第3話 叛逆、そして

     1


 ここは北へと向かう馬車の中。覆い布で覆われた荷台には所狭しと貨物が積まれている。

「どうやら撒いたみたいねっ」

 覆い布を少しだけ開け、顔をひょっこりと出して後方を窺うレイチェル。 

 あれから街道に出たところで落ち合った俺たちは、通りかかった馬車の荷台に忍び込んだのであった。

「どこに向かってるのかな、この馬車……」

 不安げにレイチェルは言いながら、近くの樽に腰掛ける。と同時に少女はレイチェルの膝の上に、正面を向いてちょこんと座り、レイチェルが後ろから抱きしめている格好だ。

「シャンデリーゼ港だろう。帆柱の修築に必要な部品と保存がきく食料を多く積んでいる」

 シャンデリーゼ港、そこはエルドラード大陸最北端にある港だ。

 それにしても今、俺の脳裏を過ぎる一つの仮説。まさかとは思うがあり得ない話ではない。もしそれが本当だとしたら……。

「ねえ、教官。これからあたしたちはどうすればいいの?」

「決まってるだろ。ハーデスを討ち、少女を呪縛から解放するんだ」

「ハーデスを討つ……」

 深刻な表情のレイチェルに対して、少女は足をぷらぷらさせ、辺りを興味津々に見渡している。事の重大さを理解していないようだ。

「そうだ。それも、少女が異形化する前にだ。それ以外に少女を救う策はない」

 俺らと一緒にいる間は、少女に俺らの”心の強さ”が伝わっているから異形化を遅らせることができるが、タイムリミットは刻一刻と迫っていると見るべきだ。

「あの……」

 少女が俺へと視線を向ける。

「わたし、名前欲しい」

 穢れを知らない純朴な表情で、じっと見つめてくる。

「ミルフィでいいじゃん?」

 レイチェルは言うが、

「それはだめだ」

 俺は、ぴしゃりと言う。すでにこの世にいない少女と全く同じ名前を与えるのは良くないと思った。

「じゃあ、教官が付けてよ?」

「そうだな……」

 少し考え込むと、

「”ミルル”なんてどうだ?」

 俺が昔飼っていた猫、ルル。それにレイチェルの親友だったミルフィの名前を掛け合わせて、ミルル。安直だが、少女が本当の名前を思い出すまでのものだ。

「うん。それでいい」

 ミルルは、あっさりと言う。

「よし、それで決まりだな」

 それにしてもかなり揺れるな、この荷台。まあ、貨物を多く積んでいる上に、人を乗せることは想定されていないため、当然と言えば当然だが。

「……ともあれ、これであたし、福音騎士としての道を断たれたね。教官も失職を免れないと思う。あたしたち、全て失っちゃった……」

「なんだ、後悔しているのか?」

「いえ、全然っ! あたしは欺瞞ってやつが大嫌いなの! 自分が信じる正義を貫くわ」

 安心した。

「レイチェルならそう言うと思ってたよ」

 俺ができなかったことを、胸を張って言ってみせるレイチェル。さすが、俺が見込んだだけのことはある。

「でしょ、でしょ?」

 レイチェルは、にこりと笑う。

「アリアンロッドから追放されようが、案ずるな。世界は広い。組織に所属せず、独自に行動するソロ騎士もいるんだ。ギルドを介して仕事を請け負う形になるから収入は不安定になるがな。そういう道もあるってことだ」

「決めた! じゃああたしは、ソロ騎士になるわっ! そしてあたしはあたしが信じる道を往く!」

「しかし、分かっているよな? ソロ騎士であるためには、重視されるのは”戦績”だ。今のお前にそれがあるか? そのためにもハーデスを討伐する必要がある。そうすれば、レイチェルの名声は上がるだろう」

「うん……。ちょっと足が震えるけど、あたし、頑張るよ!」

 ちょっとどころか、ガタガタ震えている気がするが。

 俺はミルルへと目を向ける。

「なあ、ミルル。今、ハーデスがどこにいるか分かるか?」

 ミルルは首を横に振った。

「分からない……。分かるのは、わたしの心がハーデスという人と繋がっている感覚と、ハーデスが望むものが北にある。そんな、ぼんやりとしたイメージだけ……」

 ハーデスが望むもの。やはり、俺にしてみれば不可解だ。これまで暴虐の限りをつくしてきたやつが、一体何を望んでいるというのか……。

「うぅ……」

 レイチェルがミルルを持ち上げて、横に置くと、頭を抱えてうずくまる。

「どうした? 乗り物酔いか?」

 レイチェルは、こくりと頷く。

 俺は立ち上がると、敷き詰められた樽の上を這いつくばって進み、荷台の覆い布を3センチほど開けた。

「吐きそうになったら、ここから吐け」

「馬鹿言わないで……あたしのような可憐な乙女が……そんなはしたない姿を……見せられるわけが……」

「じゃあ、耐えることだな」

「うぅ……」

 ミルルはレイチェルの背中を優しくさする。

「元気になって。レイチェル」

「ありがと……ミルル……」

 この早さだとシャンデリーゼ港までは半日程度といったところだろう。レイチェルが持ちこたえてくれることを祈るしかない。

 荷台の内部はほとんど密閉されていて気温が高いので、いっそのこと覆い布を片側だけ全開にしてしまおう。そう思って、俺は一気に開け放つ。湿気を帯びた風が流れ込んでくる。

「絶景だわぁ……」

 気がつけばレイチェルが横にいた。目の前に広がった光景に、吐き気もどこかに行ってしまったか。

 広大な草原を昇ったばかりの太陽が鮮やかに染め上げていて、黄金色に輝く雲の切れ端から、無数の光柱が差し込んでいた。

「太陽が、世界が、あたしたちを歓迎してくれている。そんな気がするわ」

「あながち間違いではないかもな」

 これは、ある意味俺たちにとって新たな出立でもあった。


 ――太陽が真上に昇る頃、俺たちは港町シャンデリーゼに到着した。

 御者に見つからないようにこっそりと馬車から飛び降りると、カモメが何羽か空に飛び立っていった。開け放っていた覆い布も元に戻しておく。

「ふえええぇぇぇ」

 レイチェルは、ふらふらだ。

 俺が体を支えてやろうとしたが、ミルルがレイチェルの手を取る方が早かった。

「気を確かにね。レイチェル」

「う、うん……サンキュ」

 もはや、どっちが姉でどっちが妹か分からない。

 ここは、エルドラード大陸北部において唯一の港だ。ここから複数の大陸へと至る定期船が出ている。

 波が引いては寄せる音に乗ってカモメのさえずりが聞こえてくる。

 決して大きいとは言えないこの港町の波止場には一隻の客船が停泊していた。行き先はミスリル方面とある。

「さあ、あれに乗るぞ」

「でも、ミスリルと言うと北東の大陸よね。現代史の授業で習ったわ。今はヴァルガウル帝国が接収しているから、通行手形がないと入国はできないって……」

「最北のダナンを目指そう。同じ北ならばそっちの方が可能性が高い。そこも経由することになっているから大丈夫だ。貨物の積み卸しだけで、降りる人はほとんどいないだろうけどな」

 北大陸ダナン。通称、打ち捨てられた大陸。

 50年ほど前に中央大陸エルドラードへの大移住があって、それ以来、人口は年々減少の一途を辿っている。今や100万を切る勢いだ。街道もまともに整備されていない。元はヴァルガウル帝国の支配下にあったが、50年前の戦争で、我らがランダール王国が併合したのだ。それを皮切りに、抑圧下にあった人々が助けを求めるように中央大陸になだれ込んできたという背景がある。

「じゃ、教官、お金っ」

 レイチェルは手の平を差し出してくる。

「あと、ミルルの分もね」

「ほらよ」

 1500ベリルを渡す。

「1500ベリルって……一人分の運賃じゃん? ミルルの分も含めると3000ベリルじゃない?」

「それがな……」

 手持ちがほとんどないことをレイチェルに告げる。俺は常日頃から、必要以上の金を持ち歩いていない。財産のほぼ全てをアリアンロッドの口座に預けてある。アリアンロッドを敵に回してしまった今、回収は不可能と見るべきだろう。

「……仕方ないなぁ。それじゃ、あたしに任せて」

「なんだ、搦め手でもあるのか?」

「へへへっ。そーゆーことっ」

 レイチェルはミルルを連れてチケット売り場へと歩いていく。

 波止場と定期船とを繋ぐブリッジの前に設けられた小屋の受付窓には、ベレー帽を被った青年が立っている。レイチェルはその青年の前に立つと、いかにもわざとらしそうに目をうるうるとさせて、

「あのぉ、あたしたち、この舟に乗りたいんですけど……お金が足りないんです……」

 そうやって、すがるように言うと、

「どうかこれで負けてくれませんか?」

 1500ベリルを差し出す。

「そんなこと認められはしない! 悪いが金がないなら諦めて出直してくれ!」

 まあ、当然だろう。向こうだって商売だ。いちいち一人一人の事情を考慮していたら商売が成り立たなくなってしまう。さて、ここからレイチェルがどう巻き返すか見ものだ。まるで子猫を見守る親猫のような気持ちで、俺は教え子のレイチェルに期待する。

「この舟に乗らないと、この子はずっと一人ぼっちになってしまうんです!」

 レイチェルはミルルを抱き抱え、正面に向ける。

「これを見てください」

 そう言って、俺の右腕のブレスレットを指差した。そこには太陽を意匠したデザインが施されている。アリアンロッドの騎士の証だ。

「この人はアリアンロッドの福音騎士です。あたしはこの人の従騎士っ。人々の幸福を願う騎士として、困っている女の子を見過ごすことはできません! というのも、追い剥ぎどもに捕まって今にも人身売買にかけられようとしていたところをあたしたちが保護したんです。光も差し込まない洞穴の中でこの子は一人泣いていました。ですから、あたしたちの願いとしては一日でも早くダナンで待つ親御さんに会わせてあげたいところ。――どうかこのささやかな願い、聞き届けてもらうわけにはいきませんか?」

 鬼気迫る迫真の演技でレイチェルは言った。思わず俺も圧倒されてしまった。

 周囲の人たちの注目が集まり、みんながみんな、通してやれよと言った目で男の人を見ている。

「……だ、だめだ。例外を認めるわけにはいかない」

「じゃあ、あたしの笑顔でおまけしてください」

「は?」

 レイチェルは相手の男の手を優しく取ると、

「お願いしますっ。係員さんっ」

 ――真夏の太陽の二個くらいなら普通に吹き飛ばせそうなほどの満面の笑みを見せたのであった。

 見ているこっちが恥ずかしくなってくるほど、相手の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。

「しょ、しょうがねえなあ。いいぞ、通って!」

「ありがとうございますっ」

 レイチェルは満足げに頭を下げた。

 俺も軽く会釈をして御礼を言うと、レイチェルの後に続いてブリッジを渡る。

 ……今まで特に意識していなかったが、笑顔が可愛いよなぁ、レイチェルは。

「見事だったぞ、レイチェル。まさか媚を売ることにここまで長けているなんて。さすが俺の自慢の愛弟子……むぐぅ!」

 まさかの肘打ち。

「感謝しなさいよね、教官。あたしの愛嬌溢れる笑顔と同情を誘う迫真の演技のおかげでこうして無事に乗船することができたんだからっ」

「よくやったぜ、レイチェル」

 俺はレイチェルの頭をぽんぽんとしてやる。

「も、もう……、それはやめてって……言ってるのに……むにゃあ……」

 いつものように、デレデレになるレイチェルであった。

「さて、レイチェルをデレさせて遊ぶのはこれくらいにして先を行こう」

「む……教官ったら、あたしで遊んでたんだ」

「ほら、早くしないと船が発進してしまうぞ」

「なんだかむかつくーっ!」

 俺らは足を進めるが、ミルルがついてこない。立ち止まったまま、何やら神妙な面持ちで顔を俯けている。

「ミルル、どうしたの?」

 レイチェルがミルルのもとまで戻り、腰を屈めてミルルの顔をのぞき込む。

「……光も差し込まない洞穴に閉じこめられていた」

 虚ろな目で、ミルルは言った。それは、さきほどレイチェルが口にした出まかせの一節だ。

 レイチェルの顔色が曇る。

「ねえ、ミルル? あたし、もしかして気に触ること、言っちゃったかな……?」

 ミルルは、おもむろに顔を上げた。

「ううんっ。何でもないよ。大丈夫……っ!」


 100名が乗船可能なキャラック船。全長は50メートルほどで、四本のマストを備えている。

 船首に立つミルルは、しばらくの間、興味津々に大海原を見渡したあと、振り返って船の外観を仰いだ。

「みんな幸せそう……」

 ぽつりと呟く。どことなく儚げな眼差しだ。

 確かに甲板に溢れる人たちは、みんな笑顔で、満ち足りている様子だ。

 俺は”可視化”を行い、運気の流れをこの目で確かめる。

「……ほう、これは見事な景観だな」

 薄紅色のもやが船全体を包んでいた。これは《覇気》だ。こんなに覇気に溢れた光景を目にするのは久々だ。

「ほら、レイチェルも可視化してみろ」

「う、うん」

 三秒ほどして、

「綺麗……」

 レイチェルは目を見開き、圧倒されている様子だ。

 ミルルは微笑むと、

「きっとみんな、これから始まる船旅にわくわくしているんだね」

「そういうことだね」

 そして、レイチェルも可愛らしい笑顔を見せたのだった。

 俺は思う。これまで俺が希求してきたものは、きっとこんな情景だったのだろうと。改めて初心に返らされたというか。頭の中でごちゃごちゃしていたものが、すっと晴れていったような気がした。

 と、そのとき。がくんと足下が揺れた。すっかり気を抜いていた俺は後方へと体が押し出されてしまう。油断していたのはレイチェルも同じで、思いっきり足を取られ、俺めがけて背中から倒れかかってくる。咄嗟に俺は両手を差し出し、レイチェルを抱きしめた。レイチェルの柔らかい感触が全身に伝わってくる。

「……ありがと、教官」

 レイチェルのポニーテールが鼻孔をくすぐり、女の子特有の甘い香りがつたわってくる。思わず、頭がくらっとした。

「も、もういいからっ!」

「あ、す、すまん!」

 俺が腕の力を緩めると、レイチェルは俺から離れる。俺のしたことが……。教え子に対して、あらぬ感情を抱いてしまった……。

 レイチェルはジト目で俺をじっと見てくる。

「教官ったら、なんか変なこと考えてなかった?」

「い、いや、何も!!」

 俺は必死に否定する。

「目が泳いでいるところが怪しい」

「よし、中へ入ろう」

「あ、ごまかした」

「ごまかしてない」

 ミルルが、くすりと笑う。

「二人とも恋人みたい」

「「恋人……」」思いがけず、声が重なる。

「ほら、とても息が合ってる。お似合いのカップルだよ」

「「…………」」そう言われるとなんだか照れくさい。

「そんなことはない。レイチェルはただの教え子だ」

「そうよそうよ、教官は教官。それ以上でもそれ以下でもないわ」

 心なしかレイチェルの顔は赤らんでいる。

「嘘だね。二人とも本当の気持ち、隠してる」

 実に澄み切った目でミルルは言う。まさかこの俺がレイチェルに心惹かれているというのか。いや、そんなはずはあるまい。

 だけど、こうしてレイチェルと逃避行をしているのは事実だ。そう、レイチェルの内なる可能性に全てを懸けて。なら、俺の心が向かう先は……。

「あ、そうだ……。ねえ、レイチェル」

 ミルルがレイチェルを見上げる。

「ところで、さっき言ってた《ドルイド》って何? わたしが《ドルイド》ということは――」

「だめ! ミルル!」

 レイチェルは咄嗟にミルルの口を手で塞いだ。

 馬車の中で、レイチェルはミルルに、世界の成り立ちや趨勢、ついでに俺とレイチェルの関係などを聞かせて記憶を取り戻そうとしていたのだが、ドルイドについての説明がまだ途中の段階で馬車が到着し、港に降り立つことになってしまったのだった。

 辺りがざわつき始める。

「なんだよ、お前、《ドルイド》なのかよ?」「……《ドルイド》なんか乗せるんじゃねーよ!」「早く降りて! 私耐えられないわ!」「そうだ、降りろ、降りろ!」

「え……え……」

 ミルルは激しく狼狽する。

「このやろう!」

 いかつい顔立ちの男が、拳を振り上げ、ミルルへと襲いかかる。

「やめろ!」

 俺が男を突き飛ばそうとしたそのとき。レイチェルが男を蹴り上げていた。男はもんどりうち、尻餅をつく。

「……ミルルに手を出す輩は、ただじゃおかないから!!」

 レイチェルの眼差しは、いつになく鋭かった。そして《ハートブラスター》を"物理使用"で顕現させ、男の首元に突きつける。

「ひ、ひぃ!!」

 逃げ出していく男。一気に波が引くように、みんながみんな我先にと船内へと駆け込んでいく。

 辺りは静まり返り、聞こえてくるのは波の音だけだ。

 ミルルは首を垂らし、涙をぽろぽろとこぼしている。レイチェルが優しくミルルを抱きしめた。

 俺はミルルにそっと声をかける。

「これが現実だ、ミルル。《ドルイド》は……」

 言い終える前に、ミルルは頷いた。

「うん、わたし、微かに思い出したよ……。ドルイド、みんなから嫌われる。生きてちゃいけない存在だったんだね。……わたしは……わたしは……」

「違うっ!」

 レイチェルは強くミルルを抱きしめる。

「《ドルイド》だからって、生きてちゃいけないなんて……そんなはずない! ミルルは、ミルルなんだから!」

「……うん。ありがとう」

 ミルルは微かに笑みを浮かべた。

 船を包んでいた覇気はもう見られない。それどころか、瘴気が集まってきている。

 ふと、サイラスが言っていたことを思い出した。


『違うな。俺に言わせれば、メグ=メルは淘汰による賜だ』


 結局のところ、俺らはこのまま甲板で過ごすことにした。無理して中に立ち入ろうとすれば、無用なトラブルを引き起こしかねない。乗組員が運んできてくれた羊肉のムニエルを、がつがつと喉にかきこむレイチェル。怒り心頭だ。

「なんなのよ! あいつら! あーもう!! 本当に頭に来る!!」

 一方、ミルルは平静を取り戻していた。

「落ち着いて、レイチェル。わたしは平気だから……もう慣れているから……」

「ミルル……!」

 レイチェルはフォークを放り出して、ミルルをぎゅっと抱きしめた。

「痛いよ……レイチェル……」

 そうは言うものの、ミルルは心地良さそうだ。

「なあ、ミルル」

 俺はフォークを皿に置いて、ミルルに問いかける。

「思い出せたのは、《ドルイド》として迫害されてきた記憶だけか?」

 ミルルはかぶりを振る。

「ううん。メグ=メルについても、なんとなく分かってきた。ハーデスという人を通じて伝わってくるの。メグ=メルがどんな時代だったのか……その時代に生きた人がどんな感じだったのか……」

 レイチェルは、はっとしてミルルの肩に手を置くと、

「ということは、ハーデスは、メグ=メルより前から存在していたということ?」

 言い伝えでは、初代のハーデスが降誕したのは、メグ=メルが終焉を迎えるのと同時期だったとされている。ミルルが言っていることが事実なら、自ずから一つの真実に辿り着く。

「メグ=メルが終わるより前からハーデスは存在していた。そして、その頃のハーデスは瘴気を纏う《冥導の姫神》ではなく、ただの人間だった。そういうことか」

 俺は顎に親指を置き、思考を巡らせる。どうやらハーデスは俺が思っていたほど、単純な存在ではないようだ。

 レイチェルは俺に視線を向ける。

「……あのね、教官。別に隠してたわけじゃないんだけど、あたしがメリーローズで瘴気に呑まれて、異形(ファンタズマ)と化しちゃったときあるでしょ? あのとき、誰かから何かを託された気がするの」

「託された?」

「うん。その誰かにとって、とても大切で、かけがえのないないもの。夢でも見ていたんだと思って気にしないようにしていたんだけど、もしその誰かが、”ハーデス”だったとしたら……」

「そうだな。もしかしたらそれがハーデスの”望むもの”なのかもしれない」

「「……」」しばらくの間、沈黙が重なる。

 先に口火を切ったのは俺だった。

「とにかく謎は深まるばかりだが、一つだけはっきりしたことがある。メグ=メルは実在していたということだ」

「……そうだね。夢物語じゃなかったんだね。あたし、絶対にミルフィとの約束、叶えてみせるからっ。世界中の人たちが幸せになれる時代を必ず連れてきてみせるっ!」

 レイチェルは拳を天に向かって掲げてみせた。

「……あの」

 申し訳なさそうにミルルが言う。

「メグ=メルがあったことは本当。でも、世界中の人が幸せだったわけじゃないよ? 少なからず悲しみを抱えていた人もいたの。そんな人たちの悲しみに引き寄せられてメグ=メルは終わってしまった……。そんな、ぼんやりとしたイメージがハーデスを通じて伝わってくるの」

「……そんな」

 レイチェルは肩を落とし、しゅんとする。

 俺は諭すように言う。

「人が人であるからには、負の情念をなくすことはできない。怒りだったり悲しみだったり、そういうものも人として在るためには必要な感情なんだ。さっき、レイチェルがミルルを守るために、激情を露わにしたようにな」

「……ぁ」はっとするレイチェル。

「だから、全ての瘴気を断つことはできない。それでも俺は、メグ=メルを連れてきたいと願っている。だから、少しでも多くの人が幸せでいられるように、足掻いて足掻こう。この刃が折れないうちはな」

「……うん。そうだね」

 レイチェルは薄っすらと微笑み、頷いた。


     2


 ――レイチェルは夢を見ていた。

 夢の舞台は決まって、レイチェルの思い出の中にしか存在しない孤児院だ。

 桜が散り、新緑の季節が巡ってきた。

 ここに来てひと月が過ぎた。相変わらずミルフィはみんなの人気者だ。ミルフィの周りはいつも多くの子で賑わっていた。

 見るからにあどけなくて、ちょっと力を入れて触れば壊れてしまいそうな華奢な体。それでいて人懐っこい性格がみんなの心を惹きつけるのだろうと思う。

 一方、自分は誰とも友達になることができずに、いつも一人で当てもなく外をぶらついていた。

 だけど、今なら分かる。誰とも友達になれなかったわけではない。友達になろうとしていなかったんだ。


 ――ま、それも今のあたしも同じか。


 ミルフィを失った傷は、今もなお癒えていない。でも最後に交わした約束――ずっと笑顔でいるということだけは忘れていなくて、守り続けてる。

「どうしていつもそんな悲しそうな顔をしているの?」

 ある日、ミルフィは言った。

 昼時、いつもの井戸に背をもたれ、雲一つない青空を見上げながらあたしは応じる。

「あたし、そんな顔してる?」

「うん。してる」

 あまりにストレートな言い方にしょんぼりするレイチェル。

「ねえ、笑ってみなよ」

「笑い方なんか忘れちゃった」

「お手本、見せてあげる」

 そう言うとミルフィは満面の笑みで笑った。

 はっきり言って信じられなかった。どうして平然と笑っていられるんだろう? ミルフィだってハーデスの襲撃によって家族を失っているのに。同じ悲しみを抱えているはずなのに。

「ね? やってみて?」

「できないよ……」

「じゃあ、くすぐっちゃうから」

「…………」

「ほら、こうやるの」

 もう一度、ミルフィが笑った。

 仕方なく、見よう見まねで笑ってみることにする。

「こうかな?」

 鏡がないから本当に笑顔が作れているから分からない。もしかしたら、変な表情になってしまっているかもしれない。そう考えると、ちょっと怖かった。

「うーん。少し表情が硬いかな。もっと頬を柔らかく」

「……こう?」

「うん。そんな感じでいいと思う」

「変じゃない?」

「全然、変じゃないよ。むしろとても可愛いと思う」

「可愛い……?」

「うん。最高に可愛い笑顔だよ」

 笑顔が可愛い。そう言ってくれたのはミルフィが初めてだった。

「笑顔が可愛いって天賦の才だと思うの」

「てんぷのさい……?」

 このときの自分には意味が分からない言葉だった。

「生まれ持ったすごい力のこと」

「すごい力……」

「レイチェルの笑顔はみんなを幸せにする。だからこれからは嘘でもいいから笑ってみてよ。騙されてみたと思って、ほら」

「どうして笑わなきゃいけないの?」

「わたし思うの」

 そう言ってミルフィは空を仰ぐと、空に語りかけるように言った。

「わたしたちは同じ悲しみを抱えている。そんなわたしたちだからこそ、同じように悲しんでいる人たちに幸せを伝えていけるんじゃないかなって」

 思わず、はっとさせられた。

「そうと決まればさっそくやってみようよ。ほら」

「あ、」

 腕を引かれ、学舎の中へ。

 今でも覚えている。そのときから、嘘でもいいから笑ってみることにしたんだ。胸をきりきりと締め付けるような悲しみが完全に癒えることはなかったけど、なんだろう、少しだけ前向きな気持ちになれた気がした。

 ……そう、全てはミルフィのおかげだったんだ。


「夢……」


 レイチェルはうっすらと目を開けた。視界一面に広がる満点の星空。ゆりかごのように地面が揺れている。

「……はっ」

 やっと思い出した。

「ああ、そうか……あたしたち、船の甲板にいたんだった……」

 隣ではカイ教官が轟音のようなイビキを立てて寝ている。

 あれ? ミルルがいない。

 レイチェルは上体を起こし、周囲を見渡す。ミルルは船首に立ち、空を仰いでいた。ほっとした。レイチェルは立ち上がると、おもむろにミルルの隣まで足を進める。

 自分が声をかける前に、

「綺麗だね」

 ミルルは、聞き取れないくらいに小さな声で呟いた。

「うん、本当に……」

 すっかり言葉を失ってしまう。こんなに多くの星々が輝く星空を見たのは初めてだ。手を伸ばせば届きそうなほど星が近くに見える。

 夜風に吹かれてミルルは金色の髪をなびかせている。それはまるで切り取られた一枚の絵のようで、見ているこちらが息を呑んでしまうほど夜闇と調和していた。普段は柔和な雰囲気のミルルが、とてもミステリアスに感じられた。

 そのまましばらくレイチェルとミルルは何も言葉を交わすことなく、星空を見上げていた。

 やがて、そっとミルルが口を開いた。

「わたし、一つだけ……うん、たった一つだけ思い出したみたいなの」

 ミルルは首を上げて、レイチェルを見た。その目はどこか儚げだった。

「聞きたい?」

 澄み切った瞳で見つめてくる。

「聞かせてくれるというなら聞きたいな」

 ミルルはこくりと頷くと、一呼吸置いてから、そっとその言葉を口にする。

「わたし、体を縛られて……」

「……体を縛られて?」

 目を落とす。その先に続く言葉を口にするのを躊躇うように。しばらくして、覚悟を決めたように顔を上げる。

「暗闇の中に閉じ込められていたみたいなの」

 はっとする。

「……それって」

「あのときレイチェルが言ったこと、あながち嘘に思えなかったの。どうして、こんなにも本当のことのように感じられるんだろうって」

「つまりミルルは実際にそのような体験をしていたんだね?」

 こくりと頷く。

「夜が来て完全に思い出したの。だけどわたしの記憶の中の夜はもっと深かった……」

 レイチェルが運賃の値引きを巡って咄嗟に口にした出任せがトリガーとなって、奇しくもミルルの記憶を呼び起こしたということだ。

「何度も助けてって叫んだ。だけど誰も助けてくれなかった。だってわたしの血は汚れているから……。来る日も来る日もひたすら叫び続けて、いつしか叫んでいるということさえも分からなくって……」

 ここでミルルは口を閉じてしまう。

「……あまりにも酷い話ね」

 ミルルがルーの血を引いたドルイドだから? それ故に瘴気を招いてしまうから? いや、そんなことはどうでもいい。たとえそうだとしても、か弱い少女にそんな仕打ちをするなんて間違っている。絶対に。

「それからわたしはどうなったのかは分からない。これ以上は……思い出せない……ううん、思い出すのがつらいの」

 ミルルは瞳に涙を浮かべている。

「だけど、ひとつはっきりしていることは、どうにかわたしは生き延びることができたんだね。……どうやって逃げ出したのかは分からないけど……。だけど、もしかしたらまたいつか――」

「そんな心配は無用よ」

 遮ってレイチェルは言った。

「あたしの傍にいる限りはそんな目には合わせない。もしミルルを連れ去ろうとする輩が現れたら、この拳で返り討ちにしてみせる」

 拳を天に突き上げ意気込むレイチェルを見て、ミルルは微笑んだ。

「うん、心強いっ」

「へへっ」

 レイチェルは得意げに笑う。


 あれから、笑うことには、もう抵抗はない。


 いつからだろう、”意識しなくても”普通に笑えるようになったのは。最初はミルフィに言われて嘘でもいいから笑うように務めていたけど、それはいつしか本当の笑いに変わっていったのだ。ミルフィのようにうまくはいかなかったけど、一人、また一人と気兼ねなく話せる人が増えていった。

 幸せだった、と思う。だけど、その幸せは、限りあるものだった。あの日のできごと――ミルフィの死によって、自分は再び笑うことをやめてしまった。

 それからどれぐらいが過ぎただろう。ふと、思い至った。無理にでもいいから笑わなければミルフィが浮かばれない、と。なぜなら、それがミルフィと最後に交わした約束だったからだ。

 そして、再び笑うことを始めた。でも気がつけば、ぎこちない作り笑いしかできなくなっていた。それでもミルフィから教えてもらったことを健気に守り続けた。だってそれが、ミルフィが生きていたという証だから。


「ねえ、一つ聞いていい?」

「うん、いいよ。何?」

「レイチェルってば、カイきょーかんのこと好きだよね?」

「な……どうしてそのことを……っ!」

 思いもよらない一言だった。心臓を鷲づかみされたような衝撃が全身を駆け抜けていった。思わずレイチェルは恐れおののいてしまう。

「まさか教官から……?」

 ミルルは、かぶりを振る。

「見てれば分かるよ。レイチェルのカイきょーかんに対する仕草の一つ一つに、きょーかんのことが好きなの!って思いが滲み出てるの」

「くっ……そんなに分かりやすかったのね……あたしったら……」

 レイチェルは顔をわっと覆う。

「じゃあ、約束」

 そう言ってミルルは小指を差し出してきた。

「絶対にカイきょーかんの心を射止めること」

 レイチェルは苦笑する。

「そればっかりはちょっとあたしも分からないな。あたしの気持ちだけではなく、教官自身の気持ちも関わってくるからね」

「大丈夫。きっとレイチェルならできるよ」

「できる限りの範囲で努力してみせるわ」

「じゃあ、それで勘弁してあげる。レイチェルはこれからカイきょーかんのハートを射止めるために精一杯努力すること。嘘ついたら――」

 小指と小指を絡める。

「この海の水、ぜーんぶ飲むこと!」

 あどけない顔して、意外と容赦ない。

「あはは……精進するわ」


 このとき、あたしの中で覚悟が決まった気がした。それは静かな炎となってレイチェルの中でめらめらと燃えている。

 そんな二人を祝福するように、流星群がいくつも流れては消えた。


     3


 同刻。

 操舵室において舵(ラダー)を握りしめるのはアルバート船長だ。口ひげを蓄え、筋骨隆々としたガタイのよい肉体からは、すでにベテランとしての風格が漂っている。

 アルバート船長は思いを巡らす。この船の推進力である四本のマスト――フォアマスト、メインマスト、ミズンマスト、シガーマスト――に張られた帆に特に変わりはない。風は安定していて今宵の航海も順調だ。しかし、どうにも気になることがある。それは今から八時間ほど前、乗組員から報告された事項――。

 ――《ドルイド》が一人、乗り込んでいる。

 アルバートは、元はアリアンロッドに籍を置いていた人物だ。前線に立って戦うことはなかったものの、3年ほど前までは、福音騎士たちを各地へと送り届けるための船舶の操縦を担当していた。

 アリアンロッドが擁している師団の一つに《メイジス》というのがある。彼らは隠密任務を請け負っている。世間には秘匿されているが、ドルイドから成る師団だ。

「私は、未だに彼らのことを許すことができていないのだろうか……」

 アルバート船長は呟く。

 《メイジス》が請け負う任務は、”不穏因子の抹殺”だ。心に深い闇を抱えた人物を魔術によって探り当て、《CURSE》と化す前に、事故死や病死などを装って葬り去るのだ。

「私の娘のアリスも彼らによって殺された……」

 3年前、騎士学校に通っていたアリス。表向きは訓練中の事故死となっているが、真実は異なる。卒業をかけた実地演習において、瘴気に呑まれ、失敗。留年が決まったアリスは、すっかり塞ぎ込んでしまった。

 同時期にはアリスの親友もまた瘴気に呑まれ、留年が決まった。しかしアリスの場合と違って、彼女が取り込んだ瘴気は膨大で、異形化。人に戻すことはできず、その場にいた騎士によって即座に殺害されることとなった。その件がアリスの悲しみにさらなる拍車をかけた。このままだとアリスも異形化し、《CURSE》と化すと判断した《メイジス》は、アリスを事故死を装って爆殺した。

 その後、姉のアイリーンや妻のキャロンも、アリスを失った悲しみにより、徐々に瘴気に浸食されていく。

 私は、このままだと愛する妻や長女も不穏因子と見なされ、抹殺されてしまうと判断した。だから私は、自身が管理する船の乗組員たちを人質にとって宿に立ちこもり、アリアンロッドを脅迫することで、《メイジス》を食い止めていたのだ。私はどうか二人が異形化しないようにと、祈っていた。しかし二人は間もなくして、《CURSE》と化した。その光景を目の当たりにした私は脱力し、その隙に人質にとっていた乗組員たちは逃げ出していく。その後、二人が屠られたのは言うまでもない。後に私も異形化し、《CURSE》となったらしい。そのまま死ねたらよかったものの、私だけが生き残った。福音騎士が最後に相手にしたのが私ということもあって、あまねく瘴気は薄まっており、私の心は完全に破壊されることはなかった。

 《メイジス》は私を手にかけることはなかった。いつ《CURSE》と化してもおかしくない、殺してくれと懇願したが、彼らは首を縦に振らなかった。彼らなりの、私に対する報復だったのだろう。その後、アリアンロッドには、私は自殺したと報告されたらしい。それから私は名を変え、職を変え、今に至る。

 今この船に乗船している青年、カイ。彼はあのときの事件において、妹であるリリサを自ら手にかけている。そして私を人間へと戻してくれた人物だ。私が《メイジス》を阻止したせいで、《CURSE》と化した妻と長女、私によって、街は全壊、さらには彼の妹の命が失われてしまったことは事実だ。

「彼は、私に復讐しに来たのか……」

 《メイジス》に対する憎しみと、彼に殺されるかもしれないという恐怖から、アルバートの心には負の情念が募っていく。瘴気がアルバートの心を蝕み始める。

「私は……私は……」

 眼球が突出し、額の皮膚を突き破って角が生え出てくる。

 アルバートは悟った。私の心は、もうだめだと。すまない、アリス、アイリーン、キャロン。私はもう……。

「ぐおおおおおおおおおおおぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」

 異形(ファンタズマ)と化したアルバートは、扉を突き破り、廊下へと繰り出す。

「ひ、ひぃ!」

 すれ違った船員の喉元を鉤爪でかっきる。船員は鮮血を吹き出しながら、この世のものとは思えない断末魔と共に息絶えた。

 どこからか声が聞こえる。


「私の名前はディアドラ。ビクイルの民の想いを告ぐ者。どうか、私の想いを、みんなに伝えて」


 そうだ。自分はこの想いを、一人でも多くの人物に伝えなければいけない。返り血に染まったアルバートが目指すは客室のある一階。全員、異形(ファンタズマ)と変えてやろう。

 この場にあまねく瘴気を統べし者、《CURSE》として――。


     ◇◇◇


 物々しい音に俺は目を覚ました。音は、船の内部から聞こえているようだ。

「…………」

 不穏に思った俺は立ち上がり、”可視化”を行う。

「これは……」

 客室のある一階から最上部に構えられた操舵室に至るまで、尋常じゃない濃度の瘴気に包まれていた。

「レイチェル!」

 俺は辺りを見渡す。船首でミルルを抱きしめながらレイチェルは眠っていた。俺はレイチェルに駆け寄り、その肩を揺らす。

「……ううん」

 レイチェルは目を開ける。

「起きろ。船が大変なことになっている」

「え……!」

 レイチェルは上体を起こし、俺の指差した方へと目を向ける。

「何よこれ……。瘴気に覆われて、真っ黒じゃん……。早く行かないと!」

 レイチェルは立ち上がり、《ハートブラスター》を顕現する。

「だめだ。レイチェルはここに残れ。俺が行く。お前はここでミルルを守るんだ」

「……でももし、異形化した人たちが押し寄せてきたら……」

「だからこそだ。そのときは、お前が食い止めろ。俺は、大元の《CURSE》を見つけ出し、始末する」

 まだ未熟なレイチェルを、本当は一人にしておきたくない。しかしリスク分散のためには、こうするしかあるまい。すでに俺の中には確信めいたものがあった。アリアンロッドを敵に回してでもミルルを守ると決断したその心は、そう簡単に折れることはない。ああ、大丈夫だ。今のレイチェルなら、きっと乗り越えることができる。

「……分かったわ、教官。ここはあたしに任せて。武運を祈るわ」

 俺は頷き、《ハートブラスター》を手に、一気に駆け出す。


 内部へと駆け込むと、案の定、異形(ファンタズマ)で溢れかえっていた。ざっと見て、30体。まだ異形と化していない乗客たちは異形の毒牙をかわそうと大混乱だ。だが逃げようにも逃げられない。なぜなら甲板へと至る扉の前には異形が邪魔立てしていたからだ。俺はそいつの心臓を10回ほど連続して穿ち、人間へと戻したことで、逃げ道を作った。堰を切ったように乗客たちは甲板へと逃げていく。追走しようとする異形たちを俺は刃を薙ぎ払うことで食い止める。

 改めて客室が立ち並ぶ一階を見渡す。血なまぐさい臭いが充満し、乗組員の亡骸がそこかしこに倒れている。喉をかっきられ、おそらく即死だろう。俺は迫り来る異形を斬り伏せながら、瘴気の濃度がとりわけ高い場所を目指して進む。今ここにいる異形を全て元に戻している余裕はない。早急に大元を叩き、瘴気を断ち切るべきという判断だ。異形たちは俺を追走してくる。これも作戦の内で、俺に狙いが引きつけられている間は乗客の身の安全が保たれる。

 廊下奥。二階へと至る階段の前に、それはいた。

 二メートルにも及ぶ体長。突き出た眼球。筋骨隆々としたその体躯は、今まで相対してきた《CURSE》の中でも、ひときわ異彩を放っている。かなりの強敵と見て間違いない。

 敵は咆哮すると、腕を振り上げ、俺へと鉤爪を下ろしてくる。俺は体を捻り、繰り出した刃で心臓を穿つ。当然、その程度で人間の姿を取り戻せるはずがないことはわかっている。

 背後に奇襲の気配。俺は後方から迫り来る異形の群れを一太刀で斬り伏せる。

 乱戦だ。俺は数十体の異形と《CURSE》を同時に相手にしている。《CURSE》の攻撃の隙を縫いながら、幾度となく心臓を穿つ。しかし、はっきりとした手応えは掴めない。

「……手遅れか」

 俺は覚悟を決め、《ハートブラスター》を”物理使用”へと変化させる。

 そのときだった。異形たちは俺から距離を取ったかと思うと、扉を突き破り、甲板へとなだれこんでいった。俺を倒すことは不可能という判断からだろう。これも想定していた事態だ。あとはレイチェルに任せるしかない。

 俺は再度、《CURSE》へと目を向ける。

「……悪いな。……俺に、貴方は救えない」

 そして、渾身の力をもって、《CURSE》の心臓に刃を突き立てた。

 断末魔の悲鳴を上げながら仰臥(ぎょうが)する《CURSE》。かろうじて顔だけが本来の姿を取り戻す。

 床に散らばった衣服の破片と、名札から、彼が船長だったことが分かる。

 そしてその顔には見覚えがあった。三年前、俺が相対し、人間へと戻すことに成功した《CURSE》だ。数日して、「申し訳ない」と言って、平伏して、許しを請いてきた。俺は「頭を上げてください」とだけ言ってその場を去った。その後、自殺したと聞かされていたが……。

「……恨んでなんか、いないのに」

 そっと呟いたときだった。床ががくんと揺れた。岩礁にでもぶつかったか。このままだと舵を失ったこの船が沈むのは時間の問題だろう。俺は現役の福音騎士だった頃に実践の経験こそないものの航海術を学んでいる。手探りでどうにか船を立て直すしかない。だが、その前にレイチェルを――。

 そのときだった。轟音が鳴り、その直後――光の波動が俺の真正面を駆け抜けていった。

 俺は咄嗟に身構える。

 壁に空いた大穴から見えるのは、一隻のガレオン船。俺はこの船を知っている。

「……隠密特務師団、《メイジス》か」

 まさかミルル一人をしとめるために、《メイジス》まで召集するとはな……。なかなか手が込んでやがる。

 俺はレイチェルのもとへと走る。

 その間にも立て続けに放たれる光の波動。そのうちの一つが船底を貫いた。海水がなだれ込んでくる。

 ミルルごと船を沈めようという魂胆か。

「目的のためには手段を選ばずってか……」

 まもなく、この船は海へと沈む。

 俺たちが生き残るすべは、ただ一つ。《メイジス》の船を奪い取ることだ。


     ◇◇◇


 遡ること、数分前。カイ教官を見送ったレイチェルは、《ハートブラスター》を構え、戦闘態勢に入った。いつ異形(ファンタズマ)たちによる襲撃が起きてもおかしくない。

 ミルルは眠ったままだ。

 やがて、扉が開け放たれ、乗客たちが助けを求めるようになだれ込んでくる。しかし、誰も彼も、扉の付近で躊躇うように突っ立ったままだ。

「ここは危険だわ! 船首の方に来て!」

 うんともすんとも言わない。乗客たちの目線は、ミルルへと集まっている。

「どうして……」

 レイチェルは奥歯を噛みしめる。ミルルが《ドルイド》だからか。

「とにかく、早く!」

 やはり返事は返ってこない。

 しばらくして今度は異形たちが押し寄せてきた。乗客たちはパニックになり四散する。もはやミルルがどうのこうの言っている状況ではなく、その何人かは逃げ場を求めるようにレイチェルの傍まで集まってくる。

「ぅん……」

 ミルルがうっすらと目を開ける。目の前で起きている光景に、目をぱちくりさせている。

「ミルル、ここにいるのよ」

 レイチェルは《ハートブラスター》を手に、ぱっと見て三十数体はくだらない異形へと迫る。

「見てなさい! あたしが人間へと戻してあげるから!」

 カイ教官のようにはいかないが、着実に一体ずつ心臓を貫き、人間へと戻していく。

 四方八方から迫り来る敵を相手にしているので無我夢中だ。しかもミルルを守りながらの戦いで、より難易度は増している。気がつけば、体には無数の切り傷が刻まれていた。しかし刃を振るう手を止めるわけにはいかない。カイ教官は、自分に期待してここを任せてくれたのだ。教官の信頼を裏切るわけにはいかない。

 異形が押し寄せたことにより、瘴気の濃度もよりいっそう高くなっていく。

 船が、がくんと揺れる。海の方を一瞥する。岩礁に船体がぶつかったようだ。もしかして今、舵を取る人物はいないのだろうか。まさか異形化してしまったということは……。

 息をつく間もなく、戦いは続く。10体目を斬り伏せた。異形が人間へと戻る。しかし、まだまだだ。二十体以上残っている。レイチェルの息は途切れ途切れだ。額から伝う血が目に入り、視野も霞んでいる。

「レイチェル……わたし……もう……」

 ミルルの方へと目を向けると、ミルルの体から凄まじい濃度の瘴気が発せられていた。

「ミルル! 気を確かに!」

 確か、ハーデスと繋がってしまったミルルの異形化を抑えられているのは、自分とカイ教官の心の強さが伝わっているから。しかし、今カイ教官はいない。さらに今、目の前で起きている事態によって、激しくミルルの心は揺らいでしまったのだろう。

 レイチェルは額の血を手の甲で拭い、正面の異形に狙いを定める。そのときだった。一隻のガレオン船が迫ってきた。その帆の色は、黒。甲板には、漆黒のローブを羽織った人物が数多く立っている。

 何だろう、この禍々しい船は……。刮目したそのときだった。放たれた光の波動が、自分のいる船を側面から貫いた。

 床が、大きく揺れる。咄嗟にレイチェルはミルルを抱きしめた。

「ぅぅ……体が苦しいよぉ……」

 ミルルは呻いている。レイチェルはミルルを守るようにその場でうずくまった。異形たちはそんなレイチェルへと、一歩、また一歩と詰め寄っていく。

 よもや、四面楚歌。そんな言葉が脳裏を過ぎる。

 そのときだった。再度船が大きく揺れたと思うと、海水が一挙になだれ込んできた。船が斜めへと傾き始める。異形の一体が振り上げた拳が、振り下ろされる気配はない。

 顔を上げる。カイ教官が颯爽と、レイチェルを取り囲む異形たちを次々と斬り伏せていく。

「大丈夫か!」

「ぅ、うん! あたしは大丈夫!」

「よし、よくやった。大儀だったぞ」

 さすがカイ教官は、練達の士だ。異形たちは、もう周囲にいない。あっという間に全滅させてしまった。人間の姿を取り戻して、気を失っている。

「でも、ミルルが……」

 カイ教官はミルルへと目を向ける。

「瘴気の大元は屠った。直にミルルを包む瘴気も……」

 そのときだった。さきほどの船が目の前へと迫り、そこから黒衣の者たちが乗り込んでくる。

「……こいつらは、《ドルイド》だ。アリアンロッドが差し向けた追っ手と見て間違いないだろう」

「え……」

 胸がざわざわと鳴る。どうしてアリアンロッドが《ドルイド》を取り込んでいるのだろう。

「狙いはミルルだ。即座に殲滅させて、乗客も連れて、船を奪って逃げるぞ」

「……う、うん!」

 二人して《ハートブラスター》を構えたそのときだった。

「残念ですが、そんな悠長に構えている暇はないかと。私の計算では、あと五分でこの船は沈みます」

 そう言って、乗り込んできた黒衣の者の一人が顔を覆うフードを取った。

「「……シェリル??」レイチェルとカイの声が重なる。

「隠密行動は、私の十八番なので、こっそり忍び込ませてもらいました。私の魔術で一網打尽にします。さ、早く、乗客と共に船に逃げ込んでください」

 敵連中は動揺しているようだ。シェリルは詠唱を開始する。数秒ほどして、光弾が天から降り注いだ。それらは黒衣の者たちを狙いうちにしていく。

 カイ教官は叫んだ。

「レイチェル! 手分けして乗客たちを船に運ぶぞ!」

「う、うん!」

 乗客の数は100名。急がないと間に合わなくなる。カイは一足先に乗客の救助を始める。やや遅れてレイチェルが一歩を踏み出したそのときだった。降り注ぐ光弾を器用にかわしながら迫り来る一人の人物。向かい風に煽られ、フードが取れ、素顔が露わになる。

「サイラス教官!」

「レイチェル! ミルルを守れ!」

 カイ教官が、遠くで声を張り上げる。咄嗟にレイチェルはミルルを抱き抱えようとするが、サイラスは前屈みになったレイチェルの鳩尾を踵で蹴り上げた。レイチェルは宙返りになって倒れる。「ミルル!!」

 カイ教官が駆けつけてくる。しかし――サイラスが間髪入れず繰り出した刃は、ミルルの心臓を貫いた。

「ぁぁ!!!!!!」

 ミルルは苦悶の表情を浮かべ、叫ぶ。

「くそ……! 間に合わなかったか!」

 カイ教官は悔しそうに拳を固める。

 しかし様子がおかしい。サイラスはそのまま硬直していたかと思うと――。

 刃が真っ二つに折れた。ミルルの胸からは、少量の血液が溢れているだけだ。心臓を貫いたはすが、刃の先端は骨を断つ前に弾き返されてしまったのだろう。

 レイチェルは思う。……今現在、ミルルから発せられている瘴気は尋常ではない。さらにハーデスを通じて流れ込んでくる瘴気と相まって、サイラス教官でさえも一撃で仕留めることができない。

 刃が折れたことで、サイラスの異形化が始まる。

「これは……」

 カイは目を見開く。

「ぐおおおぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 異形と化したサイラスが吠えた。見境なく、黒衣の者たちを襲い始める。次々と喉元を裂き、辺りには鮮血が噴水のように噴き上がる。

「……行くぞ、レイチェル」

「……うん」

 カイ、レイチェル、シェリルは《メイジス》が擁するガレオン船へと乗り込む。サイラスの追撃をかわしつつ、乗客を導きながら。

 避難が終了したその直後、自分たちを乗せてきた船は海底へと沈んでいった。――異形化したサイラスと共に。


     ◇◇◇


 レイチェルとシェリルは、救出した乗客を甲板に横たえると、丁寧に一人ずつ毛布をかけていく。カイ教官は、船に飛び移るやいなや操舵室へと直行した。異形(ファンタズマ)から人間に戻った人たちは、異形化の際に服は裂けてしまっているので全裸だ。今思えば自分もあのとき、カイ教官に裸を見られていたと思うとちょっぴり恥ずかしい。でもまあ、カイ教官ならいいか。

 針路を北に船が動き出す。これまで舵取りを務めていた《ドルイド》を退け、自ら舵を取ったのだろう。

「私たちも行きましょう!」

「……う、うんっ!」

 小声で呻くミルルを抱きしめ、シェリルに続いて操舵室へと向かう。


 操舵室に駆け込むと、船長と思われる《ドルイド》が縄で縛られ、気を失っていた。舵を取るカイ教官。

 レイチェルはおそるおそる訊ねる。

「……これで追っ手は退けることができたのかな?」

「甘いな。カミラがいる。……それに、サイラスもまだ死んだと決まったわけじゃない」

 カイ教官は正面を向いたまま言った。

「え……でも船は……」

 確かに自分たちを乗せてきた船は、異形化したサイラス教官と共に、海の藻屑となって消えたはずだ。

「忘れていませんか? 私たち《ドルイド》はルーの血を引いているということを。転移魔術なんてお手の物ですよ」

 シェリルは淡々と言うと、ずれた眼鏡を親指と人差し指で掴み、正しい位置に戻した。

「そういうことだ。おそらく、カミラが率いる分隊の船が近くにあるはずだ。そこに逃げ失せた可能性が高い」

「基本的に《メイジス》は、選りすぐりの精鋭の集まりですからねー。三キロくらいの距離なら軽々転移できるんじゃないですか。……私は、調子がいいときで一キロが精々ですけど……」

「ここへ転移して迫ってこられると厄介だ。全速力で北へ向かうぞ」

「ぅぅ……」

 ミルルが、レイチェルの胸の中で呻く。瘴気の濃度は相変わらずだ。

「……このままだとこの子が、異形化するのは時間の問題でしょう」

 シェリルは深刻な面持ちで告げた。

「……でもあたしたちが心を強くもっていれば、それが伝わって……」

「ハーデスが纏う瘴気はあまりにも膨大です。このままでは、二人の想いさえも押しのけて異形化するのは明白……時間はほとんど残されていないと考えるべきです」

「…………」

 レイチェルは言葉を失ってしまう。

「どうしてアリアンロッドが、全国に拠点を設けて、福音騎士を散りばめ、異形化を食い止めることに躍起になっているか分かりますか?」

「それは、異常発生した瘴気を放置しておけば、それに呑まれた人たちが異形(ファンタズマ)となって平穏が脅かされるからでしょ?」

「半分正解ですが、それでは完答とは言えません。今だからこそ、真実を告げましょう。異形化とは、ハーデスが生まれる前兆。――つまり、異形化が完全に終了したのち、心が作り替えられるまでのインターバルを置いて、その時代におけるハーデスが降誕するのです」

「え……」

 心臓が、ばくんと鳴った。

「やはりな……」

 カイ教官は振り返ることなく、まるで最初からその可能性を想定していたかのように呟く。

「ちょっと待って! どうしてそんな大切なこと、誰も教えてくれなかったの!?」

 レイチェルは語気を荒らげた。

「それはですね、王族、為政者、教皇庁幹部、アリアンロッド首脳陣など選ばれし人たちを除いて、秘匿されているんです。庶民にその事実が知れ渡れば、世界は大混乱となり、さらなる瘴気を招いてしまう悪循環に陥りかねませんから」

 絶句する。それはレイチェルにとってあまりにも衝撃的な真実だった。欺瞞に満ちたこの世界で、己が信じる正義を貫き通すなんて夢のまた夢なのかもしれない。だけどそれでも、現実に屈するわけにはいかない。これは自分の意地でもあって誇りでもある。

「一つ聞きたい。どうしてシェリルは、その事実を知っているんだ?」

 正面を向いたまま、カイ教官は言う。

「……身内の恥なので告げるのが躊躇われるのですが……。《オグマ》の内部にはハーデスに取り入ろうとしている勢力があるのです。そう、ハーデスが纏う瘴気を利用するために。そうした動向を阻止するために、いろいろ暗躍していたら、その過程で知ることになりました」

「なるほどな」

 カイ教官は頷く。

「今私が述べたことは真実の一部に過ぎません。依然としてハーデスに関しては不明なことが多いのです。なぜ異形化の果てにハーデスは生まれ出でるのか……。なぜハーデスは瘴気を纏うのか……」

「まるで謎が謎を呼んでいるみたいだわ……」

 レイチェルは嘆息する。

「とにかく、どんな真実が待ち受けていたとしても、俺たちの目的が揺らぐことはない。ハーデスを討ち、ミルルとの繋がりを切り離す。そうだろ?」

「そうね……絶対に果たさなくちゃね」

「そこで、どうだろう? ここは組織の垣根を越えた共闘と行かないか?」

 カイ教官は振り返って、シェリルを見据える。

「ハーデスを討たなければいけないというのは君にとっても同じはずだ」

 レイチェルは目を見開く。

「ちょっと待ってよ、教官。《オグマ》と手を組むなんて……!」

 カイ教官はレイチェルへと視線を向ける。

「考えてもみろ。アリアンロッドは《ドルイド》を取り込み、魔術をものとしている。一方で俺たちに行使できるのは法術のみだ。ならば、目的を達成するためには、俺らも魔術を行使できる人材を引き入れるべきだ」

「……でも、もしミルルを助けたあとに、オグマに引き渡せってことになったら……」

 そう言ってレイチェルは、シェリルを一瞥する。

「それには及びません。望まない人を無理矢理組織に引き入れることは、私の信条に反しますから」

「……悪いけど、信用できないわ。教官はどうなの?」

「後のことは後になって考えればいい」

「ずいぶん脳天気ね、教官ったら。もしかしてシェリルに気でもあるわけ?」

 レイチェルは、どこか不機嫌そうに言った。

「んなはずあるか。シェリルは本来ならば不倶戴天の敵であるはずの俺らに味方してくれただろ? 根は悪くはないはずだ。……そして、シェリルが言うように、俺たちに残された時間は少ない。言い方は悪いが、利用できるものは何でも利用するしかない」

 レイチェルは言葉に詰まる。ぐうの音も出ない正論だった。

 シェリルは、くすりと笑って言う。

「分かりました。利用されることとしましょう。……それに、私も知りたいのです。ハーデスが何を思って瘴気を蔓延させ、死と生の輪廻……永劫回帰を繰り返しているのか。きっと、いえ、絶対に理由があるはずなのです」

「……分かったわ。シェリル。せいぜい期待させてもらうことにするわ」

 レイチェルは、やや不服に思いながらも頷く。

「……とまあ、カッコつけて言ってみましたが、本当の狙いはオグマの主流派を抑制することだったりします。ハーデスの再臨はすでに連中の耳に届いていますから。彼らの暗躍を阻止するには、さっさとハーデスを討ち果たしてしまうのが手っ取り早いのです」

 いろいろオグマには価値観があるんだなと思った。

「よろしくね、シェリル」

 いろいろ思うところはあるが、レイチェルは笑顔を作り、手を差し出す。

「こちらこそ、レイチェル」

 二人は握手を交わした。


     ◇◇◇


 同刻。カミラが率いる《メイジス》第二分隊。甲板に立ち、カミラは思いを巡らせる。

 カイとレイチェルを乗せた船は転覆してしまったが、転移魔術によって、半数の人員を取り戻すことができた。

 檻の中では、異形化したサイラスが鉄格子を揺らして喚いている。人間に戻すのは、もはや不可能だ。アリアンロッドの軍師として指揮を取り、殉職した父から、ハーデスに関してはいろいろと聞かされている。異形化したサイラスが、その次の段階に進むまで、過去の見聞録から、あと一年。サイラスの場合、元が頑強な心なので、もう少し持つ可能性もあるが。あの二人を討つために精々利用させてもらう計略だ。

「悪く思わないでよね……。これも、世界のため。幸せとは、誰かの不幸の上に成り立つものなのよ」

 船には、二〇〇の騎士と、五〇のドルイド。いずれも選りすぐりの精鋭たちだ。これでもほんの一部だ。これから続々と応援の部隊が到着する予定だ。

 ややあって《メイジス》の構成員の一人が、カミラに重大な事実を報告する。例の少女が残していった瘴気の残り香の解析を依頼していたのだった。


「これで、私の仮説は実証されたわ。必ずや阻止してみせる……。これは、私の信じる正義であり、誇りよ」

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