第19話『賭けの行方』

(駄目、まだ駄目)

(お兄ちゃんは生きていて)


 床の上に仰臥していたラウルはゆっくりと目を覚ました。


(アニエス……?)


 長い長い夢を見ていたような気がした。アニエスが、何か言っていた夢だ。

 ラウルは寝起きのような顔をして、起き上がった。髪が生温かい液体でしっとりと濡れている。ラウルは襟足の長い髪にそっと触れた。

 手には血がついていた。赤く鉄臭く香っている。

 ラウルはぎょっとして目を見開いた。ゆるゆると、今までの経緯が思い出される。


(そうだ、おれは……)


 死のうと思ったのだ。

 ラウルははっきりと思い出した。

アメリーに捧ぐ本の献本をアメリーに届けに行ったら、死神からアメリーが死んだことを告げられた。アニエスに次いでアメリーまで失い、生きる希望と目的を失ったラウルは、アメリーの遺した〝嘘つき〟という言葉に胸を痛めて、自殺を図ったのだ。

 嘘は嘘らしく、はじめから何もなかったようになるために。

 しかしラウルは生きている。確かに掻き切ったはずの首筋は、恐る恐る触れてみるとくっついていた。

しかし首筋は血まみれで、傷がふさがっていても確かに切ったことだけは明白であった。傷はないのに壁を見ると、頸動脈から迸った血が血圧によって波打ちながら飛散した生々しい痕跡が残っている。これは一体、どういうことなのであろう。どうして自分は、生きているのだ。アニエスの遺影にまで血が吹きかかっているのを見て、ラウルは今更、自分がしたこと、未遂に終わったが自殺を図ったことが怖くなる。


(そうだ、堕悪魔と死神……)


 自殺を図ったあとの記憶は定かではなかったが、バルタザールは帰ってきていたし、何故かラモールも一緒にいたはずだ。ラウルはバルタザールとラモールを探して、狭い室内をきょろきょろする。

 バルタザールのことはさておき、病院を訪ねたあとラモールが此処自宅までついてきたのは、きっとラウルが自殺を図るという未来を見通していたからであろう。ラモールはアメリーを失った悲しみを分かちあうようにラウルの側にいたが、それも今思えば、ラウルが死ぬことを見越していただけであったのだろう。


「!」


 部屋のなかにいたのはバルタザールだけであった。ラモールの姿はない。

 バルタザールはラウルのいる方に背を向けて、床に座っていた。何も言わないで静かにしていたので、ラウルははじめバルタザールがそこにいることに気づくのが遅れた。

 バルタザールは肩を落として座っていた。声をかけるのが躊躇われるくらい、その背中が小さく見えた。

 ラウルは目をしばたたく。


「堕悪魔……?」

「!!」


 ラウルが恐る恐るバルタザールに近づき、声をかけると、バルタザールはまるで犯罪現場を押さえられた小物みたいに肩をびくりとさせた。

 バルタザールは涙を拭いていた。鼻をすすって、むすっとした顔をして、ラウルを顧みる。泣いていたのであろうか。ラウルは何だか心配になったが、そのことについて訊くのがどうしてか憚られて、別の質問をしていた。


「堕悪魔、死神は何処に行ったんだ?」

「……奴なら死にましたぜ」

「えっ、死神って死ぬのか?」

「おれさまの命と共に……昇天しちまいましたよ」


 ラウルは今一度首筋に触れた。指先にねっとりと血が絡みつく。その手を見つめて、ラウルは呟いた。


「おれは首を掻き切ったはずだ」


 バルタザールは黙っている。


「なあ堕悪魔、どうしておれは、生きているんだ」

「……何処まで覚えてる?」

「えっと、首を切った直後までだ」

「じゃあそのあとは全く覚えてない?」

「ああ」


 ラウルが素直に頷くと、バルタザールはくしゃくしゃの前髪を掻き上げた。疲れた表情を白面に濃く刻んで、何から話そうか思案する。

やがてバルタザールは赤くなった両目をごしごしとこすりながら言った。


「悪魔の涙ってのはすごいんですぜ、先生」

「……?」

「死人の魂を呼び戻すことができる」


 バルタザールの発言で、ラウルは悟った。

 自分は確かに死んだのだ。絶望を終わらせるために首を切った、あの瞬間に。死んでしまったから、それ以降のことを何も記憶していなかったのだ。


「じゃあ……おれはやっぱり死んだのか……?」

「一度は死んでますよ、先生は。今頃お気づきに?」


 泣き顔で笑ったバルタザールを見つめて、ラウルはしばし絶句した。

 ややあって、一度命を絶った自分を助けてくれたのがバルタザールだと知って、ラウルは泣きそうになる。

 ラウルは震える声で、バルタザールに尋ねた。


「お前がおれを……呼び戻してくれたのか……!?」


 バルタザールはこっくりと頷いて、


「その代わり、悪魔の力はなくしてしまいましたけどね……もう先生のお役に立てませんよ」


 と、自嘲気味に呟いた。

 バルタザール曰く、悪魔の涙は死者の魂を呼び戻すことができるが、それを乱用されては困るので、ひとの死に際して泣いた悪魔は翼を落とされて悪魔としての力も失ってしまうとのことであった。

 元々翼のなかったバルタザールは角がなくなって、馬の脚と蹄が人間の足へと変わっていた。口を見ると、牙も普通の歯になっている。

 ラウルを救うためにバルタザールが失ったものは多かった。ラウルは涙ぐんで、血に濡れた唇を動かした。


「何でそこまでしておれを……お前におれを助ける義理なんてないじゃないか……」

「何ででしょうねえ……全く、おれさまの気紛れにも困ったもんで……でも」


 バルタザールはそう言って笑った。


「おれさまは先生の人柄? ってやつが気に入りましてね、本当の最後まで、先生を見届けたいって、思ったんですよ」

「堕悪魔……」

「その最後っていうのが、絶望を絶つための今じゃないと、そう勝手におれさまが思っただけですよ」


 バルタザールはへらっと笑った。出会ったばかりの頃にラウルがその笑みから感じていた嫌悪感は、驚くほどなくなっていた。


「先生、あんたはいいひとだ……おれさま、先生が授賞式のときに元担当に何も言わなかったあたりから、いや、もっと前からか。あんたはいいひとだと思ってた……あんたはまだ、死ぬべきじゃあない。おれさまがこんなことを言うのも可笑しな話ですけど、あんたはまだまだ生きて、誰かを楽しませることができるお人だ」


 力を捨てて自分を救ってくれたバルタザールに何て言ったらいいのか、ラウルは作家の癖に言葉に窮した。こういうときは何て言ったらいいのであろうか。自暴自棄になって命を絶とうとした。否、絶った自分を、己を犠牲にしてまでつなぎとめてくれたバルタザールに……


「堕悪魔、おれ、お前に何て言ったらいいか……」


 ラウルがじわりと目に涙を溜めたのを見て、バルタザールはそっぽを向いてわざとらしく嘆いてみせた。


「ああとんだ馬鹿を見た、馬鹿に花を添えてしまった! 力も失って、おれさまはもう悪魔じゃなくなっちまいました」


 

バルタザールはそう言って、服の懐からたたんだ羊皮紙を取り出した。

「それって」


 ラウルが羊皮紙を指差すと、バルタザールはラウルに紙を広げて見せた。

 それはバルタザールが最初にラウルに書かせた契約書であった。ラウルのサインと血の署名がしてある。


「おれさまにもう力はないし、先生の魂を持って天界に帰ることは出来ない。だからこの契約は――」


 バルタザールは契約書を破り、宙に撒いて捨てた。


「もう無効だ」

「堕悪魔……」


 バルタザールは笑って、契約書であった紙がちらちら降る中でラウルに謝った。


「おれさまは先生に謝らないといけないことがありまして」

「? 何だよ、改まって?」

「おれさまは神と賭けをしていたんです」

「神と賭けだって?」


 いきなり突拍子もないことを言い出したバルタザールに、ラウルは眉を寄せる。だがとりあえず、バルタザールが続きを話すのを待った。


「先生の魂を手に入れられるか出来ないか……簡単な賭けです。賭けに勝てば神が褒美に何でもくれるとのことだったんで、褒美に翼がほしかったおれさまは賭けに乗って先生に召喚されました。だから最初は先生の魂を狙って先生の言うことを聞いていた……許してください」

「……そう言えば堕悪魔、お前言ってたな。翼を落とされたって」


 ラウルは許すとも許さないとも言わなかったが、バルタザールの謝罪はラウルにとっては謝られるほどのことでもなかったので、別の話を切り出した。


「何で翼を落とされたんだ? 悪魔の頭領に歯向かったんだっけ」


 バルタザールは頷いた。


「今思うと愚かに感じるのは、おれさまがもう悪魔じゃないからでしょうな。悪魔王の座を奪おうとして、負けて翼を落とされた……それで奈落の壁をよじ登って神に媚びに行ったんですよ。褒美の翼を手に入れて、今度こそ王を殺すために」


 バルタザールは床にごろんと横になって、ぼやいた。


「おれさまは野心家でした、先生と同じように……でもそれももう終わり、力もなくなってしまったし、これでおれさまは大負けですよ」


 ラウルは神妙な表情で、自分が賭けの対象にされていたことや、バルタザールがラウルの元に現れた本当に理由を初めて知って、しばし考え込んでいた。


「その神とお前の賭けは」

「? 何です?」

「その賭けに勝者はいたのかなって、思ったんだよ」


 ラウルは眉を集めて唸った。

 死神は死んだ。

 神はラウルの魂を得られなかった。

 悪魔はラウルの魂のために、その力を失った。


「先生……」

「誰も何も得てないじゃないか、勝者がいないんだから、負けもないんじゃないかな……」


 ラウルが顎に手を添えて呟くと、バルタザールは苦笑する。


「成程、確かにそうかも」

「だろう?」


 ラウルは血に濡れた指先で目にかかる長い前髪を払うと、初めて歯を出して笑った。


「それにしても堕悪魔、お前は意外と駄目な奴なんだな。悪魔のくせにお人よしで、いい奴で。堕ちた悪魔じゃなくて、駄目な悪魔、駄悪魔に改名しろよ」

「煩いお人だ、死神と同じことを言いやがる……自分だって駄目な作家のくせに」

 ラウルはふっと笑って、付け足した。

「おれはお前のそういうところ、嫌いじゃないけどな」

 バルタザールは失笑した。

「そりゃどうも」


 バルタザールは何故か悔しげにそっけない返事をした。

 駄目な作家と駄目な悪魔は、ちらっと互いの顔を見て、吐き捨てるように笑いあったのであった。


 ラウルは血を洗い流すと、出かける支度をした。乱れた髪をとかして、長い襟足を麻紐で縛りなおす。


「おれも謝りに行かなくちゃな……」


 ラウルがバルタザールを連れて病院経由で向かった先は、身寄りのない人々の墓が集まる集合墓地であった。白菊の花束を二つ持って、ラウルは墓石に刻まれた文字を一つ一つ見て回る。病院に寄ってきたのは、墓が何処にあるか訊くためであった。


「先生、ありましたぜ!」

「すぐ行く!」


 ラウルがバルタザールと共に探していたのは、アメリーの墓であった。墓石にはしっかりと、〝アメリー・エマール、此処に眠る〟と書かれていた。享年、十五歳。

 ラウルは墓前に花束を供えて、胸の前で十字を切った。そして墓石にそっと触れると、語りかけるように呟いた。


「アメリー……ずっと来れなくてごめん、手紙ありがとう、おれはまた矜持を持って仕事が出来るように頑張るよ――」


 ラウルはアメリーに会いに行けなかったことと、二人だけの話を本にしてしまったことを詫びた。

 当然ながら返事はない。だがラウルはこの寂しさをよく知っていたので、特に何とも思わずに、一方的にアメリーに話しかけた。かつて、妹アニエスにそうしていたように。


「なあアメリー、君はまだおれに失望している?」

「あの手紙、書くのがつらかったと思うんだ……おれが変わらなければ、君はあんな手紙を書かなくて済んだのにな、本当にごめん」

「君がつらいときに側にいてあげたかったのに……許してくれとは言わない、でも、また此処に来てもいいかな……?」

それでもラウルは謝れて満足した表情になっていたので、その様子を少し離れたところから見ていたバルタザールが言った。

「これで気が済みましたか、先生?」

「ああ、ありがとう」


 ラウルはもう一つの花束を持って、アメリーの墓を後にした。ラウルがもう一つの菊の花束を持っていく先は、言わずもがな妹アニエスの墓であった。


 悪魔の力がなくなって、過熱していたラウル作品の権威と需要は下がった。ラウルは売れない、とまではいかないが、普通の作家に戻っていったのである。

 しかしバルタザールの力が働いていた頃の栄華はそのままであった。ラウル作品の評価は高いままであったし、ラウルが以前所属していた出版社は潰れてしまったし、昔のように書きたくもない砂を吐くような恋愛小説を書いて日銭を稼ぐこともなくなったままで、ラウルの生活が完全に元に戻ったわけではなかった。


「……これからどうするんで、先生?」

「どうするって……書くに決まってるだろ。何言ってるんだ、バルタザール」


 ラウルとバルタザールは今までと変わらず、作家とその居候であった。一つだけ変わったことがあるとすれば、もう悪魔ではなくなったバルタザールを、ラウルが名前で呼ぶようになったことくらいである。

 バルタザールはソファーの上でごろごろしながら、片眉を持ち上げた。


「書くって言っても、もうおれさまは力がないからお手伝いできませんぜ? それでもいいんですか?」

「いいよ、別に」


 ラウルは原稿用紙を広げて万年筆を握った。うだうだしているバルタザールを顧みて、


「まずは行為ありき、だろ? お前が言ってたんじゃないか、バルタザール」

「んー、おれさま、そこまで深い意味があって言ったわけじゃないけど」

「とにかく! お前に頼ってばかりじゃいられないからな……お前が変えてくれた現状を今度はおれが変えないと」

「……前向きになりましたね、先生」

「泣いてばかりもいられないからな……墓参りに行ったのは、おれのけじめだ」


 ラウルはそう言って、原稿に向き合った。バルタザールはソファーから起き上がると、黙ってコーヒーを二杯淹れて、ブラックの方をラウルのテーブルの隅にそっと置いた。


「お、気が利くな、バルタザール。ありがとう」

「いえ」


 バルタザールは角砂糖が十個入ったコーヒーを啜りながら、ラウルの側に座って、ラウルがかりかりと原稿を書いている様子を暇に任せて見つめていた。

 視線が鬱陶しくて、ラウルは手を止めてしまう。溜め息をついて、バルタザールを見る。


「……気が散るからじろじろ見るなよ」

「先生、今日の晩飯は何です?」

「は? 晩飯?」


 ラウルはもう次の食事のことを訊いてくるバルタザールにうんざりしながら、時計を見た。何気にもう、夕方であった。


「げ、もうこんな時間か」

 しばらく買いものにも行っていなかったので、家の食糧は底を尽きかけていた。

「仕方ない、買いもの行ってくるか……バルタザール、お前何が食べたい?」

「んー、まだ肌寒いからポトフが食いたいですね」


 バルタザールは悪魔でなくなったことから主食が時間ではなく、人間の食べものと同じになっていた。ラウルがコーヒーをあおって買いものに行く用意をはじめると、バルタザールは注文をつける。


「あとプリンも忘れないでくださいよ」


 ラウルはバルタザールの台詞に頭痛を覚えて脱力した。全くこの居候はわがままばかり言って、と思い、口先が毒づく。


「この穀潰し! プリン潰し!」

「ははは、それでこそ先生だ。元気になって何より」

「黙れ、行ってきます!」

「行ってらっしゃーい」


 乱暴に戸を開閉して出ていったラウルに、バルタザールはひらひらと手を振った。その手の長く尖った爪も、人間の爪になっていた。

 バルタザールは窓を開けて、アパート前の通りを歩いているラウルに向かって叫んだ。


「先生、プリン忘れずにー!」

「買ってくるから黙ってろ! 穀潰しの居候!」


 かくしてラウルはただの作家に戻り、バルタザールは悪魔からただの居候になった。

 なんだかんだ言いながらラウルは自分を助けてくれたバルタザールを邪険にしようとは思わなかったし、バルタザールは自分の力でまた頑張りはじめたラウルを見捨てることはできなかった。

 ラウルとバルタザールはうっかり微笑んでしまう口元にも気づかずに共に呟いたのであった。


「……こんな結果も」

「悪くないか……」


 ラウルは住宅街を下がって市場へ、バルタザールは遠ざかるラウルの姿をいつまでも見送っていた。

 もうすぐ咲きそうな、桜の蕾がふくらむ頃、ラウルとバルタザールは新しい道を歩みはじめようとしていたのであった。


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物語作家ラウル・ドルレアクの嘘 剣城かえで @xxtiffin

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