第6話 旅路の果てに
1
丘陵地帯を抜け、広大な草原地帯を突っ走り――視線の先に広がったのは大雪原だった。
「わぁ……」
つい先ほど目を覚ましたばかりのミルルが、感慨深そうに目を見開く。しばらく辺りを見渡していたかと思っていたら、何かを思い出したかのように、
「あのね、わたし……わたしね……もしかしたら……」
ミルルは何かを言いかけて、口を閉ざす。続く言葉は出てこない。ミルルにみんなの視線が集まる。
「……ううん、何でもない」
ミルルは、そこはかとなく悲壮的な面持ちだ。
ミルルもまた、自身の真実へと近づいているのだろう。
淀んだ空気を断ち切るべく、俺はあっけらかんと言って見せた。
「しっかし、ちんちくりんな光景だよな。季節は夏なのに、雪なんてな」
「カイきょーかん。これは雪じゃないよ。よく見てみて」
「ミルルの言う通りよ。まったく教官ったら早とちり」
二人は、顔を突き合わせて、クスクスと笑う。
近づくにつれ、その光景ははっきりしてくる。
「……なるほど、そういうことか」
俺は不覚にも呆気に取られてしまった。それは大雪原ではなく、白ユリの花のみで造成された花畑だった。
「視力がいいんだな、レイチェルもミルルも」
「そんなわけじゃないわ。だってここは、あたしの……」
レイチェルは言う。まるで、決して辿り着けない空の彼方に思いを巡らすような、儚げな眼差しで。
「もう少しでアイシーローグ、終点です」
アイーシーローグ――テーブルマウンテンの麓にあるという村か。遠景に目を凝らすと、花畑の最果てにその村はあった。
「ふにゃぉぉぉぉん……」
みーあんが、小声で呻く。体力が限界のようだ。
みーあんは徐々に失速していき、ちょうど花畑の手前で停止する。そして、うつ伏せになって倒れると、ぜえぜえと深呼吸を繰り返す。
「もう大丈夫だ。ここからは徒歩で行こう」
おそらく人為的なものだろう、花畑を突っ切る小道はまっすぐ山麓のアイシーローグまで続いている。
「こっち、こっち!」
ミルルが手招きをしながら、駆けていく。
「あ~もう、待ってっ!」
レイチェルが追いかけ、その後を俺たちが続く。
「追いついたっ! もう離さないからっ!」
背中からミルルを抱きしめる。
「えへへっ」
抱きしめながらミルルは、幸せそうに笑っている。
「なんだか、見ているこっちまで幸せな気分になってきますね」
俺の隣で、シェリルの顔は綻ぶ。
「ああ、本当にな……」
俺もどこかほっこりしてしまうが、胸は激しくざわついている。それはシェリルも同じようで、一転して表情を険しくすると、
「……ですが、そんなに悠長に構えている余裕はありません。血の匂いが迫っています。早く行かないと……」
耳を済ますと、風に乗って馬蹄の音が聞こえてくる。しかし俺は、
「いいんだ、もう」
あっさりと言った。
「ここは北の果てだ。いずにせよ、アリアンロッドとの戦いは避けられない。もしサイラスが生きているなら、あいつに引導を渡すのは俺の役割だしな。それとな、ミルルは……」
俺は一瞬迷ったものの、シェリルに真実を告げることにした。
「……そうですか」
全てを知ったシェリルは、唇を噛みしめ、視線を落とした。
「分かりました。今は、そうしておきましょう」
「ああ。ミルルには、”今このとき”しかないんだからな」
◇◇◇
レイチェルとミルルは互いに抱きしめ合いながら花畑を転がる。
二人は、まるでこの世の幸福を独り占めするかのような満面の笑みを見せている。
だけど、レイチェルにはこれが見せかけの幸せであることは分かっていた。なぜなら――。
目を凝らす。ミルルを中心として、尋常ではない濃度の瘴気が濁流のように渦を巻いている。もはや自分たちの想いだけでは押さえ込むことができないところまできていた。
今こうして人間の姿に留まることができているのも、もはや時間の問題だろう。
レイチェルの中で募る焦燥感と裏腹に、もしあの場所に辿り着いてしまったら、取り返しがつかないことになってしまうような、そんな気がした。ミルルを助けるために一刻も早く辿り着かなければいけないのに……ハーデスを討ち果たさなければいけないのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。
「ねえ、レイチェル。この花、可愛いね」
ミルルが屈み込んで、一輪の花を指差す。その花弁の形状は、ハートの形に似ていた。
「うん、そうだね」
「可愛いだけじゃなくて、芯も太くて、強そう。きっとこの中で一番強いんじゃないかな? あ、でも、あっちの花も……うぅん、どっちが強いのかなぁ……」
「……どっちが強い」
ふと、ミルルの姿が、あの日のミルフィと重なる。
「…………」
レイチェルの中で、あのときの記憶が去来する。
――ミルフィと再会したのは、ミルフィが孤児院を追われて、およそ一年近く……レイチェルが13才になって、数ヶ月が過ぎた頃のことだった。
レイチェルは、来年に迫ったアリアンロッドの入学試験に向けて、孤児院の紹介で、福音騎士の一部隊に同行させてもらい、直々に手解きを受けてもらうことになっていた。
二泊三日の日程で、場所はハウゼン湖。斜路を下っていけば、フォルキスの里がある。
冬が明けたばかりでまだ肌寒さが残る春の夕刻。ベースキャンプが設けられた畔に腰掛けて休息を取っていたときだった。
『レイチェル……?』
先に気づいたのはミルフィだった。
『ミルフィ……?』
少しばかり大人になったミルフィが、吹きつける北風に髪を靡かせながら、レイチェルに向かって手を振っていた。
『やっぱりまた会えたね!』
レイチェルは感極まってミルフィのもとまで駆けていくと、ミルフィの手を取り、何度も飛び跳ねながら再会の喜びを分かち合った。
『……でもどうしてミルフィがここにいるの?』
『わたしもアリアンロッドに影から協力することになったんだよ』
ミルフィの言うところによると、孤児院を去ったあの日、アリアンロッドのお偉方に声をかけられたらしい。アリアンロッドにも、魔術を行使できる人材が必要だからとのこと。
まさかそのときは、ドルイドのみで構成されたメイジスなる師団が存在するなんてつゆにも思わず、ミルフィ一人だけが例外なのだと思っていた。
ミルフィは散々思い悩んで、それを受け入れることにしたという。事実、そうすることでしか生きていく道はなかったとミルフィは言った。
それ以来、ドルイドのみが集う集落であるフォルキスの里に身を寄せて、魔術を制御するための訓練を受けているのだという。
『あのね、実はわたし、オグマの人にも声をかけられていたんだ。確かにあの人たちの言い分にも一理あると思うけど、賛成はできないっていうか……瘴気をいざなうためにハーデスに取り入ろうなんておかしいよ』
ミルフィもハーデスによって家族を失っている。どんな大義名分で取り繕おうが、そんな提案をミルフィが受け入れるはずがないことは明らかだった。
『ねえ、レイチェルって《ハートブラスター》って使えるの?』
『……とりあえず顕現させることはできるよ』
今日、福音騎士の人に手解きを受けたばかりの法術だ。
『じゃあ、やってみて』
教えてもらった通りに頭の中で術式を完成させる。とりあえず形にはなったが、思いのほか負荷が大きく、イメージが長続きしない。明滅を繰り返し、すぐに消えてしまう。
『う~ん……だめかぁ……。ミルフィはどうなの?』
『わたしも使えるよ』
《ハートブラスター》を一瞬で顕現させると、慣れた手つきで刃を一振りする。
『これって、心の強さがそのまま反映されるんだって』
ミルフィが言い終えたとき、真っ二つに裂かれた木の葉がひらひらと舞いながら湖面に落ちた。
『……今度、試してみない? どっちの心が強いか?』
思いもよらぬ提案にレイチェルは目を見開く。このときは、ミルフィがどうしてそんなことを言っているのか分からなかった。
『……えぇ、やだよ。ミルフィを相手に本気に戦えるわけないじゃん』
『別に命を懸けて戦うわけじゃないよ。ただ、確かめたいの。あれからお互い別々の道を歩むことになったけど、心の在り方は何一つ変わっていないってことを。……心配しなくても大丈夫だよ。きっと勝負がつかないから。そうでしょ? レイチェルもわたしも信じる未来は同じ。どんな過酷な状況にあっても、決して心の刃は折れることはないんだから』
『うん……それだったら……』
レイチェルは弱々しく頷く。はっきり言って、そんなに乗り気ではなかった。ミルフィを傷つけてしまうのが怖い――もちろん、そうした懸念もあった。
だけど本当に恐れていたのは、戦いを通して自分自身の本当の心の強さが明らかになってしまうことだった。
あれから精一杯自分なりに邁進してきたつもりだった。
でも、だめなんだ。ミルフィがいないと自分には何もできない。怖い、不安で仕方なかったんだ。
結局、この約束が果たされることはなかったけど――。
事態が急変したのは最終日の夕方だった。
自分たちの前に、三年前に討伐されたはずのハーデスが姿を現したのだ――。
「ねえ、レイチェル……レイチェルったら、聞いてる?」
自分を呼ぶ声に、はっとする。ミルルがレイチェルの正面に立っていた。
「一つだけ、約束」
「約束?」
「レイチェルは、幸せになってね」
ミルルはレイチェルをじっと見上げ、小指を差し出してくる。
突然何を言うんだろうと思ったが、レイチェルは気丈に笑ってみせた。
「もちろんよ。世界一の幸せ者になってみせるわ」
二人は小指を絡め合う。
「カイきょーかんと一緒にね」
にやり、と笑う。
「も、もう、ミルルったらっ! もし教官に聞こえてたら――」
「あ、そうだっ! ねえねえ、カイきょーかん、こっち来てっ!」
ミルルは手招きをする。
「どうした?」
カイ教官は、早足でやってきた。シェリルとみーあんも、その後に続く。
ミルルが、二輪のユリの花弁のそれぞれに、両手の人差し指を置くと、
「これとこれ、どっちが強――」
言おうとしたときだった。
突如、それらの花弁が鉛色へと変色し、萎れていく。
茎が折れ、真っ二つに割れて、上半分が地面へと落ちた。
「…………」
ミルルは硬直している。
「……気のせいよ。元から折れていたのよ、きっと」
レイチェルはミルルの肩に手を置いて励ますが、ミルルは静かに首を横に振った。
「やっぱり、そうだったんだね。あのときから、わたしは……」
そう言って、全てを悟ったように、うっすらと笑った。
ミルルを中心として濁流のように渦巻く瘴気の濃度は、一気に増していき――。
「……ありがとう。レイチェル……みんな。わたし、幸せだったよ。でも、もう行かなくちゃ」
瘴気に覆い隠され、ミルルの姿を捉えることができない。
カイ教官もシェリルも、まるでそうなることを知っていたかのように、抗うこともなく、じっと立ち尽くしている。
「ミルル、待って!」
レイチェルは、すがるように手を伸ばす。顕現させた《ハートブラスター》で何度も瘴気を貫くが、それはミルルには届かない。
「ミルル! だめ! 行っちゃだめ!!」
「……さようなら」
その言葉と同時に、霧が晴れるように瘴気が発散していく。
そこにミルルの姿はなかった。
「ミルル……」
一陣の冷たい風がレイチェルの頬を通り過ぎていった。
……いや、瘴気は消えたわけではない。移動したのだ。テーブルマウンテンの頂から、瘴気が竜巻のように旋回しながら天に向かって延びている。
「……ハーデス。あそこにいるのね」
そう、ミルルと共に……。
どこからか聞こえてくる馬蹄の音。それは、どんどん大きくなっていく。
振り返ったそのときだった。遙か遠方で、轟音が鳴った。
「え……」
思わずレイチェルは刮目した。
轟音の後、わずか三秒にも満たない間に、直径三メートルはあると思われる巨大な光球が大地を駆け、目の前まで迫ってきた。
咄嗟にレイチェルとカイは、それぞれ左右に跳んだ。みーあんもレイチェルの方へと駆けてくる。しかしこのままだとアイシーローグ、そしてその奥にそびえるテーブルマウンテンに直撃する……!
テーブルマウンテンの頂にいるはずのハーデスごと、滅しようという魂胆か。
シェリルは立ち尽くしたままだ。
「「シェリル!!」」
二人の声が重なる。
光球がシェリルを撃ち抜こうとしたそのとき、シェリルの魔術が発動した。シェリルの右手の掌から同程度の威力の光球が放たれ、互いの勢いが激突する。
二つの光球は弾け飛んだ。
「はぁ……はぁ……」
シェリルはその場でひざまずいた。
「……ごめんなさい……反動がすごすぎて……」
その間にも、南方から騎兵隊が迫り来る。ぱっと見て、その数は、およそ千は下らない。
シェリルはおもむろに腰を上げた。
「にゃお……」
みーあんが、シェリルへと近づいていく。だが、
「来ちゃだめです!」
シェリルが声を張り上げた。みーあんは体をびくっと震わせ、立ち止まる――そのとき。
輝く糸がシェリルを雁字搦めにして、シェリルを捕獲した。
「あぁ……っ!」
シェリルは虚空へと引っ張り上げられ、そのまま南へと連れ去られる。
「にぁあ!!??」
みーあんは目を見開き、毛を逆立てる。
「教官!」
すがるようにレイチェルはカイ教官を見つめる。だが、カイは微動だにせず、《ハートブラスター》を顕現させた。物理使用だ。
そしてレイチェルへと、にじり寄るように近づいてくる。その眼差しは、いつになく鋭い。まるで、人を殺す覚悟を決めたかのような……。思わずレイチェルは身震いする。
「……教官?」
直後――カイ教官は、刃をレイチェルの心臓めがけて繰り出してきた。常人ならば、目に捉えることさえできない速度だ。
信じられなかった。
瞬時にレイチェルは《ハートブラスター》を物理使用で顕現させると、それを弾き返す。
「……教官! どうして、そんなことを……!」
カイ教官は、刃を引っ込め、静かに言う。
「この反応速度……強度……。いいだろう。及第点だ、レイチェル」
「……え?」
カイ教官は背中を向ける。
「さあ、行け。ここは俺に任せろ」
「……ちょ、ちょっと待ってよ! 軽く千はいるわよ!?」
前衛隊は、およそ50メートルの距離まで迫っている。
「見くびるな。俺は、《無敗の剣聖》だ」
その声音から、レイチェルはカイの覚悟を悟った。
レイチェルはテーブルマウンテンの頂を仰ぐ。カイとレイチェルは、互いに背中をつき合わせる格好だ。
「……カイ教官ったら冷たいのね。あたし一人で、ハーデスを討ち取れなんて」
「大丈夫だ。今のお前ならできる。真実をその目で見据えろ。そしてそれを越えていけ」
レイチェルは拳を固め、こみ上げる感情をぐっと堪える。
「分かったわ。あたし、行くよ。絶対に生きて、再会しようね。絶対に、絶対に、死なないでね?」
「お前もな」
そしてレイチェルは振り返ることなく、地面を蹴って、走り出す。
目指すは、テーブルマウンテンの頂。
「……待っててね、ミルル。今すぐ、行くから!!」
2
俺は、最後に一度だけ振り返って、レイチェルの背中を見送った。ここからは、それぞれの闘いだ。
みーあんは俺の足元で縮こまっている。俺がそっと背中を押し出すと、俺の気持ちを察してくれたのか、どこかへと走っていった。
「さて……」
改めて、向き直る。十メートルほどの間合いを置いて、優に千は下らないであろう騎兵の布陣。現役時代に戦線を共にした顔ぶれも少なくない。
《メイジス》は、向かって右側に構えている。その数は、おおよそ百くらいか。
シェリルは光の糸に雁字搦めにされて、《メイジス》の中衛の上空……おおよそ地上三メートルほどの位置に浮かんでいる。
騎兵隊の前衛に立つカミラが、俺に向かって粛々と告げる。
「カイ。貴方ほどの切れ者なら、もう気づいているでしょう? ……そう、今代におけるハーデスの真実に。……さあ、ここを退きなさい」
「馬鹿め。退けと言われて退くやつがいるか。俺は全てを知った上で、レイチェルを最後まで導くことを決めたんだよ」
「もう一度言うわ。投降しなさい。さもなくば――」
カミラは、指をぱちんと鳴らす。すると、シェリルに巻き付いていた糸が、シェリルの体に食い込む。
「……ぅぅっ……あぁ……!!」
身悶えるシェリル。体の至るところから鮮血が溢れ出し、地面に血溜まりができる。
「…………っ!」
どうやらこの糸には殺傷性があるようだ。このままだと全身を切り裂かれてしまう……。
シェリルの生命力に賭けて《メイジス》を殲滅させるか……。しかしこれだけの数を相手にするとなると、秒殺というわけにはいかない。その間にシェリルが事切れてしまえば元も子もない。
束の間の逡巡。
シェリルは悶え苦しみながらも、俺に目配せを送る。シェリルは、前衛に立つ一人のドルイドを目線で示した。
俺はこれで全てを察した。
地面を蹴り、颯爽とそのドルイドへと迫ると、刃で喉をかっ切った。――その間、約一秒。
「ぐああああああぁぁぁぁぁっっ!!」
断末魔の悲鳴が響く。首から鮮血を吹き上げながら、仰臥するドルイド。
術式を展開していたドルイドを殺したことで、光の糸が消滅し、シェリルが解放される。地面にうつ伏せに倒れた。
「あ……ありがとう……ございます……」
耳を済まさないと聞き取れないほどの小さな声で礼を言うと、目を瞑る。気絶したのだろう。
「さて、と」
俺は振り返る。目の前には千を超える大群。それらの半数は馬から降り、残りの半数は馬に乗った状態のままだ。地上と頭上の両方向から、俺を仕留める作戦なのだろう。
見知った顔ぶれと刃を交わすのは気が引けるが、俺にも譲れないものがある。無駄だと分かりつつも、俺は一言告げる。
「警告だ。死にたくなければ、去れ」
返事は返ってこない。
これで、迷いは完全に吹っ切れた。
どこかで、「かかれ!」と、野太い男の声で号令がかけられる。
――賽は投げられた。
決して引けない戦いの火蓋が切って落とされる。
俺は、縦横無尽に駆けめぐりながら、一人一人、確実に撃破していく。
一秒につき二人のペースだ。
もっと速度を上げていきたいところだが、しばらくの間は、気絶した状態のシェリルへと迫り来る敵を優先して斬り伏せていかなければならない。
「馬鹿な……! 残像さえも追えないなんて!」
辺りがざわつき始める。
敵とはいえ、命までは奪いたくない。なるべく急所となる部位は避けながら、戦闘を続ける。
「ひ、ひぃぃぃぃ!!」
数人の騎士が、恐れを成して馬を率いて逃げていく。
……ああ、それでいい。俺だって無用な犠牲は出したくない。
宙を駆ける光弾――。
爆破される大地――。
粉塵が舞い散り、正面から背中から上空から、次々と繰り出される《ハートブラスター》――。
それらを全て見切りながら、俺は刃を振るい続ける。
シェリルに接近する騎兵や騎士たちを粗方退けたときだった。
「ぐにぁお~~~~んっっっ!!!!」
みーあんが駆けてきて、シェリルを口で咥えると、どこかへ消えていった。こんな状況にも関わらず、つい顔が綻んでしまう。みーあんは、ずっとシェリルのことを気にかけていたんだな……。
これで俺も安心して戦える。
さて、次に俺が狙うは、散り散りになったドルイド。
そうだ、真っ先に殲滅させるべきは《メイジス》。なぜなら魔術に関しては俺は門外漢だからだ。ならば魔術を使われる前に蹴散らしてしまえばいい。攻撃こそが最大の防御だ。
詠唱を始めているドルイドから次々と戦闘不能へと追い込んでいく。
殲滅まで、約五分。
残るは、アリアンロッドの精鋭たちだ。辺りを見渡すと、どうやら俺は取り囲まれたようだ。
馬がいななき、円の中心にいる俺に向かって一気に迫ってくる。俺は刃を一回転させると、その風圧で、それらを退ける。陣形は崩れた。
《無敗の剣聖》としての血が騒ぐ。俺は、現役を下りたはずなのに。もう戦わないと決めたはずなのに。なるほど、これが運命の悪戯というやつなのだろう。
敵軍の数は、どんどん減っていく。
辺りには血の匂いと、瘴気が充満している。
白ユリの花畑は、踏み荒らされ、グシャグシャだ。
刃を振るいながら、俺は思う。殺さずにして戦闘不能に追い込むというのは、リスクと隣り合わせだ。しかし、それでも俺は殺したくない。今目の前で、俺を全力で殺しにかかってきている相手であったとしても。
きっとこれが俺の”意地”なのだろう。
だが千にも及ぶ大群を、不殺にして退けるのは現実的に不可能だ。俺は、わずか数分の間に、決して少なくない数の命を奪ってしまった。そして今もまた、心臓を穿たれた騎士が絶命する。
もしかすると、俺が本当に相手にしているのはこれらの騎士連中ではなく、理想と現実の間で激しく揺れ動く俺自身の心なのかもしれない。
無我夢中で刃を振るい続け、やがて、残りは数十人となった。
「カイ!!」
乗馬したまま迫り来るは、カミラ。
俺は跳躍し、刃を振りかぶると、カミラの右腕を切り落とす。
「くっ……!」
カミラは馬から転げ落ち、うつ伏せに倒れ込んだ。奥歯を噛みしめ、俺を睨みつける。
「……こうなったら……。”隠し玉”を放ちなさい!」
そう叫ぶと、カミラは気絶した。
「……隠し玉」
宙を駆け、俺に飛びかかってくるのは、一体の異形(ファンタズマ)。
「……サイラス」
三メートルほどの背丈。大量の瘴気を吸い込まされたのだろう、ただの異形とは格が違う。全身の筋肉は山のように盛り上がり、両手の十本の爪は、一メートル近くにまで達している。
サイラスはその爪で、近くにいた騎士の喉をかっきった。
断末魔の叫びが響きわたる。
そして、牙を剥き出しにして不敵に笑い、その爪を俺の面前へと突きつけてくる。切れ味を俺に見せつけているのだろう。
日は暮れ、夕焼けに染まる空。
俺とサイラスはしばらくの間、無言で向かい合ったあと、互いに地面を蹴って駆け出し、二つの勢いが交差する――。
3
レイチェルは全速力で山道を登っていく。標高は約700メートル。見慣れた道だ。そう、かつては何度も通った道。
頂に近づくにつれ、風は強まり、瘴気の濃度も増していく。常人ならば、一分と持たずに異形化してしまうほどの濃度だ。
走りながらレイチェルは、あの日のできごとに思いを馳せる。
――異変が起きたのは、最終日の夕方だった。
谷底の集落、フォルキスの里に突如として瘴気が溢れ出した。
もともとここは、ドルイドの隠れ里として機能していた場所だ。ミルフィも孤児院を追われて以来そこに身を寄せて、師匠から魔術の指南を受けていた。
そういった性質上、元からここが瘴気に見舞われることは珍しいことでもなかったという。だけど今回ばかりは異常だった。≪CURSE≫が発生したとは言え、これほどの瘴気に溢れることはまずあり得ない。
『なんなの……これ……』
混乱の中、レイチェルとミルフィは高台に立ち、灰色に染まりゆく空を見つめていた。
まるで、ハーデスが現れて、自分の家族を、故郷を奪っていったときと同じような空だ。
『まさか……ハーデスが……』
ミルフィの予見は現実のものになった。
沢をつたい、集落の近くまで降りてきたレイチェルは、思わず息を呑んだ。三メートルはあると思われる長身。返り血でも浴びたような真っ赤なローブを纏い、背中には漆黒の翼を生やしている。
溢れる瘴気で次々と異形化していく人たち。
近隣に常駐していた福音騎士たちが駆けつけ、住民の救助とハーデスの討伐が開始される。
心を強く持っていないと、自分たちまで瘴気に呑まれてしまうだろう。そう判断したレイチェルたちは来た道を引き返し、離れた位置から、福音騎士とハーデスとの戦いを見守ることにした。
『おそらく、この子は生まれたばかりのハーデス。記憶を全て継承し切れていない。安心して。すぐに退治されると思う』
『何がなんだかさっぱり分からないよ……』
命からがら逃げ出してきた人たちが泥まみれになりながら沢を上っていく。
今戦っている騎士たちだけではこの場を凌ぐのが精一杯だった。
三時間後、中央大陸から駆けつけてきた精鋭たちが加勢に加わり、ハーデスは討伐された。
しかし今にして考えれば、たったの三時間で中央大陸から北大陸まで駆けつけられるはずがない。ドルイドの転移魔術が使われていたのだ。
凄まじい絶叫と共に、前のめりになって倒れるハーデス。
再び起き上がる気配はない。瘴気の濃度も薄まっていく。
レイチェルやミルフィを含め、その場で待機していた人たち全員が堰を切ったように集落へと駆け込んでいく。
誰もがこれで終わったと思った。
木造の民家を下敷きに、うつぶせになって倒れたハーデスは、悲鳴とも叫びつかない声を上げていた。
敵ながら、哀れに思えた。同情なんかしないけど、せめて一思いに殺してあげればいいのに――そう思ったときだった。
ハーデスはおもむろに起き上がると、背中の翼を羽ばたかせ、空へと飛翔していく。
その場にいた誰もが、息を呑んだ。滞空したままハーデスはミルフィを、その赤黒い唇で、まるで見定めているようにも見える。
ミルフィはハーデスを見上げながら呟く。
『この子は言っている。……一人で朽ち果てるのはあまりに寂しい。だから同じ血を引くわたしに一緒に来てほしいって』
レイチェルはすぐに察した。きっとハーデスはミルフィを道連れにするつもりなんだ。
『行っちゃだめだよ……ミルフィ?』
『うん、分かってる……』
ハーデスが吼える。
『違う。ただ、お話がしたいだけだって……。話を聞いてあげるだけなら、わたし……』
『だめ! 絶対に行っちゃだめ!』
ミルフィは振り返って、レイチェルを見た。儚い目だ。
『……ねえ、レイチェル。わたしはドルイドだから……。この子の命はもうすぐ尽きる。こんなわたしでもこの子の最期を看取れるなら――』
『ミルフィ! 血迷わないで!』
そのときだった。
『……!!』
暴風が吹いた。レイチェルの華奢な体はあっけなく吹き飛ばされてしまった。背中から岩壁に勢いよく叩きつけられる。そして間髪入れず、無数の棘が飛来してきて、レイチェルの頭上を掠めて背後の岩壁に突き刺さった。後数センチずれていれば、額に突き刺さっていただろう。
悪寒が走った。しかし恐怖を噛み締める余裕さえも許されず、再び無数の棘が放たれる。それらはレイチェルの眼前まで迫り、その場で滞空した。
レイチェルをじっと見据えるハーデス。その表情こそ窺えないものの、まるで邪魔をするなと言っているように感じられた。
『ぁぁ……』
全身が青ざめていく。思い起こされるは、あの日の光景。そう、自分の生まれた街が滅亡に追いやられた日のあの禍々しい光景――。
レイチェルは足がすくんでしまって動けない。どうしていいか分からない。ミルフィは、おもむろにハーデスに向き直る。
『……うん、いいよ。お話、聞いてあげる。その代わりレイチェルのことは見逃してあげて』
『だめ! ミルフィ!』
力の限りに叫んだ。
『大丈夫だよ、レイチェル。ちょっとお話をしてくるだけだから』
そう言って、ぎこちない笑みを見せる。
ミルフィは自分を守るためにハーデスのもとへ行こうとしているのだ。
――止めなきゃ! でも、どうやって……? 体が動かない。恐怖で、もはや言葉すら発することができない。溢れてくるのは涙だけだ。
――どうして? 今、あたしが止めなければ、ミルフィは死んでしまうのに……!
あの日、多くの人が自分の目の前で死んでいった。
瓦礫に潰された遺体。異形(ファンタズマ)に追い詰められ、喉をかっきられて、鮮血を撒き散らしながら絶命していく子供。
心臓の鼓動が激しくなる。
『あ……あ……』
ミルフィとハーデスの距離が縮まっていく。
……止めないと。……早く行かないと!
でも動かない……体が動かない。
――真っ赤な血、大量の亡骸。あの日、自分は何もすることができなかった。我が身可愛さで、必死に走り続けていた。
助けて、という声を無視して。すがりついてくる人を振りほどいて。目の前で異形(ファンタズマ)に行く手を阻まれている子供を見てみないふりをして。
何も変わらない。あのときと同じ、無力な自分。
『……怖い……怖い……助けて……死にたくない』
気がつけば、レイチェルはそんな言葉を口走っていた。
『ねえ、レイチェル』
ミルフィは足を止め、振り返る。
『もしわたしが帰ってこなくても、これから先どんな困難が待っていても、笑顔を絶やさないこと。約束して』
『やだよ……。そんなのって……死ににいくようなもんじゃんっ! 約束なんてできないよ……』
『約束して。お願い』
いつになく真剣な眼差しだった。その迫力に圧倒されて、レイチェルは静かに頷いた。
『ありがとう。やっぱりレイチェルはそうじゃなくっちゃ』
ミルフィは満足げに笑う。
――これが、最後に見たミルフィの笑顔だった。
ミルフィは一歩、また一歩とハーデスへと足を進めていく。
やがて、その足元まで来て――。
死にかけのハーデスはそのローブでミルフィを覆うと、にやりと笑った、そんな気がした。
――間髪入れずに起こる大爆発。
煙が引く。そこには、倒壊した家屋の瓦礫だけが無残に散らばっていた。
眼前で滞空していた棘が乾いた音を立てて地面に落ちた。
『ミルフィ……』
歓声が上がる。みんながみんな肩を組んで、ハーデスの消滅を心から喜んでいる。
『何がそんなに嬉しいの……?』
ミルフィも一緒に消えてしまったのに。
『何がそんなに嬉しいのよ! 笑ってるんじゃないわよ! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っ!』
髪を振り乱し、レイチェルは誰彼構わず掴みかかっていく。
だけど分かっていた。この自分に、誰も責める資格はないということを。
あのとき、あたしがハーデスの脅しに、怯むことがなければ。
あのとき、あたしが即座に≪ハートブラスター≫を顕現させて、目の前の棘を叩き割ることができていれば。
あのとき、あたしが己の恐怖に打ち勝ってミルフィを連れて逃げることができていれば――。
ミルフィは死なずに済んだのだから。
――これが、あたしの罪。どんな理屈で取り繕おうが、我が身可愛さで、親友を犠牲にしてしまった事実には変わりがない。
そう、これは、あたしが一生をかけて背負うべき、決して贖いようのない罪業――。
4
闇は、いっそう深まっていく。
闇の中で、レイチェルは微かに声を聞いた。
……私の……はディアドラ。……ビクイル……想い……継ぐ者……私の想いが……世界中の……伝わって……信じて…………。
それは、いつの日か聞いた声。
木は枯れ、地面にはまるで巨大な爪で抉り取られたような亀裂がいくつも刻まれている。
頂へと着いた。
呼吸を整えながら、一歩一歩を踏みしめながら歩いていく。
今や、廃屋になってしまった孤児院。枯れてしまった井戸。
そして、夕焼けに染まった空へと竜巻のように旋回しながら延びていく瘴気の渦。
その中心に、ミルルは……いや、ミルフィは――冥導の姫神ハーデスは背中を向けて立っていた。
金色の髪が揺れている。ハーデスではなくミルフィの姿のままで。
「……確かにこれは、あまりにも非情な現実ね」
レイチェルはそっと言うと、ミルフィはおもむろに振り返った。
「来てくれたんだね、レイチェル」
「当たり前じゃん。だってあたしたち、親友でしょ?」
「うん、そうだよね。レイチェルなら来てくれるって思ったよ。だからこの姿で、ずっと待っていたんだよ」
ミルフィは虚空を仰ぐ。
「ハーデスの記憶を全て継承した今のわたしなら分かるんだ。どうしてわたしがハーデスとして、レイチェルの前に再び姿を現すことになったのか……ううん、それだけじゃない。初代のハーデスが生まれた理由、何度も永劫回帰を繰り返しながら記憶の継承を続けている理由……手に取るように分かるの」
今ここにいるのは、記憶を喪失していて、たどたどしく喋っていた"ミルル"とは違う。ミルフィとしての本来の人格を完全に取り戻している。
「……あのとき、確かにミルフィはハーデスと一緒に死んだはずだった」
レイチェルの脳裏に、ハーデスが纏うローブに覆われたミルフィの姿が蘇る。
「違うよ。あのとき、まだわたしは生きていたの。瀕死のハーデスは、わたしを連れて爆発に紛れて姿を消した。人知れず、わたしに記憶を引き継ぐために、ね」
「……記憶を引き継ぐ?」
「今から二千年前――ひとつの時代が終わりを告げた」
「メグ=メルのことだよね?」
「どうして終焉に至ったのか、分かる?」
「それは瘴気が蔓延したからでしょ?」
ミルフィは、ぎこちなく微笑する。
「わたしが聞いているのは、そうなるに至った原因だよ?」
「……人が人として在る以上は、負の感情を持たずに生きるのは不可能だから、だよね? そうした感情が積み重なってメグ=メルが終わりを迎えた。ミルフィだってそう言ってたじゃない?」
「それじゃあ模範解答に過ぎないよ。本当はそのとき、ルーの血を引くドルイドの一部族――ビクイルの民が滅びかかっていたの。メグ=メルの終焉を恐れる為政者たちの手によってね」
「…………」
「ビクイルは、世界に働きかけるために不可欠とされる"詠唱"を必要とせずに魔術を行使することができた。それだけルーの血を濃く継いでいたの。だけど彼らは世界と深く繋がっているがゆえに、ちょっとした感情のぶれで魔術を暴発させることもあった。ひとたび怒りに囚われれば、周囲にいる人を巻き込んで大爆発を引き起こしたりといった具合にね。……だから、生きているだけで彼らは疎ましがられたの。この血は後世に残してはいけない。放置しておけば、そう遠くない未来に世界全体が瘴気に呑まれてメグ=メルが終わりを迎えてしまうだろうってね。こうして"魔女狩り"が始まった」
ミルフィは嘆息すると、続ける。
「……そして恐ろしいことにメグ=メルによる恩恵を享受していた人たちは、その政策に異を唱えようとはしなかった。だって、自分たちの幸せが終わってしまうのが恐ろしいから」
「じゃあ、最初に思い出した暗い洞窟に閉じ込められていたときの記憶というのは……」
「そう、ビクイルの民最後の生き残りの"初代のハーデス"の記憶だよ。多分、彼女の同胞が、彼女たちの存在を知られないようにあえて洞窟に閉じ込めたんだと思う」
「……そうだったのね」
レイチェルは頭を垂れる。
「だけどそういった抵抗も空しく、一人、また一人と追い詰められて殺されていった。そして最後には一人の少女だけが残った。彼女の名前がディアドラ。だけどそんなディアドラ自身もまた今にも殺されようとしていたの。そこで彼女は考えた。今自分が死んでしまえば、誰もビクイルの民の想いを受け継ぐ人はいなくなってしまう。自分たちが生きた証を後世に残したい。
――そして、彼女は世界と契約した。
始祖ルーが、かつてそうしたようにね。世界は彼女を受け入れ、彼女の想いだけがこの世に蔓延する瘴気と同化することになったの。そうして、最初のハーデスが誕生した――。
ビクイルの民を断絶させようという人間の悪意と相まって、急速に瘴気は拡大していった。そしてメグ=メルは終わりを迎えたの。これが真実だよ」
レイチェルはおもむろに顔を上げる。
「じゃあ、異形化というのは……」
「そうだよ。想いを継承する過程で起きる副作用なの。人間の負の情念に寄生し、時間をかけて想いを刻み込んでいく。だけどディアドラの想いはあまりに強力。その過程でその人固有のマナのバランスが失われ、人は本来の姿を保てなくなってしまうの。それこそが異形化。そう、ドルイドが使う魔術によって世界がマナのバランスを崩してしまうようにね」
「まさか、そんなからくりがあったとはね……」
ミルフィは、にこりと笑う。
「わたしはディアドラの気持ち、分かるよ。自分たちが生きた証を残したい。そんな純粋な気持ちが少しばかり行き過ぎてしまっただけなの」
「だけどそれは世界を侵食する……」
「その通りだよ。悲しいけど絶たなければいけないの」
ミルフィは儚げな目で、《ハートブラスター》を顕現させると、その切っ先を自らの喉元に突きつけた。
「わたしとしては、このまま喉を切り裂いて命を絶ってもいいの。……でも、できなかった。……わたしの中にいるハーデスの悲痛な叫びが痛いくらいに伝わってくるから。そう、今のわたしはわたしであって、わたしではないの」
「……ミルフィ」
レイチェルは小さな声で言う。
「――もう分かるよね、レイチェル?」
レイチェルは無言で頷くと《ハートブラスター》を顕現させる。
「やっと約束が果たせるね」
ミルフィは満足そうに笑う。
いつの日か、ミルフィが口にした言葉が思い起こされる。
『……今度、試してみない? どっちの心が強いか?』
「……その前に一つだけ教えて。どうしてあのときの姿のままで、あたしの前に現れたの?」
ミルフィは、かぶりを振る。
「それは、わたしにもよく分からない。ただ、あのとき《ハートブラスター》で貫かれたことで、一時的にわたしはハーデスとしての記憶を失ってしまった……だから、無意識のうちに、かつてのわたしの姿を呼び起こしてしまったんだと思う」
確信した。たとえハーデスなどという得体の知れない存在になってしまったとしても、ひとたびベールを剥がしてしまえば、自分が知っているミルフィそのもの。ハーデスとはいえ、根底にあるものまでは作り替えることはできないんだ。
「そして今は無理やり、わたしの中にいるハーデスの力を抑制することで自我を保ってる。……でも、それもいつまで続くか分からない。だから、討ち取るなら、今しかないんだよ、レイチェル」
冷たい風が吹く。
「ミルフィ、ごめん……今から謝っておくわ。もし、この戦いにあたしが勝ってしまったらミルフィは……。でも、絶対にあたしが勝たなければいけないの。それだけは譲れない。ミルフィに引導を渡すことができるのは、このあたししかいないんだから!」
レイチェルは確固たる意志をもって、己の心の刃をミルフィに向かって突きつける。
「うん、そうだよね。でもわたしにも譲れないものがある。ハーデスの想いを全て受け継いでしまった以上、わたしにはハーデスの想いに応える義務があるの。だから、わたしも本気で戦わせてもらうよ?」
レイチェルは頷く。
これ以上、言葉はいらないだろう。
互いに地面を蹴って、駆け出す。
己が心を、その手に携えて――。
5
俺が刃を振るうと、サイラスもまたそれを右腕の五本の鉤爪で受け止める。
「ぐおぉぉぉぉっ……」
サイラスは低く唸る。
息を合わせたように俺もサイラスも後方に飛び退き、距離を取った。
互いに目を見合わせると、サイラスは一気に距離を詰めてきて、俺の喉元めがけて右手の鉤爪を突き出してくる。
俺は渾身の力をもって、それを受け止める。
「ぐおおおおあああっっっ!!」
サイラスは威嚇するように咆哮を上げる。
もはやサイラスとしての自我は喪失しているようだ。
……こうなったら、俺が葬るしかない。
再度、距離を取る。
刃を構えた右腕に力を込めると、突きの連続をしかける。サイラスはそれに怯むことなく、俺が繰り出す一撃一撃を全て弾き返す。
俺も全力だ。緩やかに後方に押し出されていくサイラス。さきほどの激戦で大地に穿たれた大穴に背後を阻まれる。
「ぐぉぉぉ……」
サイラスは困惑するように唸った。俺はその一瞬の隙を見逃さなかった。一気に心臓を貫く……はずが、サイラスは地面を蹴り、跳躍した。
「……っ!!」
サイラスの姿を見失う。勢いのままに繰り出した刃は止めようがない。それは虚しく虚空を掠った。
俺がバランスを崩して前のめりになったとき、狩り残した残党共の数十人がここぞとばかりに、俺に迫ってくる。
俺は即座に体の重心を戻し、刃を横に薙ぐことで、それらの勢いを風圧だけで退けた。
そのとき、背後に殺気――。
瞬時に振り返る。
サイラスが宙で反り返りながら、俺の脳天目がけて右手の鉤爪を振り下ろしてきた。横に跳び、すんでのところでそれをかわす。
俺が着地すると同時に、サイラスも地面に足をつく。
……俺がここまで苦戦した相手は、サイラスが初めてだ。
何しろ相手が相手なだけに一筋縄ではいかないことは承知していたが、これでは肉薄することさえもままならない。
俺は歯を食いしばる。
もはや、化物と化したサイラスを討ち果たすことができるのは俺しかいない。
しばらく睨み合う状態が続いたあと、互いに息を合わせたように突っ込んでいく。
――俺が斬る。サイラスが薙ぐ。俺がかわす。サイラスが突く。
わずか一秒の間に繰り出されるこれらの動作を目で追うことができるのは、俺とサイラスしかこの世界に存在しないだろう。
「ぐおおおあぁぁぁぁっっ!!」
サイラスが激しく咆哮を上げながら、右手の鉤爪の先端を俺に突きだしてくる。
俺は横に跳びそれをかわすと、背後の樹木が横に真っ二つに割れ、倒伏する。
間髪入れず、サイラスは距離を詰め、右手の鉤爪を垂直に振り下ろしてくる。咄嗟に飛び退いた。
この俺が冷や汗をかくほど、凄まじい速度と強度だ。
さっきまで俺がいた場所が、震動と共に、音を立てて崩れ始める。大地に大穴が穿たれ、近くに散らばっていた騎士の亡骸がそれへと吸い込まれていく。
背筋に悪寒が走った。
「ぐおらああああぁぁぁっっ!!」
気がつけば、すぐ目の前まで鉤爪の先端が迫っていた。……だめだ。完全に追えなかった。即座に体を翻すが、かわしきることができず、右の肩口が抉れてしまう。
傷口から血が噴射する。
「ぐっ……っ!」
激痛が走り、つい俺の右腕から力が抜けてしまう。その影響で《ハートブラスター》を強制的に消失させられた。
……しまった、と思ったその矢先、
「ぐおああああぁぁっ!!」
俺の胸ぐらをサイラスが掴み、顔の位置まで一気に引っ張り上げた。
「……くそっ!」
俺は必死にもがきながら、踵でサイラスの胸部を何度も蹴り上げるが、全く動じる気配はない。
サイラスは、にやりと笑ったかと思うと、俺の喉仏に鉤爪を押し当ててきた、
「……っ!」
サイラスが今この瞬間に鉤爪を引けば、俺はあっという間に事切れてしまうだろう。
一秒にも満たない時間に、サイラスと過ごした日々の記憶が駆け抜ける。……なるほど、これが走馬燈というやつか。
サイラスと出会ったのは、俺が20歳になったばかりの頃だった。
《無敗の剣聖》などと持て囃され、俺もどこかしら気が緩んでいたところもあったのだろう。俺の不手際で、迫り来る異形(ファンタズマ)からリリサを守りきることができず、リリサに重傷を追わせてしまったことがあった。
俺は虫の息のリリサを背負い、荒野を死に物狂いで駆けていた。
迂闊なことに、この程度の相手なら俺一人で大丈夫だと言ってしまったばかりに、今回の殲滅作戦においてパーティは組んでいなかった。誰にも助けを求めることはできない。
狩り残した異形(ファンタズマ)は、容赦なく追撃してくる。
リリサを背負った状態では満足に戦うことはできず、俺の全身は傷だらけになっていた。
このとき、俺は初めて自分の慢心に気がついた。
俺がもう少し賢明であったなら、こんな目に合わずには済んだんだ。
『ごめんな、リリサ……』
諦めかけたそのとき、俺は感じた。自身の心に瘴気が取り込まれていくのを。
リリサも、異形化が始まっている。
まさか《無敗の剣聖》の最期が異形なんてな……。非情にも程があるだろ……。
そう思ったとき、目の前を一陣の素早い風が駆け抜けていった。
それは、俺を取り囲む異形を、次々と蹴散らしていく。
この俺が思わず刮目してしまうほどの、凄まじい速度と強度だった。
そしてそいつは、満身創痍の俺に、そっと手を差し出してくる。
『……ったく。これだから、”孤立無援の騎士”とやらは信用ならねぇんだ』
これが、サイラスとの出会いだった。
それからはほとんどの時間を、俺とリリサ、サイラスの三人で共に過ごした。
もしかすると、これが俺の青春だったのかもしれない。
今にして思えば、宝石のように輝かしい日々。
きっと、これらの日々があって、今の俺があるのだろう。
……ああ、そうだ。今の俺は、これらのかけがえのない思い出たちに支えられているんだ。
それは俺の誇りでもあって、意地でもあって……。
……だから、こんなところで負けるわけにはいかないんだ!!
俺は渾身の力でサイラスを蹴り上げると、サイラスの体躯は、わずかに怯んだ。
俺は《ハートブラスター》を再び顕現させ、俺を掴み上げていた五本の鉤爪を叩き割る。
「ぐるうううぅぅっっっ!!」
サイラスは右腕を引っ込めると、左腕で応戦してくる。
俺は、ほとんど無意識のままに刃を振るい続ける。
こういうとき、知識や経験なんてほとんど意味を為さない。肝要なのは、己の折れない心。それだけだ。
不撓不屈の意気で、刃をぶつけ合う。
接戦が続く。
拮抗状態が続いていたが、俺がさらに力を振り絞ったことで、サイラスの体はじりじりと後方に押し出されていく。その先には、大地に穿たれた亀裂。
俺も、もうそろそろ限界といったところだろう。
次の一撃に、全身全霊を込める。
そして――。
俺は、ひと思いにサイラスの心臓を貫いた。
「うぐっ……」
サイラスは信じられないとばかりに目を見開き、おもむろに風穴が開いた右胸へと手をやる。
そのときだった。突き出ていた眼球が引っ込み、ほんの一瞬だけ、わずかに目尻を下げたようにも見えた。それはまるで俺に餞(はなむけ)を送るように。
サイラスは、天を仰ぎながら、大地の亀裂へと落ちていった。
「サイラス……」
俺は、そっと呟いた。
さすがに俺としても、心に来るものがある。この感情を、どう表現したらいいのか分からない。
しかし、こんなときでも容赦なく騎士たちは迫り来る。
そいつらを、俺は《ハートブラスター》ではなく、拳で殴りつけた。敵の突き出した刃を握りしめ、無理矢理引き寄せると、頭突きをかます。
俺の額と右手から血が溢れ出すが、もはやそんなものはどうでもよかった。
ひたすら感情の赴くままに、この拳で、残った敵を殴り続けた。
一人残らず殴り倒し、辺りを見渡す。
大量の騎士の亡骸と気絶した騎士たち。ぐしゃぐしゃになった花畑。主を失って右往左往する数百頭の馬。
夕焼けが照らし出すこの光景は、俺の戦いが終結したことを告げていた。
「…………」
俺は脱力して、ひざまずいた。
そして握りしめた拳で、一度だけ、そう、一度だけ、大地を殴りつけた。
この歪んだ世界に、
この欺瞞に満ちた世界に、
善人が必ずしも報われるとは限らない、このろくでもない世界に、
精一杯の力で、行き場のない怒りをぶつけた――。
6
その頃――レイチェルは正面から繰り出される凄まじい連撃に押されていた。
《ハートブラスター》で必死に防御を固めるが、もはやそれだけで精一杯でこちらから攻撃を繰り出すことができない。
「ほら、こんなんじゃわたしに勝てないよ。もっと本気を見せてよ、ねえ?」
「…………っ!」
とんでもない力だ。さすがハーデスの力を継承しているだけのことはある。だけど怯んではいられない。自分にだって努力の積み重ねがあるのだ。それを、ここで否定されるわけにはいかない。
「――――――!」
一歩踏み込み、渾身の力で攻撃を跳ね返す。両者の間にわずかな隙が生まれた。
「やるねっ、レイチェル」
ミルフィが微笑む。
今度はレイチェルの方から詰め寄っていて攻撃を繰り出していく。
しかしそれらの全てをミルフィの刃に受け止められてしまう。一分の隙もない。全ての動きを見切られている。
「足りないよ! 全然、足りないよ! そんな覚悟じゃわたしを倒せないよ!」
ミルフィは横へ移動し、刃を振りかぶる。
しまった……! そう思ったときは、すでに遅い。
ミルフィが薙いだ刃に脇腹を切り裂かれた。
「あぁっ!」
今まで経験したのことない痛みが駆け抜ける。
「……負けない!」
すぐに態勢を立て直し、ミルフィへと斬りかかっていく。
「あたしは負けない! 絶対に負けないんだから!」
「そうこなくっちゃ!」
ミルフィは得意げに笑うと、さっと姿を消す。
「え――」
右。左。違う。
上だ。
「後ろががら空きだよ、レイチェル」
背中から思いっきり刃を振り下ろされる。
「あああぁぁぁぁ!」
声にならない悲鳴。
切り落とされたポニーテールの束が地面に落ちる。
「あれ? セミロングも似合っているじゃん、レイチェル?」
「……ミルフィ」
もはや意識を保ってられない。その場にひざまずく。
熱いものが背中から、とめどなく溢れ出ていく感覚。
きっとこれは血だろう。背中の布地が皮膚にべったりと張り付いている。
――ここで、あたしは朽ちてしまうのかな……。まあ、ミルフィに負かされるんだったら、それでもいっか。
《ハートブラスター》が消え、何の変哲のない右腕が脱力して垂れ下がる。
ミルフィは哀れむような目でレイチェルを見下ろしている。
「ねえ、レイチェル。……どうしてレイチェルが、わたしに力が及ばないか、分かる?」
「それは……ミルフィがハーデスの力を継承しているから……」
「違うよ。そもそも《ハートブラスター》とはその人自身の心の強さが反映されたものだよ? どちらの心が勝つかの戦いなの」
「……何が言いたいの?」
どうにか力を振り絞って立ち上がろうとするが、脱力してしまう。
「レイチェルはわたしに遠慮している。本気でわたしを討ち取る覚悟を決めていない」
「…………それは」
ミルフィの笑った顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
「情けなんか本気のぶつかり合いの前には邪魔なだけ。本気でわたしに向かってきてよ。そうじゃなきゃ――」
レイチェルは拳を強く握り締める。
「――わたしは、ハーデスのまま朽ち果ててしまうことになるの。……せめて最期はミルフィでありたいよ。そんな終わり方は嫌だよ……」
「ミルフィ……!」
よろめきそうになりながら立ち上がる。再び《ハートブラスター》を顕現。
ミルフィは、その小さな体を震わせている。
「ねえ……早くしてよ、レイチェル……。早く、わたしを……。もう抑えられないよ……」
「……もう少しだけ待って。すぐに楽にしてあげるから……!」
レイチェルは地面を蹴り、ミルフィめがけて一直線に突っ込んでいく。
ミルフィとの距離が目と鼻の先まで迫ったときだった。ミルフィを中心として、暴風が吹き荒れる。
「く……!」
腹に力を入れ、耐え忍ぶレイチェル。
――ミルフィを救えるのは自分しかいないんだ。何としてでも辿り着かないと。ミルフィのいるところまで。
吹きつける突風を一身に受けながら、一歩、また一歩と歩みを進めていく。
ミルフィの姿は瘴気の渦に掻き消されてしまって見えない。
「――――――――」
咆哮と共に、ひときわ強い風が吹き、ついにレイチェルの体は弾き出されてしまう。
「う……!」
背中から岩壁に打ちつけられる。間髪入れずに無数の小さな棘が打ち出され、レイチェルの頭上すれすれのところに突き刺さった。
「…………」
瘴気の濁流が弱まっていく。
――そこにいたのは、紛れもないハーデスだった。
三メートルはあると思われる長身痩躯。返り血でも浴びたような真っ赤なローブでその姿を覆っている。
レイチェルは思う。この状況――あのときと同じだ、と。ハーデスは、こちらへむかって近づいてくる。
「ミルフィ……」
すがるように呼びかける。しかし返事はない。
ミルフィ――いや、ハーデスが右腕を振り上げる。すると、自分の腕の太さほどはある棘が打ち出され、レイチェルの眼前で滞空した。先端は鋭く尖っており、これで額を突かれたら、即死は間違いないだろう。
ハーデスはレイチェルを見つめ、何かを告げようとしているようだ。何を言おうとしているかは大体分かる。
「……あたしに力を継承するつもりなんだね。それが、あんたの本能だもんね」
レイチェルは視線を落とす。そして、不敵に笑い、顔を上げる。
「それ、脅しのつもり?」
レイチェルの勝ち誇ったような口調に、ハーデスは一瞬怯んだ。
レイチェルは踵で壁を蹴り、跳躍すると、刃を宿した右腕を思いっきり振った。目の前に滞空していた棘が音を立てて真っ二つに割れる。
着地したレイチェルは、刃の切っ先をハーデスへと向ける。
「ミルフィに巣食うあんたに忠告するわ! 同じ手が二度も通用するとは思わないことね! 人間、生きていれば成長するんだから!」
レイチェルの迫力に圧倒したのか、ハーデスは後退して、レイチェルから距離を取る。
「かかってこないなら、こっちから行かせてもらうから!」
レイチェルは地面を蹴り、ハーデス目がけて突き進む。その瞳にかつてのような弱さはもはや感じられず。
詠唱を始めるハーデス。ハーデスの胸部が黒く発光を始める。
しかしレイチェルは怯むことなく、一直線に走り続ける。
詠唱が完成し、ハーデスの胸部から鈍色の光線が放たれた。
レイチェルは横に飛び、かわす。
轟音が響き、背後の岩壁が崩れる。
間髪入れずにレイチェル目がけて、再びその光線は放たれる。
「しつこいわね……!」
今度は体ごとかわす余裕がなかった。咄嗟の判断で頭を引っ込める。
――轟音。
かつて孤児院として使われていた廃屋の外壁に命中し、大きく風穴を開ける。
「……さすが、ハーデス。とんでもない力ね」
レイチェルは一旦ハーデスから距離を取ると、隙を窺うべく縦横無尽に走り続ける。その間も容赦なく光線が発射され、ミルフィとの思い出の場所が無慈悲にも破壊されていく。
――もうやめてよ。ここは、かけがえのない思い出の場所なんだから。今こそ誰も住んでいない廃墟になってしまったけど、ここはあたしの心の拠り所なの。
しかし、そんなことを願ったところで、ハーデスに通じるはずもなく。
「やめて!! ミルフィ!!!!」
気がつけばレイチェルは、地面を蹴って駆け出し、ハーデスの背中を刃で貫いていた。
ハーデスは、おもむろに振り返る。
「戻ってきてよ! ミルフィ!!」
心から、呼び掛けたそのとき。
爆発するかのように、光が広がっていった――。
「……ミルフィ」
光が拡散すると、ハーデスがいた場所にミルフィが立っていた。
ミルフィは吹きつける乾いた風にそのウェーブのかかった金髪を揺らしながら、こちらを見つめている。
どこか、儚げな目つきだ。
ミルフィの姿を呼び覚ますことには成功したが、依然として瘴気はやむことはない。
レイチェルは覚悟を決め、ミルフィのもとへ、一歩一歩踏みしめるように歩みを進めていく――。
「……跡形もなく壊れちゃったね、あたしたちの思い出の場所」
「うん。だって、それがわたしの”望み”だもん」
「え……?」
「わたしがハーデスに食べられてからも、ずっと気がかりだったの。もしかしてレイチェルは自分を責めているんじゃないか、過去の呪縛に囚われたまま今を生きているんじゃないかって」
「それは……」
レイチェルは目線を落とす。
「三年の歳月を経て、完全にハーデスになってしまったあとも、その想いはずっとわたしのどこかで残っていた。だから、北を目指さなければいけないという気持ちが、わたしをここまで導いたんだと思う」
「ミルフィ……」
「もう分かってるよね、レイチェル?」
問いかけながら、ミルフィは《ハートブラスター》を突きつける。
「レイチェルはいつまでも過去の呪縛に囚われているべきじゃない。今こそ、わたしという過去を乗り越えて、未来へと進むときが来たんだよ」
冷たい風が吹く。これがミルフィの望みなら――全力で応えるだけだ。
「……もう、あたしは逃げない。この手で未来を掴む……! 行くよ! ミルフィ!」
地面を蹴って、走り出す。
「全力でかかってきて! レイチェル!」
――交差する二つの勢い。
激しく刃と刃がぶつかり合う。
火花を散らしあいながら、接戦を続ける。
「絶対に負けない! 負けないんだから!」
レイチェルは声を振り絞って叫ぶ。
もはや理屈で動いているというより、自分の想いが、魂が、この体を突き動かしているといっても過言ではなかった。
想いと想いが激突する。
『ねえ、名前、何て言うの?』
『……レイチェル』
『泣いてばかりじゃ涙枯れちゃうよ?』
斬る、斬る、斬る――。
『……どこに行くの?』
『レイチェルの笑顔をみんなに見せに行くの』
『……やだよ、恥ずかしいよ』
『怖がることはないよ。だってレイチェルの笑顔はみんなを幸せにするんだから――』
突く、突く、突く――。
『一度、試しに戦ってみようよ。どっちの心が強いか――』
溢れ出る涙で、目の前で見えなくなって――。
それはもはや、一秒にも満たない”隙”だった。
レイチェルが繰り出す攻撃の全てを見切っていたミルフィだったが、一瞬だけ隙が生まれた。わずかにミルフィの刃が、体ごと後方へと追いやられたのだ。
それを見逃さなかった。
己が心をその右手に携え、ミルフィめがけて突進していくレイチェル。
『ミルフィ――――――!』
切り抜かれた一瞬に、悠久の想いを閉じ込めるように、ミルフィとの思い出が走馬灯のように駆け抜けていく。
――笑い方を忘れてしまったあたしに、初めて笑顔の作り方を教えてくれたミルフィ。
――初めてあたしの笑顔を可愛いって言ってくれたミルフィ。
――あたしを暗闇の底から引っ張り出してくれたミルフィ。
――あたしにとって、かげがえのない、たった一人の親友だったミルフィ。
重い感触が腕をつたった。
レイチェルの刃が、ミルフィの胸を貫いていた。
あまりにも、はっきりとした手ごたえだった。
レイチェルは目を伏せ、全力でミルフィを貫きながら、声にもならない声をあげている。それはもはや悲鳴とも慟哭ともつかず――。
「どうして、泣いてるの?」
「だって……だって……あたしは……ミルフィを……」
「感じるの……わたしの中にいたハーデスが死んでいくのが。これでわたしはハーデスではなく、ミルフィとして最期のときを迎えることができる――」
そう言って前のめりになって崩れる体を、レイチェルが支える。
「だめ! 行かないで、ミルフィ! あたしを一人にしないで……!」
「一人じゃないよ。レイチェルには、カイがいるじゃん? きっと、最高のパートナーになれるよ」
「……最高のパートナー」
「わたしは幸せだったよ……。ミルルとして第二の生を生きて、最後は本気でレイチェルとぶつかり合って、分かり合うことができた。一度は死んだわたしにしてみれば、これ以上望んだらバチが当たるくらいの幸せだよ……」
溢れ出る涙でミルフィの顔が見えない。
――止まってよ、涙。これがミルフィと過ごせる最期のときなんだから。ミルフィの顔を目にしっかりと焼きつけないといけないんだから……!
「ねえ、笑って。レイチェル」
「…………笑えないよ」
「それでも笑って、レイチェル」
ミルフィは血に染まったその両手を、レイチェルの頬に置く。
「だって……レイチェルの笑顔は……みんなを幸せにするんだから……」
もはや何も言葉にできない。
「……それにね、きっとまたどこかで会えるような……そんな気がするの」
「本当に……?」
声を振り絞って言う。
「うん、本当に」
レイチェルは精一杯笑う。涙で顔をぐしゃぐしゃにしつつも、精一杯、これ以上ないくらいに心を込めた笑顔をミルフィに見せつける。
「そうだよ、その笑顔だよ……これからも…………大事にしてね」
その言葉を最後に、ミルフィの眼差しは遠くなっていく。
「ミルフィ……」
ミルフィはレイチェルの腕の中で静かに眠りについた。
全てをやりきったような、穏やかな顔だった。
やがて、空を覆い隠していた瘴気は消えていき、空は一面の淡いピンクで満たされる。
「メグ=メル、本当にあったんだね……」
ミルフィの亡骸を抱きしめながら、レイチェルはそっと呟いた。
そう、これは小さなメグ=メル――。
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