
私は前に出た。
「マーマン様。お伝えしないといけないことがあります」
「なんだ?」
「良い知らせと悪い知らせがあります。どちらからお聞きになりますか?」
「なに? では良い知らせから言え」
マーマンは機嫌を悪くした。マーマンズ・ハンドを呼んでこの苛つかせる秘書に何かお仕置きをしたいが、通信が繋がらないのではそれもできない。
「良い知らせとはマーマン様の手術は完全に成功し、除去された病変脳はすでに焼却されたということです。もう脳を元に戻すことはできません」
「あの糞ったれな脳が片付いたか。確かによい知らせだ。で、悪い知らせとは何だ?」
「手術にてマーマン様の持つ最後の大脳が除去された段階で貴方様の人権は消失しました。つまりこの国の法的にも国際法に照らしても、貴方は死亡したと見なされたのです」
もちろん秘書の中には法律に詳しい者もいる。彼らはすべてこの事態に対して静観を決め込んでいた。事前にマーマンに指摘する人間は一人もいなかった。
「冗談を言うな。ワシはこの通り生きているぞ」
マーマンは私を睨んだ。その一睨みで人を殺せるとでも云うかのように。
「今や貴方はただの機械です。機械が自分は生きていると叫んでいるだけなのです」
「貴様、命が惜しくないのか!」
マーマンは怒鳴った。
「命? 機械の貴方に命の何がわかります?」
私は彼の持っているタブレットに用意しておいたデータを送った。そのタブレットの所有権はすでに私のものだ。
「あなたが所持していた全ての財産はすでに各国の財産管理人の下に移管されました。あらゆる国の国税庁は狂喜乱舞していますよ。あなたが進めていたすべての血なまぐさい悪魔のプロジェクトたちも解体されている最中です」
「なんてことを!」
そこでマーマンは何かを考え始めた。まるで電子頭脳の中の電子のきらめきが見えるかのようだ。
「マーマンズ・ハンドを呼ぶ。全員皆殺しだ。ワシにはまだ秘密口座がある。彼らは喜んでワシの命令を実行するだろう。君たちとは違い、彼らの忠誠は鋼の硬さだ」
「残念ながら」
私は心底残念そうな表情を浮かべるつもりだったが、代わりに満面の笑顔を見せてしまった。
「秘密口座とはあなたが電子頭脳のチェックのときにいくつも並べていた18桁の数字のことですか?」
「どうしてそれを!」
「私は貴方の筆頭秘書ですよ。動作チェックのためにと技術者に会話記録を見せて貰ったんです。何の数字か分からなかったのでそのまますべてマーマンズ・ハンドに渡しました。あなたの現状も含めて包み隠さずにね。秘密口座の中には彼らへの支払いに使っていたものもあったのでしょう?
どうやら彼らの忠誠は貴方ではなく貴方の金に向けられていたようです。すぐに彼らはすべてを抱えて身を隠しましたよ。今頃は狼の巣にでも戻って札束を数えていることでしょう」
真っ赤になったマーマンはベッドから飛び出して私の首を絞めようとした。
そうに違いない。私が構えた拳銃を見てその動作は途中で止まったからだ。
「私を殺すつもりか!?」
「そうされるだけの覚えがあるでしょう?
それに貴方は一つ間違えています。私はあなたを殺すつもりはありません」
マーマンの体から力が一瞬抜けた。それも私の次の言葉を聞くまでの間だ。
「殺すのではありません。壊すのです。これは殺人ではなく、器物破損なのです」
それから拳銃の中のすべての弾をマーマンの頭に撃ち込んだ。
これでどちらかの妻は私を許してくれるのだろうか?
短編:テセウスの船 のいげる @noigel
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