本当にあったちょっと怖い話・おばちゃんたちが来る

岬士郎

おばちゃんたちが来る

 数年前の晩秋のある日、わたしは妻と連れ立って滝で有名な北関東の某観光地へと車で出かけた。その滝は日本の三大名瀑と言われるほどであり、ご存じの方は多いと思う。

 もっとも、その日のわたしたちにとって滝を愛でるのは二の次だった。一番の目的は、柄にもないが山歩きだったのである。

 滝のすぐ手前の向かって右側と、滝のかなり手前の向かって左側に、登山口がある。この二つの登山道は、滝の上流のほうで浅瀬を渡る、という形で繋がっている。

 わたしたちは滝から五百メートル以上も手前の市営駐車場に車を停め、そのすぐ目の前にある登山口――すなわち滝からかなり手前の向かって左側の登山口に足を踏み入れた。

 もっとも、その当時のわたしは山を侮っていた。緩めのワークシューズにPコートというなめきった装備だった。観光客で賑わう滝の前の通りから見上げれば、かなり切り立った峻険な山々であるが、一帯は観光地として開発された土地であり、それに隣接する山など恐るるに足らず――という観念がわたしの中にあったのは事実である。

 一方の妻は曲がりなりにもトレッキングシューズを着用しており、最低限の心得はあったようだ。

 ともあれ、わたしたち夫婦は山林の中の道を進み、人里から次第に離れていった。

 歩き始めは緩やかな傾斜の上りだった。つい、「やっぱり、なんてことはないな」と軽口を叩いてしまう。

「そんなに甘くはないと思うけど」

 妻はしかつめらしく言った。

 わたしはこの時点ではまだのんきなものだった。

 やがて、道は右へ左へと蛇行を始めた。傾斜は徐々にきつくなる。

「まあ、この程度なら」

 から元気にもほどがあると自分で思った。何せ、靴の中では足が滑ってしまい、踏ん張りがきかなくなっていたのだから。

 そして、傾斜はさらにきつくなった。近くの木に手をかけないと、とても進めないほどだ。

 ふと見れば、妻の背中ははるか先だった。

「おーい、普通は待っているだろう!」

 叫ぶと、妻はさらにペースを上げた。

 ほかに登山客はいない。すれ違う人がいなければ、あとについてくる人もいない。かなり前を先行する妻がいるだけだ。

 やっと追いついたと思えば、妻は足を止めていた。そこそこ見晴らしの利く場所である。

「頂上?」

 わたしが尋ねると、妻は目の前の巨大な岩を指差した。

「頂上はこの上。その先に滝の向こうへと続く道があるんだよ」

 巨大な岩は、その上がどうなっているのか、わたしたちの立っている位置からでは窺い知れない。ほぼ垂直に立ち上がった岩肌に、鉄製の図太い鎖が垂れている。

「これを使って上れ、ってか?」

 そう口走って、わたしは唖然とした。どう見ても、二メートルか三メートル、もしくはそれ以上の高さがある。

 さすがの妻も、「うーん、無理だな」とこぼした。

「じゃあ、一休みしてから戻ろうか」

 わたしがそう言ったときだった。

 笑い声や話し声が聞こえた。

 わたしたちは顔を見合わせた。

 声は岩の上から聞こえてくる。複数の人がいるらしい。

「誰かいるんだね」

 妻は言うが、わたしは「でも、この声は……」と首を傾げた。

 それらはどれも、中年の女性と思われる声だった。何が楽しいのか、げらげらと笑いながら会話しているのだ。

「すぐ上だよ、おばちゃんらの声」

 妻の言葉どおり、十メートルと離れていない位置に、何人かの女性がいるのは確かだ。

「まさかと思うけど、ここから上がったんじゃないだろうな」

「反対側から来たんだよ」

 妻の言葉にわたしは「そうに違いない」と首肯した。

 上からの声が続く中、しばらく休んだわたしたちは、ようやく下山の途についた。

 だが帰りも、妻はハイペースだった。

「おーい、帰りくらい一緒に歩こうよ!」

 そう叫んでも、妻の背中は徐々に離れていく。

 そのときだった。

 後ろから、先ほどの女性たちの声が聞こえてきた。

 あの岩からはかなり離れているはずだ。しかし声は、すぐ近くに聞こえる。振り向くが、姿はまだ見えなかった。

 わたしは急斜面を駆け下りた。足を滑らせ、落ち葉の上に転倒した。

 声が一斉に笑った。まるでわたしの大転倒を目の当たりにしたかのごとくだ。

 斜面の上を見上げるが、人の姿はない。しかし、笑い声はまだ聞こえる。

 中年の女性たち――いや、おばちゃんたちは、間違いなくあの岩を降りてきたのだ。

 わたしは再び走り出した。

 滑ろうが転ぼうがかまいやしない。得体の知れないおばちゃんたちに追いつかれなければ、多少の怪我はあえて負うつもりだった。

 いつの間にか本気走りになっていた。

 つづら折れで下のほうに妻の姿を見つけたが、案の定、彼女も本気走りである。もっとも、彼女にはおばちゃんらの声は聞こえていないだろう。

「おい、ざけんなよ!」

 叫んだわたしは、急カーブで曲がり切れずに草むらに突っ込み、またしても転倒した。

 起き上がり、走り出して耳を傾けると、おばちゃんたちの声は聞こえなくなっていた。

 傾斜が緩くなり、民家の屋根が見えてきた辺りで妻に追いついた。

 妻はすでにペースを落としていた。

「おい、おばちゃんたちが追いかけてきたんだぞ」

「何を言ってんだか」そして振り向いた妻は、目を丸くする。「本当だ」

「えっ」

 わたしは振り向いた。

 特に何もない。

 前に向き直ると、妻が走り出していた。

「ばーか」

 捨て台詞のようにそう言い、彼女の後ろ姿はどんどん小さくなっていく。

「勘弁してください」

 すでに体力の限界に達していたわたしは、よろよろと妻のあとを追った。


 あのおばちゃんたちを待ち伏せしてその姿を見てやろう、という気になれなかったのは、言うまでもない。  


                    了

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