風評被害と紙風船

ヤマシタ アキヒロ

第1話

  風評被害と紙風船


「紙風船をくれる薬屋のおじさん」と聞いて、その姿をありありとイメージできるのは、昭和生まれでもかなり上の世代であろう。

 越中富山の薬売り~♪

 昭和三十年代の全盛期には、そんな調子のいいはやし歌まであったほど、「置き薬」はかつてポピュラーな存在であったらしい。

 らしい、というのは、現在五十代の私でさえ、縁あってその職業に従事するまで、そんな商売は過去の遺物、と考えていたからである。

「紙風船」は「ゴム風船」に姿をかえ、「柳行李」は「トランク」になり、「懸場かけば帳」は「携帯端末」と化して、マイナーながらも薬売りは連綿と令和の今日につづいている。

 この話は、私がそれに携わっていた平成のある時期、実際に身に起きたちょっとホロ苦い体験談である。

 伝統芸能に近いそのユニークな商売は、江戸時代に端を発するわりにその発想自体はきわめて近代的である。すなわち、「家庭に常備薬を貸し出し、使った分だけ代金をいただく」という合理的な販売形態―――ただし、契約書等はとくに交わさず、箱を置いていることが契約の証しという、はなはだ日本的な「いい加減さ」をも併せ持つ。人と人との信頼を前提とした取引きである。よってそれを好んで利用する客たちは、おしなべて警戒心のうすい「お人好し」が多い。親しみをこめて言うなら、利用者の多くはむしろ「前近代的」でさえある。

 私が担当していた川崎市の山間部は、神奈川県でも田園色の濃いのどかな地域で、顧客も代々つづく自営業か、さまざまな地方出身者が多かった。東北からの人々も数多くいた。私の不器用な営業ぶりを、彼らは「辞めずにがんばってね」と、かえって励ますありさま。薬の消費が少ないと気の毒がるので、私の方も「使わないのがいちばんですよ」と常套句を言って苦笑いした。

 中でも福島出身のUさんは「肝っ玉母さん」と呼ぶにふさわしい、口は悪いが人情に厚い人だった。ふつうは玄関先で応対するところを彼女はリビングにまで上げてくれ、足の悪い大きな体をエッチラと運んでお茶を持って来た。ご実家は農家らしく、「これ食べてみろ」と、ゆでたアスパラガスなど様々な野菜を、訪問のたびに振舞ってくれた。

 転職組の私は、おかげで現代の寅さん稼業をなんとかこなしていた。

 そんなある日、東日本大震災が起きた。

 読売ランドの近くを軽自動車で巡回していた私は、山が揺れ、林がゆさゆさと騒ぐのを目撃した。関東でもかなり揺れは激しかったのである。

 その日の営業はそれで切り上げ、渋滞する道路をそろそろと、横浜の自宅へ帰還した。信号機はすべて停電し、ゆずりあいながら車が夕闇を行き交う不気味な光景であった。

 一時的に妻の実家へ、私の家族も寄せてもらった。妻とその両親、私と六才になる息子が、蝋燭の灯りのもと無事を確認しあった。

 それからひと月、ふた月が過ぎ、酸鼻を極める現地の被害状況が明らかになって行く。自粛ムードの中、私は背に腹は代えられず営業の仕事をつづけた。

 とは言え、数百の顧客のなかで、東北出身者の家へはいまだ行きづらく、通常三ヶ月に一度の訪問を、あえて一回飛ばしにした。挨拶に悩むだろうし、このタイミングでの経済活動が、なぜか卑しく感じられたのである。

 しかし、さらに半年が経ち、私はいよいよ彼らへの訪問を再開した。なるべく明るい声でお見舞いを述べ、それとなくご実家の状況を尋ねた。様々な答えが返ってきた。

「人は無事だったが、家がやられた」

「妹の家族が行方不明」

「内陸なので被害は軽かったよ」……

 彼らは淡々と、ときに笑顔を交えながらその胸中を語った。本当はもっと深刻であろうところを、こちらへの配慮から努めてそうされているのが分かった。Uさんを訪問した際も、「いろいろあったけど、がんばらなきゃしょうがないね」と微笑を浮かべられた。かなり高額なサプリメントまで購入してくれた。

 そうこうするうち世の中は原発事故の影響による食物の放射能汚染を問題に上げた。「シーベルト」という汚染の度合いを示す単位が耳になじんだ。また実際の汚染被害とは別に、イメージによる不買運動を意味する「風評被害」という言葉が国民に知られた。

 被災した上に、作物まで売れなくなる「二重苦」を被災民は強いられたのである。私は、なんとか被災地に協力したい思いと、放射能がどのくらい危険なのか、その未知の恐怖をはかりにかけ、できれば無用な差別はしたくない心情に傾いていた。

 ところが、五歳年下の私の妻は、私とは逆に、神経質なくらい食材選びに気を遣った。とくに産地にこだわり、野菜や肉を一つ一つ吟味する。家庭の主婦として当然のふるまいかも知れないが、彼女のふだんの楽天性を知る私には、その行為は奇異に映った。

 加えて彼女は、いつかポータブル除染キットを入手して、せっせとベランダの掃除をしたり、軍用とおぼしきいかつい防塵マスクを取り寄せ、私と息子に配ったりした。

 さすがに不審に思った私は、ある日、「なぜそこまでこだわるのか。安全な食材を選んでくれるのはありがたいが、やり過ぎるのは風評被害のほうへ加担することではないか」と、正直な疑問を投げてみた。

 互いへの違和感は放置しない主義であった。

 すると妻の答えはこうであった。

「放射能は何年後、何十年後に健康被害をもたらすか分からないとお父さんに教わって来た……」

 彼女の父は昭和十五年広島生まれ。まさしく原爆のとき爆心地の近くにいて、自らは奇跡的に助かったが、実母や親族を失い、孤児として上京した経緯をもつ。

 その父からの伝聞や、興味をもって読んだ多くの本に囲まれて、彼女は幼少期を過ごしたのであった。

 特に自らが人の親となり、食べざかりの息子の養育中である現在、その教えを実行するのは今しかないという思いが強かった。

 私もようやく妻のこだわりの理由を理解した。彼女が買って来た烏天狗のような大げさなマスクも次の日から着用した。

 妻はさらに、当時かなり普及していた携帯電話(ガラケー)の機能を使って、食材の検査状況の確認が出来ることを発見し、買い物の現場でそれを活用、暮らしの模様をSNSに投稿した。その記事は同じく子育て中の若いお母さんを中心にフォロワーを増やし、いつかその数は三千人に達していた。私が大時代な仕事に悪戦苦闘している間の出来事である。

 そしてここからが嘘のような本当の展開なのだが、彼女の活動はテレビ局の知るところとなり、ニュース番組で特集されることになったのである。情報化社会ならではの珍事象だ。

 番組のスタンスとしては、平たく言えば「風評被害を拡大させる側にもこんな事情がある」という、同情しながらの問題提起であったように思う。

 打ち合わせの席で、スタッフは妻の買い物風景と、家族の食卓の様子を撮影したいと申し出た。私と息子も、妻の作った料理を美味しそうに食べる役を依頼された。

 私の頭に、ふと、置き薬の顧客の顔が浮かび、被災地出身の方々の不評を買うのでは、という危惧が横切った。が、再度、妻のポリシーと情熱に賛同した自分を思って、テレビへの顔出しを了承した。

 撮影はスケジュール通りに行われた。

 スーパーにカメラが同行し、食材に携帯をあてる妻を写す。妻は「安全確認済」の食材を選び、カゴに入れた。中には、未確認の「東京産」を捨て、確認済の「茨城産」を取るシーンもあった。

 夜の食卓で、息子は手製のギョーザをほおばり、私も一言コメントを求められた。

 放送終了後、さっそく反響があった。田舎の親戚から電話が掛かってきて「テレビ見たよ……」とはしゃぐ声。全国放送の伝播力を思った。

 そんな珍しい体験をはさんで、私は相変わらず営業の仕事にいそしんだ。もちろん客たちの前で、放映のことを言い触らすことはなかったが、何人かの客からは「テレビ見ましたよ」という声が掛かった。

「お薬屋さんだから特に安全意識が高いのでしょうね」

「仲のいいご家族ですね」

 おおむね好意的な言葉に、私は安堵しながら最小限の返答をした。「ええ、まあ」

 このとき私の胸に、かすかに「あの人は冷たい人だ」と後ろ指さされることへの恐れが芽生えていた。「あれは妻がやったこと」というのも無責任だし、納得して顔出ししたとは言うものの、自分でも意識しなかった「うしろめたさ」が、自分の中に存在することに狼狽した。

 そのうち、顧客台帳の順番から、ふたたびUさんを訪問する日が来た。

 薬箱の補充は昔とちがって、いきなりインターホンを押したりはせず、あらかじめ、これから伺いたい旨を電話連絡するのだが、受話器を取るUさんの声がいつもと違った。味気ない声であった。

 私はいやな予感がし、ふと言葉に詰まったが、とにかく予定通り訪問することにした。

 集合住宅の玄関を抜け、ドアの前に立つ。しばらくしてドアが開く。Uさんが顔を出す。Uさんの顔に笑みはなかった。

 玄関の照明も消えたままである。

 私は動揺しながらも、「お変わりありませんか?」とつとめて元気に尋ねたが、Uさんは生返事のあと、そっけなくこう言った。「そろそろ薬箱も引き上げてもらおうかね……」

 私の悪い予感は図星であった。

 Uさんはそれから、ふだん愛用している「赤玉はら薬」を箱から一つぬき、そそくさと代金を払って切り上げようとする。

 半ば覚悟を決めた私は、薬箱を片付けながら、これは僕からのプレゼントです、と赤玉をもう一箱、Uさんに渡した。

「あら……」とUさんは一瞬、いつもの温顔を見せたものの、またすぐ冷たい顔に戻り、私を追い立てるようにドアを閉めた。さよならの一言もなかった。

 番組を見て感情を害されたのは明らかだった。

 やむなく私は薬箱を抱え、放心しながら車に戻った。その日、残りの営業をこなす私の顔は、まるで幽霊のようであったに違いない。

 しかしなおも私は、Uさんの反感を買い、誤解されたままであることをどうにか挽回したいと思った。その夜、机に向かって手紙を書いた。

 Uさんを心ならずも傷つけてしまったこと、どんな謝罪の言葉もUさんへの償いにはならないであろうこと。妻は被爆二世であり、放射能をことのほか恐れていること、小さな子供の養育中でもあり、とくに食材に気を配っていること。決して安易な差別意識からの行動ではないこと。Uさんの日ごろの厚情をとても有難く思っていること……

 そんな内容を、誠意をこめて長文で書いた。

 Uさんからの返事はなかった。

 おそらく私からの手紙だと知り、封も切らずに捨ててしまったのであろう。

 これほどまでに人を傷つけ、それによって自らも傷ついたことは過去になかった。

 私は置き薬の仕事を四年つとめて辞め、現在はドラッグストアに勤務している。顧客との関係は、前職ほど濃密ではない。

 Uさんとはその後お会いしていない。

 あの時の行動を、今でも後悔はしていないつもりである。多少の「甘さ」はあったにしろ、決して間違いではなかったと信じている。妻の行動も立派であったし、おかげで家族の絆も深まったと思う。

 それにしても、「放射能」というものは、人間の身体のみならず、「心」にまで深い傷跡を残すものであるらしい。

 前世からの因縁でもないであろうが、私はどういう訳か薬に関わる仕事を長らくつづけている。

 しかし、どんな気の利いた薬でも、あの時、図らずも負ってしまった心の傷は消せない。

 あるいは、その痛みをいつまでも覚えていることが、せめてものUさんへの償いであると感じている。

 震災の残した、小さな「ささくれ」のような傷ではあるが……。


                                 (了)


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