ユア・マジェスティ、目玉焼きをどうぞ

未来屋 環

ねぇ、目玉焼きには何かける?

 ――ただ、きみの喜ぶ顔が見たいだけ。



 『ユア・マジェスティ、目玉焼きをどうぞ』



 冷蔵庫をがちゃりと開けると、白い命のかたまりが並んで座っている。

 決して傷付けてしまわないように、僕は優しい手付きでそれらをひとつ、またひとつと取り出した。

 フライパンの中では十分に温まったオリーブオイルが、今か今かとその時を待ち構えている。「お待たせ」とばかりにそれを割り入れてみれば、一気にキッチンが賑やかになった。


 少しだけ水を入れて蓋をするのは、一緒に暮らすようになってから教えてもらったやり方だ。お蔭さまで僕は黄身にぴったりと膜を張れるようになった。

 眉間にシワを寄せながらフライパンを睨んでいると「なにその変な顔」と笑われたことを思い出す。

 こっちの気も知らずにのんきなものだ。固くなりすぎたら、一気にご機嫌ななめになる癖に。

 透明な蓋の窓から刻一刻と変わっていく色をチェックし、ここぞというタイミングで火を止めた。蓋を開ければ、湯気と共につやつやの目玉焼きが顔を出す。

 ――無事、本日も品質管理基準は守られた。


 洗面所の方から、水が流れる音が聞こえてくる。顔を洗っているのだろう。そろそろ頃合いだ。

 キャベツの千切りとミニトマトを載せたプレートに目玉焼きを滑り込ませ、焼き上がったばかりのトーストを添える。輸入食品店で買ってきたグァバジュースをグラスに注いでいると、リビングのドアが音を立てて開いた。


「おはよー」


 けだるげな声と共に部屋に入ってきたのは、もこもこした素材の服にくるまれたきみ。なんたらピケとかいう店の部屋着はそこそこの値段がするらしく、奮発して買ったんだと自慢してたっけ。そんな一張羅いっちょうらも、今では少し年季を感じさせる風合いとなっている。

 長い髪をお団子状にまとめたきみは、ソファーに身を沈めてTVとにらめっこを始めた。寝惚けた眼差しでチャンネルを回すその横顔は、僕にしか見ることができない天然記念物だ。


 平日僕が目を覚ます時、きみは既に隣にいない。朝早く出社した方が、仕事も捗るのだという。リモートワーク主体の僕がのんびりと朝ごはんを食べている時、きみは既に会社に着いて仕事をしている。そこまで一生懸命に頑張れるのは、一種の才能だと僕は思う。


 ――だから、週末は僕がきみより早起きして、きみの好きな朝ごはんを作ろうと決めた。



「女王様、お待たせいたしました」


 わざと声色こわいろを低くして、プレートをテーブルの上に載せる。とろんとしたきみの目がぱちりとまたたいて、目の前に置かれた目玉焼きをじっと見た。

 二対についの瞳が見つめ合う中、僕はグラスや調味料をキッチンから運ぶ。同棲を始める時にこだわって決めたカトラリーを置いた瞬間、きみがその表情を緩ませた。


「――今日も完璧な焼き加減」

「恐縮です、ユア・マジェスティ」


 いつまで女王ごっこやってるの、と明るい笑い声を上げるきみ。

 ふたりで並んで「いただきます」をして、それぞれ調味料に手をかけた。


 ***


 初めて一緒に目玉焼きを食べたのは、僕が一人暮らしをしていた時のアパートだった。

 カーテンから差し込んだ朝日に顔をあぶられ、僕は覚醒した。隣にきみの姿はない。重たい身体を引き摺ってベッドを出ると――キッチンには、実家から持参したらしきエプロンをつけたきみが、すました笑顔で立っていた。

「朝ごはん、できたよ」

 も、それが当たり前であるかのように。


「目玉焼き好きなんだよね」

 そう言いながら、きみは箸の先で黄身を割り、器用に白身にまぶしながら口に運ぶ。

「何もかけないの?」

「だって、黄身に味ついてるもん。十分おいしいよ」

「そりゃそうだけど。醤油とかソースとかかけると、もっとおいしいよ」

「うーん……おすすめは?」

「僕は醤油派かな」

 ふーん……ときみは気乗りしない様子で、醤油を黄身に垂らした。

 その後、目玉焼きを口に入れた時のあの表情かおは、僕の目に今でも焼き付いている。


 ***


 今ではきみは当然のように黄身に醤油をかける。僕は今日は胡椒の気分だった。それぞれの味を楽しみながら、僕達は週末のプランについて話し合う。


「明日の夕方、美容院予約したんだ」

「そうなんだ。短くするの?」

「ううん、あなた長い方が好きでしょ。形だけ整えてもらって、もう少し伸ばそうかな」


 崩した目玉焼きを口に運びながら、きみは当たり前のようにそう言った。

 出逢った時には僕と変わらない程短かったのに――見慣れてきたその長い髪が、今ではこんなにも愛しい。

 目玉焼きを味わいながら幸せそうに頬を緩めるその表情も、僕にとってはかけがえのない日常の一コマとなった。


「ごちそうさまでした」


 目の前には綺麗に空になったプレートが2枚並ぶ。完璧な半熟であった黄身は器用にトーストでぬぐわれていて、その色を消していた。

 自称目玉焼き好きの女王様は、満足気にこちらを見る。

「今日もおいしかった、ありがとう」

「マイ・プレジャー」

 気取った僕の返事に、女王様がころころと笑った。僕がキッチンで食器を洗っていると、きみが「ねぇねぇ」と話しかけてくる。


「そういえば、今日はどうするんだっけ? 言われた通り、予定は空けておいたけど」

「あぁ、ありがとう。行きたい所があるから付き合ってほしいんだ」

「そうなんだ、別にいいよ。どこ行くの?」

「うん――指輪見に行きたくて」

「へぇ、指輪――って、え?」


 蛇口を閉めて水を止めると、室内に静謐せいひつな空間が訪れた。 



 そう、僕は――ただ、きみの喜ぶ顔が見たいだけ。



 隣に立つきみに顔を向ける。その表情は驚きに固まっていて、そして――緩やかにほどけていった。

 まるで黄身が皿に溶けていくように。



(了)

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