第5話 獅子身中の虫の意地

     1


 みーあんは北を目指して、全速力で疾走する。先ほどの休息で英気を養ったようだ。あれから一時間超も失速することなく、ちょっと気を抜けば振り落とされかねないスピードだ。

 目の前には、年季の入った木製の吊り橋。全長500メートルはあるであろう長い橋だ。谷底からは強風が吹き渡り、ぎしぎしと揺れている。

「ちょっと待ってください! 渡っちゃだめです!」

 吊り橋へと差しかかった直前で、シェリルが手綱を引く。みーあんは急停止するが、間に合わない。吊り橋に100メートルほど入り込んでしまっていた。

「どうした? シェリル?」

「感じるんです……血の匂いを……」

「え?」

 レイチェルが目を見開いたときだった。

 突如として轟音が轟き、爆炎が広がったかと思うと、それは正面から背後から勢いよく俺たちへと迫る。

「しまった! 罠か!」

 俺は叫ぶ。このままだと炎に包まれて全員お陀仏だ。

 谷底には、川が流れている。

 レイチェルとシェリルはパニックになり慌てふためき、ミルルはレイチェルの胸に顔を埋め、ぷるぷるとその小さな体を震わせている。

「こうなったら一か八か……」

 俺は《ハートブラスター》を顕現させる。

「落ちるぞ! 覚悟を決めろ!」

「「え――」」レイチェルとシェリルの声が重なる。

 俺は返事を待たず、橋を断ち切った。

 心臓が一気に上へと引っ張られる感覚。

 谷底へと落ちていく――。


 そして――。


「ふぅ……」

 岸辺に打ち上げられた俺は、立ち上がり、辺りを見渡す。誰もいない。俺一人だけだ。

「参ったな、こりゃ……」

 いくつも激流渦巻く潮流を流されてきたので、それぞれ別の方向へと行ってしまったか……。

 切り立つ崖によって道は二手に分かれている。

「さて、どうするか……」

 考えあぐねていると、

「……ぉおおおおおん!!」

 巨大な何かが、川の流れに乗って、凄まじい勢いで俺へと迫ってくる。咄嗟に《ハートブラスター》を顕現させ、それを斬り伏せようとするが……。その正体が分かり、俺は刃を引っ込めた。

 激突――。

「いてて……」

 体を起こす。そいつは、みーあんだった。

「……離れてくれ。発疹が……」

 みーあんは俺から飛び退くと、

「ふしゃあああああ!!」

 体毛を逆立てて俺を威嚇する。

「……ああ、悪かったよ。でも、あのときは、ああするしかなかったんだ。許してくれ」

「ぅにゃぁぁぁぁ……」

 みーあんは弱々しく鳴くと、しゅんと顔を垂らす。ちゃんと俺の思いが伝わっていてくれていればいいが。

「さて、こうしてもいられない。三人を探すぞ」

「うにゃお!」

 みーあんが俺を先導するように、切り立つ崖によって分岐した道を右へと進む。上を向き、鼻をくんくんさせ、慎重に崖沿いの道を行く。

「そっか。お前は鼻が利くもんな。頼んだぞ」

「にゃお!」


     2


 夢を見ていた。また、あのときの夢だ。

『わたし、生きていてもいいのかな?』

 あのとき、ミルフィは言った。いつもの井戸。蒸し暑い夏の日の夜。見上げた空には満天の星空が広がっていた。

『……そんな悲しいこと言わないでよ』

『だってわたしが生きていれば、それだけで他の人たちを不幸にしてしまうから……』


 何度、この夢を見たことだろう。そのたびに胸が苦しくなり、目覚めたときにはびっしょりと汗をかいている。


 ――その日、ミルフィがルーの血を引くドルイドであることが分かった。ミルフィが一二歳のときだった。初めてミルフィと出会ってから二年が経過していた。

 ドルイドが自らをドルイドだと認識するのは何も生まれもってのことではない。ある日突然訪れるのだ。そのときが。

 孤児院の学舎が炎上する事故が起きた。真夏の炎天下の昼時だった。幸いにも死人は出なかったが、怪我人を多数出した。

 原因はミルフィが発現させた魔術だ。自らの意志ではく、突然発現し、暴発したのだ。

 ミルフィが言うには突然血が騒ぎ出したのだという。気がつけば、誰に教えてもらったでもない呪文が”降りてきて”、それを口ずさんでいた。周りの大人たちが言うには、そのときこそドルイドがドルイドとして目覚める瞬間らしい。

 さらにマナのバランスが崩れたことで瘴気が微量だが発生した。それは逃げ惑う子供たちの恐怖と結びついたことで、純粋無垢な子供たちを異形化させるには十分だった。

 駆けつけた福音騎士たちの尽力によってなんとか一件落着を得たものの、みんながみんな申し合わせたようにミルフィから離れていく。今まであんなに仲良くしていたのに。

 それから、今のミルフィがどんな状態なのか説明を受けた。

 ドルイド。魔術。マナのバランス崩壊。何もかも初めて聞くことだらけで、激しく困惑した。だけど一つはっきりしたことは、もうミルフィとは一緒にいられないということだった。

 その日の夜。

 福音騎士に連れられ、今にも孤児院を去ろうとしていたところを無理やり引き止め、懇願した。五分でいいから最後にお話をさせてほしいと。

 そして、ミルフィの口から出たのがこの言葉だった。


 ――わたし、生きていてもいいのかな?


 それから思い直したように、ミルフィは言う。

『……ごめんね、レイチェル。こんなこと言ったら余計に悲しくなっちゃうよね』

『……うぅ』

 堪えきれず、泣き出してしまった。一番悲しいのはミルフィのはずなのに。


 ――悲しみに暮れていたあたしに笑い方を教えてくれたミルフィ。あたしの笑顔を可愛いと言ってくれたミルフィ。誰に対しても心を開けなかったあたしを光の中へと連れ出してくれたミルフィ。

『こんなことで泣いてたら駄目だよ、レイチェル』

『だって……だって……』

『レイチェルは世界に幸せを導く福音騎士になるんでしょ? もっと心を強く持たなきゃ!ね?』

 思えば、最後まで励まされてばかりだった。

『……またどこかで会えるよね?』

 すがるようにレイチェルは言う。

『うん。きっと会えるよ。だから、ひとまずここでさようならだよ』

 そう言って、精一杯笑うミルフィ。

 そして、背中を向けて去っていく。

『ちょっと待って!』

 ミルフィは足を止め、振り返る。

『約束! いつか二人でメグ=メルを連れてこよう! みんなが笑って過ごせる世界を、あたしたちの手で連れてくるの!』

 ミルフィはこくりと頷くと、最後に満面の笑みを見せた。

 そして今度こそ振り返ることなく、去っていく。

 見上げた夜の空には、満月が輝いていた。


 その一年後、思わぬ形でミルフィと再会することになる。

 嬉しかった。心から嬉しかった。だけど、今思えば、再会なんてしない方が良かったのかもしれない。

 だって、あのとき、あの場所で再びミルフィと巡りあうことがなかったら――。


 ミルフィは死んでいなかったはずなのだから。


「……てください……イチェル……」

 声が聞こえてくる。

「……レイチェル! 起きてください!」

「シェリル……」

 レイチェルは、うっすらと目を開ける。シェリルが、仰向けに倒れたレイチェルの肩を掴んで揺らしていた。

「……っ!」

 レイチェルは飛び起きる。

「ここは!?」

「どこかの岸辺のようです」

 思い出す。そういえば、橋を渡っていたとき……炎に包まれる直前にカイ教官が橋を叩き斬って、どうにか一難を逃れたのだった。

「ミルルと教官は……? みーあんもいない……」

「どうやら離ればなれになってしまったようです」

「そんな……」

 レイチェルは肩を落とす。

「大丈夫です。私は鼻が利きますから。血の匂いを辿ってミルルを探してみます」

「……シェリル。今はあなただけが頼りだわ」

 そして、二人は歩き出す。

 レイチェルは、そっと、天に祈るように呟いた。

「……どうか、みんなが無事でありますように」



 駆け足で、崖沿いの道を進む二人。

 吹き付ける向かい風で、満足に呼吸もできない。

「あぁっ!」

 突然、シェリルがうずくまる。

「どうしたの、シェリル!?」

 レイチェルは立ち止まり、シェリルの肩に手を置く。

「眼鏡が……あぁ、見づらいです……」

 右レンズが砕け散り、右目だけが裸眼となっていた。

 激流に流されてきた際に、ヒビが入っていたのだろう。それで、この向かい風で完全に壊れたと。

 レイチェルに支えられながら身を起こすシェリル。

「大丈夫です。先を行きましょう」


 崖上へと続く勾配を駆けながら、レイチェルは小声で言う。

「……ごめん、シェリル」

「どうして謝るんですか?」

「あたしったら、あなたのこと、誤解していたかもしれない。《オグマ》は血も涙もない人たちの集まりだって……。シェリルはこんなにも、あたしたちのために一生懸命になってくれているのに……」

 シェリルは微かに笑う。

「気にしないでください。むしろ私もそう思っているくらいですから」

「え……?」

 レイチェルは目を丸める。

「瘴気を招くためなら手段を選ばない。時には、罪のない人を殺めたり、村一つ攻め落とすこともある。それによって生じる異形(ファンタズマ)を、覇気の拡散のために利用するためです。もはや、本末転倒ですよ……。多数の幸福のために、少数の不幸をあえて作り出す。残念ながらそれが、《オグマ》の主流派です」

「まるで、《アリアンロッド》みたいね……」

 不倶戴天の敵同士であるはずの二つの組織が、巡り巡って同じ結論に行き着くなんて、皮肉にも程がある。

「……そして今や、ハーデスさえも取り込もうとしている。はっきり言って、無茶苦茶ですよ。……ですから、私はそんな《オグマ》を変えたいと思っているんです。そういう意味では、もしかすると私は獅子身中の虫なのかもしれませんね。そう、私たちは一家全員で《オグマ》の改革を行おうとしていたのです」

 シェリルは重々しい口調で言う。

「……あれは人間の力で制御できる存在ではありません。でも最近では、研究の成果もあって、魔術の術式も発展してきて……。この近くにあるんです。ハーデスを制御する術式を研究している研究棟が。あちらの方です」

 シェリルが指さした場所は、切り立つ崖に邪魔されて、何も見えない。

 レイチェルはもしかしてと思って、運気を”可視化”してみせた。

「……やっぱり」

 レイチェルは、目を見開く。そこからは、天に届く勢いで瘴気の渦が上がっていた。

 シェリルは足を止める。

「……妙ですね。研究棟の方から、ミルルの”血の匂い”がします」

「まさか捕獲された!?」

 ミルルとハーデスは繋がってしまっている。ミルルを検体とすることでハーデスに近づこうという思惑が働いていてもおかしくない。

「分かりません……。とにかく急ぎましょう!」


 全速力で走りながら、シェリルが言う。

「こんなときに、身の上話をするのは恐縮ですが……私たちが掲げる目標は、幸福と不幸の共存です」

「……共存?」

「はい。人が人であるからには、怒りとか悲しみとか憎しみとか、そういった負の感情もあって当然じゃないですか。瘴気を招くからといって、それを排除するのは、もはや人が人であることを放棄するようなものです」

 そういえば、同じようなことを教官も言っていた。

「そうね……。あたしがアリアンロッドに叛逆したのは、大多数の幸福のために少数を切り捨てる……いわば、”人為的な淘汰”を是とする組織の在り方を受け入れられなかったからかもしれないわ」

 シェリルは、くすりと笑う。

「ならば、私とレイチェルは同士ですね」

「同士。……そうね、あたしたちは、同士ね」

 胸が熱くなる。こんな気持ちになれたのは、久しぶりだ。

「……ただ、行きすぎた”幸福”は是正されなければいけないという考えには変わりはありません。瘴気を流し込んで、覇気を拡散させ、それによって幸福が平等に行き渡るようにする活動は、今後も続けるつもりです」

「あたしは、その手法には賛同できない。それだけは、はっきり言っておくわ。でも、あたしもシェリルも、根底にある思いは同じだと確信している」

「はい。それでいいです。人は、違って当たり前なんですから。相反する意志もまた、人が人としての証ですから」


 目的の場所に近づくにつれて、瘴気の濃度は徐々に増していく。まだ日は落ちていないのに、まるで夕闇の中を進んでいるかのようだ。

 岬の先端。そこに、《オグマ》の研究棟はあった。石造りの円筒状の塔だ。

 その手前に立ち、シェリルは言う。

「やはり、ミルルはこの中にいるみたいです」

 ならば、するべきことは明らかだ。

「……乗り込んで奪還するしかないわね。でも……」

 レイチェルはシェリルを横目で見る。

「案ずることはありません。同じ《オグマ》とはいえ、彼らは敵ですから」

「そうね。では、腹を括って中に――」

 言おうとした、そのときだった。

 鉄扉が開き、堰を切ったように、異形(ファンタズマ)たちが溢れ出てきた。咄嗟にレイチェルは《ハートブラスター》を顕現させる。

「私も魔術で応戦します」

「せいぜい死なせない程度に頼むわ。人間に戻せる個体は、全て人間に戻すから」

「……優しいんですね、レイチェルは」


 激闘が始まる。50体超にも及ぶ異形を二人で相手する。光弾が飛び交い、レイチェルは獅子奮迅の動きで辺りを駆け巡る。

 レイチェルは思う。昔と比べて、体が軽いと。刃の強度も確実に増している。

 これも全てカイ教官のおかげだ。「最弱」「能なし」とバカにされ嘲笑の的だった自分を、カイ教官がここまで導いてくれたんだ。

 二人の連携で、次々と異形を潰していく。シェリルが光弾で敵を撃ち抜き、怯んだところをレイチェルが貫くと言った具合で。

 この調子で、一気に殲滅させてしまおう。そして、塔に捕らえられているミルルを救い出すのだ。

 そのときだった。塔が揺れた。

 レイチェルも、シェリルも、思わず身構える。

 震動は小刻みに続く。

「……一体何が……」

 レイチェルの額から冷や汗が溢れる。瘴気の濃度は一気に増し、まるで闇の中にいるようだ。

 このままだと自分たちも危険だ。いや、自分は平気でも、シェリルが……。

「悔しいけど、一旦、距離を取るわよ」

「ですが、ミルルが……」

「ここでシェリルまでやられたら、元も子もないわ。これは戦略的撤退よ。一度、教官と合流してから……」

 言いかけたとき、轟音と共に塔の最上部が崩れ落ちる。

 爆風に乗って、瓦礫片が飛んできた。

 レイチェルは即座に《ハートブラスター》を物理使用に切り替え、それらを一つ一つ叩き割る。レイチェルは無我夢中だ。もしこれらの瓦礫片を全てかわしきればなければ、致命傷は免れない。

 おそらく三秒にも満たない短い時間のはずなのに、まるで悠久に続く時間のように感じられた。

「…………」

 どうにか一難退け、一息ついたときだった。


 崩壊した塔の最上部。そこに、それはいた。


「《冥導の姫神》、ハーデス……」


 ぽつりと、レイチェルは呟く。

 三メートルはあると思われる長身。血で染め上げたような真っ赤なローブを纏い、その背中には黒い翼を生やしている。顔の上半分は紅蓮の髪によって覆い隠され、赤黒い唇だけが露わになっている。

 胸がざわざわと鳴る。

 ハーデスは、さっと右腕を振るった。

 それだけで、大地に亀裂が入り、分断――。塔ごと奈落の底へと崩落していく。その場にいた異形も巻き添えだ。そして、塔の中にいるはずのミルルも……。

「ミルル!」

 レイチェルは叫んだ。

 ハーデスは、翼を羽ばたかせ、まるでミルルを追いかけるように深淵へと降りていく。

 レイチェルは、崖下を覗く。

 傾斜はおよそ45度。下れない角度ではない。いざとなれば《ハートブラスター》をピッケルとして活用すればいい。

「事態は急変したわ。方針変更よ。あたしはここを下る。シェリルは一旦引きなさい」

 レイチェルが言うと、シェリルは不服とばかりに目を細めた。

「私を見くびりすぎではないですか? これぐらい、何のそのですよ」

 シェリルは胸を張って言ってみせた。

「……ありがとう、シェリル。じゃあ、行くわよ」

 覚悟を決めたそのときだった。

 何かが、駆け上がってくる。

 まるで、突風のように。

「来るわよ……シェリル。気をつけて」

「……はいっ!」


 そしてそれは、二人の前に降り立った――。


     3


「うにゃおおおおぉぉぉぉん!!」

 みーあんは、傾斜45度はあるであろう岩壁を全力疾走で駆け上がる。俺は振り落とされないように、必死にみーあんの背中にしがみついている。猫アレルギーによる発疹で体中が酷いことになっているが、そんなことを気にしている余裕はない。

「こっちにシェリルがいるんだな?」

「うにゃおっ!!」

 そうだと言わんばかり、みーあんは鳴く。

 しかし妙だ。瘴気の濃度が尋常ではない。もし俺の”心の強さ”が伝わっていなければ、みーあんはとっくに異形化してしまっているだろう。この先に、ただならぬ状況が発生していると見るべきだ。何が起きてもおかしくない。

 俺は右腕を自由にすると、《ハートブラスター》を顕現させる。

 そのときだった。頭上で轟音が轟く――と同時に、石造りの建造物の一部と思われる平べったい物体が降ってきた。面積にして、宿の一人部屋の床ほどはある。

 ――直撃すればひとたまりもない。

「…………っ!!」

 俺は、それを一刀両断した。真っ二つに断たれたそれは、崖下へと落ちていく。

「にゃにゃにゃにゃにゃにゃ……」

 身震いしながら、疾走を続けるみーあん。

「間一髪だったな。だが、まだ気は抜けないぞ」

 小さな瓦礫片が次々と降り注ぐ。俺は、それらを両断していく。……いや、瓦礫片だけではない。異形(ファンタズマ)もだ。一体この先で何が起きているというんだ……。

「え……」

 思わず俺は刮目する。


 そこに、それはいた。


「……ハーデス」

 漆黒の翼を羽ばたかせ、ハーデスは俺の眼前まで降りてくる。

 赤黒い唇が、俺の目線を捉えた。

 するとハーデスは上昇へと転じ、両者の速度は拮抗――俺と至近距離で向かい合う。

「……ぅぅ……レイチェル……ぁぁ……」

 ハーデスが纏うローブの中から、その声は聞こえてきた。

「……くそっ!」

 俺は思わず舌打ちをした。

 ミルルはハーデスに捕獲されてしまったか。こうなったら今ここでハーデスを退け、ミルルを解放するしかない。

 右腕に全神経を集中させ、刃の先端でハーデスの胸を穿つ――はずが、瞬時にかわされてしまう。

「馬鹿な……っ!」

 これでも俺は《無敗の剣聖》の異名を持つ男だ。幾千の大群を前に、ただの一度も負け知らず。なのに、こんなにあっけなくかわされてしまうなんて……。

 ハーデスは、さっと腕を振るう。すると、すぐ上の岸壁に亀裂が入る。

「うにゃあああぁぁおおおぉぉん!!」

 みーあんは、それを飛び越えた。

 ハーデスは間髪入れずに、手のひらを俺の正面にかざした――その瞬間、そこから放たれた光線が俺へと迫る。俺は咄嗟に頭を横に振った。

 光線は稲妻となって断崖絶壁の内部を突き進み、ごっそりと岩壁を削り取る。

 その影響で、大地が激しく揺れた。

 みーあんは全力疾走だ。そしてハーデスもまた俺らを追いかけて上昇を続ける。

「くっ……!」

 俺は奥歯を噛み締める。

 間髪入れず放たれる光線を刃で受け止めるだけで、精一杯だ。しかもその一発一発が非常に重たい。気を抜こうものなら、刃が折れてしまうほどの衝撃だ。

 ……非常にまずい状況だ。どうにか隙を作り出さないと、反撃へと転じることができない。

「うにゃあああああぁぁぁ!!」

 みーあんは吠えると、体を捻らせ、じぐざくに道を突き進む。そして180度頭を回転させて斜面を下り始めたかと思いきや、真横に跳び、再び180度向きを変え、斜面を上る。

「……なかなか、粋なやつじゃないか」

 おそらく、みーあんはこの状況を汲んで、攪乱を計ってくれているのだろう。

 その間も、光線は次々と放たれるが、ハーデスも狙いをうまく定めることができないようだ。

 粉塵が舞い上がり、張り巡らされる弾幕の中、一瞬だけ生じた隙を俺は見逃さなかった。

 俺は、みーあんを足掛かりにして跳躍すると、ハーデスへと一気に迫る。

 ハーデスは腕を振るい、俺を斬り落とそうとするが、そうは問屋が下ろさない。

 俺は渾身の一撃で、それを弾き返してみせた。ハーデスの体躯が一瞬だけ怯む。

「ミルル!! 今助けるぞ!!」

 俺は、全身全霊の力をもって、ハーデスの心臓を貫いた。

「#####################」

 もはや声だか音だか分からない絶叫が響き渡る。

 そして、爆発したかのように瘴気が広がっていき――。


 その中に、ミルルの姿を捉えた。

 俺は落下しながら、ミルルを両腕で受け止める。


「うにゃお!!」

 みーあんが飛び跳ね、落下を続ける俺を背中で受け止めた。俺はミルルを左脇に抱え直し、右手でみーあんの背中にしがみつく。みーあんは疾走を続ける。

「……ぅぅ……」

 ミルルは目を閉じ、うなされていた。

「ミルル!! 気は確かか!?」

 返事は返ってこない。

 

 辺りに蔓延する瘴気も、ミルルから発せられる瘴気も依然として薄まる気配はない。

 ということは、ハーデスを討つことは叶わなかったのだろう。いや、それどころか、ハーデスを貫いたとき、ハーデスは姿を消したのではなく……。

 俺は深い溜め息を吐いた。

「……これが、真実なのかよ」

 俺の中の仮説は、実証されてしまったようだ。

 想定内のことではあるが、いざ現実のものとなると、さすがに胸にくるものがあった。


 いよいよ終点だ。

 みーあんは勢いを殺しきれず、天へと舞い上がる。俺は背中から飛び降り、大地に降り立った。その両腕に、ミルルを抱えて。その直後、みーあんも俺の隣に着地する。

「教官!!」

 そこには、レイチェルとシェリルがいた。

 視線の先には、異形化から解放されたであろう人たちが、ほぼ全裸の状態で横たわっている。

「よくやったな」

 俺は二人に、そっと声をかける。

「……っ!!」

 レイチェルは感極まった表情で俺に寄ってきて、ミルルごと俺を抱きしめてくる。

「あたし、頑張ったよ……精一杯頑張った……っっ!!」

「そうか。俺がいなくて、よくここまでやってのけたな。大したものだ」

 頭を、ぽんぽんとしてやる。

「……むにゅぅ……」

 レイチェルは頬をぽっと赤く染めた。

「にゃおぉぉぉん!!」

 そして、みーあんもまたシェリルの胸に顔を埋めて、喉をごろごろ鳴らす。

「よしよし。よくやりました。さすが、私の自慢の愛猫です」

「にゃぉぉぉん……」

 シェリルが頭を撫でてやると、みーあんは気持ち良さげに目を細める。


「さて……」

 人心地ついたところで、俺はミルルを抱えたまま、かしこまって言う。

「意志確認だ、レイチェル」

「……え?」

 レイチェルは目を丸くする。

「この先、どんな残酷な真実が待ち受けていても、自分の信じる道を貫けると誓えるか?」

「……どういうこと?」

 レイチェルは首を傾げた。

「レイチェル、お前が進もうとしている道は……。前人未踏の修羅の道だ。この俺でさえも怯んでしまうほどのな。それでも――」

 レイチェルは俺を遮って、堂々と言ってみせる。

「当たり前じゃない。あたしの信念は何があろうが揺るがないわ」

 自分の胸に手を置くと、

「この心が向かう先へと、突き進むのみよ」

 そして、白い歯を見せ、勝利を確信しているかのように笑ってみせた。

 俺の表情もつい綻んでしまう。

「……そうか。ならば、俺は最後までお前を導くだけだ」

「私も、同じ心です」

 シェリルは、俺の方を向く。

「私とレイチェルは、”同士”ですから」

 そして、シェリルとレイチェルは互いに顔を見合わせ、同時に頷く。

 二人のその瞳に、一片の迷いも感じられず――。


 日は暮れかかっている。

 みーあんは俺たちを乗せ、北へと疾走を続ける。

 ミルルはレイチェルの腕の中で、眠りについたままだ。……凄まじい濃度の瘴気を放ちながら。

 俺がいない間に起きたことを二人から聞いた。

 状況から察するに、おそらく俺らを罠にはめたのは、アリアンロッドではなく、オグマだろう。

 オグマもまた同様に、ミルルを狙っていたということだ。そして、検体としてミルルを確保した。

 シェリルいわく、新しく開発された魔術術式によって、ハーデスを呼び寄せることには成功したものの、制御することは叶わず、図らずもその場にいた研究員たち全員が異形化してしまう事態になったのでは、ということらしい。


 残された時間は、わずかだ。

 空を仰ぐと、視界の彼方に、テーブルマウンテンの頂が見て取れた。

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