30分

遠部右喬

第1話

 つい最近、奇妙な体験をした。友人T君の家に向かっている時の話だ。


 ある日の夜T君と電話をしていると、明日は久しぶりの休日だし、部屋を掃除して買い物に行くつもりなのだ、と彼が言いだした。結構な呑助のみすけの彼は、ビールを箱買いするんだー、などとうきうきしているではないか。

 T君、つい先日腰を痛めたばかりなのだ。

 ビールの箱を抱えたままスーパーの床に転がる彼を想像してしまった僕は、


「それ、付き合うよ。僕も明日休みだしさ」


 と提案した。

 結局、一人で大丈夫だと言い張るT君を半ば強引に説き伏せ、僕は荷物持ちとして彼の買い物に同行する運びになった。


「じゃあ、12時頃にそっちに行くよ」

「おう、頼むわ。それじゃ、近所の鰻屋で昼飯食ってから買い物に行こうぜ。あ、そうだ、お前来るなら、ついでにワインも2本追加で買っていい?」

「……ウン、モチロンイイヨ」


 そんな会話を交わし、通話を終えた。



 明けて、翌朝。

 T君の住むアパートは、僕のアパートから電車で一駅、そこから徒歩で20分程の距離にある。電車の待ち時間を考慮しなければ、30分もかからない。約束の時間は12時だったが、T君は出掛ける前に掃除をすると言っていたので、それも手伝うつもりでいた僕は、11時半には彼のアパートに着くよう計算して家を出た。


 電車は遅延することもなく隣の駅に到着した。この時点で11時05分。

 駅を出て線路を渡ってすぐに左折し、またすぐに右折して、再び左折する。目の前の道を再び右折し、後は暫く桜並木を行くことになる。

 道沿いに植えられた桜達はそろそろ花の盛りを過ぎていたが、桜吹雪の舞う風景は中々幻想的で、僕はそれを楽しみながらゆっくりとT君の家を目指した。駅から桜並木を抜けるまで、時計は確認しなかったが、恐らく20分も掛かってはいない。

 桜並木を抜け、脇道を右折する。ここからは入り組んだ住宅街を10分程行くことになるが、殆ど道なりだし、迷う事もない。途中にある米屋の脇を右折すれば、間も無く道の左手に建つT君のアパートに到着する……というか、到着した。


 2階にあるT君の部屋を目指し、アパートの外階段を登ろうとして、僕は足を止めた。鰻を食べるには心もとない手持ちしかなかったことを思い出したのだ。そこで、T君のアパートを通り過ぎたところにあるコンビニを目指すことにした。

 コンビニはT君のアパートから見える距離にあるので、それこそ1分も掛からず到着したと思う。ATMで金を下ろしたついでに店内の壁掛け時計を確認すると、11時半を僅かにまわったくらいだった。

 コンビニを出て、再びT君のアパートを目指す。すると、左手すぐに米屋が見えた。


(あれ?)


 ぼんやりと歩いていた僕は、どうやらT君のアパートを通り過ぎてしまったようだった。

 米屋から、今度はアパートを見落とさない様確認しながら歩いた。


 無い。


 T君のアパートがどこにも無いのだ。結局、さっき出て来たばかりのコンビニの前まで歩いてみたが、アパートは見当たらなかった。

 そんな訳がない。米屋からコンビニまではゆっくり歩いても2、3分位の距離だし、確かにその間に脇道は何本かあるが、そもそも、どこも曲がる必要は無いのだ。ただ直線。真っ直ぐ歩くだけ。

 再びコンビニからT君のアパートを目指し、歩き出す。米屋にどんどん近付く。だがやはり、アパートは見当たらない。


 訳が分からなかった。

 不思議と、全くと言っていい程恐怖はなかった。強いて言えば、「早く行かないと、T君は一人で掃除を始めちまうかもしれない」と焦りを覚えたくらいだ。

 米屋とコンビニを何往復かし、念の為、途中の脇道を曲がっては引き返すを繰り返してみたが、やはりT君のアパートはどこにも無い。電柱に掲げられた街区表示板も建設中のマンションも見覚えがあるのに、アパートだけが見当たらないのだ。

 何往復目かのコンビニの前で、僕は立ち止まった。


 いつの間にか僕、もしくはT君のアパートが、異次元に迷い込んでしまったとでもいうのだろうか。流石に何か変だなと思い始めはしたが、ぐるりを見渡すも住宅街の昼下がりの光景は平和そのもので、時折、お孫さんを連れたおばあちゃんや、営業職と思しいにいちゃんとすれ違ったりするもんだから、この世界でおかしいのは、「通りを何度も往復する不審者ぼく」なのではと疑った。それとも化かし上手な獣に揶揄われてる? だが、ここは山間部でもなんでもない普通の住宅街だ。狐も狸も棲んじゃいないだろう。

 しかし、万が一、いや億が一、何かに化かされているとしたら、簡単な対処法があるじゃないか。「狐狸に誑かされたら、煙草に火を点けたらいい」と言うアレだ。喫煙という悪癖のある僕のポケットには煙草もライターもある。試すだけ試してみようかとポケットに手を突っ込みかけ、止めた。

 住宅街、かつ路上での喫煙は如何なものか。出来れば「通りをうろうろし、何度も脇道を出入りした挙句、路上喫煙を始めたマナー最悪の不審者」になりたくなかったのだ。もし傍から見ている人が居たら、何をするでもなくコンビニ前の道にぼんやりと佇む僕は、とっくに不審者だっただろうが……。


 とにかくお手上げだった。歩き回って喉も乾いていた。少し迷った挙句、僕は目の前のコンビニに再び入ることにした。

 店中は、店員が人外だとか、何だか判らない商品が売られているということもなく、少し前に入店した時と変わらない(少なくとも僕の眼には)様子だったので、ほっとしながら冷たいお茶を買った。

 コンビニを出てお茶を飲み、僕は再びT君のアパートを目指し歩き出した。


 すると、いくらも経たない内に見慣れたアパートに辿り着いたのだ。


 本当に意味が分からなかった。こんなにあっさり辿り着くと思っていなかった僕の頭は、さっきまでよりもよっぽど混乱していた。

 ともあれ、二階にある彼の部屋に行き呼び鈴を鳴らした。


「あいよー」


 ドアから覗くT君の笑顔に、心底ほっとした。

 T君が眉を顰めた。


「何、どしたん? 変な顔して」


 まあ上がれよ、と招き入れてくれた彼に「掃除は?」と尋ねると、ついさっき終えた所だと言う。


「悪いね、遅くなって。腰は平気? 本当は掃除を手伝うつもりだったんだけどさ……」

「あー、平気平気。それに、別に遅れてなんてないぜ。掃除は端から一人でやるつもりだったし、気にすんな」


 そう言われてスマホを見ると、間もなく12時になるところだった。僕は30分近くこの付近を彷徨っていたようだ。

 掃除したての気持ちのいい部屋に通された僕は、自分の身に起きたことをT君に聞いて貰うことにした。 


「…………ふーん、不思議だな。けどさ、スマホで位置情報を確認すればよかったんじゃね? 俺に連絡するとかさ」


 最後まで黙って話を聞いてくれていたT君が腕組みし、そう言った。まったくもってその通りなのだが、迷っている間は思いつきもしなかった。僕は自分が思うよりも慌てていたのかもしれない。


「まあ、今度はそうしたらいいさ」

「『今度』があったらそうするよ。あって欲しくないけど」


 あれは狐狸に化かされたのか、異次元に迷い込んだのか、単なる白昼夢だったのかは分からないが、ともかく僕は無事日常に帰って来ることが出来たのだ。

 T君は溜息を吐く僕の肩を叩き、立ち上がった。


「それより腹減ったな。鰻食いに行こうぜ」



 あれから数日経つが、幸いなことに、同じような目には一度もあっていない。

 特にオチも何もない話なのだが、敢えてオチをつけるとしたら、T君と食べた鰻はとても美味かった、ということだろうか。

 それこそ、に。

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30分 遠部右喬 @SnowChildA

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