第18話『神の勝利』

「先生ーっ!」


 首から血を噴き、更に吐血して倒れたラウルを、バルタザールは抱き起こした。ラウルを揺さぶり、呼びかける。


「先生、先生! しっかりしてくださいよ!」


 狼狽するバルタザールの近くでは、ラモールが死神の大鎌を細い腕に抱いて、ラウルの魂を刈り取る用意をはじめている。

 ラウルの意識はバルタザールの呼びかけも空しく、遠のくばかりであった。瞳孔が徐々に開きはじめた灰色の目には、白い膜が落ちはじめている。

 鎌を手にしたラモールが、小さく笑ってバルタザールに言った。


「これで賭けは神の勝ち……諦めなさい、バルタザール」

「先生! 先生!」


 しかしバルタザールはラモールの言葉に耳を貸さなかった。悲痛な声音で死にゆくラウルに呼びかけ続ける。そんな悪魔らしくもないバルタザールを、ラモールは鼻で笑った。

 ラウルの目には、もう何も見えていなかった。ラモールも、自分を抱き起こしたバルタザールの姿さえも。

 ラウルは口から血を滴らせ、ぱくりと切れた首筋からだらだらと血を流し続けながら、妹の姿を幻視して、うわ言のように口元をひくつかせた。


「おれはただ、お前の喜ぶ顔が見たかっただけなんだ、それがどうしてこんなことに……おれは一体、いつ何処で間違えたんだろう、アニエス……」

「先、生」


 バルタザールは図らずも目に涙を溜めていた。ラモールは暇を持て余している。

 ラウルにはもはや愛しいアニエスの姿しか見えていなかった。しかしその幻さえも、少しずつ、霞のように歪んで、消えていく。


(お帰り、お兄ちゃん!)

(今日は何のお話してくれるの?)

(原稿は捗ってる? 頑張ってね)

(お仕事は大変なの? あんまり無理しないでね)

(早くデビューできるといいね)


 ラウルはアニエスの幻が走り去っていく後ろ姿に手を伸ばすが、届かなかった。

 伸ばした腕からは力が抜けて、何に届くことなくかなしく床を叩いた。

 身を灼くような、幸せの予感がした。ラウルは迫り来る死の恍惚に包まれて、静かに消えて行けそうな気がした。

 嘘は嘘らしく、はじめから何もなかったように。

 ラウルの血だらけの口元が引きつった。


「アニエス、おれももうすぐ、お前のところに……」


 ラウルが静かに瞼を下ろすと、ラモールが歌でも歌うように澄んだ声で嘯いた。大鎌を手の中でくるりと回して、


「時が留まり、真夜中のような静寂。針が落ちて、ことは――」

「先生! 目を開けてくれ!」

「――終わった」


 ラウルの魂がラモールの言葉を聞いていたかのような頃合で、ラウルの体外に放出された。


「馬鹿な人間だよ、先生……!」


 バルタザールの頬を、涙が伝い流れた。


「ついに足るを知ることなく死んで絶望を終わらせようって言うのか!」


 俄かにラモールの表情が青ざめた瞬間、バルタザールの涙がラウルの魂に触れた。ラモールが美貌に怒気滴らせて叫ぶ。


「バルタザール! 貴様この場で、ひとの死に泣くなんて! お前に泣かれたら私(わたくし)が魂を取れなくなるじゃない!」


 近い未来を予測できるラモールがバルタザールの涙に気づくことができなかったのは、バルタザールが人間ではなく悪魔であったからであろう。ラモールには人間の未来が見えるが、人間以外の未来は見通せないのだ。

 ラモールが青ざめたのは、死ではない、ラウルの別の未来が見えたからであった。すっかり周章して金切り声を上げ、手の中で持て余していた細いラモールには不釣合いな大鎌を構える。

 バルタザールはラウルを抱えたまま自嘲した。


「もう絆(ほだ)されてた、いつの間にか……おれはこのひとの人生を、本当の最期を見届けたいと思うようになってた。だがそれは今じゃない。ラモール、お前に、神に、おれは勝つ……それがおれの選んだ未来だ、おれは先生を生かす」

「馬鹿な、それではお前もただでは済まされない! それでもいいの!?」

「翼よりも大事なものを失っても、今はそれで構わない」


 ラモールは目を血走らせてバルタザールに大鎌を振り下ろした。


「この悪魔風情が! お前の行い、しかと神に言いつけておく!」

「好きにするがいい、神の娘、死神風情が。天に消えてしまえ」


 しかし鎌がバルタザールの身を裂くより早く、紫色の光がバルタザールの身体を烈しく貫き、ラモールを巻き込んで果ててしまった。

 ラモールの姿は消え、残ったバルタザールは抱き起こしたラウルの安らかな顔を、じっと見つめていた。


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