第25話


 十年という歳月が過ぎて、私は久しぶりに綺麗な空を見られた。刑務所からようやく出所し、外の世界に触れることができた。その世界はとても綺麗だった。

「ほら、早く乗りなさい」

「はい」

 お母さんの呼びかけに、私は小走りで車に向かった。後部座席に乗り込むと、シートを挟んでお母さんの顔が見えた。お母さんとは度々、手紙を交わしていたおかげで知っているけれどもあの後は自立して一人で暮らしていたらしい。久しぶりに見たその顔には濃くなった皺が刻まれていて、十年という年月の長さを感じさせた。

 あのときに、自分が正しいことをしたと思っていたけれども周りの事なんて何も考えていなかった。ただ、自分がすべて正しいと思って先生を困らせただけだった。先生にもお母さんにも本当に悪いことをしたと思っている。だから、せめてこれからは迷惑をかけないようにしようと思う。

 正しく、できる限り正しく生きようと思った。

 お母さんは何も言わずに運転をしている。車は久しぶりに乗るとあまりにも速くて、車通りの多い道をスムーズに進んでいく。車の中は沈黙に包まれ、お母さんも私も何も言わない。ラジオから流れる知らない芸人のトークが、静寂を埋めていた。お母さんは今どんな気持ちなのだろうか。元気でいてくれているのだろうか。そして何より、私のことを恨んでいないだろうか。お母さんに対して少なからず心労をかけてしまったことを思えば、そんな不安が頭をよぎる。でも、実際にそれを口に出して聞くことはできなかった。

「今日、何か食べたいものある?」

 最初、それが私にかけられた言葉だとわからなくて反応が遅れた。慌てて、久しぶりに家族の間にある会話の声を出す。

「なんでもいいよ」

「そう」

 言い終わってから、何か希望を出した方が良かったかと思ったけれども、もう遅かった。お母さんはそれから一言もしゃべらなかった。沈黙に耐え切れなくなった私は窓の外に視線を移し、少しだけ変わった景色を見ていた。こんな田舎だと大規模な開発計画が立ち上がらない限りは十年やそこらじゃほとんど変わらない。ぎりぎりで経営していた店がつぶれてシャッターが増えているくらいだ。人は少しだけ、減った気がする。

 同級生は今頃、大学を卒業して働いているのだろうか。それを少しだけ羨ましく思っていると、いつの間にかマンションの前についた。手紙でお母さんが引っ越したことはしっていた。さすがに娘が同級生をどんな理由があろうと殺害したという噂が広まった場所では生きていくのは厳しいだろう。ましてや田舎だ。刺激が都会に比べて少ない分だけ、話題の持続性は高い。先生も私も、亮斗の家族ももうあの場所に居るのは厳しいだろう。十年も経って頭が冷えると、さすがに亮斗の家族には申し訳ないという気持ちも湧いてきた。

「ごめんなさい」

 家に入るタイミングで、私はお母さんにしっかりと頭を下げて謝った。後頭部に向かってお母さんの視線が注がれているのを感じる。お母さんは息を吐いた後、何も言わずに頭をそっと撫でてくれた。伸びた髪が間にあるのに肌に直接、触れられているような感覚がする。その撫で方が先生みたいで、久しぶりにその温かみを思い出した。新しい情報の入らない少年院の中で見る夢は中学時代の事が多かった。

 家ではお父さんとお母さんが仲良さそうに笑っていて、部活に行けばみんなで頑張って大会を目標に汗をかいて努力する。教室には柚葉がいて、亮斗がクラスの人気者で、先生が優しくみんなのことを見ながら笑っている。その夢を見た朝は、いつも涙が流れている。

 どうしてだろう。もうあの頃には戻れないと、頭では理解しながらもそれを求めているからだろうか。夢の世界に浸っていられる時間が最も幸せだった。


「じゃあ、行ってくるから。ゆっくりしてて」

 家に私を残して、お母さんは昼から仕事に行った。私が何をしようか、テレビを見てもわからないことばかりだし、家に置いてあるものも使い方が家電くらいしかわからない。どこかへ出かけようという気にもならなかった。暇だから何かすることがないかと部屋の中をふらふらと歩き回っていると、一つのメモが見つかった。

「なにこれ?」

 昼食はもう食べたし、それ以外に時間的な用事が私にあるとは思えない。急ぎでないなら、お母さんが仕事から帰ってからならその時に言えばいい。本当ならどうでもいい、別に目にも止まらない日常の景色であるはずなのに白い机の上に雑に置かれたピンク色のブロックメモは私の興味をとても引いた。ゆっくり捲ってみるとそのメモには、お母さんの綺麗な字でこう書かれていた。

『どうするかはあなたが決めなさい』

 その下には、住所が書かれている。その住所に見覚えはなかった。ここからは少し遠いけれども、時間的には今日中には到着できる距離の場所だ。ブロックメモに目を引かれていて気が付かなかったが、その隣にはがまぐちがあった。おそらく、そのがまぐちにはここからその住所まで行ける分だけのお金が入っているのだろう。私は、そのメモとがまぐちを手に取って家を出た。

 お母さんがこう言ってくれるのは、きっと先生の住所だからだろう。親子だからか、この状況で私に向けたメモに残すような住所は先生のものぐらいだろうからわかるのだろうか。電車に揺られて、私はようやくそこに到着した。そこは、アパートだった。建物は年月の重みを感じさせ、壁にはところどころひび割れが走っていた。周りの風景も寂れた印象で、元は綺麗な白だったであろう壁も気持ちの悪いクリーム色に変わっている。アパートの入り口に足を踏み入れると、いつから貼り替えていないのかぼろぼろのお知らせが目につく。エレベーターの中は、古いそれが持つ独特な匂いがした。

 私はメモに書かれた部屋を探す。

 先生に最後に会ったのは、あの日。私の初恋が破れた日。そこで記憶が止まっているからだろうか、私の脳は鮮明にあの時の光景を描くことができる。私を優しく慰める先生の温度は、すぐ身近に感じられた。その温度が、十年ぶりに手の届くところに、この薄いドアの向こうにあるのだと思うと、私はいてもたってもいられなくなる。思わずドアノブに自然と手をかけていた。慌ててその手を下ろす。

「先生……」

 玄関の表札には浅野という名前が書かれていた。ここまできて、私は怖くなった。そもそも、先生はここに居るのだろうか。そして、居ても私を受け入れてくれるのだろうか。もし居なかったらどうしようか。また先生を困らせてしまったら……

 そんなことを考えながらも、私の体は勝手に先生との再会を望んでいたのかインターホンを押していた。ピンポーンと無機質に乾いた音が響く。部屋の中から、薄いドアを越えて足音が聞こえる。

 私は、ドアから少し離れて先生が来るのを待った。鍵が開く音がして、少ししてからドアが開く。久しぶりに見た先生の顔は、昔よりも老けていた。それは十年も経てば当たり前のことなんだろうけど、それ以上に顔には私のせいで苦労させたのかきつい皺が刻まれていて、体格も少し細くなっているような気がする。けれども、それでも先生の雰囲気はまとっていた。優しくて、温かくて。私の初恋は色あせることがなく、今も続いている。それをはっきりと自覚できた。

「先生?」

「春川か?」

 先生の問いかけに、私はそっと頷く。こんな姿になってしまって、あんな罪を抱えた私を受け入れてくれるのだろうか。何も考えずに来たから、髪の毛すらも整えていないのが恥ずかしい。先生は、何も言わずに私のことをただ見つめていた。先生の中で私に対してどのような感情があるのかわからない。言葉を探しているのかもしれない。沈黙が二人の間を支配している時間、ずっと先生を見つめていると先生はふぅと息を吐いてから体を翻した。思わずびくりと肩を震わせると、先生が私にあの頃と変わらない声でいてくれた。

「とりあえず、部屋に入って」

 先生の手招きに応じて、私は部屋に入る。先生は、何も変わっていなかった。部屋の中も想像した通りだ。綺麗に片付いていて、無駄がない。唯一変わっているといえば、先生の体には前のようなしっかりとした筋肉が付いていなくて、腕や脚が細くなっているところだった。私は、リビングの手前で足を止める。先生はキッチンのほうに何も言わずに向かっていった。

 私が座らずにリビングの入り口で佇んでいると、後ろに先生が立つのが分かった。私は、先生の方を振り返らず、そのままの状態で言った。

「先生、ごめんなさい」

 後ろからは何の声も聞こえてこない。怒っているのか、悲しんでいるのかわからない。どのことに対して謝っているのか、自分でもわからないのにそれが伝わるわけがない。そんなことは重々わかっていたけれども、それを言わずに私は先生に対して何か言葉をかけるなんてことは許されないと思った。

「先生?」

 私は振り返らずに先生の答えを待つ。先生の手が、私の首に伸びてくるのがわかった。しっかりと謝罪をするべきという気持ちと同時に、このまま先生に抱きしめられたいという思いが募る。私は、ゆっくりと目を閉じた。先生は私の肩に手を載せた。しかし、その手は下にいくことはなくどんどん上がってくる。

 そして、私の首につかみかかった。突然の出来事に私は息ができなくなった。

「先生?」

 その言葉が、自分の口から出たのかはわからない。絞められた首からは、先生の体温が伝わってくる。先生は私の首を絞める手に力を込めた。爪が食い込んできて、喉の横側から痛みと熱が走る。

「どうして……」

 反射で漏れたその声に、先生の力はさらに強くなる。

「どうして? お前のせいだ!」

 お前のせいという言葉。確かに私のせいで苦労をかけたはずだ。それは申し訳ないと思っている。けど、いきなり首を絞められるほどのことだろうかと混乱した。

 しかし、先生の次の言葉は私を絶望させるのには充分だった。

「お前が、あの写真をいたずらでばらまいたんだろう。そのせいで、僕は教職を追われて妻と子供にも逃げられた。すべて、すべてお前のせいだ。あんなに熱心に仕事をしていたのに、あんなに優しくしてやったのに!」

 その言葉がどんどんと聞こえづらくなっていく。息ができなくなっていき、私の視界は白く染まっていく。そして、意識も薄れていった。まぶたがだんだんと重くなっていき、私の意識はどんどん闇に沈んでいくのがわかった。

 先生の言うことを否定しようにも、言葉がもう口から出てこない。死ぬことや生きることに対して拘りなんてない。もう、ほとんど死んでいるのも同然みたいな空っぽの人間だから。だけど、先生にそんな勘違いをされたまま死ぬのは嫌だった。私が先生への悪戯としてはめるような真似をしたこと、私の告白が全てうそだと思われていること、こうして好きな人に恨まれながら殺されることはどうしようもなく辛かった。だけど、口から溢れるのは泡だけで、真実を伝えることもかなわない。

「せんせ……」

「あああ、うるさい! この薄汚い女狐め! 殺してやる、殺してやる!」

 謝罪の言葉も、もう脳の中が白い靄に包まれていく中で段々と薄れていく。

「お前が俺の幸せを奪ったんだ! 妻も、子供も、教師という職もすべてを奪って楽しいか! 人を貶めるのが楽しいか!」

 先生の笑い声が聞こえる。喉にどんどん爪が食い込んでくるけど、その痛みを感じるよりもどんどんと指先から冷えていく感触がした。先生の手に添えていた私の両手は力を失い、どんどんと垂れていく。最後に先生の顔を見て訴えかけようかと思ったけれども、それはできずに私の意識は闇へと沈んでいった。

「死ね」


 家に帰ると、既に理穂は出かけていた。おそらく、私が家を出てからすぐに出発したのだろう。やっぱり親子なのか、行動はあまりにもわかりやすい。母らしいことができていたかはわからないけど、こういうところでは自分が母だと実感できる。

「はぁ、仕方ないわね」

 一人ぽつりと呟く。こうして独り言をつぶやきながら家の中を歩くのが日常となってしまった。軽く上着を羽織り、まだ理穂の体温が残る部屋を後にする。

「これで、全てが思い通りね♡」

 私は、無意識の内に口角が上がってしまうのを抑えられなかった。

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初心女 渡橋銀杏 @watahashi

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