ブルーベリーと初夏の風

貞弘弘貞

ブルーベリーと初夏の風

 初夏の軽井沢。青い空に白い雲が浮かび、そよ風がやさしく吹いている。

 浅間山の麓、ブルーベリーの木々が茂る農園に栗田真子はいた。農業大学に通う彼女はこの農園でアルバイトをしている。丸顔で頬が少し赤く、人懐っこい印象を受ける。エプロン姿の彼女は手に竹籠を持ち、背丈ほどのある近くの木を覗き込む。ブルーベリーの実を一つ摘み、ポイと口に入れた。

「あまぁ~い」とニッコリして微笑む。

 真子は次々と実を摘み、籠に入れていく。


 農園敷地内にロッジ風の建物が林道に面して建っている。『野々山ブルーベリーファーム』と書かれた木の看板が掛かっている。建物の壁には『特製ブルーベリージャム』『ブルーベリー狩り』『手作りブルーベリージャム体験』などと書かれた貼り紙が見える。

 十台ほど停められる駐車場があるが、端っこに一台の紫色の軽ワゴンのみ停まっている。車体側面に『野々山ブルーベリーファーム』と書かれている。

 店内には、ブルーベリーの実、ブルーベリージャムをはじめ、主にブルーベリーを使った商品が並んでいるが、客の姿は無い。

 レジカウンターに野々山純一が座っており、漫画雑誌を読んでいる。野々山は四十五歳になったばかりで、少し白髪が混じった頭髪、口髭を生やし、やや太り気味な体格をしている。漫画のページをめくると大声で笑った。

「ふははっ!!」

「楽しそーですねぇ、野々山てんちょお~」

 ちょうど、真子が勝手口から店内に入ってきた。

 野々山は慌てて漫画雑誌を隠す。真子はブルーベリーの実でいっぱいの籠をカウンターに置く。

「収穫バッチリです。とっても甘いですよぉ~」と一つ指で摘んで野々山に見せる。

 野々山は身を乗り出すようにして、真子の手にあるブルーベリーの実を見た。

「おおっ、さすが僕の栽培技術!」と、実を手に取って眺めた。

「まぁ、そこはあたしも認めているんですけどぉ……」

 真子は客のいない店内を見回している。

「経営技術の向上も必要ですよねぇ~」

 野々山は聞こえていないように立ち上がる。

「工房の準備よろしくね」と瓶詰めジャムの陳列を直している。

 真子はカウンターから再び籠を手に取り、「使う事あるのかしらん?」と小声でつぶやいた。

 野々山は顔をくるりと真子の方へ向ける。

「なんか言った?」

「いえいえ~」と真子は店の奥の方へ歩いていった。

 野々山はブルーベリージャムの瓶を手に取り、じっと眺めてため息をつく。

「みなまで言うなよなぁ。僕だって分かってんだから……」

 ふと、野々山が窓へ目を向けると、店の入り口前に女性が立っているのが見えた。二十代後半くらいだろうか。色白で白いワンピースを着ており、黒く長い髪をなびかせている。店の中を覗いてドアに手を伸ばしたかと思うと手を引っ込め、店を背にしたかと思うと振り返ってまた店の中を覗きこんだりしている。

 野々山は首を傾げ何かを思い出そうとしているような表情をする。入口に歩いていき、ドアを開いた。

 女性が慌てた様子で店から離れようとしたところで野々山は声を掛けた。

「よかったら見ていってください」

 その女性、白石良美は足を止め、野々山の方を振り返る。

「当店自慢のブルーベリージャムを試食しませんか?」

 良美はちょっと戸惑う表情をするが、改まって会釈して店に入った。

 

 店内に入った良美は、どこか懐かしむような、そして寂しそうな表情をしている。

 野々山はジャムの陳列棚を指さして言った。

「この農園で育てたブルーベリーで作ったジャムです。様々な品種をブレンドした特製ジャムなんですよ」

 良美は腰をかがめ、ジャムの瓶を見ながらわずかに微笑んでいる。

 野々山は良美の横顔を見つつ、何かを思い出しているような表情をしている。

 良美が意を決したように背筋を伸ばしたかと思うと、野々山に向いて口を開いた。

「あ、あの……」

「はい!」

「手作りジャムの体験って、できます?」

 野々山はニヤリとする。

「もちろんです!」


 店の奥に手作りジャム体験の工房がある。ガスコンロが複数あり、調理器具が揃っている。中央に木製のテーブルがあり、大きな窓の向こうにはブルーベリーの農園が広がっているのが見える。

 工房に野々山と良美が入ってくる。

「真子ちゃん、体験よろしくね」野々山は良美を紹介するようなしぐさをする。

「はぁ~い。いらっしゃいませぇ」

「よ、よろしくお願いします……」良美はお辞儀をする。

 真子は良美を見て、ふと何かを思い出したような表情をすると、「あれぇ? もしかして前にぃ~、イテッ!」

 野々山が真子の耳をつねって小声で言った。

「いいから、しっ!」

「ぶぅ……、はい、おねがいしまぁ~す」

「じゃぁ、僕は店に戻るので、あとよろしくね」と野々山は工房から出ていく。

「こちらへどうぞぉ~」真子は良美をテーブルへ導く。

 良美は、「はい」と返事をしつつテーブルに近づいた。

 テーブルの上にはいくつかの竹籠が置かれており、それぞれにブルーベリーの実が盛られている。実の大きさや色の濃さがそれぞれで異なって見える。

「えっとぉ、ブルーベリーには品種がいろいろあって、お好みに合わせてブレンドしてジャムを作れるんですぅ」

 良美は真子の説明に頷きながら微笑む。

「とりあえず三つのタイプから選んでいただきたいんですがぁ、甘め寄り、酸味寄り、真ん中、どれがいいですかぁ?」

 良美はちょっと考えた素振りをした後に答えた。

「じゃぁ、酸味寄りでお願いします」

「あとぉ、食感として、ツブツブ寄りか、なめらか寄りか、どっちがいいですかぁ?」

「えっと確か……、ツブツブ寄りでお願いします」

「は~い」

 真子は、テーブルの一つの籠からブルーベリーの実を一掴みして手元の籠に入れ、また別の籠から実を少し取って手元の籠に入れた。

「コビルとブライトウェルのブレンドでコビル多めで酸味寄りにして、オーシャンハノーバーで食感にアクセントつけま~す。あ、素材をいかすため砂糖は使いませ~ん」

「は、はい……」

「こちらへどうぞ~」真子はガスコンロに火をつけ、鍋を置いた。


 店内では野々山がレジカウンターに座って漫画雑誌を読んでいる。客の姿はない。

「ふははっ!」

 笑った後、雑誌を閉じてカウンターに置いた。工房の方に目をやり、少し考えているような表情をしている。


 コトコトと鍋の中でブルーベリーの実が煮立っている。

 良美はガスコンロの前に立ち、鍋の中を木杓子でゆっくりと攪拌している。

 側にいる真子が鍋をのぞき込む。

「うん、いい感じぃ。あと五分くらいですね~」

「はい……」良美は真剣な表情をしている。

「今日採れたての実なんですよ。すっごくおいしいですよ絶対!」

 良美は微笑みながら攪拌を続ける。

「真子ちゃーん、ちょっといい?」店の方から野々山の声が聞こえた。

「は~い。ちょっと外しますね。あと三分たったら火を止めてください」と真子は工房を出ていく。

 工房に一人だけとなった良美は、鍋を見つめ攪拌を続けている。

 ふと、窓の外に広がる農園の景色を眺める。

 良美はどこか寂しそうに見える。攪拌していた手がゆっくりと止まった。

 良美の目から涙がこぼれる。


 店内では、真子が客に商品の説明をしており、野々山はレジカウンターで電話をしている。

「……そうですね。十個でしたらすぐお届けできますよ。特製ジャムもいかがですか?」

 突然、工房から良美が顔を伏せながら駆け出してくる。

「ど、ど~しました!?」と真子はびっくりといった表情。

「お、お客さん?」野々山も驚きの表情で良美を見る。

「ご、ごめんなさい……」と良美は顔を伏せたまま、そのまま店を出ていってしまう。

 野々山と真子は呆然とする。

 駐車場から、赤い軽自動車が林道へ出て走り去っていくのが見えた。


 工房に野々山と真子がいて、コンロに置かれた鍋を見ている。

 鍋の中は、煮込まれたブルーベリーが焦げ付いている。

「前に来ましたよね……、カレシと一緒に」思い出しているように真子が言う。

「どのくらい前だったかな?」野々山は頷いている。

「あたしがここにバイトに入って、ジャム作りの初めてのお客さんだったんですよ。だからちょうど一年くらい前です」

「ああそうか、その頃だね……」野々山は鍋を見つめる。

 鍋の中は、ブルーベリーが焦げ付いている。

 野々山は窓の外を眺める。


 美しい森をつらぬく『白糸ハイランドウェイ』を赤い軽自動車が走っている。良美が一人運転している。

 木々の隙間から眩しい光が車内に差しこむ。白い光と木々の緑が美しいコントラストを織りなしている。

「きれい……」思わずつぶやくと、この景色を見た一年前の事を思い出していた――


「うぉー、きれいじゃん!」

 白糸ハイランドウェイを緑色のユーノスロードスターが走っている。リトラクタブルヘッドライトのオープンカーである。

 運転している青木孝弘は、木々から光が差し込む景色に思わず叫んだのだった。ちょうど三十歳になった孝弘は、少し茶色に染めた短めの頭髪で、少年のような笑顔をしている。

「ほんと! きれいね」

 助手席に良美が座っている。白いワンピースに赤いカーディガンを羽織っている。オープンカーなので良美の髪が風になびいている。

 良美は楽しそうに運転する孝弘を見て、ふと首を傾げる。

「でも、急に軽井沢にドライブに行こうだなんて、どういう風の吹き回しかしら」

 孝弘はちょっとたじろいだ表情をする。

「この車やっと中古で手に入れたしさ、前に軽井沢に行きたいって言ってたろ?」

「あっそうそう、よく覚えてくれてたのね」

 光溢れる緑の木々の中を、緑のオープンカーが走り去っていく。


 野々山ブルーベリーファームの敷地内に木製のテーブルと椅子があり、野々山と真子が向かい合わせで座っている。

「アルバイトの面接を受けに来ました、栗田真子と申します」真子はペコリとお辞儀をする。

「はい、よろしくお願いしますねぇ」野々山は履歴書を眺めている。

「よろしくお願いしま~す、いえ、お願いします」

「へぇ、農大生なんだね」

「あっはい。植物専攻で~す。です」

「ふぅん、じゃぁこっち来て」野々山は立ち上がり、店の方に向かう。

「えっ、あっ、はい」と真子も立ち上がり、野々山に付いていく。


 『白糸の滝』の水辺にいる孝弘と良美。

 細い滝がいくつも連なる景観はすがすがしい清涼感を与えている。

「イテッ!」水辺で孝弘がすっ転んでいる。

「大丈夫!?」良美は孝弘に手を差し伸べ立ち上がらせる。

「そこ滑るんだもんなぁ」ジーパンの尻の部分が濡れてしまっている。

「ふふっ、気を付けてね」

「でも涼しいねここ。猛暑だってのにさ」

「白糸の滝は軽井沢の中でも特に涼しい場所みたい。滝の水源は浅間山の伏流水なんですって」

「ふくりゅうすいって?」

「地下水が巡って岩肌から湧き出しているの。見て、川が無いでしょう?」

 孝弘は滝周辺をぐるりと見る。

「ほんとだ。へぇ、良美は物知りだなぁ」

「そんな事ないわ。来る前にネットで調べてたの」

「あっ、ネットね。ネットは便利だよね……」

 孝弘は、ふと何かを思い出したかのように水辺の端の方に歩いていき、ウェストポーチからスマホを取り出し画面を見ている。

 良美、首を傾げ、孝弘のところにゆっくりと近づく。

「何か調べているの?」

 孝弘は慌てて我に返ったように、

「あっ、いや。……次行くところの場所をチェックしてたんだ」とスマホを操作している。

「そうなの?」

「こことかどうだい?」とスマホの画面を良美に向けた。

 良美は画面を見て目を輝かせる。

「旧三笠ホテルね。行ってみたいと思ってたの」

「よし、じゃぁ行こう」


 野々山ブルーベリーファームの工房にいる野々山と真子。真子はエプロン姿をしている。

 木製のテーブルにはブルーベリーの実が入った竹籠がいくつか置かれている。

 野々山はガスコンロの火を付けたり消したりしながら、

「ブルーベリージャムを作ったことあるかい?」

「はい。結構得意だと思いますぅ」

「そりゃいいね! じゃぁ作ってみて」

「えっ、は、はい!」

「好きにブレンドしてみて」野々山はブルーベリーの実の入った籠を次々と指さす。

 真子は興味ありげに複数の籠に盛られたブルーベリーの実を見比べている。

「これってラピッドアイの……、ブライトウェルですね。これはノーザンハイブッシュの……、デュークですか?」

「おっ、よく分かったね。採れたてだよ、うちの農園のね。君好みのを作ってみて」

 真子は目を輝かし、「はい。がんばりまっす!」と言って鍋をコンロにカコーンと置いた。


 『旧三笠ホテル』は、昭和四十五年まで営業された旧軽井沢にある木造の西洋風ホテルである。国の重要文化財に指定されており、館内を見学することができる。

「まぁ、素敵!」

 庭からホテルの華麗な外観を見て、良美は興奮した様子である。

「なんかこう、軽井沢っぽいね」孝弘も目を見張っている。

 館内に入ると、多くの見学客が目に入った。

 明るい光が差しこむロビーには豪華な調度品が並んでいる。

「明治時代にこんなホテルがあったなんて……」

「一泊いくらだったのかなぁ」

「ふふ、当時の財閥が利用してたみたい。軽井沢の駅まで馬車で送迎していたそうよ」

「お金なんて気にしないかぁ」

 良美が窓際のテーブルの豪華な椅子に腰を掛けたので、孝弘も向かいの椅子に座った。

 良美、テーブルに肘を付き手を頬に添え窓の外を見て、

「こんな風に景色を見ていたのかしら」

「おっ! 避暑地に来たセレブってやつ!」

「じゃぁ、孝弘さんは財閥の御曹司?」

「うん、そうだね。執事に紅茶でも持ってこさせようかのぉ」

「ふふ……」

 そのとき、近くにいた家族連れの小さな女の子が窓に駆け寄ってきて、足をつまづいて転んでしまう。

 良美は咄嗟に席を立ち、女の子の肩に手をかけ立ち上がらせた。

「大丈夫?」

「うん!」女の子は笑顔を良美に向けた。

「すみません、ありがとうございます」と女の子の母親が礼を言い、父親も頭を下げている。

 孝弘は、部屋の奥に歩いていくその家族の後ろ姿を呆然とした眼差しで眺めている。

「どうしたの?」

 席に着く良美の声に我に返ったかのように孝弘は瞬きを繰り返す。

「あ、うん、何でもない」

 眼を泳がせている孝弘を見て、良美は首を傾げ、どこか不思議そうな表情をする。


 『手作りブルーベリージャム体験できま~す』と紫色のマジックペンで手書きされた白い紙を、店の入り口付近の壁に貼り付けている真子。そのすぐ側に野々山が立っている。

「こんな感じですかねぇ」真子は貼り付けた紙を眺めて言った。

「うん、上出来上出来。真子ちゃんの字は味があっていいね」野々山は満足そうな表情をしている。

「ところで店長」

「はい?」

「あたし、面接合格なんでしょうか?」

「そうだよ。とりあえずジャム工房担当ってことで、さっそく働いてもらうよ」

 野々山は今まさに貼った紙を指さす。

「えっ、いきなり今日からですか?」真子は戸惑ったような表情をしている。

 野々山は入口のドアを開けて店の中に入っていきながら、

「あんなにおいしいジャム作れるじゃない。じゃぁ、お客さん呼び込みよろしくね」と店に入っていった。

「え、あ、店長ぉ~」

 真子は一人店の前に取り残される。

 店の前の林道は人通りもまばらである。

 一瞬、さわやかな風が頬をかすめ、真子は意を決したようにガッツポーズをとった。

「いらっしゃいませぇ! おいしいブルーベリージャムを作ってみませんかぁ?」

 ちょうど店の前を通りかかった二十代くらいの女性二人が真子の方を驚いたように見た。

「今ブルーベリーが旬ですよ!」

 女性二人は早歩きで真子の前を通り過ぎていく。

「ぶぅ……」

 真子は恥ずかしいような悔しいような表情で身をくねらせる。


 曲がりくねった山道をロードスターが走っている。

 ダッシュボードにスマホが取り付けられており、カーナビのアプリが起動している。

 運転している孝弘は、不安そうにスマホの画面を覗き込んでは周囲を見渡している。

「あれ、なんか違うような……」

「どうしたの?」助手席の良美が聞く。

「なんかね、道を間違ってるみたいでさ……」孝弘はスマホ画面を指でつっつく。

 良美もスマホの画面を覗き込む。

「現在位置の表示が消えているみたいね。ジーピーエス?」

「そうなんだ……、ちょっと一旦車停めるね」

 ちょうど、道の両側が広がっているところに差し掛かり、孝弘は車を停めた。

 道の前方が開けており、いくつかの建造物が見える。

「なんかあるみたい。なんだろね」

 孝弘と良美は車を降り、開けた方に歩いていく。

「わぁ、これって……」良美は興味深そうに周囲を見回す。

「ダムかぁ!」

 峡谷に道路が掛かっており、下方に川が見える。

 ダム壁の上端部分が走って来た道路となっている。

 孝弘と良美は道路を歩き、欄干から下方を眺めた。

「うぉっ、た、高い!」

「すごい眺めね……!」

 はるか下方にある川面からダム壁が足元まで伸びている。

 道路の反対側の欄干からは、ダム湖の湖面が見える。

 二人とも気持ちよさそうに景色を見ている。


 店の前で客引きをしている真子。商品のブルーベリージャムの瓶を手に持っている。

「ブルーベリージャム、作ってみませんかぁ?」とジャムの瓶を掲げている。

「採れたてでおいしいですよぉ」


 世界中のガラス工芸品が展示されているガラス美術館に、良美と孝弘は訪れていた。

 二人は、色彩豊かなグラス、煌びやかな皿、動物を象った置物など、美しく輝く数々の展示品を眺めながら歩いている。

「うわぁ、ヴェネチアンガラス。本当にきれい……」

 良美は目を輝かせ、食い入るように展示品を見ている。

 孝弘は、心ここにあらずな感じで良美の後に付いて歩いている。

「こっちにはボヘミアンガラスもあるわ。すごい……」

 孝弘は良美の横顔を呆然と見ている。

 良美、我に返ったように孝弘の方を向いた。

「ごめんなさい。あんまり興味ないでしょ、こういうの」

 孝弘は慌てた様子で、

「い、いや、そんな事ないよ。……すっごい綺麗だよね」

「そう? ……無理しないでね」

「あ、ちょっとトイレ行ってくる」

 トイレに向かう孝弘の背を見て、良美はどこか不安な表情をする。


 トイレの洗面台の前に立っている孝弘。

 真剣な面持ちで、手に持つ指輪のケースをじっと眺めている。

 

 入口ドアが勢いよく開く音で、レジカウンターに居た野々山が驚いて入口の方を見ると、真子が顔をふくらませて店内に入ってきていた。

「店長!」

「なんだい?」

「ぜんっぜんお客さん来ないんですけどぉ!」

「えっ、来てるでしょ。ジャム買っていったよ。二人だけど」

 真子は頭を左右にぶんぶん振った。

「ジャム作りのお客さんですぅ」

「まぁ、今日始めたばかりだからね」

 真子はちょっと落ち着きを取り戻し、客のいない店内を眺める。

「でも、せっかくバイトやらせていただいているので……」

「ははっ、お客さんが来ないからといってバイト代減らしたりはしないよ。まぁ気長にやってみてよ」

「はぁ……」

 真子はとぼとぼと入口に向かって歩いていく。


 『雲場池(くもばいけ)』は、初夏の緑と空の青さが水面に映り込み、鮮やかで美しい景観を見せている。

 池の周囲の遊歩道を孝弘と良美がゆっくりと歩いている。

「きれいな所ね……、雲場池って」良美はうっとりとした表情をしている。

「そうだね……、あっ、鴨だ!」孝弘は池の方を見て指をさした。

 池に鴨がつがいで泳いでいるのが見える。

「ほんと。仲良さそうね」良美は足を止め鴨を見る。

 孝弘は鴨を見ながら歩いていたため、少し大きめの石につまづいて転んでしまう。

「イテッ!」

「大丈夫!?」良美は孝弘に近づき手を差し伸べる。

 孝弘は良美の手を借りながら立ち上がり、

「大丈夫大丈夫。また転んじまった。ははっ」

 二人はまた、横に並んで歩きはじめる。

 先ほどのつがいの鴨が相変わらずゆっくりと泳いでいる姿が見える。

 その時、どこからか鐘の音が響いてきた。教会の鐘の音のようである。

「あら、教会があるのかしら。綺麗な音色ね……」

 良美が孝弘の方を見ると、孝弘の姿が無い。さらに後ろを見ると、孝弘が片手にスマホを持ち画面を覗き込みながら、何やらぶつぶつ言ってる姿が見えた。

 良美は立ち止まり、ちょっとむすっとした表情をする。

「……どうしたの?」

 孝弘は慌てた様子でスマホをウェストポーチの中に入れる。

「あっ、いや、何でもないよ」

「そう……」良美は鴨の方に目線を向けた。

「あ……、あのさ」

「はい?」

「ちょっと座らない?」と、近くにある木製のベンチを指さす。

「え……、ええ」

 孝弘と良美はベンチに座った。

「だ、大事な話があるんだけど……」

 良美、驚きと不安の入り混じった表情をする。

「え……、は、はい……」

 孝弘は深呼吸をしてから話始める。

「俺らって、付き合い始めてからもう、二年くらいだよね」

「そうね……」

「お、俺と……」

 孝弘はウェストポーチに手を入れる。

「あ、あれ?」と、ポーチの中を手でまさぐっている。

「……どうしたの?」

「あ、いや」と焦った表情。

「大事な話って……」

「あ、うん……、その……」孝弘はポーチを覗き込んでいる。

 良美は悲しそうな表情で孝弘を見ている。

 孝弘が突然立ち上がり、遊歩道を駆け戻っていく。

 良美は驚いた様子で孝弘の背中を目で追っている。

 孝弘は先ほど転んだ場所に来ては、周囲の地面を見回し、草むらを片っ端に覗き込んだ。

 やがて、途方に暮れたような表情をして立ち尽くす。

 ふと、池の縁の大きい石に目を向けると、何かが見えた。

「あった!」

 孝弘は石の脇に落ちていた指輪ケースを手に取り、ウェストポーチに入れ、急いでベンチの方に駆け戻った。

 しかし、ベンチに良美の姿は無かった。

 孝弘は周囲を見回し、駆け出す。


 ブルーベリーの実がたんまり入った籠を持つ真子は、店の前でうろうろしていた。

「おいしいおいしいブルーベリージャムを作りませんかぁ?」

 一台の車が通りかかり、運転手は真子の姿を見つつ徐行した。

 真子は車に駆け寄り籠を掲げ、

「ブルーベリー試食しますかぁ?」と笑顔で言うと、車は急加速して去っていった。

「おととい来やがれぇ!」


 緑あふれる静かな林の中に、白く輝く教会が建っている。

 教会の前に正装をした人々が手に花を持ち、扉の方を見ている。

 鐘の音が鳴り響くとともに、教会の扉が開き、白いタキシードを着た新郎、白いウェディングドレスを着た新婦が出てきた。

 同時に「結婚行進曲」が流れる。

 待ち構えていた人々は、花びらを二人の上方に向けて盛大に投げている。

 

 教会の門の前に良美が一人立っており、結婚式の様子を眺めていた。憧れているような穏やかな笑顔をしている。

 そこへ、孝弘が息を切らせながら走ってきた。

 良美の側で立ち止まった孝弘は、息がなかなか落ち着かない中、何かしゃべろうとしている。

 良美は孝弘を見た後、ふたたび教会の方に目を向ける。

「素敵ね……」

 新婦がブーケトスをして、女性たちが手を伸ばす。結局、小学生くらいの女の子が手に掴んだ。歓声が沸く。

 孝弘は、やっと息が落ち着いてきて、結婚式の様子を見ている。

 しっかりしていそうな新郎に、明るい感じの新婦、二人とも満面の笑みを浮かばせている。

 孝弘は深呼吸をして良美を見る。

「さっきはなんかゴメン……」

 良美は黙って聞いている。

「だ、大事な話があるんだ……」

 良美、孝弘の方を向く。

「軽井沢まで来て言う事なの?」

「え……?」

「今日、ずっと様子が変だったし孝弘さん……」

「いや、それは……」

 良美、涙を浮かべる。

「私と別れたいなら、はっきり言えばいいじゃない」

「えっ……」

「私が軽井沢に行きたいって言ってたから、最後の場所にしたの? ひどいよ」

 良美、駆け出す。

「よ、良美っ!」

 孝弘は良美を追って駆け出すが、疲れているせいで足がもつれて速く走れない。


 真子は店の前の林道に立ち尽くしている。付近には誰もいない。

 籠の中のブルーベリーの実を摘んでは口に放り込んでいる。

「おいひぃぶるぅべりぃ……、じゃむ作りませんかぁ?」真子は虚空を見つめながらつぶやいている。

 そこへ、良美が顔を伏せながら駆けてくる。

 真子は、接近してくる良美の姿を目にし、

「お?」と言うのが早いか、良美に激突されて二人とも倒れ込む。

「ぐぉ!」

「きゃあ!」

 真子の上に良美が乗っている状態となる。

 良美が慌てて起き上がろうとする。そこへ、孝弘がふらふらと小走りにやって来て、真子の足につまづいて転び、二人の上に乗っかる。

「ぐぇ!」二人の荷重がかかり、真子は顔を真っ赤にする。

 良美が起き上がると、孝弘は地面に転がった。

 良美は真子の手を取って立ち上がらせる。

「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」良美は真子の体を心配そうに見ている。

「前方不注意なりぃ~」真子は人差し指を良美に向け左右に振っている。

 孝弘も立ち上がり、腕をさすりながら、

「す、すみません……」と頭を下げた。

 真子、ふと地面を見ると、落ちた籠からブルーベリーの実が道に散乱しているのが見える。

 良美も一緒に頭を下げる。「すみません……」

 仁王立ちのようになっている真子は、二人を眺める。

「なにか急ぎの用でも?」

 良美と孝弘は顔を向き合わせ、黙ってしまう。

「ジャム作りませんかぁ?」

「はい?」良美が首を傾げる。

 真子は店の方を指さし、

「手作りのブルーベリージャムです。採れたてですよぉ~」

 良美と孝弘は呆然としつつも、孝弘は笑顔になる。

「俺、ブルーベリー好きなんです」

「そうだったの?」良美は少し驚いたような表情をする。

 真子はパーンと手を合わせ、

「はい! じゃぁ決まり。入って入って~」

 真子は二人の手を引いて店に引っ張っていく。


 店内のレジカウンターに座って漫画を読んでいる野々山。

 ドアが開く音を聞き、「いらっしゃいませ……」と入口の方を見て、ぎょっと驚いた表情をする。

 真子が良美と孝弘の手を引きながら店内にどかどかと入ってくる。

「ジャム作り入りま~す」

 良美と孝弘は店内をきょろきょろと見回しながら、店の奥の方へと真子に連れられていく。

「あ、ああ、よろしく……」

 野々山は呆然と見送る。


 工房の中央にある木製のテーブルの椅子に良美と孝弘が座っており、その向かいに真子が立っている。

 テーブルにはいくつかの竹籠が置かれており、ブルーベリーの実が盛られている。それぞれ、色味や大きさが微妙に異なっているのが分かる。

 真子が説明をし始める。

「えっと、ブルーベリーには品種がいろいろとありまして、お好みに合わせてブレンドしてジャムを作れるんですぅ。ご要望はありますかぁ?」

 良美は首を傾げ、

「お好みというのは、どういった……?」

 真子が答える先に孝弘が口を開いた。

「甘みと酸味のバランス。あとツブツブ感とかの食感ですかね?」

 真子は孝弘を指さし、

「そうで~す!」

 良美は意外そうに孝弘を見る。

 孝弘は少し考えるように首を傾げ、

「どっちかというと酸味寄りで、ツブツブ感が欲しいです!」

「りょうか~い。じゃぁ、私のほうでセレクトさせていただきます」

 真子はいくつかの籠の中からブルーベリーの実を取り、別途小さな籠に盛る。

「こちらへどーぞー」

 良美と孝弘は立ち上がり、コンロのある壁際に移動する。コンロには鍋が置かれている。

「まずは軽く水洗いして、鍋にいれてください」真子はブルーベリーの実の盛られた籠を良美に手渡す。

「は、はい……」良美は少し慌てた様子で籠を受け取り、横にあるシンクでブルーベリーの実を洗い、鍋に実を入れた。

「まずは弱火で煮ますぅ」

 良美はコンロに火を付け、弱火に調整する。

「ゆっくり攪拌してください」真子は良美に木杓子を手渡す。

 良美は丁寧にゆっくりと攪拌し始める。

 鍋の中が煮立ってくる。

「レモン汁を加えま~す」

 良美、真子から受け取った小皿を傾け、煮立つブルーベリーの実の上にレモン汁をかける。

「火を中火まで上げてください」

 良美、コンロの火を慎重に調整する。

「このくらいでしょうか?」

 真子は火を見て、手をOKポーズにする。

「うん、オッケーです。あとは十分くらい煮詰めますよぉ」

「はい!」と良美はまじめな表情で答える。

 ゆっくりと攪拌をしている良美の姿を見つつ、孝弘はふと大きな窓から見える景色に目を見張った。ブルーベリー農園が視界一杯に広がっている。

「孝弘さんもやってみる?」

 良美から声をかけられ孝弘は我に返ったように、

「う、うん!」

 良美から木杓子を手渡され、孝弘は鍋の中に煮立つブルーベリーの実を攪拌し始める。

「こんな感じかな……」

「いーですよぉ。実を潰し過ぎず、焦げ付かせず、やさしい感じでぇ」真子は鍋の中を覗き込みながら言う。

 良美は孝弘のことを穏やかな表情で見ている。

「ふぅ~。でもよかった。お二人さん、私の初めてのお客さんなんです」

「えっ、そうなんですか?」良美は驚いた様子。

 真子はテーブルの椅子に座る。

「今日からここのバイトに入ったんです。手作りジャム担当で。でも全然お客さん来なくて……」真子はちょっと疲れているように見える。

「そうだったんですか」孝弘は攪拌しながら真子の方を見る。

 真子は、ふと良美と孝弘を見て言った。

「ところでぇ、さっきは何で走ってたんですかぁ?」

 良美と孝弘はぎくりとしたような表情をする。

「えっと……、軽い運動です。空気がおいしいので」孝弘が目を泳がせながら言う。

「はぁ? 確かに空気おいしいですよね~。軽井沢には観光で?」

「そ、そうです。ドライブで……」

「どこへ行きましたぁ?」

「えっと……、何とかの滝とか」孝弘は顔を上に向けて思い出そうとしている。

「白糸の滝とか、旧三笠ホテル、ガラス美術館……、あと雲場池とかですね」良美が割って入る。

 真子はうんうんと頷いている。

「あっ、ダムにも寄ったね!」孝弘は顔を良美の方に向ける。

「そうだったわね。景色すごかったです」

 真子は首を傾げる。

「ダムなんてありましたっけ?」

「ああ、なんか道間違って、山道を……」

 孝弘の手が止まっているのを見て良美が「孝弘さん、手、手!」と言い、孝弘は「おっと!」と攪拌を続ける。

「でもいいですねぇ、ドライブかぁ。あたしもカレシがいたらなぁ……」真子は窓からの景色を遠い目で眺める。

「あの、そろそろいいのではないでしょうか?」良美が鍋の中を見て言った。どこか目が泳いでいる。

 真子は立ち上がって鍋に近づき、

「はい、いい感じですね。じゃぁ火を止めましょう」

 孝弘はコンロの火を消した。

「こちらに移してくださいね」と野々山がいつの間にか工房に入って来ていて、ガラスの瓶を手に持っていた。

「あ、店長。はい、熱いうちにこちらに移してくださ~い」真子は野々山から瓶を受け取り、良美に手渡す。

「うちの農園で採れたブルーベリーのジャムは格別ですよ。お好みでブレンドできるなんて、うちだけなんですよ。たぶん」

 野々山は自慢げに語っている。

「は、はい……」良美は瓶にジャムを移している。

「楽しみです!」孝弘は笑顔で野々山を見ている。

 野々山は満足げな表情をしている。


 店の前に良美と孝弘、真子と野々山が向かい合って立っている。

「ジャムが冷めてきたら、バゲットに付けて食べてみてくださいね」真子はバゲットのスライスの入った紙袋を良美に手渡す。

「ありがとうございます」

「うちの農場で採れたブルーベリーで作ったジャムは格別ですよ」野々山が笑顔で言う。

「また言ってる……」真子がつぶやく。

 孝弘は浮足立つようにそわそわしながら、

「超楽しみ!」

「もう、孝弘さんったら」

 良美も孝弘も明るい笑顔をしている。

 野々山と真子は、歩いていく二人を笑顔で見送った。


 それから約一年の時が過ぎた今、真子と野々山は工房でコンロの鍋を見つめている。

 鍋の中は、ブルーベリーが焦げ付いている。

「とっても仲良さそうだったのに、別れちゃったのかなぁ……」真子は残念そうに鍋を見つめている。

 野々山は窓からの景色を眺めながら、何か考えているような表情をしている。

「片付けますね」真子は鍋をシンクに置き、蛇口から水を出す。

「彼ら、当時どこへ行ってたか分かるかい?」

 野々山の問いに、真子は首を傾げる。

「え? うーん、確か聞いた気がしますけど……」

「どこら辺?」

「あー、確か、白糸の滝とか、旧三笠ホテルとか……、あとは、どっかの池……、ああ雲場池とか言ってた気がします」

 野々山は少し考えているように頷き、

「ちょっと車で出てくる。店よろしくね」と工房を出ていく。

「え? ちょっと店長~」

 真子はぽかんとする。蛇口からの水で鍋が溢れている。


 店の駐車場に停めてある紫色の軽ワゴンに野々山が乗り、発車させ林道を走っていく。


 観光客で賑わう中、白糸の滝に良美はいた。

 どこか懐かしいような、寂しそうな表情をしている。


 林道を走る紫色の軽ワゴン。

 野々山が真剣な面持ちで運転している。


 白糸の滝に駆け足で来る野々山。

 周囲を見回すが、良美の姿はない。

 

 旧三笠ホテルのロビーで、良美は椅子に座っている。

 ややうつろな目で窓から外を眺めている。


 林道を走る紫色の軽ワゴン。

 日が暮れ始めている。

 

 旧三笠ホテルのロビーに入ってくる野々山。

 周囲を見回しながら館内を歩く。

 見学客も少なく、良美の姿はない。


 雲場池のほとりにある木製のベンチに良美は座っていた。

 夕日が落ち始めている池には、つがいの鴨がゆっくりと泳いでいる。

 良美は、やや微笑みながら鴨を見ている。

 つがいの鴨は仲良さそうに、寄り添って泳いでいる。

 良美の目から涙がこぼれる。


 道路を走る紫色の軽ワゴン。

 運転している野々山はどこか焦っているような表情をしている。


 雲場池の周囲の遊歩道を野々山が歩いている。

 すっかり日が暮れてしまっており、野々山以外誰もいない。

 池のほとりにある木製のベンチに座る。

 しばらくぼうっと池を眺めていた野々山は、スマホを取り出し、操作をし始める、

 スマホの画面には、ニュースサイトのアーカイブコーナーが表示されている。

「えっと……、長野県……、一年前……」

 野々山はアーカイブ記事画面を指でスクロールさせている。

 指がぴたりと止まる。野々山は画面を凝視している。

 画面には、『上信越自動車道 トンネルでの多重事故』という記事が掲載されている。

 野々山は画面をスクロールしながら記事を見る。

 『心肺停止一名』の文字が見える。

 野々山はスマホから目を外し、目をつむってベンチに背をあずける。

 その時、ゴロゴロと雷鳴が遠くで聞こえた。

 野々山はスマホを操作し電話をかける。


 工房で掃除をしていた真子は、電話の呼び出し音を聞き、「はいは~い」とレジカウンターにある固定電話を取る。

「はい、野々山ブルーベリーファームですぅ」

「あ、真子ちゃん?」野々山の声が聞こえる。

「店長、もう、どこ行ってるんですか。店閉めちゃっていいですかぁ?」


 ベンチに座っている野々山はスマホで話している。

「彼女と彼だけどさ、一年前、他にどこへ行ってたとか分かるかな?」

「えー、そんな覚えてないですよぉ」

「そりゃ、そうだよね……」野々山は当然のような表情で答える。


 受話器を耳にしている真子は、首を傾げて何か思い出そうとしている。

「車で移動してたんだよね」野々山の声に、真子ははっと何か気づいたように、

「あ、そういえば、山道で迷ってどこか行ったとか言ってたような……」


「山道?」野々山の頬に雨粒が落ちる。

「あっそうそう! ダムですダム。景色良かったって」

 野々山、目を見開く。と同時に、雷光で周囲が一瞬眩く光り、大きな雷鳴とともに本降りの雨となる。

 野々山は真剣な表情で続けた。

「真子ちゃん。悪いけど、今からダムに行って!」

「えっ! ダムに? なんで? どこのダムですか?」

「湯川のダムだよ。僕も行くから!」

「ちょっと、なんでなんですか? 店長!」

 通話が切れているのに気づいた真子は、「どういうこと?」と受話器を持ったままつぶやく。

 突然、大きな雷鳴が鳴り響く。

「うひゃあ!」


 店の駐車場脇に停めてあるピンクの原付オフロードバイクに、雨合羽姿の真子がまたがり、エンジンをかける。

 夜の大雨の中、ライトを付け、バイクが発車する。

「もうなんでなの~!」真子が叫びながら、林道を走っていく。


 大雨の中、夜の山道を走る紫色の軽ワゴン。

 ワイパーが高速に動いているが、ほとんど意味をなしていない。

 運転している野々山、焦っている様子で、アクセルを踏む。

 速度が上がった軽ワゴンは、カーブをセンターラインを越えて曲がっていく。その時、眩いヘッドライトの光とともに対向車が現れ、クラクションが鳴り響く。咄嗟に野々山がハンドルを切り、対向車も避けるようにコースを取ったため、ぎりぎりですれ違った。野々山は安堵の表情。


 信濃川水系の湯川に架かるダムに良美はいた。

 ダム壁の上端が道路になっており、一年ほど前に孝弘と来た場所である。

 景色がとても良かった場所だが、夜の大雨の中、道路の照明灯の明かり以外は漆黒の闇である。

 道路脇の欄干に手をかけ立っている良美。傘も差していない。

 無表情に闇を見つめ、つぶやく。

「孝弘さん……」

 良美は、欄干に両手をかけ、ゆっくりと乗り越えていく。乗り越えた先にも五十センチほどのコンクリートの地面があるため、立つことができる。足元の先は漆黒の谷底となっている。

 その時、クラクションの音が鳴り響くと同時に、眩い光が良美を照らした。

 ハイビームにしたヘッドライトの光とともに軽ワゴンが接近してきて、急ブレーキ音を鳴らし良美から十メートルほど手前で停車した。

 ドアを開け、野々山が降りてくる。良美は驚いた表情で野々山を見ている。

 激しい雨音に負けないよう、野々山は大声を出す。

「ブルーベリー屋の店長です!」ゆっくりと歩いて良美に近づいていく。

「来ないで……」良美は怯えているように頭を左右に振っている。

 野々山は歩き続ける。

「作りかけでしょう? ブルーベリージャム」

「来ないで……」

 野々山は良美の目の前まで近づいた。

「とりあえず店に戻りませんか?」と、手を差し伸べる。

「来ないで!」

 そのとき、雷光で一面が眩く光り、激しい雷鳴が鳴り響く。

 驚いた良美は、その弾みで片足を踏み外し、谷底に落ちそうになる。

 野々山、咄嗟に手を伸ばし良美の手をつかみ、思い切り引っ張り上げる。

 そのまま欄干を乗り越えさせようとしたとき、眩い雷光で目の前が真っ白になり、手がすべった。

「うわっ!!」

 良美が道路側に倒れると同時に野々山は欄干を超え、谷底に落ちそうになったが咄嗟に欄干の縁を掴んだ。が、手がすべり下へ落ちていく。両足から谷底へ落ちていくのを、かろうじて欄干の支柱を片手でつかみ、上半身のみが地面にある形でぶら下がった状態となる。

「た、助けてぇ!」野々山が叫ぶ。

 良美は我に返ったように、欄干の下の隙間から両手を出して野々山の腕を引っ張るが、とても力が足らない。

 野々山も足を何とか上げようとダム壁を蹴るが、足をばたつかせるだけである。

「ダイエットするべきだった……」

 その時、激しい雷鳴が鳴り響いた。

「うわっ!!」

 驚いた弾みで野々山は支柱から手を滑らせ離してしまう。ずるずると谷底へ滑っていくが、良美が両手で野々山の服をつかみ、欄干に体を押し付ける形で滑るのを食い止めた。

 しかし、雨で服が濡れているのもあり、良美の手が滑りはじめてしまう。

「もうだめかぁ……。 お手を貸していただいてありがとう。危ないから手を離してください!」」

 野々山は諦めたように、かつ笑顔で良美に言った。

 良美は手を離そうとはせず、首を左右に振る。

 その時、誰かが道路の方から駆けてきて欄干を乗り越え、野々山の脇にしゃがみ込んだ。

「踏ん張って!」

 先端がフックになっているロープを持った真子が叫んだ。

 真子は野々山のズボンのベルトループにフックを掛けると欄干を乗り越え道路側へ走っていく、

 ロープは軽ワゴンの後部に取り付けてあるウインチにつながっており、真子がウインチのスイッチを入れた。

 ロープが欄干の上端からピンと張り、野々山のズボンをゆっくりと引っ張り上げていく。野々山の体が腰から欄干上端に引っ張られ、頭を下にして背中が欄干にぶつかり、圧迫される。

「いてててて!」

 良美が立ち上がって野々山を引っ張る。野々山が欄干を乗り越えると道路に落下した。

「痛っ!!」

 野々山は腰を頂点に「くの字」の姿勢でロープに引っ張られる形で、ずるずると軽ワゴンの方に向かって地面を滑っていく。

「もう止めていいから!」野々山は叫んだ。

 真子はウインチを停止させた。

 軽ワゴンの近くに真子が乗ってきた原付バイクが停まっている。

 野々山は地面に座った形で体をさすっている。

「痛いんだけど……」

「谷底に落ちるよかいいと思いますけどぉ」

 真子は安堵の表情をする。

「ありがとう……」野々山も安堵の表情をする。

 良美は呆然と立ちすくんでいたが、ぺたりと座り込む。

「くしゅん!」と良美はくしゃみをした。

 野々山と真子は安堵の目で良美を見た。


 工房内のテーブルの椅子に良美が座っている。ジャージ姿で、髪をひとつ結びにしている。

 野々山と真子が工房に入ってくる。二人とも服を着替えている。真子もジャージ姿である。

 良美は立ち上がり、頭を下げる。

「すみません。お風呂までいただいて」

「あたしが用意していたジャージなんで小さいかもですが」

「いえ、ほんとに、すみません、いろいろと……」

 真子が紅茶の入ったカップを三つテーブルに置いた。

「とりあえず紅茶でも飲みましょ」

 三人は椅子に座り、野々山がカップを手に取り、一口飲んだ。

「さ、どうぞ」野々山はテーブルに置いたカップを指さし、良美に言う。

「い、いただきます……」

 良美はカップを取り、ゆっくりと紅茶を飲む。

 真子も紅茶を飲み、「あったかぁーい」と息をついた。

 窓の外は夜の雨が続いているが、小雨になってきている。風も弱まっている。

 野々山は良美を見て、

「落ち着いたかい?」

「……はい」

「えっと、お名前を聞いてもいいかな?」

「はい……、白石良美といいます」

「良美さんね。よかったら、訳を聞かせてくれるかな」

 良美は頷いた後、カップを置き、工房内をゆっくりと見回す。

「ちょうど一年くらい前、こちらでジャムを作ったんです」

 真子が頷いて、

「覚えてますよ。あたしの初めてのお客さんでしたもん」

「はい……、その時、一緒だった人がいたんです。孝弘さんといいます」

 野々山と真子は頷く。

「その後……」

 良美は遠くを見るような目でゆっくりと話を続けた。

 あの日、この店でジャムを作った後、何があったのかを。


 青空の下、山脈をパノラマで見渡せる絶景の場所に良美と孝弘はいた。

 碓氷峠の頂上付近にある『旧碓氷峠見晴台』は、長野県と群馬県の県境にあり、浅間山から南アルプス、八ヶ岳などを一望できる展望公園である。

「すげぇ!」

「すごーい!」

 絶景に声を上げる二人は、満面の笑みを浮かべている。

「あれが浅間山ね」

 良美が指さす方向を孝弘も見て、

「へぇ、あれがそうなんだね」

「あの辺は八ヶ岳かしら?」

「ふうん、さすが詳しいね。それよかパン食べようよ」

「もう……、そうね、いただきましょう」良美もまんざらでもないようである。

 二人は近くのベンチに座った。

 良美が袋からブルーベリージャムの瓶とスライスされたバゲットを取り出す。プラスチックのスプーンでジャムをバゲットに塗り孝弘に手渡し、自分の分もジャムを塗る。

 バケットに乗ったブルーベリージャムは鮮やかな紫色で粒の形も残っていて、太陽の光を反射して輝いている。

「いただきまーす」孝弘は大きく口を開いてバゲットをかじる。

「いただきます」良美もバゲットをほうばる。

 二人、しばしの間、無言でジャムの乗ったバゲットを食べている。そのまま何も言わず最後の一口まで食べつくした。

 二人とも満面の笑顔で、

「うまい!!」

「おいしい!!」

 周囲にいた観光客が驚いた様子で二人を一瞥した。

「こんなうまいもの初めて食べたよ!」孝弘は興奮気味である。

「ふふ……、おおげさね。でもほんとおいしいね!」

 青い空に白い雲が浮かび、気持ちの良いそよ風が二人の頬をかすめる。

 良美は、ふと孝弘の方を見ては、何かを思い出したかのように寂し気な表情をして俯いてしまう。

「最後の思い出になったね……」

「えっ?」

 孝弘は驚いたように良美を見て、首を左右に振ってウェストポーチをまさぐる。中から指輪ケースを取り出し、良美に見せる。

「えっ?」良美は指輪ケースを見て驚いた様子。

 孝弘は姿勢を正し、真剣な眼差しで良美を見た。

「俺と……、結婚してくれませんか?」

 孝弘は指輪ケースを開ける。小さめだがダイヤモンドの指輪が煌めいている。

 良美は驚いた表情で指輪と孝弘を見る。

「今日は、これを言おうと思ってドライブに誘ったんだ」

 良美は呆然としている。

「でも緊張しちゃってさ、なかなか言えなかった。さっきの池では指輪ケースごと落っことしちゃって……」

 良美は黙って俯いている。

「プロポーズってどう言えばいいんだろうって……、検索なんかしちゃってさ……、スマホばっか見てた……」

 良美は黙って俯いている。

「でも……、そんなのどうでもいいって思った。自分の想いを言えばいいだけだって……」

 良美は黙って俯いている。

 孝弘は良美を見て、不安そうな表情となる。

「だ……、だめかな?」

 良美、俯いたまま、肩を震わせている。

「お……、怒った?」

 良美、ぱっと顔を上げると、瞳が潤んでいる。

「こちらこそ……、お願いします」

 孝弘は喜び勇んで、

「やったぁ!!」と叫んで立ち上がる。

 周囲の観光客が驚いた様子で孝弘を見て、状況を察したのか拍手が沸き起こる。

「ちょっと! 孝弘さん」良美は恥ずかしそうに頭を下げる。

 孝弘は「どーもどーも」と笑顔で会釈している。

 良美も、笑顔で頭を下げている。

 きれいな青空が広がっている。


 夜の工房。テーブルの椅子に座っている良美、真子、野々山。夜の雨は上がっていた。

「私は、プロポーズを受けました……」

 真子と野々山はゆっくりと頷いた。

「そのあと……、夕日に照らされるくらいまでそこにいて……、帰路についたんです」

 野々山は、既に何か分かっているかのような表情をする。


 夜の高速道路、上信越自動車道を走るロードスター。幌は閉じている。

 運転している孝弘、助手席の良美、二人ともおだやかな笑顔である。

「今日は楽しかった」良美は孝弘を見る。

「うん、生きてて一番うれしい日だよ!」

「なにそれ」良美は笑う。

 良美の左手の薬指に指輪が輝いている。

 その直後、事故が起きた。

 ロードスターがトンネルに入ったとたん、前方を走る大型トラックのブレーキランプが点灯し、急ブレーキ音がトンネル内に響き渡った。大型トラックが急接近してくる。

「うわっ!!」

 孝弘は咄嗟にブレーキを踏むと同時にハンドルを左に切る。

 目を瞑る良美。


 夜の工房。野々山と真子は衝撃を受けたように目を見開いている。

 良美、俯いていた顔を上げる。

「多重事故でした……、トラックに衝突し、後ろから来た車にも追突されました」

 野々山は目を瞑って聞いている。

「孝弘さんは……、亡くなりました」

「えっ……」真子は口に手をあてた。

「咄嗟に車を左に向かせたので、トラックの後部が運転席に直撃したんです。私は骨折と全身打撲でした」

 真子はぽろぽろと涙を流す。

「正面から衝突していたら、私も死んでいたかもしれません……」

「そんな……」真子はぼろぼろと涙を流している。

 野々山は目を開いて、真剣な表情をする。

「辛いことを聞いてすまないね……」

「いいえ……」

 良美、少し笑顔になり、工房内を見渡す。

「ここに来れば、また孝弘さんに会えるような気がして……」良美の目から涙がこぼれる。

「あのジャムを付けたバゲット……、とても美味しいって一緒に喜んでましたから……」

 真子は涙を両手で拭きながら、顔がぐしゃぐしゃになっている。

 窓の外は、雨は上がっていて、月明かりが見える。

 野々山は立ちあがり、

「まだ途中だったね。ブルーベリージャム作り」

 良美は思い出したかのような表情をして、

「あ……、焦がしてしまってすみません」

「真子ちゃん、準備して」

 真子は涙を腕で拭き取る。

「もっちろんです!」

「さぁ良美さん、君が作るんだよ」

 良美は少し戸惑っているように見えたが、笑顔で頷いた。


 鍋の中でブルーベリーの実が煮立っている。

 良美は真剣な表情でゆっくりと攪拌している。

 野々山と真子は、その後ろに立ち、見守っている。


 ブルーベリージャムの入った瓶に蓋をする良美。

「できたね」野々山が微笑みながら言う。

「いい感じ!」真子も瓶に顔を近づけて頷く。

「もう遅いし、今日はここに泊まって休んでください。こう見えてゲストルームがあるんです」

「え……、いいんですか?」

「明日、ブルーベリージャムの試食をしましょう」

「は、はい……」良美は微笑む。

「冷蔵庫で冷やしときましょう。超楽しみ~」真子もうれしそうである。

 窓から見える夜空には、月が輝いていた。


 澄み切った青空が広がっている。

 山脈をパノラマで見渡せる絶景の場所、旧碓氷峠見晴台に良美、野々山、真子がいる。

「うわぁホントすごい景色~。初めて来ましたぁ」真子は左右に顔を振って眺めている。

「僕も久しぶりに来たよ。いいところだよね」野々山も満足そうに微笑む。

「ふふ……、素敵な場所ですよね」良美も笑顔になる。

「じゃぁお待ちかねの……」と言って真子は側にあるベンチに座り、置いてあるバッグをまさぐる。

 バッグの中からジャムの瓶とバゲットのスライスを取り出し、ブルーベリージャムをバゲットに塗っていく。

 野々山は良美を見て、

「昨日は眠れたかい?」

「はい、おかげさまで、ぐっすりと眠れました」

「それは良かった」

「お待たせ~」真子が近づいて、バゲットを良美と野々山に手渡す。

 太陽の光を反射して、鮮やかな紫色のブルーベリージャムが輝いている。

「いただきま~す」

 真子のかけ声とともに、三人はブルーベリージャムの乗ったバゲットを口にする。

 三人とも目を瞑り、しばし黙ったままである。

 良美、ぱっと目を開き、

「おいしい!!」

 真子、野々山も「おいし~!」「うまい!」と声を出す。

「このブレンドはもちろん?」と真子が良美に聞く。

 良美、笑顔で答える。

「酸味寄りの、ツブツブ感!」

 そのまま、三人とも食べ終えるまで無言だった。

 良美は、おだやかな笑顔を浮かべている。

 野々山は良美に優しく言った。

「その笑顔ができれば大丈夫。もう二度とあんな事はしないね?」

 良美は野々山を見て頷いた。

「はい」

 野々山と真子も安心したように頷いた。

「あの……」良美はやや俯いた。

「なんだい?」野々山は少し不安そうな表情になる。

 良美は、少し言いにくそうに、

「……また、ブルーベリージャムを作りに来ていいですか?」

 野々山と真子、お互いを見てから頷き、良美に向かって、

「もちろん!!」

 笑顔になる良美。

 その黒く長い髪を、そよ風がなびかせた。


(了)

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ブルーベリーと初夏の風 貞弘弘貞 @SADA_HIRO

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