なぜ、救いようのない犯人を求めるのか?


 世間を騒がせている詐欺事件に関する考察。
 被害状況に加え、被告のあまりにも異質な振る舞いや「現代」を強く思わせる事件内容から、注目度は非常に高いものになった。
 彼女のした事は許されたことではない。しかし、本当にそれだけなのか?



 この考察を自分なりにまとめると以下のようになる。

「ある人の一生を皆のエンタメの道具にすることは許されるのか?」


 ネットが登場してからは顕著になったが、事件が起こると「祭り」という形で第三者が騒ぐようになった。
 祭りの雰囲気はワイワイ賑やかでノリやすいし、周りとの一体感もあって気分が良いし、何より所属している自分の生活に「この時にしか味わえない」特別感をもたらす。
 事件の被告ともなれば、好きなことを言える大義名分も生まれるだろう。(情報の発信者にとっては収益のチャンスにもなる)

 だからこそ人はこぞって悲惨な事件を求め、悪に満ちた犯人を求めるのだと見ている。

 しかし、その楽しみ方には重大な落とし穴がある。当の関係者の都合や経緯を一切考慮に入れていないのだ。
 この「頂き女子」事件についても、被告の彼女はともかく、被害者となった男性達のことを、視聴者の皆はどれだけ把握していただろうか。
 多額の金銭を盗られて可哀想だと思ったか。同情や義憤を抱いたか。個人的には違うと思っている。なんだったら「騙される方も方だ」と思っていてもおかしくない。
 すべては祭りを盛り上げるための、自分達が享受するエンタメの小道具に過ぎない。

 だが、エンタメ作品と違ってこちらは生身の人達の人生がかかっている。



 この作品で出される意見には賛成も反対もあるだろう。
 だがはっきりと頷けた点がひとつある。

 悪を伝える方法も、それを咎める方法も、愉しむ方法すらも広まりきっている現代。
 何かの話を見聞きして、自分の中に何かが芽生えたとして、
 その根拠を「なんとなく」や「みんな」に頼るのは、それ自体が悪の種になりつつあるということだ。