第7話 最終回
辺りはしんと静まりかえっている。
遠くで犬の鳴き声がした。
風が吹くと、竹が揺れる乾いた音が流れていく。
さっきまで見えていたおたかの横顔が、後ろの闇と見分けがつかなくなった。
「行くぞ」
もたれていた竹から体を起こして、銀次は声をあげた。
もう、上野山下の小屋には戻れない。この江戸のどこか。いや、もっと遠い場所に行かなければならない。
竹薮を出ると、いくらか目が慣れた。闇に沈んだ町屋の軒先も、火事のあと広げられた広小路も、闇の濃淡の見分けがつく。
どこからか寄って来た野良犬を追い払いながら、銀次は町屋のはずれへはずれへと向かった。おたかは銀次に手を引かれるまま、黙って後ろについてくる。
前から提灯の火が揺れて近づいてくるのが見えた。咄嗟におたかの手を引っ張り、建物の影にしゃがんだ。提灯の火は、お店者らしい男が持ったもので、銀次たちの前を千鳥足で過ぎていく。ほっと胸を撫で下ろし、銀次はまた闇の中に立った。提灯の火は、闇の中でだんだん小さくなっていく。
また、逃げてるんだな。
銀次は思った。
この前は火から逃げていたが、今夜はおたかを追ってくる盗っ人たちから逃げている。
あの日と同じように、どこへ行くあても何をしていくあてもない。
いつのまにか町屋は途切れ、足元は草が増え、畑の中の一本道になった。顔をあげて空を仰ぐと、星がいっぱいに瞬いていた。黒い幕に、たくさんの蛍を放したかのようだ。
そんな空を眺めていると、このまま消えてしまってもいい。そんなふうに思った。
夜空を仰いで、こんな気持ちになったのはじめてだ。
おたかが不安そうに体を寄せてきた。
「どうしたんだよぉ」
おたかの頭は、ちょうど銀次の肩あたりだ。おたかは銀次の袖をしっかり握っている。親にすがる子供のような懸命さだ。
銀次は歩き出した。江戸を出る前に、湯島へ行こうと思った。駒吉に渡すものがあると言われたからでもあったが、それだけではなかった。
もう、江戸には戻れないだろう。そう思うと、最後におしなに会っておきたかった。未練があって会いたいと思うのじゃなかった。会って、駒吉の思いを伝えてやりたかった。
畑を過ぎて藪を抜けると、また町屋になった。
そろそろ丑の刻が過ぎたあたりか。 闇はいっそう深さを増している。
武家屋敷の塀が片側に続くひっそりとした道を進み、上野の山に沿って不忍池を目指した。池のすぐ向こうは、もう、湯島天神である。
懐かしい町に近づくにつれて、銀次は落ち着かなくなった。胸の奥がザワつくような、奇妙な心持ちがする。
聞えてくるのだ。木を削る音や、親方の怒鳴り声。俯いて木に鉋をかけていると聞えてきた物売りの声や、ヤツデの葉の茂る横で、井戸の水を汲んだときの音。兄貴分たちの笑い声が、いっぺんに聞えてくる。
気がつくと、天神下の仕事場に来ていた。
いつのまにか出た月が、辺りを淡く照らしている。更地になった仕事場には、焼け残った柱や所帯道具が転がっている。
倒れた黒い柱の傍らに、銀次はしゃがみこんだ。
しんと静まりかえった焼跡には、もう、何もない。そんなことは、わかっていたことだ。
銀次は立ち上がって、魚屋のあったあたりに目を凝らした。駒吉が言ったように、更地が続く中で、そこだけ小さな小屋が建っている。
粗末な小屋だが、人が暮らしている
銀次は入口の板を叩きながら、声をあげた。
しばらくすると、板が細く開けられ、暗闇の中に人の影が立った。
銀次が名前を告げると、板が大きく開けられた。
「おめえさんは、指物師のところの――」
出てきたのは、魚屋の親爺だった。
「駒吉のことを知らせに来たんだ」
そう言ったとき、親爺の後ろから、影が躍り出た。
おしなだった。
おしなの顔には、いつか見た駒吉と同じものが浮かんでいた。嬉しさよりも戸惑いが勝っている。
おしなは銀次が死んだと見切りをつけて、新しい暮らしをはじめている。銀次にはそれがわかった。
「――おしな、おいらは」
そう言ったとき、後ろにいたおたかが銀次の袖を引いた。銀次はおたかを振り返った。おたかは食い入るような目で銀次を見上げている。
ぽいと捨てるわけには、いかない。
村を出るとき、おたかかが道々捨ててきたかたばみの花のように、ぽいと捨ててしまうわけにはいかないんだ――。
銀次はおたかの手を強く握ってから、おしなに顔を戻した。
そろそろ夜が明ける。白んできた空の光が、おしなのさびしそうな目や、痩せたうなじを浮かびあがらせた。
銀次はこみ上げたものをごまかすために、小さく咳払いをした。
「駒吉はおめえさんのために、悪いやつの手下になっちまったらしくてな。しばらく戻れねえ」
えっと、おしなは声をあげ、両手で口をふさいだ。目から大粒の涙がこぼれた。
「それじゃあ、伝えたぜ」
踵を返そうとした銀次に、親爺が声をかけた。
「ちょっと待ってくれ。駒吉から預かったもんがある」
そういえば、駒吉は別れ際、魚屋の親爺に預けたものがあると言っていた。
「誰かが尋ねてきたら渡してくれと言われたが、まさかおめえさんだとは思わなかった」
親爺が家の中から持ち出してきたのは、長さが八寸ほどの大きさの古びた木箱だった。
「何が入ってるんだか知らねえが」
そう言われながら箱を受け取った銀次は、箱を開けて目を瞠った。
「――これは」
箱の中には、鑿や鉋が入っていた。駒吉といっしょに出かけていった古道具屋にあったものだ。
「おめえさんは、いい腕だったものなあ。きっと立派な指物師に――」
道具箱を覗き込んでそう言う親爺の声を振り切り、銀次はおたかの手を引っ張ると、小屋を離れた。何かわけのわからない思いが、胸に溢れてくる。
もう一度、もう一度。
知らず知らず呟きながら、銀次はしっかり箱を抱えて、真っ直ぐ前を見て歩き続けた。
待ってくれよぉと、おたかが小走りでついてきた。
朝日が昇りはじめている。
了
かたばみ popurinn @popurinn
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