ムネモシュネの微睡

ケロヤヌス

怠惰な僕と不思議な彼女


「……え、なんて?」



 ━━彼女は、よく不思議なことを言う人だった。



『犬はわんちゃんなのに猫はねこちゃんっておかしくない?犬だけ鳴き声じゃん』

『どんぶらこってどういう擬態語なんだろうね』

『ゴキブリが嫌われてるのって、「ゴキ」「ブリ」って濁音が続くせいだと思うの」

『「ここ笑うタイミングですよ」って変だよね。笑わせるのはあなた側の仕事じゃん?』


 本当に唐突に、なんの脈絡もない不思議なタイミングで、独りごちるように彼女はよく呟くのだ。普段はしっかりしているだけにその落差は大きく、それはまるで言霊が彼女の口を操っているみたいで、僕は彼女の目には世界がどんな風に写って見えるのか気になって仕方なかった。


 そして今回も、それは不意に訪れた。高校三年生の授業もすっかり終わった、受験に向けた自由登校期間、その帰り道の只中で、彼女は「それ」を口にした。


 「それ」は今まで彼女が零してきたどの言霊より不思議で、僕は意味を理解できずに呆気にとられるしかなかった。思わず立ち止まる。僕の呆けた声に数瞬遅れて、歩道に積もった雪を踏み抜く音がやけに大きく響いた。



「忘れたいと思ってたことが思い出せないの」



 いつもなら笑いながら「確かにね」と続く僕の返しが、今回は出てこなかった。意味するところが分からない彼女の言葉の先を知りたくて、僕は思わず聞き返した。



「……良かったんじゃないの、忘れたかったんでしょ?」

「よくない」

「……どうして?」

「だって、気づかない間に忘れちゃったんだよ?」

「いや、忘れる時っていつもそうじゃないの……?」



 楽しかった思い出も嫌な記憶も、それらを主体的に忘れることは無理だ。「忘れよう」という意識が働けば働くほど、海馬は鮮明にその記憶を再現するし、脳裏には在りし日の情景がじりじりと焼き付いていく。それはちょうど、意識しないようにすればするほど恋慕が増していくのとおんなじで、僕たち人間はどこまでも不器用に造られているんだなと感じる。


 だから彼女が口にした「それ」は、何度聞き返しても覆りようのない矛盾を孕んでいて、だからこそ僕は、彼女の言葉を待った。


「うーんそうなんだけどさ、自分のことなのに自分で決められないのってなんかモヤモヤしない?」

「まぁ、言いたいことはわかるけど、忘れたいことなら意識しないようにしないと忘れられないじゃん」

「……嫌だったことも楽しかったことも、全部全部私の一部だし、私だけのものなのに、勝手にいなくなるなんてずるいよ。私は私の意思でお別れしたい。「忘れる」っていう自分の意思で、自覚を持って忘れたい。そうしたら、何を忘れたのかは分からなくても、「忘れたかったことを自ら忘れられた」っていう感覚を持てる気がするから」

「そう……だね……」



 彼女のその言霊を、荒唐無稽と笑えてしまえばそれまでだったのかもしれない。

 彼女の口にすることは、きっとどこまでも夢物語で、実現できる日はこないのだろう。「忘れたい」という願いが、「思い起こす」という歪みを引き起こすのだから、そういう意味では彼女の言うことはとても空虚に思えた。



「だってそうじゃないと、その思い出が、分からないままじゃない?」



 でも、彼女の透き通った瞳を見ていると、なぜだろう、間違っているのは僕達な気がしてくる。そんな不思議な説得力が、彼女の目の奥で瞬いていた。



「だからね、思い出したいの、私が忘れたいと思っていたことを。思い出して、私は本当にその記憶とお別れしたかったのかを考えたいの」



 ━━きっと、僕達の方が夢の中にいるのだろう。


 自分と世界との境界が曖昧な、覚醒と午睡の狭間の意識の只中で、僕らはなんとなく生きているのかもしれない。だから、楽しかった記憶さえいつのまにか身体から溶け出て、思い出せなくなるのだ。初恋の子の顔も、初めて手を繋いだ日のあの子の表情も、その記憶の僅かな上澄みだけを残してゆっくりと沈み、輪郭を失っていく。


 彼女は、常に目醒めていたいのだ。好きも嫌いも、酸いも甘いも綯い交ぜにして、全てを自分の中に落とし込んで、取捨選択をして生きていきたいのだ。

 他の人はきっと、そんな彼女のふわふわとした話を笑うだろう。どちらが微睡みの中にいるのかに気づかないまま、零れ落ちていくことにすら気づけないままで。



「だから、手伝ってほしいの、何を忘れてたのか、本当に忘れたかったのか、思い出せるように」

「……うん、付き合うよ。やっぱり忘れたかったって思い出せるまで」



 僕はそんな彼女を、彼女の不思議さを、誇りに思う。


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