ぼくのお兄ちゃん
遠部右喬
第1話
「うーん、何かこんがらがってきた……」
ぼくは開いていた本をテーブルに置いて、ソファに頭の後ろを押しつけた。
「何を唸ってんだよ」
テレビに顔を向けていたお兄ちゃんが、横目でちらっとぼくを見た。
そうだ、きっと、お兄ちゃんなら解けるよね。何でも知ってて、いつだって、すごくむずかしい宿題の答えも教えてくれるもの。
ぼくは起き上がって本を手に取った。
お兄ちゃんにタイトルが見えるように本を向けると、
「何? 『論理クイズ30問』? お前、こんな本読むんだ」
「
「あー、そうだったっけ?」
あんまり興味無さそうに、またテレビに目を向けてしまった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「何?」
「……これ、よく解んないんだ。お兄ちゃんも一緒に考えて?」
お兄ちゃんはちょっと面倒くさそうに溜息をついたけど、こっちに体を向けてくれる。
「……で、どれ?」
「あのね……」
ぼくはページをめくって、お兄ちゃんに問題を見せた。
『A君、B君、C君は三兄弟です。
ある日、お母さんの留守中に、三人の内の誰かが花瓶を割ってしまいました。帰って来たお母さんが、三人にたずねました。「誰が花瓶を割ったの?」
三人の内二人は正直者で、本当のことしか言いません。もう一人は嘘つきで、嘘しか言いません。三人の証言から、誰が花瓶を割ったのかを当てて下さい。
A君「僕が割った」
B君「Cが割った」
C君「僕、割ってないよ」』
「だんだん、訳がわからなくなってきちゃって……」
「A」
「え?」
「花瓶を割ったのはA、あと、嘘つきはB」
あんまりにも早く答えが返ってきたから、びっくりした。
「すごーい! お兄ちゃん、もうわかったの? ねえ、どうして、どうして?」
「最初に、証言が矛盾してるところを探すんだよ。BとCの言ってることは真逆だろ。だから、どっちかは絶対に嘘つきだ。嘘つきは一人だけなんだから、Aは絶対に正直者で、『僕が割った』って言ってんだから、花瓶を割ったのはA」
「そっか! でも、どうしてB君が嘘つきってわかったの?」
「もしBが正直者なら、Cは嘘つきだ。『僕、割ってないよ』って言葉が嘘なら、花瓶を割ったのはCってことになる。そうしたらAの証言も嘘になっちゃうだろ」
「あ、そっか」
「Cが正直者で、Bが嘘つきなら、Aの証言と矛盾しない。こんなの、落ち着いて考えればぜんぜん難しく無いよ」
「……うん」
また、こんがらがってきた。本の上を指さしながら確かめてたら、「けどさ、これ、AとBのどっちが叱られるのかな」って、お兄ちゃんが笑った。
「え?」
「だって、花瓶を割ったのはAだけど、Bはいつも嘘をついてんだろ? お母さんはどっちを叱るのかなって思ってさ。お前は気にならないの?」
「……それは、この話はクイズだし、別に……」
お兄ちゃんは、ふーん、と首をかしげた。
「僕は気になるけどな……まあいいや。それより、今日は宿題ないのか?」
そうだった、今日は算数の宿題があるんだ。急いで本を閉じて、部屋に教科書とノートとふでばこを取りに行く。
リビングに戻って、つまらなさそうにテレビに顔を向けてるお兄ちゃんの隣に座ろうとしたら、
「座る前に、飲み物を取って来な。途中で喉が渇いたら、気が散るだろ?」
「はーい」
ぼくは教科書とかをテーブルに置いて、キッチンに向かった。
冷蔵庫から麦茶の入ったポットを出して、自分のマグカップにそそごうとしたら、後ろから急に「わっ!」って大きい声がした。びっくりして、ぼくの手からポットとカップが床に落ちた。どっちも割れなかったけど、転がったポットからは、どくどくと麦茶がこぼれた。
「ああー」
あわててポットを起こしてふり向くと、キッチンの入り口で「あはははっ」とお兄ちゃんが笑ってた。
ひどい。
泣きそうになりながら、こぼれた麦茶をふくために、ふきんを手に取った。
さっきまでお兄ちゃんが立ってた所をちらっと見たけど、もういなかった。きっと逃げちゃったんだ。
ずるいよ。
「ただいまー」
ちょうどその時、玄関からお母さんの声がした。パタパタというスリッパの音と、荷物を置いた気配がして、キッチンの入り口からお母さんが顔をのぞかせた。
「リビングに居ないと思ったら、ここだったの……どうしたの?」
「お母さん、お帰りなさい……ごめんなさい、あの、麦茶……」
「あらら、こぼしちゃったの?」
お母さんはもう一枚のふきんで、ぼくと一緒に床を拭いてくれた。
「ちゃんと『ごめんなさい』を言えたのはえらいね。けど、今度からはもっと気を付けてね」
「はあい……けど、あの……」
お母さんはほめてくれたけど、あんまりうれしくなかった。麦茶をこぼしたのは、お兄ちゃんのせいなのに。ぼくはむかむかした。
片づけを終えたお母さんは、こぼれてなくなっちゃった麦茶のかわりに、カップに牛乳を入れてくれた。ぼくは中身をこぼさないように注意しながら、牛乳入りのカップをそうっと運んだ。
ぼくがリビングに入って行くと、ソファに座ったお母さんが、テーブルの上のリモコンでテレビをつけたところだった。お兄ちゃんは、何ごともなかったみたいにソファの向かいの床に座ってる。ぼくはまたむかむかして、テーブルの空いてるところに、ちょっとらんぼうにカップを置いた。
「あのね、お母さん……」
お兄ちゃんはちらっとこっちを見た。ぼくはかまわず、お兄ちゃんを指さした。
「麦茶をこぼしたのは、お兄ちゃんのせいなの!」
「え?」
まゆをひそめたお母さんに、うったえた。
「僕が麦茶を注ごうとしたら、後ろから『わっ!』ておどかされて、それで……」
お母さんはリモコンをテーブルに置いて、ゆっくりと言った。
「嘘をついたらいけないって、お母さん教えたよね?」
「でも……」
お母さんが立ち上がった。お兄ちゃんは知らんぷりしてる。
お母さんがぼくの肩をつかんで、ゆさゆさとゆすった。強くゆすられたぼくの足がガコガコとテーブルにぶつかるたび、カップの牛乳がこぼれて教科書をぬらす。それを見て、お兄ちゃんは少し笑った。
「小学生にもなって、まだわからないの?」
バチン!
ぼくのほっぺたが鳴った。
「何度も言わせないで!」
バチン!
「あなたに」
バチン!
「お兄ちゃんなんて」
バチン!
「居ないの!」
お母さんが、また右手をふり上げた。首をすくめたぼくのとなりには、いつの間にかお兄ちゃんが立っている。
「ちゃんと聞きなさい! お母さん、あなたのために言ってるのよ!」
バチン!
またほっぺたが鳴った。お兄ちゃんはくすくす笑いながら、ぼくの耳に顔をよせた。
「今ここにお母さん、僕、お前がいます。この中に何人の嘘つきがいるか、お前にわかるかな?」
ぼくのお兄ちゃん 遠部右喬 @SnowChildA
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