第2話 無敗の剣聖と最弱少女

     第一章 無敗の剣聖と最弱少女


     1


 ここは四方を山々に囲まれた農村メリーローズ。

 異変を告げる鐘の音が、けたたましく鳴り響く。


 辺りを夕闇が覆い始めた頃、突如として現れた”異形”に、人々は悲鳴を上げ、逃げ惑う。

 その異形は、かつては人間だった存在だ。しかし人としての面影はほとんど残っていない。背丈はおおよそ二メートル、眼球は突き出て、額には角を生やし、剥き出しの牙からはよだれが滴り落ちている。全身は紫色の鱗で覆われ、もはや怪物としてのそれを呈し始めていた。

 

 異形はまるで何かに取り憑かれたかのようにひたすら暴虐の限りを尽くし、破壊された家屋や花壇の残骸があちこちに散乱していた。

 村の人たちが大切に育ててきたであろう花々は見るも無惨にぐちゃぐちゃに踏み荒らされている。

 もはや人間としての心はほとんど持ち合わせていないことは明白だ。


 やがて異形は修道院の前で動きをぴたりと止めた。

 そして窓に映し出された自身の形相をまじまじと見つめる。


「――――――――――――っ!!??」


 ひどく戸惑ったような素振りを見せる異形。

 そこにいたのは人としての面影が失われ、怪物へと変化しゆく自分自身だった。

 元からそうだったのか、それとも”ある時点”からそうなってしまったのか、記憶が酷く混濁していて思い出せない。

 わずかに残っていた理性が、これは自分じゃない、こんな最低なこと自分にできるはずがない、と必死に自分に言い聞かす。


「うごぉあああぁぁぁぁ!!!!」

 空に向かって叫ぶ。

 もやもやとしたイメージが脳裏に流れ込んでくる。

 それが何であるのかははっきりと分からないけど、この気持ちを一人でも多くの人に伝えなければならない。そう急かされているような気がした。

 視線を下に向けると、小さな女の子が体を震わせながら立っていた。

「ぐおぉぉぉぉおおお!!」

 威嚇するように咆哮を上げると、少女のツインテールがその風圧で揺れた。

 少女はただ小刻みに震えるばかりで一向に逃げる素振りは見せない。恐怖で身動きが取れなくなったか。

 ちょうどいい、まずはこの子に伝えよう。

 異形は少女の体を抱えようと腕を伸ばす――そのときだった。


「待て」


 誰かが立ちはだかった。

 片目を覆う前髪、切れ長の双眸、痩身ながら盛り上がった筋肉。さぞ武術の腕の立つであろう風貌の青年だ。

 異形は思う。なぜだろう、この男の人をよく知っている気がすると。

「あろうことか教え子がこんなことになってしまうとはな。……俺の教育が行き届いていなかったか、”レイチェル”」

 そう言って青年は拳の先を異形に向けると、そこに白く輝く光の刃が顕現された。

「…………」

 これは危険だ。自らの使命が断たれる。本能がそう警告を発している。

 慌てて背中を向けると、そこにも同じように白い刃を携えた人が立っていた。今度は女性だ。

「観念しなさい、レイチェル。君がこんなことになってしまって、私は非常に悲しい……っ!」

 腰まである黒髪を靡かせながら言う。目つきは険しいが、さきほどの青年のそれと比べたらそこまでじゃない。

 異形は激しく混乱している。この二人のことはよく知っている。なのに思い出せない。意味が分からない。思考がはちきれそうだ。

 異形はたまらず頭を抱え、その場にうずくまる。

「ほっとしたぜ。まだこいつは完全に怪物には成り切れていない。……今なら"取り戻せる"」

「そのようね」

「じゃあ、行くぜ」

「ええ!」

 異形が顔を上げたときには、正面から、背中から、同時に貫かれていた。


「――――――――――――」


 視界にあるもの全てが、ぼやけて、形を崩していって、やがて視野全体が真っ白に染まる。

 その中心に煌々とした煌めきが見えた。

 煌めきの中には、人がいるようだ。しかしその姿は、ぼんやりとしていてよく分からない。


「また失敗しちゃったね」

 遠い昔、どこかで会っている、そんな気がする。


「私の名前はディアドラ。ビクイルの民の想いを継ぐ者よ。君と会うのはこれが二度目かな。私の想いがいつか世界中の人たちに伝わってくれると信じているわ……」


 そして、輝きは弾けて消えた。

 虚無だけが残った。


     2


「ん……」

 瞳を開けると広々とした天井が目に入った。開け放しの窓から月の明かりが差し込んでいる。そして背中にはふかふかとした感触。

「やっと目を覚ましたか」

 突如として聞こえてきた声に驚いて顔を横に向けると、そこには腕を組み自分を見下ろすカイ教官の姿があった。黒づくめの衣服に身を包み、背中のマントと長めの前髪が夜風に吹かれて揺れている。

「あたしは一体……」

 上体を起こし、額に手を置く。その一連の動作だけで全身がずきずきと痛んだ。

「レイチェル……、本当に何も思い出せないのか?」

 眉間に皺を寄せ、怪訝な目つきで見つめてくるカイ。

 何か大変なことをやらかしてしまったような気がするが、まるで夢でも見ていたかのように記憶は朧げだ。

「昨夜、お前は”異形化”したんだ。そのちんちくりんの体が二メートルほどの大きさまで巨大化して、人間の所業とは思えないことをやらかした」

 カイが自分を見つめる目つきは険しい。

「あたしは……」

 拡散していた記憶の断片が結合され、あのときの光景が思い起こされる。

 恐怖におののき逃げ惑う人々。倒壊した煉瓦造りの家屋。見るも無惨に踏み荒らされた花々。それだけでは飽き足らずか、小さな女の子まで手にかけようとしたこと。

「あたしは何てことを……」

 レイチェルはうなだれる。腰まである栗色のポニーテールが、ばさっと布団に落ちた。

 異形(ファンタズマ)――それは"瘴気"に呑まれた者が最後に行き着く成れの果てだ。

「あたしは、殺してしまったの……? その子を?」

 おもむろに顔を上げるレイチェル。

「そうなる前に俺が止めた」

 レイチェルは、ほっとして胸をなで下ろした。どうやら人として超えてはならない一線は保たれたようだ。

「だけど、レイチェル。お前が心を強く持っていなかったせいで、このような深刻な事態を招いてしまったことは事実だ。”福音騎士”の卵としてあるまじき失態だ」

「…………」

 レイチェルは何も言葉が出てこなかった。カイ教官の言っていることは、あまりにも正鵠を射ていた。

 福音騎士の使命、それはこの世に蔓延する瘴気を断つことだ。

 不幸を運ぶ運気である《瘴気》は、人が抱える悲しみとか絶望といった負の情念に引き寄せられ一カ所に集う性質がある。そして長時間それに晒されて心の隙を突かれ体内に入り込まれてしまうと、そこから徐々に浸食が始まり、やがては《異形(ファンタズマ)》と言われる怪物へと変化してしまう。

 そう、昨夕のレイチェルのように。

 奇しくもファンタズマと化してしまった人を救うこともまた福音騎士の重大な使命の一つだ。

「ディアドラ……ビクイル……」

 気がつけばレイチェルは口走っていた。

「何だそれは?」

 カイ教官は訝しげな顔をする。

「いえ、何でもないわ……」

 どうしてそんな言葉が不意に口を突いて出たのか分からない。

 初めて口にする言葉のはずなのに、とても懐かしい響きのような気がした。


 まだレイチェルは正規の福音騎士ではない。騎士学校に通う福音騎士の卵だ。昨夜のレイチェルの異形化は、実地訓練でメリーローズに滞在していた最中に起きた事故だった。

 実地訓練で課される課題は至ってシンプルで、教官の指導の下で瘴気を断つというものだ。場合によっては、瘴気の大元となる存在――《CURSE》と対峙することもあり得る。

「……メリーローズに発生した《CURSE》は突き止めることはできたんですか?」

 おそるおそるレイチェルは訊ねる。

「お前のせいでそれどころじゃなかった」

「ごめんなさい……」

 もはや頭を垂れるしかなかった。

「過ぎてしまったことをくよくよ悩んでもしょうがない。これからは心を頑強に保つよう精進するんだな。じゃあ俺は、主任教官と話をしてくるから」

 そう言うと、カイ教官はマントを翻して去っていく。

「ちょ、ちょっと待ってっ! 話をしてくるって……」

 カイ教官は足を止め、振り返らずに言う。

「大体想像はつくだろ。カミラ主任と今後についての相談だ。さすがにもう俺の手には負えないんじゃないかって呆れてたぜ」

 ぴしゃりと音を立てて、扉が閉まる。

「はぁ……」

 レイチェルは深いため息をつく。

 見限られるのも尤もだ。それだけのことをしてしまったのだ。どんな処分が下ろうと、甘んじて受け入れるつもりだ。レイチェルはもう一度深いため息をついて、虚空を仰いだ。


「”ミルフィ”……でも、あたしは頑張るよ。あたしはまだまだ大丈夫だから……」


     ◇◇◇


 少々口調が厳しくなりすぎてしまったかもしれない。

 A棟へと至る渡り廊下を歩きながら、俺は反省する。

 今まで数多くの生徒を受け持ち、どこに出しても恥ずかしくない一端の福音騎士として育て上げてきたが、こんなに出来の悪い生徒は初めてだ。

 なのに一向に見捨てることができないのは、もしかしたらレイチェルに、亡き妹の面影を重ね合わせているせいかもしれない。

 常にひたむきで、何度失敗しても目標を見失うことなく、福音騎士を目指し続けた、俺の妹。


『わたくし、頑張りますから! 何度でも立ち上がって、おにーさまのように強くなりますからっ!』


「……やめよう。思い出すと辛くなる」

 夜も深まり、すれ違う人はほとんどいない。

 ここは中央大陸エルドラード北西に位置する湖畔の街、レイクダウン。その北部に《アリアンロッド福音騎士団》の拠点の一つが設けられている。

 レイクダウン支部は二つの棟から成り、A棟が宿舎、B棟が訓練用の施設となっている。

 福音騎士の使命は人々を瘴気による被害から守ることなので世界各地にこのような拠点がある。そして一部の拠点においては騎士学校の生徒たちが実地訓練に赴く際のベースとしても活用されている。

「それにしても気になるな……」

 歩きながら、俺は思考を巡らせる。

 今から四時間ほど前、レイチェルが異形化から解放されると同時に、それまでメリーローズに蔓延していた瘴気は忽然と消失してしまった。

 瘴気には人の負の情念に引き寄せられて集う性質がある以上、それが異常なほどの濃度で発生した場合、必ずその大元となる存在CURSEが存在する。

 考えられる理由は二つだ。《CURSE》が人知れず姿を消したか、《CURSE》が抱える負の情念が何らかの形で昇華されたか。いずれにせよ《CURSE》の正体が掴めない以上、警戒を怠るわけにはいかない。


 突然、山間の農村を覆い始めた瘴気。レイチェルは今にも瘴気に呑まれようとしている人たちを救うべく、俺の制止を吹っ切って先へと進んでしまった。結果として《ハートブラスター》をへし折られてしまい異形化。

 ハートブラスター、それは法術によって具現化された刃だ。心の強さをそのまま反映する。一度、それが折れてしまえば回復にはしばらく時間がかかる。つまり今のレイチェルは使い物にならない。


 気がつけば、主任教官であるカミラの部屋の前まで来ていた。

「さて、と」

 俺は右拳で胸をトンと叩き、覚悟を決める。

 言う言葉は決まっている。

「あいつに、もう一度だけチャンスをください」

 何回その台詞を口にしてきたことだろう。

 さすがに俺とて、呆れかえる。

 本当ならとっくに見切りを告げられて退学勧告が下りているところを、こうして何度も俺が阻止してきたのだ。

「はぁ……」

 深いため息。

 きっと今回ばかりは三、四時間程度の嫌味では済まないだろう。

 俺は意を決して、扉をノックした――。


     3


 B棟。地下一階。

 まだ夜も明けきっていない、かわたれ時から俺は自身の肉体を鍛えるため、誰もいないトレーニングルームの鉄棒にぶら下がっていた。

「28……29……」

 上腕二等筋に力を込め、一心不乱に懸垂を繰り返す。

「……強い心を持て……強い心は強い肉体に宿る」

 もしあのとき、もう少し早く敵を蹴散らすことができていたら、リリサ……俺の妹は……。

「よう」

「……あ、」

 背後から聞こえてきた声に腕の力が抜け、垂直落下。尻餅をついてしまう。

「朝から頑張るねぇ、お前さんは」

 声の主はサイラスだった。

 逆立った金色の短髪。誰からも頼りにされそうな逞しげな顔つきで、絵に描いたような好青年だ。

「どうした? 何か用か?」

 俺は立ち上がりながら訊ねる。

「用ってほどでもないんだけどさ」

 サイラスは、俺の知己であり、数多くの修羅場を共に潜り抜けてきた"元"相棒でもある。歳も俺と同じ25歳だ。

「ちょいとばかり込み入った話があるんだけど、いいか?」

 サイラスに促され外に出て、噴水前のベンチに腰を下ろした。

 季節は初夏を迎えたばかりだ。湖の彼方にそびえる山々の尾根からは太陽が半分ほど顔を出し、街は光と闇のコントラストで彩られている。朝の澄んだ空気と相まって、実に幻想的な光景だ。

 サイラスは「ふぅ」とため息を吐くと、いつになく真剣な眼差しで俺を見た。

「これまであえて何も言わなかったが、今回だけは言わせてもらうぜ?」

 俺は無言で頷く。

「お前の受け持っている女子生徒……レイチェルに関してだ。いい加減そろそろ見限ったらどうだ? あれはどう見ても素質ゼロだぜ? どんな落ちこぼれだって、2年生のこの時期で《ハートブラスター》をまともに使いこなせないというのは前代未聞だ。……まるで、"あいつ"みたいじゃないか。あいつの最期は悔やんでも悔やみきれないぜ……。だからさ、あいつのような犠牲を出さないためにも、時には厳しく突き放すことも大切なんじゃないか? 若ければ若いほどやり直しもきくんだからさ」

 確かにサイラスの言っていることは、ぐうの音も出ないほどの正論だ。しかし俺としては胸の奥でつっかえるものがあった。

「そうは言うけどな……。少しずつではあるが、着実に前進しているんだ。やる気のある生徒を放り出すのは、俺の信条に背く」

 昨夜、カミラ主任の部屋を訪れた俺は、予想していた通り四時間超にも渡る嫌味をねちねちと聞かされることとなり、今回の実地訓練において実のある成果を上げることを条件に、どうにか退学勧告を免れたのであった。ちなみに昨夜の災害を招いてしまった責任として、俺は一年間の減俸70%の処分となった。

「やっぱり、あいつ……"リリサ"の面影をあいつに重ねているのか?」

 そう言われて、心臓を鷲掴みにされたような気になった。……やはりサイラスの目は誤魔化せなかったか。

「さて、どうだかな」

 俺は立ち上がる。

「これからレイチェルとトレーニングルームで落ち合う約束なんだ。筋肉が悲鳴を上げるほど、しごいてやらないとな」

 俺が背中を向けると、サイラスが、ぼそっと言った。

「《無敗の剣聖》」

「…………」

 とっくの昔に捨て去ってしまった異名だ。

「あの頃のお前は、どのような戦局であろうと、迫り来る異形を次々に斬り倒して、ただの一度も負け知らず。足手まといの仲間は容赦なく置き去りにして、いつも最終的には一人で《ハートブラスター》を振り回していたよな。唯一お前が見放さなかったのが、お前の妹、リリサだけだ。やっぱりお前は……」

「やめろ。それ以上は言うな」

 サイラスは口を閉ざす。

 リリサが死んだあの日、俺は《無敗の剣聖》で在ることをやめた。リリサと親しくしていたサイラスもまた福音騎士として在ることをやめ、二人して各地をあてもなく旅して回ったあと、ついに路銀がつきて、騎士学校の門戸を叩き、教官として転向することになったのだ。共に22歳のときだった。

「で、どうするんだ? いくらお前が温情をかけてやっても、そろそろカミラが痺れを切らす頃だろ?」

「分かってる。だから、さっさとあいつを鍛え上げて、成果を出させてやらなきゃいけないんだ」

 サイラスは嘆息すると、

「……そうか。それなら俺はもう何も言わないさ。それとな、まだ確定事項ではないんだが、"ハーデス"が復活したとの話を耳にしている」

「ハーデス……」

 それは、最強最悪の《CURSE》とも言える存在。

「俺はもう福音騎士ではない。俺はもう戦わないし、戦えない」

 そう言って俺は足早にトレーニングルームへと戻った。


「遅い……です……っ!」

 トレーニングルームに入った俺がまず目にしたのは、逆手で鉄棒を握りしめ、歯を食いしばり、体を持ち上げたレイチェルの姿だった。

 腰まである栗色のポニーテール。円らでやや吊り上がった猫目には一途な意地らしさを感じさせる。丸めの輪郭と相まって、気性の荒いメス猫のようだ。

「カイ教官が来ないから、あたし一人で……あっ……」

 力つきて地面に尻餅をつく。

「四回しかできなかった……」

 腰をさすりながらレイチェルは言う。

「まだまだだな。懸垂はもういいから、次は腕立て伏せだ。インターバルを4回置いて、25回ずつ、計100回。さあ、取りかかれ」

「は、はいっ!」

 俺は長椅子に腰掛け、レイチェルに指示を送る。

 そんなこんなで約1時間。

 俺が示したメニューを一通りこなしたレイチェルは、申し訳なさそうに俺の隣に腰掛けてきた。

「あの……カイ教官……えっと……その……」

 数秒ほど間の悪い沈黙が続き、ようやくレイチェルは続きを切り出す。

「カミラ教官から聞きました。もしあたしが、今回の実地訓練で実のある成果を出せないようなら、退学だって……」

「そうみたいだな」

「カミラ教官、鬼のような形相だった」

 そう言って、レイチェルはぎこちない笑みを浮かべた。事の深刻さを身に染みて実感しているのだろう。

 レイチェルは俺をじっと見つめてくる。

「……どうしてカイ教官は、いつもあたしのことを庇ってくれるの? カミラ教官は、”どうせあの男のことだから、亡き妹に君を重ねているのよ”って言ってましたけど……」

 ……カミラにも悟られてたか。どうやら俺は隠し事をするのが苦手らしい。

「俺にも分からん。だけど、その通りかもしれんな。そっくりなんだよ。そのひたむきな姿勢がな」

「……どういうこと? 詳しく聞かせて?」

「……はぁ」

 こんな澄み切った瞳で凝視されれば素直に白状するしかあるまい。

 掻い摘んで説明することにする。

「俺とリリサは孤児院で育ったんだ。……俺の生まれ育った街は瘴気の発生と共に阿鼻叫喚の地獄絵図と化し、一日と持たずに全壊した。俺と妹はかろうじて福音騎士の人たちによって助けられて事なきを得たんだがな」

「あたしも同じ……。あたしも孤児院で育ったの。両親はいないわ」

「……そうだったのか?」

 初めて聞く話だった。

 今年の春にカミラから「この落ちこぼれを頼む」と、半ば一方的に個人指導を請け負わされてから、特に生い立ちについては探りを入れることはなかったが……。

「続き、聞かせて?」

 俺は頷く。

「……それで、15歳のときに、騎士学校に入校した。リリサもその一年後に騎士学校に入校したんだが、素質なしの烙印を押され、二年生の夏に退学宣告をくらってしまったんだ。しかしリリサは決して諦めようとしなかった。一端の福音騎士となって、自分たちのような悲しい境遇に見舞われる人たちがいない世界を作りたいという強い意志があった。

 18歳ではれて福音騎士となった俺は、リリサを従騎士として従える形で任務に就くことになった。従騎士に騎士学校の卒業資格は必要ないからな。

 俺は向かうところ敵なしで、いつしか《無敗の剣聖》なる異名で呼ばれるようになっていた。そんなこんなで、20歳になったばかりのときだ。サイラスと出会い、行動を共にするようになったのは。サイラスはリリサのことを妹のように可愛がっていたが、実はそれは建前で、密かにリリサに想いを寄せていたことを俺は知っている」

 レイチェルはくすりと笑う。

「そうなんだ。サイラス教官も、ちゃんと恋していたんだね」

 そう言うと、すぐに真顔に戻る。

「でも、悲しい恋……。決して結ばれることはないんだから……」

「……そうだな。悲恋にも程がある」

 俺は話を続ける。

「俺もサイラスも負け知らずだった。俺が《無敗の剣聖》に対して、サイラスは《常勝の王子》などと呼ばれ、その爽やかなルックスと相まってモテにモテまくっていた。あいにくサイラスはリリサしか眼中になかったようで、誰の告白も受け入れることはなかったがな。

 リリサは俺たちの指導のもと、着実に力をつけていった。《ハートブラスター》も使いこなせるようになったし、福音騎士としての素地は整ったと確信した。そういうわけで俺らのお墨付きと共に元いた騎士学校に復学を打診して、リリサは無事に復学を果たした。

 だが、三年への進級を迎えようとしていたそのとき、事件が起きた。遠征の際に立ち寄った街が突如として瘴気に包まれ、住民たちが次々と異形化していったんだ。その場にいた生徒も教官もすぐに対処に駆り出されることになった。リリサにとっては初めての実戦だった。隣町にいた俺とサイラスもすぐに駆けつけ、《CURSE》を撃破。ちなみにそのときの《CURSE》は、実地訓練で命を落としてしまった生徒の両親と姉だった……。3人も《CURSE》がいたから、撃破するのに相当な時間がかかってしまった……。結果として、街は全壊。教官の半数が戦闘不能に陥り、リリサを除く全員の生徒が異形と化す寸前まで疲弊していた」

「リリサを除くって……」

「そうだ。リリサは完全に異形化した。……俺らの見通しは甘かったんだ。リリサの《ハートブラスター》は粉々に砕け散ってしまっていた……。……騎士学校に復学させるには時期尚早だったんだ。

 レイチェルのときとは違い、異形化が進行し、”完全に”心を壊されてしまった個体は、元に戻すことが不可能なことは知っているよな?

 おそらくリリサは、目の前で起きている現実と、かつて生まれ育った街が壊されてゆく光景を重ねてしまったのだろう。リリサの心は完全に壊されてしまい、元に戻すことは不可能だった。

 俺とサイラスは、なくなくリリサを手にかけた……。

 そうだ。俺は、愛する妹を……リリサをこの手で殺したんだ。

 その日以来、俺とサイラスは福音騎士であることをやめた。それからまあ、紆余曲折あって、ここにきたってわけだ。

 正直に認めよう。俺はリリサの面影をお前に重ね合わせてるんだな、きっと」

「そんな過去が……」

 レイチェルは視線を落とした。

 不思議なことに全てを白状した今、胸のつっかえが取れたような気がした。もしかすると俺は、隠し事をしているという後ろめたさから、レイチェルに対して罪悪感めいたものを感じていたのかもしれない。

「俺からも聞かせてもらってもいいか? どうしてレイチェルはいつもそんなにひたむきでいられるんだ?」

 俺が問いかけると、レイチェルは少しばかり悲しげな顔を見せた。

「ミルフィ……あたしのかけがえのない友人と約束したから。いつか、メグ=メルを連れてこようって」

「なるほどな」

 リリサもかつて同じことを言っていた時期がある。


『おにーさま。今の私たちは不幸ですけど、孤児院を出たら、二人で福音騎士になって、みんなが幸せになれる時代を連れてきましょうね。メグ=メルは、すぐそこにありますっ!』


 遙か昔、幸運が誰にも平等に行き渡っていて、誰もが幸せでいられる時代があったという。その時代を、現代を生きる俺たちはメグ=メルと呼んでいる。もはや伝承でしか語られないそれが本当に存在していたのか、その信憑性自体に疑問を抱いている人も多いが。


「そんなもの、あるわけないでしょ?」

 声がして振り返ると、エントランスにカミラが腕組みをして立っていた。

 腰まであるさらさらの黒髪。普段は柔和な表情だが、有事となると途端に険しい表情となる。戦闘能力にはやや欠けるものの、教鞭を取っていた時期が長いということで、2年生を纏め上げる主任教官の地位にあるわけだが、歳は俺と同じだ。

「あのねぇ、現に今、この中央大陸だけでもどれだけの瘴気が蔓延していると思っているの? そんなこと、現実問題不可能よ」

 レイチェルは、かっと目を開いて立ち上がる。

「だけど遙か昔にはそんな時代があったって言われているじゃないですかっ! たとえどんなに時間がかかろうと連れてきてみせるわっ! このあたしが!」

 胸を張って言い切って見せるレイチェル。ああ、そういうところがリリサにそっくりだ。

「馬鹿を言うのはおよしなさい。文献一つ残っていないのよ。17歳にもなってそんな夢物語を本気で信じているなんて、笑いが出ちゃうわ」

 カミラは背中を向ける。

「……だけど、本気でそれを信じているなら、せいぜい頑張りなさい。そして、いつしか現実のものにしてみせることね」

「……はいっ!」

 レイチェルは元気よく頷く。

 カミラはフッと笑って、踵を返すが、思い立ったように振り返った。

「ところで、王都の貧民街区の駆除作戦は成功したから。元凶が発生すると思しき家屋を強襲して、今はもぬけの殻よ」

「……そうか」

「では私はこれで」

 カミラは今度こそ踵を返し去っていく。

「王都の貧民街区の駆除作戦……?」

 レイチェルが目を点にして訊ねてくる。

「…………」

 俺は敢えて何も語らなかった。

 俺が教えなくても、いつかは知ることだ。

 アリアンロッドのもう一つの特務。それは未然に不運を呼び込む因子を特定して、抹殺すること。

 つまり、罪なき人を殺すのだ。

 アリアンロッドに身も魂も捧げたはずの俺だが、どうしてもその思想にだけは賛同できなかった。

 しかし、世界のために、そういった汚れ仕事も必要と言われると何も返す言葉がなかった。

 ……これ以上考えるのはよそう。

 俺は平静を装って、レイチェルに視線を向ける。

「《ハートブラスター》の調子はどうだ? そろそろ全快しそうか?」

「……もうちょっとといったところかな」

 俺は腰を上げる。

「なら十分だ。さっさとメリーローズを襲った《CURSE》を突き止めるぞ」


 二人してサンドウィッチを頬張りながら、街道方面へと足を進める。

 北門まであともう少しといったところで、二人同時に空を仰いだ。

「レイチェル、分かってるな?」

 俺が呼びかけると、レイチェルは頷き、再び空を仰ぐ。

 俺は心の中で、カウントダウンを始める。

 一秒、二秒、三秒。

 レイチェルは視線を下げ、こちらを見た。

「できたわ!」

「遅いな。これぐらい一秒でやれ」

「ぷくーっ。昨日は五秒かかったんだから、ちょっとは褒めてくれてもいいのにっ」

 上目遣いで頬を膨らませるレイチェル。だいぶ首が苦しそうだ。レイチェルの背丈は150センチほどで同年代の女子と比べたらだいぶ小さい。実際、俺の肩ほどまでしかない。

「はいはい、よくやった」

 レイチェルの頭をぽんぽんとしてやる。

「……むにゅぅ……またそうやって子供扱いして……」

 とは言うものの、目を細め、頬は紅潮し、まるで母ネコに甘える子ネコさながらで、満更でもなさそうだ。

 さて、空には黒々とした尾が無数に描かれている。レイチェルも同じ光景を目にしているはずだ。

 これは瘴気を可視化する法術だ。瘴気の尾は円弧を描くように北の地平線の彼方へと延びている。尾が細ければ細いほどそこには瘴気が薄く、逆もまた然り。

「見た感じ、一番太いのは”マーベラス”よね。そこに昨日取り逃してしまった《CURSE》が息を潜めている可能性が高いわ。あたしたちはそこを目指すべきじゃない? 教官はどう思う?」

「特に異論はない」

「では、レッツゴーッ♪」

 レイチェルは拳を掲げると、軽快なノリで歩みを進めていく。

 こういうところが心許ないんだよな……。これから怨敵を討伐しにいくわけだから、せめてこういうときくらいはもう少しクールにあってほしいところだが、おそらく生まれ以ての気質なのだろうからどうしようもない。


 中央大陸エルドラードは、人が住む街や里は街道によって繋がっていて、それらを行き来する際には乗り合いの馬車を用いるのが一般的だ。

 夜が明けたばかりということもあり、街の最北に設けられた停留所に集まっている人はまだ5人だけだ。木製の立て看板には発着時刻が彫られており、それを確認する。マーベラス方面行きの馬車が出発するのは今から50分後だ。

「50分も待ってられないわぁ……」

 レイチェルは肩を落とす。俺もまったくもって同意見だ。

「よし、歩いていくぞ」

 レイチェルは目を見開く。

「えぇ? 地図だと、ここから10キロってなっているのに!?」

「たったの10キロなら1時間もあればいけるだろ」

「あたし、15分で1キロのペースなんだけど……」

「遅すぎる。それじゃあ有事のときに間に合わん。俺が現役の頃は、80キロにも及ぶ、ろくに整備もされていない山岳路を6時間足らずで駆け抜けたものだ。それも迫り来る異形(ファンタズマ)を蹴散らしながらな」

「超ベテランの教官とあたしを一緒にしないでよぉ……。でも、」

 レイチェルは背筋をぴんと張ると、

「あたしも晴れて一端の福音騎士となったら、それをこなさなきゃいけないんだよね! うん! わたし頑張るよ!」

 拳を固めて天高く突き上げてみせるレイチェル。

「よし、その意気だ」

 俺はレイチェルの頭を、ぽんぽんとしてやる。

「……だから子供扱いしないでよねって……もう……むにゃぁ……」

 恍惚な表情。

 ……なんだろう、癖になりそうだ。


 街の外に出ると、長閑な風景が続く。左手には切り立つ崖。右手には広大な草原が広がっている。時折、旅人の集団や巨大な革袋を背負った商人とすれ違うが、まだまだこの時間は人が少ない。

「……そういえば、《オグマ》がまた大暴れしたって本当? 王都の上級街区の人たち、全員、異形(ファンタズマ)にさせられちゃったとか……」

 早足で歩みを進めながらレイチェルが言う。

「ああ、本当みたいだな。今やあの街区は誰一人いなくなって、閑古鳥が鳴いているらしいぜ」

 結社オグマ――アリアンロッド福音騎士団が掲げる使命と同じくしながら、その手法を巡って事実上対立関係にある組織だ。

 この世には不幸を運ぶ運気である《瘴気》と、幸福を運ぶ運気である《覇気》の二つがある。

 《オグマ》の言い分としては、こうだ。覇気の総量は瘴気のそれと比べて格段と少なく、一カ所に覇気が集中してしまうと全ての人に均等に幸福が行き渡らなくなる。ならばと覇気が過度に偏在しているところを狙って瘴気を流し込むことで覇気を拡散させることが可能となる。

 覇気と瘴気はその性質ゆえ、互いに反発しあうことを利用しているのだ。

「確かに彼らが言っていることにも一理あると思うけど、やることがえげつないよねぇ……。さすがにあたしもちょっとついていけないわ」

「頭のネジが外れたような連中の集まりだからな。理解なんてしてやる必要はない」

 事実彼らの思想に共感を示す者は皆無といってよく、国から、世界から敵として見なされているのが現状だ。

「ねぇ、教官。もしあたしが福音騎士になって、地道に瘴気を断ち続けていけば、いつか、メグ=メルは訪れると思う?」

「理論的には訪れるはずだ。瘴気のないところには自ずと覇気が集まってくるはずだからな」

「うん。カミラ教官には一笑に付されちゃったけど、あたしは信じてる。必ずメグ=メルはやってくるって。”ミルフィ”との約束……絶対に叶えてみせる」

 そう言うレイチェルの眼差しは凛としていた。

「羨ましいな。そうやって夢を共有できる友がいるというのは」

 お世辞でも何でもない、率直な本心だった。俺に友人と言える存在はサイラスだけだが、あの日以来、お互い腫れ物を触る感じというか……。今や必要以上に口を聞くこともなく、ただの同僚と言っても差し支えない。

「へへっ。羨ましいでしょ?」

 レイチェルは、にこりと笑う。しかし、どこか儚げに空を仰いだ。

「だけど、”いる”って言うより、”いた”って言った方が適切かな」

「…………」

 俺は言葉に詰まる。それが意味するところは自明だった。

「うん。ミルフィは、もうこの世にいない。……世界にただ一人の、あたしのかけがえのない親友。夢を叶えたところでミルフィに伝えることはもうできないけど、それでもこの約束だけは果たさなければいけないの」

 俺は思った。俺にとってのリリサが、レイチェルにとってのミルフィなのかもしれないと。

 リリサも、いつかメグ=メルが訪れることを信じていた。

 俺はリリサを亡くしたとき、リリサの夢を代わりに叶えてあげようと思うことはなかった。もはや俺にそんな気力は残っていなかった。

 しかしレイチェルは違う。ミルフィを失ってもなお、夢を実現させようと必死に足掻いている。

 もしかしたらレイチェルは、実はまだ開花していないだけで並ならぬ才能を秘めているのかもしれない。

 俺は密かに意気込んだ。これから先、誰に何と言われようと、どんな邪魔が入ろうと、レイチェルを一端の福音騎士として育て上げてやろうと。


     4


 花の都マーベラスは実にカラフルで色彩に富んだ街だ。

 まるで一面の花畑の中に築かれた街と言っても過言ではないほど、視界には数多の種類の花々で溢れている。

「はぁ……はぁ……、ちょっと待ってよ、教官、疲れた……」

 レイチェルは花壇の煉瓦に腰を下ろし、ぜえぜえと深呼吸を繰り返している。

「なんだ、もうばてたのか?」

「いや、まだよ。まだまだやれる。でもちょっとだけ休ませて……」

 予定通り一時間でマーベラスに到着したはいいものの、最後の15分はほとんど駆け足だったからな。やや無茶だったかもしれない。しかしこれぐらいで悲鳴を上げていたら、とても福音騎士なんて務まらない。

 視線をやや上に向けると、一見サボテンと見間違うほどに肥大化した深緑色の蔦が教会の外壁を螺旋上に覆い、その先端は尾根に掲げられた十字架に絡みついている。

 俺も現役の頃に何度かここを訪れたが、何でもこの街に咲く花には魂が宿っていて、人々の希望や夢を肥やしに育つらしい。つまりここは比較的、覇気に恵まれているというわけだ。

 とは言え、今まさに大量の瘴気が流れ込んできていることは事実。早急に手を打たなければ、これらの覇気も拡散してしまうことだろう。

「……ん?」

 穏やかな風が吹いて視線を落とすと、レイチェルのすぐ後ろで一輪のユリの花が、まるで俺たちを歓迎するように左右に頭を揺らしていた。

 レイチェルもそれに気がついたようで、

「わ~っ。かわいい~っ」

 目をきらきら輝かせながら、ユリの花弁を撫でた。

 ユリの花はどこかうっとりとした様子で、レイチェルの肩へと茎を傾ける。

 なんだろう、こいつネコみたいだな。

 そんなことを思いながら、何の気なく空を仰いだ。

「…………」

 この街に充満する瘴気は徐々にその濃度を濃くしている。

「こんなに鮮やかで美麗な街なのに、今にも瘴気に覆われようとしているなんてなぁ……」

 しかしこれがこの世界の摂理だ。幸せと不幸せは常に隣同士。前線で活躍する福音騎士たちは気の休まる暇などないのが現状だ。しかも厄介なことに《オグマ》の連中によって、その摂理はかき乱されているときた。

「……ミルフィ?」

 突如とレイチェルが呟いた。レイチェルは、ついさっき俺たちが通ってきた道の方へと視線を向け、幽霊でも見たかのような表情で目をぱちくりとさせていた。

「ミルフィがどうかしたのか?」

「いたの、ミルフィが……」

 いや、そんなことがあるはずがない。ミルフィは故人のはずだ。

「人違いじゃないのか?」

「そんなわけない。あの子はミルフィ。間違いないわ」

 きっぱりと言い切る。俺は眉をひそめた。レイチェルは本気で言っているのだろうか?

「……疲れが溜まっているみたいだな。宿を取ろう」

 俺が背中を向けると、レイチェルは立ち上がり、俺の腰の裾をくいくいと引っ張った。

「ねえ、本当なの。信じて? ミルフィがいたの! 本当にいたのっ!」

 レイチェルは真剣な眼差しで俺に訴えかける。どうやらレイチェルはまだミルフィの死を乗り越えることができていないようだ。

「過去に囚われるのはもうやめろ。こういった心の隙を突いて、瘴気は入り込むんだ」

 まるで自分に言い聞かせるように、俺は言った。

「……でも」

 不服とばかりに頭を垂れるレイチェル。

「ほら、行くぞ」


 手頃な宿を見つけ、俺たちは手続きを済ませる。《CURSE》が見つかるまではここに滞在することになる。

 《CURSE》の正体は、人だったり獣だったり、はては信仰や呪術の対象となって強力な念が宿った偶像だったりと様々だ。

 宿のエントランスには四人の男から成る福音騎士のパーティが集っていた。いずれも俺が現役時代に関わったことのある顔ぶれだ。

 リーダーの男に訊ねてみる。

「久しぶりだな。《CURSE》を捕らえるために滞在しているのか?」

「うるせえよ。現役を退いたテメェには関係のない話だろ」

 リーダーがそう吐き捨てると、他の三人の顔ぶれもゴミを見るような目で俺を見て、嘲るように笑う。

「最愛の妹とやらを失って悲劇のヒーロー気取りの軟派な野郎は、せいぜいガキの世界で天下取って御山の大将でもやってろや。ひゃははははっ!」

 そう言って、リーダーの男が俺の胸をどついた。

「ちょっと! 何よ!! そんな言い方ないんじゃない!?」

 俺はあえて何も反応はしなかったが、レイチェルが俺の正面へと躍り出て、リーダーの男の胸ぐらを掴む。

「なんだよ、やるのか? チビガキ?」

 俺はレイチェルの肩に手を置いて、

「もういい。ムキになるな。体力の無駄遣いだ」

「む~っ」

 俺はレイチェルを引き連れ、この場を去った。

 階段を上りながら、レイチェルは荒々しげに言う。

「教官のこと見損なったっ! あんな風に言われて、何一つ言い返せないなんて!」

「あいつらは、俺のことを根に持ってるんだよ」

「根に持ってるって……」

「俺が現役だった頃は、常に勝つことしか考えてなかったからな。だから《無敗の剣聖》なる不本意な異名を取ることになったわけだ。……一度、あいつらと共同戦線を組んだことがある。だけどあいつらは、はっきり言って足手まといだったから、途中で退いてもらったんだ。あとで知った話だが、あのときの作戦の功績次第では奴らの出世もあり得たらしいな。俺にチャンスを潰されて、さぞ憤っていたな」

 話しながら三階の部屋の前まで来ると、レイチェルは足を止めた。

「そんなの完全に逆恨みじゃんっ! 力がないのが悪いのよ。悔しかったら、もっと強くなってみせればいいのにっ!」

 俺は苦笑する。

「他人事みたいに言うな。今のお前だって、いつ騎士学校を放校になってもおかしくないんだ」

「むぅ……。急に核心を突いたこと言わないでよ……」

 気まずそうにレイチェルは目線を反らす。

「強くなれ、レイチェル。そしていつの日か、俺を超えていけ」

 俺はレイチェルの頭に手を置く。

「大丈夫。お前ならやれるさ。きっと」

「……うん、頑張る……むにゃぁ……」

 レイチェルは目を細め、頬を紅潮させると、デレデレの表情になる。

 ……やっぱり癖になるな、これ。


 しばらく休息を取って、外に繰り出す。道行く福音騎士たちの動向をそれとなく観察してみるが、どうやらまだ《CURSE》の行方は掴めていないらしい。すれ違いざまに耳に入ってきた会話から、昨夜から複数のパーティがこの街に滞在していて、その理由は流れ込む膨大な瘴気を察知してのことだということを知った。ということは時期的に考えて、メリーローズに現れた《CURSE》と同一と見なしていいだろう。


 片っ端から住民に声をかけ、何か変わった様子はないかと訊ねてみるが、全員が首を横に振った。しかし瘴気は着実にその濃度を増し、今にも街全体を覆おうとしている。覇気が駆逐されるのも時間の問題で、絶対に《CURSE》がこの街のどこかにいるはずなのだ。可能性としては低いが、もし《CURSE》自身が異形ではないのなら、異形化する寸前でとどまっているのか、それとも念が込められた偶像か……。

 結局のところ、半日かけても手がかりを掴むことはできなかった。


「はぁ……」

 橋の欄干に背をもたれかかる俺たち。真下を流れる川は鮮やかな琥珀色に染まっている。

 俺たちの目の前を福音騎士の男女二人組のパーティが通り過ぎて行った。

「王都の貧民街区のクレアを討ち取ったのは俺なんだぜ!? いやぁ、散々抵抗されたけど、あのババアの心臓を穿ったときの感触は、爽快だったなー」

「しかしねぇ、何もしていない人を殺すというのは、わたしは抵抗あるわね……」

「何言ってんだ! こうすることで近いうちに発生するCURSEを未然に防ぐことができるんだ、合理的だろ! 孫娘を亡くした程度で瘴気を溜め込む方が悪いんだよ! 俺の方が正義なんだよ、正義!」

 レイチェルは、目をぱっちりと開く。その表情は蒼白している。

「……ねえ、教官、これってどういうこと? 何もしていない人を殺すって……」

「文字通り、そのまんまの意味だ」

「じゃあ福音騎士の使命って一体……」

 俺は嘆息して、自分の左胸に手を置く。

「……俺も分からないんだ。CURSEに成り得る可能性があるからといって、罪なき人を殺すことが正しいのか、間違っているのか……。実に情けない話だが、俺の中で未だに答えは出ていない」

「…………」

 レイチェルは何も答えない。いろいろと思うところがあるのだろう。

 無理もない。俺もその真実を知ったときはこんな感じだったからな。

 サイラスも最初は戸惑っていた様子を見せていたが、自ずと割り切ったようだ。

 そしてあいつは堂々と俺の前で言ってみせた。

「罪なき人を殺すことは世界の平穏を維持するためには致し方ない。お前ができないなら、俺がやる」と。

 俺は肯定も否定もしなかった。

 ……いや、本音を言えば否定したかったが、そのための言葉が見つからなかった。


 夕暮れが近い。

「宿に戻るか……」

 俺は気の抜けた声で言った。

「うん、そうだね。明日になれば何か動きがあるかもしれないし……」

「違う。勝負は夜だ」

「え? 夜?」

 レイチェルは目を丸くする。

「日中何も動きを見せないなら、考えられるとしたら夜だ。もしかしたらこの前みたいに夕闇に紛れて姿を現す可能性がある」



 一旦宿に引き返して日が沈むのを待つことにする。

 素泊まりなので、食事は外で済ませた。

 俺たちが滞在している部屋は二人用の相部屋だ。他の客室が全て埋まっていたので、なくなく同室と相成ったというわけである。

 レイチェルは特に気にしている素振りはないが、俺は無性にドキドキしてしまう……。特に背後で絹が擦れる音がしている今はもう心臓が飛び出そうになるほど……。

「いいよ」

 レイチェルの合図で振り返る。

 そこには私服姿のレイチェルが立っていた。半袖のピンクのブラウス。生地が薄いため、胸が強調されている。下は朱色のキュロットスカート。丈は短めで、白くて健康的な太ももが露わになっている。

「何、じろじろ見ているの……?」

 ジト目で俺を見つめてくるレイチェル。 

「い、いや、じろじろ見ていたわけでは……」

 慌てて目を反らす。

「教官ったら、やらし~っ! ……あ、もしかして、普段とは違うあたしの姿にドキドキしちゃった?」

 腰を屈め、俺を覗き込んでくるレイチェル。妙に色っぽい目つきだ。

「んなわけない! 俺はお前の指導教官だぞ! 教え子に欲情なんか……!」

「欲情しちゃったんだ……」

「……あ」

 しまったと思ったときには時すでに遅し。

「あたし、”ドキドキしちゃったんだ”って聞いただけで、”欲情しちゃったんだ”とまでは聞いていないよ?」

 小悪魔のように微笑むレイチェル。

「さて、準備が整ったなら行くぞ」

「あ、ごまかした」

「ごまかしてない。もう刻限だ」

 俺は足早に部屋を出る。


 さて、なぜわざわざレイチェルが私服に着替えたのかというと、規則によって、実習期間中における生徒の夜間の行動は禁止されているためだ。見つかると面倒なことになる。

 日付が変わるまで、あと一時間。夜の闇に沈んだ花の都は、昼間のときとは打って変わって薄気味悪い様相を呈している。すれ違う人も全くと言っていいほどいない。赤煉瓦の民家が立ち並ぶ路地を真っ直ぐに抜け、大通りへと至る曲がり角に差し掛かったときだった。一陣の冷たい風が吹いた。

 俺もレイチェルも息を合わせたように同じタイミングで立ち止まる。猛烈に嫌な予感がする。昨夕もこんなひんやりとした風が吹いたあと、膨大な瘴気が一気に流れ込んできたのだ。身構えたそのとき、

「ぐおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!」

 夜の静寂を切り裂くような雄叫びが響き渡る。

「ついに現れたな」

「うんっ!」

 姿を現したのは、案の定、異形(ファンタズマ)だった。頬はむくみ、眼球は突き出て、暗紫色へと変色した額を突き破って角の先端が顔を出している。幸いなことに、かろうじて人間の面影を残している。そう、昨夕のレイチェルのように。

「レイチェル。そろそろ《ハードブラスター》は完全に回復したか?」

「……うん。もう大丈夫だと思う」

「よし、じゃあやれ」

「……分かったわ」

 ハートブラスター。それは法術によって具現化された瘴気を断ち切るための刃。己の心の強さがそのまま刃の強度となる。刃が耐えきれず折れてしまったときは、心の一部が破壊されたことを意味する。すると断ち切ることに失敗した瘴気が、心の欠損部から一気に流れ込み、心全体が浸食されてしまうのだ。

 俺としては、今のレイチェルなら刃がへし折られることはないという見込みがあった。

「うおおおおおおおああああああぁぁぁ!!!!!!!!」

 異形(ファンタズマ)が吠える。レイチェルに狙いを定めたようだ。俺は一切手出しをしない。こいつはレイチェルが討ち取らなければいけない相手だ。

 レイチェルは、そっと相手に向かって呟いた。

「大丈夫。すぐに楽にしてあげるから。……行くわよ!」

 異形が飛びかかり、レイチェルの喉元に噛みつくその寸前。レイチェルの《ハードブラスター》が敵の心臓を貫いた。

 溢れ出た光が爆発するように広がっていく。辺り一帯が真っ白に染まり、やがて弾けるように拡散していった。

「やった!」

 レイチェルは歓喜の声を上げる。レイチェルにとって、これが初めての勝利だった。

 異形は元の人間の姿を取り戻していた。

「俺は……」

 目を見張る。なんとそいつは、宿のエントランスで俺に暴言をぶつけてきた男だった。異形化の際に服は破けてしまっているので、ほぼ全裸だ。おそらく夜な夜な《CURSE》を探しに出て、自らが瘴気に呑まれたか。

「ミイラ取りがミイラになるなんて、まだまだだな。精進しろ」

「くっ……」

 気まずそうに俺から目を反らす男。

「お礼は?」

 レイチェルが、にやにや笑いながら、男に詰め寄る。

「助けてあげたんだから、あたしにお礼を言いなさいよっ! この礼儀知らずっ!」

 男は悔しそうに顔をしかめると、

「……あ、ありがとな!」

 そう言って男は立ち上がり、おぼつかない足取りで去っていく。その背中を見送りながら、レイチェルはそっと言った。

「もしかしてだけど、意表をついて、実はあの男が《CURSE》でしたー、なんてことはある?」

「いや、それはまずあり得ない。《CURSE》は一度貫いたぐらいで人間に戻せるほど生易しい存在ではない」

「だよね……」

 これまで数え切れないほどの修羅場を掻い潜ってきたが、《CURSE》が相手の場合は往々にして激戦となることがほとんどだ。

 そして案の定、瘴気が収束する気配は一向にないので、やはり《CURSE》は他にいるということだ。

「行くぞ」

「う、うんっ」

 路地を曲がったそのとき。

「「……っ!!」」驚きが重なる。

 目に飛び込んできた光景は、まさに目を疑うものだった。視界を覆い尽くすように、禍々しい黒いもやが霧のように広がっている。街を彩る花々のほとんど全てが異形化し、その花冠には牙が剥き出しになっている。

「確か、マーベラスに咲く花には魂が宿っていて、人々の希望や夢を肥やしに成長するんだよね?」

「ああ。だから植物までもが異形(ファンタズマ)と化してしまったんだ」

 蔦が巻き付いていた教会の十字架は地面に落ち、真っ二つに割れてしまっている。

 頭上から、不穏なざわめき。

 住民が民家の窓から顔を出し、恐怖におののきながら様子を窺っていたた。

「レイチェル。ここは下がれ。俺が蹴散らす」

「で、でも……」

「今のお前にこれらの異形を全て元に戻すのは不可能だ。俺がやる」

「でもそれだと……」

 レイチェルが何を危惧しているのかは分かる。

「案ずるな。《CURSE》にトドメをさすのは、レイチェル、お前だ。俺はその下準備を整えるだけだ」

 最終的に《CURSE》を討ち取ったのがレイチェルでないと、レイチェルの成果にはならないからな。

 俺は一秒とかからず、《ハートブラスター》を顕現させる。と同時に、俺の斜め前に咲いていた花……いや、異形が茎を延ばし、甲高い声をあげて襲いかかってくる。

 俺は体を捻り、攻撃をかわすと、一気に花弁を貫く。敵は元の姿を取り戻し、しおれながら花弁を地面に垂らした。

 《ハートブラスター》で貫いたことでしばらくは俺の”心の強さ”が伝わっているはずだ。その効力が続いている間は再び異形化することはないだろうが、何しろこの濃度の瘴気だ。油断はできない。

 俺は素早い身のこなしで、次々に異形化した花々を貫いていく。

 実戦は実に3年ぶりだ。腕はだいぶ鈍ってはいるが、かつての感覚がすぐに蘇る。

 なぜだろうな……。俺はあの日以来戦わないことを決めたはずなのに、気がつけばこうして体が動いている。

 異変を告げる鐘の音が鳴り渡り、いつの間にか、滞在していた福音騎士のパーティが集まってきていた。しかし俺に加勢しようという気配は見られない。俺の動きが早すぎて、目に追えないのだろう。みんながみんな、目を見張って俺を見つめていた。

 歓声が上がる。住民が外に出てきて、俺にエールを送っていた。まったく、見せものじゃないっつーのに……。

 ざっと見て500体にも及ぶ異形を殲滅させるのに、5分とかからなかった。俺の体には傷一つついていない。

「すごい……すごいよっ! 教官!」

 レイチェルが駆け寄ってくる。しかし俺は表情を硬くしたままだ。まだ肝心の敵……《CURSE》が残っている。

 ほんの少しだけ、瘴気のもやが晴れていく。

「……まさかとは思っていたが」

 そこに現れた存在は、まさに目を疑うものだった。

 三メートルはあると思われる長身。血で染め上げたような真っ赤なローブを全身に纏い、背中には黒い翼を生やしている。顔の上半分は紅蓮の髪によって覆い隠され、赤黒い唇だけが露わになっている。

「嘘……でしょ……」

 レイチェルは目を見開く。

 俺の心臓がばくんと鳴った。幼き日の光景が俺の脳裏に呼び起こされる。


 《冥導の姫神ハーデス》。2000年前に突如として地上に姿を現し、その翼でいくつも大陸を渡り歩きながら各地に災厄をもたらしてきたとされる存在だ。一度ハーデスに目をつけられたら為すすべはなく、その一帯は黙って滅びを受け入れるしかないとまで言われる、忌まわしき幽鬼。

 そう、俺の故郷、ルーインのように。

 しかも、ハーデスは何度倒そうが、周期的に復活する。

 今回の《CURSE》は、ハーデスと見て間違いないだろう。


「どうするの……教官? 教官なら、あいつ……倒せるよね?」

 震え声でレイチェルが訊ねてくる。

「……」

 俺は頷くことができない。俺は福音騎士となってから、一度もあいつと相対したことはない。……それどころか、幼少期にあいつに襲われて、異形化しかけた過去がある。俺の脳裏にトラウマが再来する。

 ……くそ、身動き一つできない。この俺が……幾千もの修羅場をかい潜ってきたこの俺が……!!

 誰かが、「こいつはハーデスだ!」と叫んだ。すると、住民たちは悲鳴を上げ、こぞって逃げ出していく。ある人は荷物を抱え、ある人は子供を抱きしめ、またある人は付き添いの人に寄り添われながら、退散していく。

 ハーデスは翼を羽ばたかせる。ひときわ強い風が吹き、向かい風となって俺たちを押し出していく。腹筋に力を込め、どうにか持ちこたえるだけで精一杯だ。

 今ここでこいつを退けなければ、街が全壊してしまう。

 俺は全力を振り絞り、地面を蹴って駆け出す。向かい風の中を突き進み、ハーデスへと迫る。そして渾身の力をもって思いっきり跳躍して、ハーデスの心臓めがけて刃を繰り出した――。



 ――そこからは、どう戦ったのかよく覚えていない。とにかく、死にもの狂いで刃を振り回したことは確かだ。

 どれぐらい戦闘を続けていただろう。やがてハーデスは翼を羽ばたかせ、夜の闇に紛れて消えた。風が止み、大量の花びらが舞い落ちる。

 どこからか人々の安堵の声が聞こえてきた。間髪入れずに、歓声と拍手。

 俺は視線を下に落とす。

 そこには、一人の女の子が横たわっていた。意識を失っているようだ。

 ふわりとした金色の髪。ちょっと押せば壊れてしまいそうなほど華奢で、雪のように白い肌。純白のチュニックに身を包んでいる。

 まだ小さい。と言っても小さな子供というほどでもない。レイチェルより何歳か下といった程度だろう。汚れを知らない天使のような穏やかな顔で眠りについている。

「ミルフィ……?」

 レイチェルは女の子へと駆け寄っていく。

「ねえ、ミルフィ!? ミルフィだよね??」

 レイチェルは女の子の上体を起こし、肩を揺らす。しかし目を覚ます気配はない。

 この少女が、今朝レイチェルが目にしたというミルフィという子なんだろうか。だけど、ミルフィは故人のはずだ。わけがわからない。

 この少女がミルフィかどうかはともかくとして、おそらくハーデスに取り込まれていたのだろう。最後にハーデスを貫いたとき、確固な手応えはなかった。ということは、俺はハーデスを取り逃してしまったのだ。

 馬がいななき、福音騎士を乗せた馬車が到着する。カミラとサイラスが血相を変えて駆けつけてきた。俺は通り一遍の経緯を説明すると、女の子を背負って宿に引き返すことにした。


「夜間の外出は禁止だったはずだよな?」

 俺が女の子をベッドに寝かせ、振り返ると同時にサイラスが切り出した。

「ごめんなさい……」

 レイチェルは頭を下げる。続けてカミラが切り出す。

「しかし、聞くところによると異形化した福音騎士を君が救ったみたいじゃない? よくやったわ。これは立派な成果よ。やればできるじゃん」

「あ、ありがとうございます……っ!」

 レイチェルは、はにかんだ。

 俺はあくまで平静を保ったまま言う。

「で、レイチェルの失態はチャラにしてくれるか?」

「……そうね。これからのレイチェルの活躍に期待しようかしら。せいぜいこれからも、私に目をつけられないよう精進なさい」

「やったな。レイチェル」

「うんっ♪ ありがとっ、教官っ」

 レイチェルはポニーテールを揺らしながら、きゃっきゃと喜ぶ。しかしレイチェルの目線は少女の方を向いている。少女が気がかりなのだろう。

「……しかし、これから大変なことになるぜ?」

 サイラスが、険しい表情で口にした。俺も同感だ。

「だな。あのハーデスが復活したんだからな」

「まもなく福音騎士や義勇兵、傭兵から成る討伐隊が組織されるだろう。今回ばかりは俺も加わるつもりだ。カイ、お前はどうするんだ?」

「……俺は」

 俺は今や前線に立って戦うことを放棄した人間だ。

「俺はパスする。今の俺は……ただの教官だ」


 《冥導の姫神ハーデス》。2000年前、メグ=メルが終焉を迎えると同時に、どこからともなく姿を現したと言い伝えられている。

 過去幾度にも渡って討伐隊が組織され、そのたびに討たれてきたはずだったが、なぜか3~5年ほどの期間を置いて復活してしまう。事実、俺が現役だった頃にもそれは姿を現した。俺はリリサを守り切る自信がなかったから討伐隊には加わらなかったが……。

 現状ハーデスについて分かっていることは少なく、ベールに包まれた存在だ。ただ一つはっきりしていることは、ここ最近の瘴気の急激な広まりはハーデスが関係していると見て間違いないということ。

 俺らが追っていた《CURSE》は、このハーデスだったのだ。


 胸が焼けるように熱い。思い起こすはあの日の光景。

 エルドラードの遙か南に、ルーインという小さな村がある。……いや、あった。そこで俺は生まれ育った。15年前……俺が10歳の誕生日を迎えて間もない頃のことだった。突如として発生した瘴気に呑まれ、次々と異形(ファンタズマ)と化していく住民たち。俺の家族も例外ではなく、異形化した両親は幼き俺をまさにその毒牙にかけようとしていた。

 俺は満身創痍になりながらも、妹のリリサを連れてひたすら逃げた。村を離れて、ほっと一息ついたときだった。凄まじい瘴気が辺りを覆い始めた。

 このとき、初めて、ハーデスの姿を目にしたのだった。心臓が激しく高鳴った。恐怖と絶望で顔が青ざめ、体が硬直する。気がつけば、俺は腰を抜かしてしまっていた。


「じゃあな。俺らは行くから。時間があったら、朝また顔を出す」

 そう言って、サイラスは背中を向ける。

「明日中にでも、各地に散らばっている生徒たちを拠点に戻すわ。君たちはとりあえず夜が明けたら少女の両親を探しなさい。こういう草の根的な活動も、福音騎士の大切な任務よ」

 そしてカミラも踵を返して、部屋を出て行く。

 レイチェルは視線を少女に戻すと、優しく少女の頭を撫でた。

「ミルフィ……。あたし、嬉しいよ。こうしてまた会えるなんて……」

「…………」

 俺は何て言葉をかけてあげたらいいのか分からなかった。


    ◇◇◇


 時刻は二時を回った頃。カイ教官はイビキを立てて爆睡している。

「ああ、もううるさい!」

 耐え切れず、レイチェルはベッドから立ち上がると、窓から差し込む月明かりだけを頼りに窓際まで歩いていく。

 夜空には満月が輝いている。

「……この子はあまりにもミルフィに似ている」

 しかしどう考えたってミルフィであるはずがない。

 ――なぜならミルフィは三年前、自分の目の前で死んだはずなのだから。


 とある村の外れにそびえる小高い山の頂にその孤児院はあった。

 そこでレイチェルとミルフィは出会った。互いが一〇歳のときだった。

 二人とも”その時代”に現れたハーデスの襲来によって家族を失っていた。

 それからしばらくして討伐隊によって姫神は討たれたと聞いたが、安堵よりも家族と故郷を失ったことの悲しみの方が大きかった。

 孤児院の西に佇む井戸――そこがレイチェルの居場所だった。

 どうしてみんなはあんなに笑っていられるのだろう? あたしはこんなに辛いのに。悲しいのに。笑い方なんてもう忘れてしまったよ。頬をつたって涙が井戸へと滴り落ちる。水が弾ける音がしたそのときだった。

「………誰?」

 背後に気配を感じて振り返る。

 そこに立っていたのはレイチェルと同時期に孤児院に入所してきた少女だった。名前は思い出せない。

「そんなに泣いてたら、涙、枯れちゃうよ?」

 透き通った声。ブルーのつぶらな瞳。雪のように白い肌。金色の髪は胸の位置で内巻きにカールしている。

「わたしの名前はミルフィーユ。ミルフィって呼んで」

 ミルフィと名乗った少女はそっと手を差し出す。まるで暗闇の底へ落ちようとしているレイチェルを救い上げるように。

「お友達になろ?」

 これが、レイチェルとミルフィの出会いだった――。


     5


 夜が明けた。俺が目を覚ますと、すでにレイチェルは上体を起こし、隣に眠る少女の髪を撫でていた。

「ミルフィ、おはよう」

 そう口にしたレイチェルの眼差しは、実に穏やかだ。髪は結っていない。ストレートだった髪も、寝癖で乱れている。

 少女は、すうすうと寝息を立て、起きる気配はない。

 妙なことに未だに少女から”あれ”は消失していない。ただの”残り香”だと思っていたが……。

「レイチェル、あのな……」

 この子はミルフィによく似た別人だ。そう言おうとしたときだった。

「……!!」

 俺は咄嗟に身構える。

 頭上から轟音が轟き、天井の屋根の通気窓が破壊され、ガラス片が降ってきた。

「急襲か!!」

 俺はベッドから飛び下りて、即座に《ハートブラスター》を顕現させる。

 俺は刃を”物理使用”し、横に払った。風圧でガラス片を部屋の片隅へと吹き飛ばしたことで、直撃は免れた。その間、約2秒。

 レイチェルは俺にやや遅れて、困惑した様子で床に降り立つ。


 《ハートブラスター》には用途が二種類あって、普段俺たちがメインとしているのは”瘴気のみ”に作用するものだ。もう一つが、”物理使用”。その者の”心の強さ”と同等の殺傷能力をもち、異形化が進行し人間に戻すことが不可能となった異形を葬る際に使用する。


 床が揺れる。

「いたた……」

 レイチェルが呻いた。

 屋根を突き抜け、襲撃をしかけてきた謎の少女はレイチェルを下敷きにして倒れ込む。……が、何事もなかったかのように颯爽と立ち上がった。

「お騒がせしてごめんなさい。私の名前はシェリルと言います」

 肩の位置で切り揃えられた桃色の髪。赤い縁の眼鏡をかけている。歳はレイチェルと同じくらいだろう。やや丸みを帯びた童顔ではあるが、その眼差しからは内に秘めた凛々しい意志を感じられる。

「今日は折り入って頼みが――」

「帰れ」

 俺は一蹴した。

 レイチェルはおもむろに立ち上がり、乱れた髪を手櫛で整えながら言う。

「……教官、そんな言い方は……。せめて話だけでも聞いてあげた方が……」

「その必要はない。こいつは《オグマ》だ」

「え……」

 レイチェルは凝り固まる。

 桃髪の少女が着用しているウールのギャンベゾンには、向かい合う双頭の竜を意匠したエンブレムが施されている。《オグマ》に所属する戦闘員の証だ。

「帰れと言ってるだろ。痛い目見たくなかったら早く行け」

「嫌です。帰りません。単刀直入に告げます。この子をうちで預からせてください」

 シェリルはそう言って、ベッドで寝息を立てる少女を指さした。

「この子はルーの血を引いています」

「「……!!」」俺とレイチェルの驚きが重なる。

 ルーの血を引く者は《ドルイド》と呼称され、奇跡の力である”魔術”を行使することができる。

「……なるほどな。いきなり降下してきたのも、魔術とやらでテレポートしてきたのか」

「そういうことです。本当なら部屋の中にポンと現れるはずが、ちょっとだけ位置がずれてしまいました」

 さらりと言ってのける。

 どうやら、このシェリルとかいう少女はまだ魔術を完璧に使いこなせてはいないらしい。

 魔術とは、万物に宿るマナを消費することで世界の在り方そのものを変えてしまう恐ろしい力だ。マナのバランスが崩れると、その”淀み”に引き寄せられて瘴気が発生する。そうした摂理を逆手に取り、瘴気をものとし、歪んだ正義を執行しているのがオグマなわけだ。

 ちなみに俺たち普通の人間が訓練次第で会得可能な”法術”は、己の精神力を拠り所とする力だ。”目”を強化することで運気の流れを捉え、”心の強さ”を具現化して刃を形作る。つまり、自身のみに干渉可能な力が法術であることに対して、自身も含めて世界に干渉可能な力が魔術だ。

 遙か太古の昔に世界と契約したとされる始祖ルー。その血を引いていない者には、どう足掻いたって魔術を使うことはできない。

「私たちならこの子の力を最大限に活かすことができます。ですから――」

「嫌よ」

 レイチェルが、ぴしゃりと言い切った。

「ミルフィは渡さない」

「……それは、私が《オグマ》だからですか?」

 そう言ってシェリルは、ずり落ちてきた眼鏡を指でくいっと整える。サイズが合っていないようだ。

「相手が誰だろうが、答えは同じ。だって、ミルフィは、あたしの……」

 言い終える前に俺が告げる。

「そういうことだ。さっさと帰れ。さもなくば、斬る」

 シェリルは深く嘆息すると、

「分かりました。帰りましょう」

 シェリルは背中を向ける。

「この子が目を覚ましたら伝えてください。世間から疎まれて一生を過ごすより、私たちと共に”その授かりし血”をもって世界を変革する――そんな生き方もあるのだと」

 そう言ってシェリルは部屋から出て行った。

 ルーの血を引く存在ドルイドは世間から迫害されてきた歴史がある。それは、マナの均衡を崩し、瘴気を招く引き金となるためだ。

「……どうしてミルフィが、ルーの血を引いているって分かったのかな?」

 レイチェルは俺を見る。

「おそらくそれは、シェリルも《ドルイド》だからだ。その魔術とやらで、血を嗅ぎ分けているんだよ。同胞を探り当てては、手当たり次第に勧誘しているんだろう」

「そういうことなのね……」

 レイチェルと俺が同時に、少女へと目を向けたときだった。

「ここはどこ……?」

 少女が上体を起こし、辺りをきょろきょろと見渡していた。

「ミルフィ!」

 レイチェルが駆け寄っていってミルフィを抱きしめる。

「よかった! 目を覚ましたんだね!」

「……ミルフィ?」

 少女は顔をきょとんとさせる。

「自分の名前が分からないの?」

 少女は肯く。

「……分からない。自分がどこの誰なのか……どうして、ここにいるのか……」

「…………」

 レイチェルは絶句しているようだ。

「あのね、ミルフィは孤児院時代からのあたしの友人で、歳は同じ17歳。それでね――」

「もうやめろ。レイチェル」

 俺が言うと、レイチェルは口を噤む。

「よく見ろ。この子はレイチェルより、かなり小さい。本当にこの子がミルフィなら同じように年をとっていなければおかしいだろ? いい加減もう過去に囚われるのはよせ。この子はミルフィじゃないんだ。似ているだけの別人なんだよ」

 レイチェルは、はっとした様子で、

「……そうね。あたし……何考えてたんだろ……」

 脱力して頭を垂れた。

 俺は、昨日の夜に起きたことを少女に説明する。

「ハーデス……」

 少女は、その単語に反応した。

 少女は落ち着いた声で言う。

「分からないことだらけだけど、一つだけ分かるの。わたし、繋がってる……その人と……」

「……嘘でしょ? そんなことが……?」

「あり得ない話ではないな。この子はルーの血を引いている。シェリルが血を嗅ぎ分けてこの子を探り当てたように、ハーデスも仮にドルイドだとしたら、血を介して繋がったことも考えられるだろう」

 一連の不可解なハーデスの実態……突然姿を消したり現したりといったことは、今代のハーデスはドルイドで魔術を行使していたのだとすると合点がいく。

「ハーデスが無理矢理、君を結びつけたのか?」

「……分からない。でも、繋がってるの。心と心が」

 少女は視線を落とし、自分の胸に手を置く。そしてしばらくの間、じっとしていた。レイチェルは、かける言葉が見つからない様子だ。言葉を探るように、口を開けては閉じてを繰り返している。

 俺は、そっと切り出した。

「ハーデスと繋がった今、君はどんな状態なんだ?」

「ハーデスの考えていることが、もやもやとした感じで伝わってくるような感じ。今、分かるのは……ハーデスは、あっちの方へと向かっているみたい」

 少女が指さした先は、北の方角だ。

「きっと、そこにハーデスの望むものがあるから……」

「望むもの?」

 俺は目を丸くする。まさかハーデスにそんな感情があるなんて思ってもいなかった。意味もなく瘴気を振り撒き、人々に不幸と悲しみをもたらすためだけの存在と考えていたが……。


「なるほど、そういうことか」


 背後から聞こえてきた重々しい声。振り返ると、そこにはサイラスが立っていた。

「ならば、話は早い」

 サイラスは《ハートブラスター》を顕現させると、少女に迫りゆく。

「待って!」

 レイチェルが庇うように、間に立ち塞がった。

「……この子に何をするつもり?」

「決まってるだろ? こいつを殺すんだ。ハーデスと繋がってしまった? そんな危険な輩を看過するわけにはいかないじゃないか。カイ、お前もそう思うよな?」

 サイラスは俺に視線を送る。

 俺は、

「そうだな……」

 と気の抜けた声で言う。

「そういうわけだ。放置しておけば、こいつがハーデスに比肩し得る《CURSE》になりかねない。嘘だと思うなら”可視化”してみろ。今もわずかだが、瘴気がこいつから発せられている」

 サイラスの告げたことは事実だった。俺たちがこの子を保護してから、瘴気の渦がこの子を包んでいた。最初はハーデスに捕捉されていた際の残り香だと思っていたが、朝になっても消失することがないので、どうにも不可解だった。

「さあ、どけ」

「嫌よ」

 レイチェルは、きっとした目で言い放った。サイラスは困ったように言う。

「あのなぁ、お前も福音騎士の卵なら分かるだろ? 災厄の芽は、できるだけ早いうちに摘まなければいけないんだ。それが世界のためでもあるんだぞ?」

「世界のためって……」

 奥歯を噛みしめるレイチェル。

 俺は、そっと口を開く。

「レイチェル、これが《アリアンロッド》の在り方だ。多数を救うために少数を切り捨てる。引いてはそれが全体の幸福に繋がる。そういう大義のもとに、アリアンロッドは動いている」

 俺が福音騎士を退いた理由は、そういった現実に耐えられなくなったということもある。

 俺は、抗えなかった。

 俺は、このろくでもない現実にひれ伏せてしまったんだ。

 だけど、もしレイチェルなら……。


「決断のときだ、レイチェル。現実を受け入れ少女を切り捨てるか、現実に抗い続け、我が道を往くか。さあ、選べ」


「……あたしは……」

「俺は、お前の指導教官だ。どのような選択をしようとも、俺はお前を最後まで導いてみせる」

 レイチェルは、かっと目を見開き《ハートブラスター》を顕現し、サイラスに向ける。

「どいてください。サイラス教官。あたしは、この子を守るわ」

「……そうか。実に残念だ」

 サイラスは手に構えた《ハートブラスター》を振りかぶり、レイチェルに斬りかかろうとしたそのとき、俺の刃がそれを受け止めた。

「今だ、レイチェル! この子を連れて逃げろ!」

 レイチェルは少女を抱きしめると、

「ありがとう、教官!」

 足早に部屋を出て行った。俺は横目でレイチェルを見送ると、改めてサイラスと向かい合う。

 サイラスは、ふっと笑う。

「……まさかお前と果たしあうことになろうとはな。手加減はしないぜ? 《無敗の剣聖》」

「望むところだ。《常勝の王子》」


 ――刃と刃の激しい激突。全身全霊をかけた果たし合いだ。一瞬でも判断を誤れば死ぬ。

 互いの勢いが交差するたびに、部屋中のあらゆるものが宙を舞う。燭台が砕け、タンスが両断され、枕が引き裂かれ羽毛が舞い散る。

「カイ。お前は現役の頃から変わらないよな」

「どういうことだ?」

 刃を振るう手を止めることなく、俺は答える。

「どんなに逼迫した状況でも、お前は決して生身の人間を手にかけようとしなかった。お前が直接手を下した人間は、リリサが最初で最後だ。そうだろう?」

「……古傷を抉るなよ」

 胸がきりきりと締め付けられる。

 あのとき――異形化したリリサを人間に戻すことが不可能だと分かったとき、俺は瞬時に刃を”物理使用”へと変化させたものの、躊躇いが生じてリリサを貫くことができなかった。目の前でリリサが、無辜の民に食らいつこうとしているにも関わらずだ。そんな俺を押しのけて、先にリリサを貫いたのは、サイラスだった。しかし急所を外していた。背後から別の異形(ファンタズマ)がサイラスを襲ったことで、狙いがぶれたのだった。サイラスが態勢を立て直すには数刻の猶予がいるだろう。俺は悶え苦しむリリサを見ていられなくて、心臓を一突きにして永遠の安寧を与えたのだ。

「お前は甘い。その程度の気概で、メグ=メルを連れてくることができると思っているのか?」

「何を言う? メグ=メルは、誰もが幸せでいられる時代だろ?」

 会話をしながらも、剣戟の音が鳴り止むことはない。

「違うな。俺に言わせれば、メグ=メルは淘汰による賜だ。世にあまねく瘴気に打ち克てなかった者は、朽ちゆく定めにあったのだろう。時代は変わっても、人々の本質は変わらない。無用な情けは、時には新たな不幸を招く」

 それはすなわち、全体の幸福のために、少数を切り捨てるも同然だ。

「サイラス……お前は、それで本当にいいと思っているのか? いつの日か満天の星空を見上げながら三人で語り合ったよな? ”誰もが”幸せでいられる時代を、絶対に連れてこようと」

 俺の連撃を受け止めながら、サイラスは眉をぴくりと動かす。

「……あのときの俺はあまりに未熟だったんだよ。結果として、大切な人一人、守れなかった。これが現実なんだ。もしあのとき、《CURSE》と化す前のあいつらを事前に切り捨てていれば、今頃リリサは……」

 わずかにサイラスの刃の勢いが鈍る。

「馬鹿なことを考えるな、サイラス!」

 俺は渾身の力をもって、サイラスの刃を叩き割った。

「ぐぅ……っ!」

 サイラスの刃が破壊されたことで、少女が残していった瘴気がサイラスの心へと入り込み、異形化が始まる。

 俺は《ハートブラスター》を物理使用から本来の用途へと切り替え、サイラスを貫いた。

 サイラスの異形化が解除される。

「カイ……お前ってやつは……」

 サイラスは気を失って地面に突っ伏した。

 静寂が戻ったかと思いきや、扉の外から騒がしい音が聞こえてくる。剣戟の音を聞いて、不審に思った福音騎士の連中が駆けつけたのだろう。

「レイチェル。すぐに追いつくからな……」

 俺は窓から身を乗り出して、地上めがけて飛び降りた――。


     ◇◇◇


 ミルフィを抱え、全速力で走るレイチェル。

 朝を迎えたばかりで、往来が少ない大通りを駆けていく。追走するは、カミラ教官。

「待ちなさい、レイチェル!」

 待てと言われて素直に待つ者がいるものかとレイチェルは思う。当然、足を緩めることはない。

「本当なら私だってこんなことはしたくはないわ。……でも、そうするしかないの! アリアンロッドの騎士として、こんな危険な因子を放置しておくわけにはいかないのよ!」

 カイ教官がサイラスを足止めしてくれている間に逃げ切ってしまおうと考えていたが、甘かった。

 宿を出たところで、カミラが待ち伏せをしていたのだ。おそらくサイラスとカミラが自分たちの会話を盗み聞きしたあと、こういった事態も想定して、二手に分かれたのだろう。カミラの刃がミルフィへと向けられたそのときだった。突如として爆炎がカミラを包み、カミラは倒れ込んだ。思いもよらない事態にレイチェルは一瞬戸惑うが、何者かに背中を押され、足を進めた。

 それから一心不乱に走り続けるも、相手は自分より遥かに格上だ。着実に彼我の距離は縮まろうとしている。

 ――カミラに追いつかれる、そう思ったとき、光弾が空から降り注いだ。それらは、狙ったかのようにカミラへと収束していく。

「くっ……」

 カミラは足を止め、自身の刃で打ち払った。

「今です。私が足止めしますから、逃げてください!」

 空から聞こえてくる声。あの《オグマ》の戦闘員であるシェリルのものだった。

「……恩に着るわ!」

 レイチェルは力を振り絞って、大通りを突っ切り、街道へと躍り込む。


     ◇◇◇


 間髪入れず、立て続けに放たれる光弾。

 カミラはそれらを打ち払いながら、咄嗟に身をずらした。

「何者!?」

 視界が晴れ、桃色の髪の少女が姿を現す。見たところレイチェルとそう歳は違いそうにない。

 再び光弾が放たれる。カミラは刃を一振りすることで、それを真っ二つに叩き割る。

 三メートルほどの間合いを置いて、向かい合う両者。

「貴方は……オグマの使い?」

「はい、そうです。何やら切羽詰まっているみたいですので邪魔立てしておくことにしました」

「……ふざけないで! 今、私が追っているのは≪CURSE≫よ! オグマの使いごときと遊んでいるヒマはないの!」

「だから殺すんですか? あんな、あどけない女の子を」

 カミラは一瞬、言葉に詰まる。

「……そうよ! 人々の幸福を守るためにはそうするしかない! それが正義なの!」

 カミラは地面を踏み込み、目の前に立ち塞がる少女の横をすり抜けていこうとする。だが少女は一切動じることなく、薄笑いを浮かべていた。

「いいんですか? 背中から撃ちますよ?」

 そう言って詠唱を始める少女。

「……くっ!」

 カミラは刃を振りかぶった。


 ――接戦が続く。

 気がつけば、辺りには野次馬たちが集まってきていた。常駐していたアリアンロッドの騎士たちもそれに呼応するように駆けつける。もはや多勢に無勢だ。少女に勝ち目はない。

「積みよ。おとなしく両手をあげなさい」

「いえ、もとより勝負をつける気などありませんでした」

 少女は後ろを振り返る。レイチェルが逃げ失せたことを確認している様子だった。そして再び正面を向くと、

「それでは、ごきげんよう」

 そう告げると、白煙に紛れて姿を消してしまった。

 一瞬のできごとだった。

 風に流され、煙が引いていく。

 案の定、レイチェルの姿はもうなかった。

「くっ……取り逃してしまったわ……」

 カミラは気が抜けてしまってその場にへたれこむ。

 呆然としていると、どこからか声が聞こえてきた。

「そうやって、欺瞞で塗り固めた正義の名の下に、世界に適応できない存在を排除するアリアンロッドの在り方……とても気に喰わないです」

 カミラの目が、かっと開いた。

「……そんなことは百も承知! だけど、そうでもしないと守れないものもあるの!」

 たまらず、虚空に向かって叫んだ。

 しかし返事は返ってこない。

 カミラの目は虚ろだ。

 気がつくとサイラスが背後に立っていた。この様子だとカイに苦杯を喫っしてしまったのだろう。サイラスは何も言わずカミラの前まで歩いてきて、そっと手を差し出した。カミラは、首を横に振る。

「……ありがとう。だが心配には及ばないわ」

 カミラは自力で立ち上がると、サイラスに告げた。

「≪メイジス≫を召集するわ」

「それは……」

 サイラスの表情が歪む。

「一刻を争う事態よ」

 今、カミラの脳裏を過ぎる一つの懸念。いや、仮説とでも言おうか。

 もしこの”仮説”が現実のものになってしまったら――。

 それはすなわち、世界の終焉を意味する。

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