各駅停車に乗れば

犀川 よう

各駅停車に乗れば

 三十歳を目前に彼から婚約解消を切り出されたわたしにとって、恋とは無糖コーヒーのように苦いものでしかなかった。寒い冬という以外に何の特徴もない平日の夕方、わたしの住むマンションにやってきた彼は、見知らぬ女を横に従えていて、「別れてくれ」とわたしに頼んできた。それに対してわたしが取った行動は、その場から逃げ出し、最寄りの駅から電車に乗る事だった。マンションは彼名義のものであり、遅かれ早かれ追い出されることが予想できたからだ。

 

 各駅停車の電車が停車していたのでそれに乗り込んだ。近郊形車両の大きな窓ガラスは指紋だらけで、その隅には「スキ」と書かれていた。ほぼ満員電車にも係わらず、中学生らしき女子たちが黄色い声を出しながら書き殴っていたのだ。

 書いた後、彼女たちは素早くホームへと駆け出していった。その若々しいエネルギーの向かう先を電車の中から目で追っかけていくと、同じ学校なのだろうか、一人の男子中学生が立っていた。わたしは電車のドアが閉まり動き始める中、彼女たちが過ぎ去っていくのをずっと見ていた。きっと今の彼女たちには恋とはケーキのように甘くて綺麗なものなのだろう。彼が付き合い始めの頃に持ってきてくれた上品なショートケーキを思い出す。それは名家の御曹司が持参するに相応しい輝くような白く無垢なショートケーキで、庶民以下の出身であるわたしをどこか心苦しくさせながらも、豊かな暮らしという世界へと誘ってくれた。


 わたしの羨ましい気持ちを断ち切るべく、電車は加速を続け幼い恋の景色を消していった。平凡な街並みが流れて行く中、わたし時折乗客に背中を押されながらもつり革にしがみつき、目を閉じて行く先を浮かべていた。頭の中にはボロボロのアパートに住んで貧しい暮らしをしている母が浮かんでいた。貧しい暮らしから脱出できたと思って捨て去った家にこれからまた向かう。わたしは凋落した自分の身を憐れみながら、電車の揺れに身を任せ、辛抱強く各駅停車の電車に乗り続けた。


 優雅さはより華やかさを増すことはあっても、不思議な事に貧しさというのは変わることはなかった。実際により貧しくなっているのかもしれないが、貧しいという事実は下限を示す意義がないのだろうか、母の住むアパートがボロボロであることに何の変化もなかった。

 わたしは自分から「貧乏はイヤ!」といって飛び出してきた部屋のドアをノックした。出てきたのは、老婆になり果てた母であった。母はわたしを見ると何も言うことなく部屋の中に入れてくれる。部屋は時間が止まったかのように何も変わってなかった。住んでいる母だけが時計の針を進められていて、先が割れている急須や傾いてガタガタなテーブル、いつ掃除したのかわからない電灯はすべてわたしの知っているままの状態だった。

「おかえり。寒かったでしょう」

 母は出て行った数年前の頃と何も変わらぬ口調でわたしを炬燵に招き入れた。わたしは彼から与えらえたミンクのコートを脱いで炬燵に入った。無様な程に汚れている畳の上に置いたコートが、この部屋をとても痛々しく感じさせた。


 それからも母は何も言わず、お茶を入れて黙っていてくれた。地デジ対応テレビすら買えない生活で、ブラウン管のテレビが機能を果たせないことを申し訳なさそうにしている中、母は皺だらけの手で湯呑み茶碗を掴んで飲むだけで黙ったままであった。ただ静かに、時間が流れていった。

 わたしは、そんなあちらこちらが欠けている湯呑み茶碗を持っている母に、「夢の特急電車に乗る事ができたと思っていたの」と言った。母には何の事であるのかはわからないだろうけど、何を言いたいのかはわかっていたと思う。それでも、ただ黙ってお茶を飲んでいた。

「分相応に各駅停車に乗って、ひと駅ひと駅、慎重に乗り降りすればよかったのかもしれない。だけど、目の前にあまりにも眩しい電車がやってきてしまったの。考える前に飛び乗ってしまった。行き先もわからないのに」

 役立たずのテレビの上にはインスタントコーヒーの瓶があった。おそらくほとんど飲んでいないのだろう。消費期限すら怪しく、湿気っているだろう古いものだ。

「コーヒーの方がよかったかい?」

 母はわたしの目線を追っかけていた。わたしはそれに返事をすることなく、自分の飲み干した湯呑み茶碗に、湿気ってもはやになっているコーヒーの粉を入れてお湯を注いだ。そして、その苦々しい味に安直な自分の愚かさを重ねながらも、あの上質なケーキと一緒に飲めばこんな泥のようなコーヒーでも、と、まだ未練を感じているさらに愚かしい自分に涙して、母に縋りついたのであった。

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