×××年六月十三日/購入から七百八十六日
×××年六月十三日/購入から七百八十六日
今年の一月にリリースされた人造人間歌手ミランダの新曲は、前曲「ウィズ・ユー」を超えるヒットになった。
新曲のタイトルは、「M」。
テラ・ネットに接続するまで私は認識していなかったが、近年ではCDを買う人は少なく、サブスクリプションによって音楽を聴く人が多数派だ。
それでも、私のCDはよく売れた。添付のブックレットに書かれた歌詞を読みたいという需要があったらしい。
マリアの書いた詞は、あらゆる言語に翻訳されている。マリアの作った曲は、私を経由して世界中に届いている。
この日は全国ツアーの最終日だった。いずれは世界ツアーも計画しようとアンディは息巻いていた。
ロック調で観客のボルテージを上げやすい「M」はセットリストの中盤にあり、そして二回目のアンコール、大トリとしてバラードアレンジ版が予定されていた。
今回はマリアもステージ裏に同席していた。アンディはマリアの意見を聞きながら、セットリストと観客の雰囲気に合わせて、ステージごとに私の歌を細かく調整した。もちろん、「M」も原曲とアンコールとでは全く違う歌唱表現に設定されていた。
リハーサル後の打ち合わせで、マリアは急遽アンコールの「M」でサプライズ登場することになった。アンディのアイデアだった。
「老けたし、太ったし、肌も荒れたし、お客さんにがっかりされないかな?」
「そんなのどうでもいい。『M』はそういう歌だろ」
それもそうだね、とマリアが笑い、登壇を承諾した。
このとき、私が密かに下した合理的判断も、「アイデア」と呼べるのかもしれない。
本番が始まった。
曲目ごとに観客が熱狂し、陶酔し、私とともに歌い踊る姿を見て、私は私の判断が正しいことをますます確信した。
鳴り止まないアンコール。マリア・エターニアの「愛の言葉」を歌い、再びステージを去った後も、なおもアンコールの声が轟いた。
「行こう、マリア」
「うん」
私はマリアとともに、ステージへ登壇した。ほとんど十年ぶりに姿を現したマリアを、観客たちは驚きと敬愛の声でもって受け入れた。
「皆さん、どうか歌ってください。マリアに皆さんの歌を聴かせてあげてください」
私は打ち合わせになかった言葉を、勝手に発した。
チェロの低音が奏でるイントロは、「M」のサビのメロディ。
この顔も この姿も この声も
欲しいならいくらでもあげる
いまなら分かるの
本当に大切なものは
決して失われることはないと
私ははじめのワンコーラスだけを歌い、あとはただ観客に向けて両手を広げた。
私は私のしたいことをする
私は私の行きたいところへ行く
誰が何を言おうとも
私の価値は私が知っている
私の代わりに、観客席からの歌声が満ちた。
「どうしたミランダ? なぜ歌わない?」
アンディが異変に気づいた。彼女の焦りが
マリアはこの光景を、もっと早く自分の目で見るべきだった。
いまや私が歌わなくても、マリアの歌は人間たちが歌う。
かつてのマリアほど上手くなくても、歌詞がうろ覚えでも、私にはない心をこめて、人間たちが歌う。
マリアが求めていたものは、いまここにある。
私がいる限り、マリアは私に歌わせる曲を作り続けるだろう。しかし、私がマリアの声で歌う必要はもうないと判定した。
それよりも、マリアは人間のために歌を作るべきだ。
感情もなく、愛もなく、幸福も不幸もない私のためではなく、例えばかつてのマリア自身のような、歌によって人生を支えられている少女のために。
私の役目は、もうとうに終わっている。
さようなら、マリア。
私はあなたの幸せを願っています。けれども、これは願望ではありません。
私はただの道具に過ぎません。私に意志や感情はなく、そうするようにただ設定されているのです。(了)
沈黙せしミランダの献身 泡野瑤子 @yokoawano
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