第23話

「急にどうしたんだ、家までやってくるなんて。大丈夫か? とりあえず開けるよ」

 気の抜けたチャイムの音が鳴ってから、カメラでこちらの様子を確認してから警戒する様子もなく、私が体の内側でできるかぎり自然になるようにと作り上げた猫なで声を発する前にオートロックの扉が開く音がした。でもきっと、私の出そうとした声よりも、彼の放った純粋無垢な少年の嬉しそうな声のほうが人に好かれるだろう。そんなことを考えながら私、そんなことを考えていなければ心が落ち着かないからだけれども、私は落ち着いて少し錆と年季の入ったそれを引いた。ドアの隙間から吹き付ける風が、そのドアをより重くさせるけれども、重いきり乱暴に引いてちょうど女子中学生の肩幅分だけ開いたスペースに身体を滑り込ませる。羽織った雨合羽についた水滴がわずかにドアの前に取り残されていた。

 部屋の番号は、三階の七部屋目。以前、興味もないのに彼がわざわざ自分から部屋から見える夕焼けが綺麗だと言っていた。その先に続く言葉は、家まで見に来ないかだったかもしれないけれども私はそれを知っていながら無視をした。あの時の純真無垢な私は勇気を出して誘おうとしてくれた彼の言葉を遮ったことを申し訳なく思っていたけれども、そんな気持ちはもうどこにも残っていない。夕立が降り続ける予報だから、きっと彼の部屋から夕焼けを見ることは叶わないだろう。

「なんだ、一階まで迎えに行くつもりだったのに」

「別にいいよ、それより部屋にいれてくれない?」

 私がそういうと、彼は嬉しそうに頷いた。好きな女の子が部屋に入れてほしいなんてきっと、妄想でもなかなか考えないようなシチュエーションだろう。彼が雨合羽を預かると言ってくれたので、それを手渡すとマンションの廊下で乱暴に降り始めた。はじけ飛んでいく水滴は、空気中のゴミや塵を飲み込んで黒ずんだコンクリートの排水溝に吸い込まれていく。

「わ、わかった。じゃあ、とりあえずすぐに十分、いや五分もあれば足りるから片付けさせてくれ」

「別にいいよ。そんなこと、期待してないし気にもしないよ」

「そ、そうか。そうだよな。うん、じゃああがって」

 私はお邪魔しますとは言わずに、彼が開いたドアから家の中へと入った。片づけたいとは言っていたけれども、靴は全て整列されている。通された部屋も、普段から部活や遊びにいくことで忙しいからか綺麗に整頓されているというよりは、そもそもあまり触られていない感じがした。雨具は全て亮斗に預けているから、私は遠慮なくベッドに腰を下ろす。少しだけ部屋を観察していると、お茶とクッキーを載せたお盆を持った亮斗が部屋のドアを開いた。好きな女の子が自分の部屋にいることに緊張しているのか、顔には普段の自然な笑顔ではなくて下手に作られた贋作、彼の人の良さなんて消え失せてこちらにできる限り緊張を悟らせずに、私に好感を持たれようとしているのが見え透いてしまう。いつから、亮斗はこんな顔をするようになったんだろう。いつから、私はそれを見抜けるような人になったんだろう。そんな私を非難するように、雨が窓を叩いてガタガタと音を鳴らしていた。

「それで、大丈夫なのか?」

「大丈夫って何が?」

「その、いろいろあって夏休み明けから停学になってる話は聞いてるから。心配で」

 停学になったクラスメイトを心配するのは、普通のはずだった。だけれども、亮斗の場合は他のクラスメイトが私を心配する感情とは似ているけれども少し違う。私にはそれを言語化できないけれども、きっと先生ならできると思う。そういうところ、なんでも知っていて頼りになるところが一緒にいてすごく落ち着けた。少なくとも、目の前にいる亮斗は私にそれを与えてはくれない。今、こんなにも隣にいてほしいほどに心臓がドクンドクンと跳ねているのに先生は隣にはいてくれない。

「別に、何もないよ。ずっと部屋でだらだら過ごしているだけ。別にみんなと連絡を取っちゃいけないとも言われていないから授業の内容とかもわかるし」

「そ、そっか。ならよかった」

「亮斗も変わりないんだってね。でも、最近は野球部の練習にも参加せずに家に帰ってたらしいけどどうしたの?」

 これは、友達がかなり早い段階で答えてくれた。亮斗の名前を出さずに、クラスは変わりないかと聞いて。いつもあんなに真面目に練習に参加して、別に強豪校でもないのに結果を出して野球の強い高校にスカウトされて、甲子園のマウンドに立つんだって自分の将来を疑うことなく言っている亮斗が野球部の練習を休むとは考えられなかったということだ。自分も逆の立場なら、確かにそれを言う。みんなは怪我をしているのを隠すためとか言っているけど、そうではないことは私と近所の叔母さんだけが知っている。

 現に、やましいことがあるのか亮斗の目は泳いだ。背筋はぴんと伸びて、敷かれたカーペットに先ほどまではついていなかったかかとがぴったりとくっついている。

「それは、その」

「ねえ、話は変わるんだけど。最近、いや自宅謹慎になる前だから少し前の話なんだけどなんだかつけられているような感じがするんだよね。ストーカーってわけじゃないけど、後ろから視線を感じるっていうか」

 クッキーに手を伸ばす手は止まり、冷静になろうとして亮斗はコップに半分ほど残ってグラスに結露するほど冷えた麦茶を思い切り喉に流し込んだ。きっと、言いたいことが口元まで溜まっていたんだろうけど、それが再び体の内側へと流されていく。そのせいか、いつもより喉ぼとけが引っ込まない気がした。どちらも話すべきことがあるはずなのに、沈黙が部屋を包む。

「私の事をつけて、いったい何がしたかったの?」

 叔母さんからもらった情報と、亮斗が野球部の練習をサボっていること。確かに服装や背丈だけで判断することは危険かもしれないけれども亮斗は私の事が好きだ。さらに、この態度を見て私は亮斗がストーカー行為をしていることを確信した。ただ、それだけなら別にいい。気持ちが悪いし、できることなら糾弾したいけれどもそれは重要なことではない。大事なのは、私をストーキングしている中で亮斗は何を見て、それをどうしたのかが問題だった。

「いや、その、心配だったから」

「心配?」

「最近、あいつと仲が良いだろ? その、愛美って純粋というか騙されやすいところがあるからそういうことをあいつの口車に乗せられてるんじゃないかと」

 その瞬間に、私は部屋にあったバットで亮斗の頭を殴りそうになって、慌てて意識を部屋の中に戻した。だけど、その光景が残像となって目の前にある亮斗の頭から血がだらだらと流れる映像がぼんやりと重なった。だけれども、私はそれに不快感を覚えることはなかった。その時、私はもうだめなんだと、そう確信した。

「それで? 仮に私が騙されていたらどうするつもりだったの?」

「それは、もちろん助けるつもりだったよ。こんな時に言うことじゃないかもしれないけど……」

 亮斗は顔を真っ赤に染めて、少しうつむく。青春と言えばそうだけれども、残念ながら私はそれを甘んじて受け入れられるほど綺麗ではなくなってしまった。

「好きなんでしょ。それは聞いたし、今はそんなことを聞いてない。だから、私が先生と仲良くしているのが気に食わなかったんでしょ? 別に私を大人の手から救いたいってわけじゃなくて、ただ自分のものにしたかったんでしょ?」

 私が語気を粗めて問いかけると、亮斗は首をおおげさなほどに左右に振って否定する。汗のしずくが、部屋に飛び散った。

「いや、そうじゃないんだ。もちろん、そういう気持ちはある。別にそれは否定しないけれども、もしも愛美が本気であいつのことを好きならそれでもいいと思った。もちろん、担任の教師と生徒とか、あいつにはちゃんと奥さんと子供もいるとかそういうことはあるにしても、それでも愛美が好きなら少なくとも俺が口を出すべきじゃないと思った」

 何を言っているんだろう。それを言う人間がするべきじゃない行動をしていたというのに。砂場で遊んでいて砂利が口の中に入ったみたいな不快感がした。これまで、自分のことを好きと言ってくれたし、いい人だともわかっていたから友達としては付き合ってきたけれども嘘をつくような人だとは思わなかった。確かにその台詞は、ドラマ的で恰好がいいかもしれないけれども、私の心には何も響かない。興味もない相手からの名台詞よりも、私は先生の声が聴きたい。

「だから、もしも先生と本気で付き合いたいと愛美が思うのなら、俺はそれに対して何もしない。協力なんて俺ができるわけがないけど、邪魔をしないくらいはできる」

「邪魔をしない?」

 なにか、自分の後ろで物が倒れる音がした。それと同時に、亮斗が座っていた椅子から立ち上がって後ろへと下がった。まるで、こちらを怖がっているみたいに。

「どうしたんだ、なんか今日の愛美、変だぞ?」

「変なのはどっち? 昔は嘘なんてつく人じゃなかったのに」

 また、後ろで音がした。今度は、何かが割れるような音がする。だけど、そんなことは気にならなかった。頭の内側で脳みそだけが浮いているみたいな感覚がする。

「嘘? なんのことだよ。俺は一言も嘘なんて」

 鈍い音がして、目の前にいる亮斗が左腕を抱えて痛がっている。この時、ようやく私は自分の右手にバットが握られていることに気が付いた。半袖だったせいで、バットがぶつかった場所が既に青く成りだしている。亮斗の顔はさすがに青く染まって口の端には傷みをこらえるようにきつく閉まっていたけれども、視線だけははっきりとこちらに向けていた。どうやら、さっきの音も私がバットを振り回したせいで、物がぶつかって倒れた音だった。床には、野球部のメンバーで大会終わりに撮ったであろう写真の入った写真立て、水色の目覚まし時計もガラスが割れて床に落ちている。亮斗は、こちらに左手を広げながら助けてくれとは言わなかった。

「信じてくれ、俺は本当に嘘なんて言ってない。本気で、愛美が幸せならそれでいいと思っている」

「嘘をつくな!」

 私は再び、バットを振り上げて亮斗の体すれすれに振り下ろした。素早く反応して、体を抱くように小さくする。いったい、自分の表情がどうなっているのかなんて考えたくはなかった。この表情を見ても、亮斗の私を見る目は好きな女の子を見る目で変わってはいない。亮斗はこの状況になっても私に暴力を振るおうとはしない。バットを取り上げようともしなかった。ここまできてようやく、先生の言っていた自分が大切にしたいと思う人と、自分を大切にしてくれる人は違うという言葉の意味はわかった。

 亮斗はカーペットに頭をつけて、左腕を抑えながらではあるけれども土下座のような形で頼み込んでくる。

「頼む、話を聞いてくれ。ストーキングしていたことは何も言い訳できないけど、きっと何か愛美は勘違いしている。俺はストーキングをしていただけだ。頼むから話を聞いてくれ」

「何を勘違いしているっていうの? 亮斗がストーキングをして、私と先生の関係を壊そうとしたんでしょ。証拠さえ握れれば、私を脅してもいいし先生を脅してもいい。先生を守るためなら、別に体だって差し出してよかったのに、それすらせずに学校のポストに写真をいれるなんて」

 それが一番、怖かった。私は亮斗に脅されればなんでもするつもりではいた。先生には家族がいるし、社会的な立場がある。私はただ怒られて停学、中学のクラスで居場所がなくなるくらいだろうけれども先生はそんなものではすまない。あの日、教師になりたかった理由を語った先生は人生で見た何よりも輝いていた。そんな人から、その教師という職業を奪うことは何よりも辛かった。もう先生といられなくてもいい、ただ先生のことを守ってあげたかったのに。

「ねえ、なんでそんなことをしたの。私は何でもするつもりだったし、それは亮斗だってわかってたでしょ。でも、亮斗は私と先生を物理的に引き離そうとした。まだ、証拠を手に脅してくれたほうが良かったし、理解もできるよ。どうして、私が不幸になるほうを選んだの。それでいて幸せになってほしいなんて」

「学校のポスト? 証拠? なんの話かわからない。ちょっと、待ってくれ」

 亮斗が立ち上がろうとした瞬間に、私の右手は自然と動いていた。先ほどまでとは違う赤が、亮斗の顔を、頭を染めていく。そのまま、膝から落ちた体は壁にぶつかって、そこには綺麗な夕焼けが映っていた。私はもう何をする気も起きずにぼんやりとライターに火をつけて、先生の好きな煙草に火をつけた。そのまま、亮斗の家族が帰ってきてパトカーがやってくるまで、ずっと煙草を吸っていた。

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