第3話
サシャナにじゃれついていた、アキトの魂を乗せているという煙の狼は、少しするとヘイジの言った通り我に返ったようにぴんと首筋を伸ばした。それから先ほどまでのはしゃぎようが嘘だったかのようにしなやかな動きで振り返り、遠く魔物たちのいるほうを向く。
低い唸り声がして、途端、紫煙の狼はやみかけた霧雨を切り裂くように駆けだした。
「綺麗……」
ほうと感嘆の息を吐いたサシャナは、狼を撫で回していた両手を頬に当てる。
ルッタはそんな彼女に近寄り、
「それに、すごく格好いい」
あっというまに魔物たちのいるところまで辿り着いた狼。煙らしい残像を纏いながら雷雨に弱った砂漠の魔物を確実に仕留める姿はたしかに凛々しくあるが。
「……サシャナ、騙されては駄目よ」
「ルッタ?」
「見てみなさいよ、アキトの本体。ひどい顔だわ」
ルッタの視線につられてそちらをよく見たサシャナは、「あ、えっと……」と言葉を探すように目を泳がせた。白目を剥き、だらしなく開かれた口からは涎が垂れている。これではさすがにお世辞を言うことも難しい。
若い女ふたりの正直な反応を見て、はっは! とヘイジは豪快に笑った。
「文字通り気を失っているわけだからなぁ。まだ未熟者ゆえ、本来は寝室でやるもんなんだ。内緒にしてやってくれ」
サシャナはもちろん、ルッタもしっかりと頷いた。もとより、言動の乱暴なアキトに対するちょっとした意趣返しにすぎない。本人の意識があるところでからかうつもりなど毛頭なく、ルッタはただ今後のアキトに課せられる修行とやらを思って淡く笑った。
「そういえばヘイジィも獣使い、なのよね」
どうやら魔物の始末はアキトひとりに任せれば問題はなさそうで、残った三人は緊張感もなく談笑を始めた。
「おうそうだ。必要はなかったが、念のため今もサポートしとったぞ」
「えっ、でも、ヘイジさんはずっと起きてたのに」
「ちょいと魂を分けているだけさね」
そう言ってヘイジが指差した方向は、空。気づかぬうちに大きな鷲が旋回している。彼がちょいと指で招くような動作をすれば、鷲は一直線にこちらへやってきて、ルッタたちが驚くまもなくヘイジの中に吸い込まれた。
「煙じゃなかった、わね」
「あの煙草は、魂の輪郭を認識しやすくするための補助具にすぎん。もう爺さんだからな。自分の中にいる獣との付き合いかたも心得とる」
「か、格好いい!」
「サシャナ……」
他人への好意を簡単に口にするサシャナに、ヘイジが「おお、嫁に来るか?」と応じる。
ルッタは「まったくもう」と自分の目を手で覆った。惚れっぽいというわけでもないのだが、サシャナは国によって異なる作法に無頓着で、これまでも何度か相手を勘違いさせたことがある。ヘイジたちは異国どころか異界の人間。もっと気をつけなくてはならなかったのだ。
「なに盛ってんだよやめろ。要らねえだろ」
終わったから帰るぞ、とぶっきらぼうに告げるのは、倒れていたはずのアキトだ。
戻った渋面。煙の狼の姿はなく、また魔物の姿も見えない。しっかり倒しきったらしい。そしてそれが、この不思議な状況の終了条件だったようで、四人の傍にはふたつの扉が現れていた。ご丁寧に名前入りの札まで掛かっている。
しかしヘイジは、扉を一瞥しただけでアキトに向き直った。
「馬鹿、お前さんの相手は必要だろうが」
「あ? 余計に要らねえだろ」
「ほぉ……それはつまり紹介する相手がいるということか?」
いないならサシャナをと、にやにや追及し始めたヘイジを、ものすごく嫌そうな顔をしたアキトが避けている。
「なんだか大変そうだね」
「誰のせいだっつーの。これやるからもう黙っとけ」
「え? あ、ありがとう……?」
乱暴な物言いとともに投げ渡されたのは、赤黒い魔石がいくつか。すべて拾うほどの労力を費やすことはしなかったようだが、それなりに大きいものを選んだであろうことがわかる。
受け取った魔石から視線をあげたサシャナは、なんとか祖父を説得したらしい青年の気怠そうな顔を見た。
「そういえばルッタ、本当にふたりからお金を貰うの?」
別れぎわ、サシャナがふとこぼしたその言葉に、ルッタは目を丸くさせた。アキトは舌打ちをし、またヘイジに叩かれている。
「……まあ、魔石も貰ったわけだし、今回はお互いが救いあったってことで、それでチャラにしましょうか。その代わり二人とも。雨が降る日はあたしたちを思い出してね?」
「ああ、いつだって思い出すとも」
「ち、戻ったら梅雨じゃねえかよ」
「おおそうだった。あの素晴らしい舞を思いながら過ごす梅雨は、さぞ風情があるだろうよ」
「ツユ?」
「雨がたくさん続く季節さ」
「それは光栄だわ」
扉を開けて、ふたりは彼らの世界へ帰っていく。
「ルッタ、わたしたちも元の時代へ戻ろう?」
「ええ、そうね」
サシャナがルッタの手を掴み、ふたりのための扉へ誘う。近づいたサシャナの髪からは、しとりと降りゆく雨の音がした。
ルッタは一度、もう見えなくなった頼もしい背中を振り返り、小さく付け足す。
「雨の季節がある世界……あたしたちなんて必要ない世界なのね」
雨と獣は乾かない ナナシマイ @nanashimai
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