第24話

 その後、どれくらいの時間が経ったのかわからない。最初に耳に入ったのは、女性の甲高い叫び声だった。不快な声だったが、私の脳は煙草の発する煙によってまどろみ、ただぼうっとしているしかできなかった。もう、すべてがどうでもよかった。このまま自分も死んでしまおうかと思ったけれども、死ぬことも生きることすらもどうでもよかったからこの次の行動を決めることなんてできずに外を眺める。

 夕日がだんだんと沈んでいく。山の向こうに沈んでいく最後の瞬間に、まるで煙草が最後の命を輝かせるときと同じように強い光を放った。燃えるように空が赤く染まり、それは太陽が沈んでからしばらくの間も続いていた。

 自分の心はもう沈んでしまったのだろうか。そう考えても、もう誰も返事はしてくれない。目の前ではどろどろと血を流しているだけの亮斗と、どこか遠くへ行ってしまった先生。二人とも、もう私の傍にはいてくれない。

 亮斗のこと、昔はいいと思ったことがあったのかもしれない。私にとても優しくて、きっと小学生の頃から私のことが好きでずっと私の傍にいたいと優しくしてくれていたんだろうと思う。だけど、それをわかっていても私はそれを受け入れられなかった。何が良くて何がダメだったのか、それはわからないけれどもどうしても亮斗と恋人以上の関係になることを想像できなかった。

 机の上から振り回したバットで割れた写真立てが亮斗の手元に落ちていた。ガラスが粉々になって中の写真は見えなかったけれども、割れていない部分に映る手は私のものだった。亮斗もどうして、私のことを写真立ての中に飾って楽しんでおいてくれなかったのだろう。理想の中にいる私を、もう汚れてしまった私なんて見ずに綺麗なままの過去の私を楽しんでくれていればよかった。

 その写真立てを飾りなおす。その時に触れたガラスには、なんだか糊のようなものがついて私の指を捉えていた。

 私が写真立てを立て終えた瞬間だった、がっしりとした体格の良い男の人が三人もやってきた。警戒しながらも私の体を掴んで、そのまま持ち上げる。左手の中にあった煙草も、抵抗したけれども箱の中に残っていた二本も吸っていた途中のものまで取り上げられた。

「おい!」

 そんな言葉、生まれて初めて口にした。喉の奥に滞っていた煙と共に吐き出されたそれは、煙が立ち消えると同時にその言葉も部屋の中から消え去った。かけられた手錠は重たくて、冷たい。先生が心にも隣にもいない私の体にはその重さを支えることもできずに腕がだらんと垂れさがる。


 その時にようやく気が付いたけれども、腕はやせ細って手錠にはかなり余裕があった。服だけは女子中学生らしく可愛いものだけれども、手には薄く血管が浮き上がって触れてしまえば、ぼろぼろとこぼれてしまいそうな皮膚があった。今の自分を見て、先生はどう思うだろうか。あの優しい触れ方なら、この肌を壊さずに私の心を慰めてくれるだろうか。乱暴に連れられたため、口の中を咬んで血の味がした。鉄のような味がする。涙は、もう出てこなかった。

 パトカーの内側から、流れていく外の景色を見る。こちらをちらちらと見る通行人の顔が、好奇心と恐怖心でわかりやすく二分されていて、晒し物にされている気分だ。ただ、私にとっては心底どうでもよかった。

 きっと、先生への気持ちを断ち切ってやりなおせば上手くいくはずだと思う。自分がどれだけ恵まれていたのか。確かに家庭環境には問題があったけれども亮斗みたいなクラスの人気者に好かれて、こうして元気な体とお母さんに似て恵まれた容姿があって、この先も苦労しないで生きていけるはずだった。先生は既に築いていた立場を失ってそれは申し訳なく思うけれども、自分も楽に生きられる人生を切り捨てた。

 身を焦がすほどの熱い愛、言葉だけでは伝わらないだろうけれども自分の体が滅んでも命を捨ててでも、犯罪だとわかっていても心を抑えるブレーキを無視できるほどの情動が私の体と脳を犯して、周りのすべてを狂わせた。

 パトカーの中で下を嚙み切って死んでやろうかと思ったけれども、意外と舌を噛むのには力がいるみたいで、それを果たすことはできず、私は取り調べを受けている。

「どうして大岩君を殺害したんだ」

 そう聞かれても、先生と私の仲を引き裂いたからとしか言えない。もちろん、この先も二人の関係が何の波もなく穏やかに続くとは思ってもいない。私は恋に破れた人間だし、先生には家庭がある。だから、それを諦めようと心の整理をしている段階だった。その矢先に、こんなことをされたのだ。私は例え、その犯人が亮斗ではなかったとしても、これからの私と先生の関係を壊そうとした人間を排除しただろう。

「私と先生の仲を引き裂いたからです」

 私が素直にそう言うと、刑事さんは溜息をついた。ああ、きっとこの人にも何もわかってもらえないんだろうと思うと、どこか諦めが付いた。

「刑事さんには、奥さんか子供はいますか?」

 私が聞き返すと、少しだけ下を向いてから頷く。

「じゃあ、奥さんと子供が殺されて犯人が目の前にいたらどうしますか」

「どうもしない。逮捕して、取り調べをするのが俺の仕事だ」

 私が問いかけに食い気味で答えてきた。使い古されたドラマの中にあるようなくだらない台詞。本当の愛と、義務感による愛の違いだ。

「所詮、その程度なんですよ。あなたが一生を添い遂げると誓った相手なんですよ。あなたと奥さんの愛の結晶なんですよ。なのに、どうしてそれを奪った相手がいて復讐ができるのにそれをしないんですか。それまでだってことです。冷静に考えて我慢ができるはずがないんです。もし我慢してしまえるなら、そんなものを愛していると言えるんですか。その人と愛し合っているときだけは相手の事だけを考えられるのに、それが奪われた時にはどうして倫理観やその後を考えていられるんですか。あなたの掲げる正義とか倫理って言うのは愛を越えるんですか。そんなもの愛じゃない、そんなのは本当に大切に思っているとは言えない」

 さすがにそこまで侮辱されて怒るかと思ったけれども、刑事さんは何も言わずに黙っている。どうしてここで黙っていられるのかが不思議だった。これが大人の余裕とかそう言うものであるなら、私は大人になんてなりたくなかった。

「もういい。犯行は認めるんだな」

「はい、悪いことだとは思っていません。ですが、大岩君を殺したのは事実です」

「そうか」

 それだけ言って、取り調べは終わった。別に私がこの先どうなろうと興味はなかった。未成年で一人を殺害しただけでは死刑にはならないことは知っていたけれども、別に死刑になっても良かった。それくらいに先生のいないことは興味がなかった。もう一度、先生と一緒にいたころの思い出を思い出す。私を見てくれる優しい瞳ももう二度とは戻らないのだと思うと虚しかった。

 裁判官が何を言っていても、少年院に入っても、何も感じられなかった。

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