第17話『人生に負ける』

 アメリーの死に茫然自失となったラウルは、ソファーに座って泣いていた。その側では何故か現れたラモールがラウルの悲しみを分かちあうような表情をして佇んでいる。バルタザールは手紙の山を紙袋に戻して、ラウルの向かいの床に座りこんだ。


「アメリー……」


 ラウルは泣きながらそう呟いたきり、また再びわっと泣き出した。

 それ以上の言葉はなかった。ただアメリーの遺した手紙に書かれていた〝嘘つき〟という言葉だけが、心をえぐって頭から離れなかった。嘘つき、という言葉が示すアメリーの失望が、ラウルの心に血をしぶかせた。そしてラウルに失望してしまったのに、ラウルがまた元のように、温かい物語を紡げるようになることを願ってくれていたのが、ラウルにとってはまたつらいものがあった。

 バルタザールは派手髪を掻いて、泣いているラウルを哀れっぽく見つめていた。かける言葉はないようであった。ラモールは何を考えているやらいないやら、何も言わずにラウルに寄り添っていた。

 ラウルはのそのそと動き出して、ラモールにその場から退くように目線で凄んだ。ラモールが立ち上がると、ラウルはソファーに横になって、しばらくの間額に腕を乗せてぼんやりしていた。

 泣いて泣きつかれて、今のラウルは無であった。

 アニエスを亡くして十年、何処かに飢えのある心を抱えて、ラウルは空しく作家として生きてきた。アニエスのために作家になったのに、肝心のそのアニエスがもういなくて、夢を叶えたはずなのに、ラウルの世界は少しずつ色褪せていったのだ。

 そんな十年を迎え、作家生活十年目に、アメリーに出会った。アニエスに似たアメリーは、ラウルの心の隙間を少しずつ埋めて、そしてラウルの灰色であった世界に、ほんのりと灯る灯りをつけてくれた。

 今やそのアメリーも失って、ラウルは生きる気力も目的もなくしてしまった。

 重苦しく気まずい沈黙が部屋の中を漂っていたが、ラウルは一言も話さずに考えごとをしていた。

 アニエスの思い出がアメリーとの日々に重なり、止まった涙が飽和して、再びにじみ出てくる。自分の愚かさにまたもや身を噛まれ、ラウルは静寂のうちに心のねじ切れる音を聞いた。

 アメリーは二ヶ月前のいつ、何処に葬られたのであろう。ラウルは沈思する。しかし墓の場所が分かったところで、もうアメリーに会わせる顔がないとも思った。自分はアメリーを裏切って、二人だけの物語を売物にした。アメリーに捧げることを言い訳にして。そしてアメリーを失望させたまま、死なせてしまったのだ。

 それでも気になって仕方がなかった。アメリーは身寄りのない少女であったから、きっと墓に詣でるひとなんていないであろう。でも自分が行ってみたところでアメリーはもう喜ばないのは明白であった。

 考え疲れたラウルは、不意をつくように口を開いた。


「もういい、もういいよ」


 それはバルタザールに向けられた言葉であった。バルタザールははじめそれが自分へ向けられた言葉だとは思っていなかったのか、ぽかんとして、オレンジ色の眉を寄せる。


「先生?」

 ラウルはソファーに横になったまま嘯いた。

「おれは賭けに負けた、人生って言う賭けに」

「……」

「だから命でも魂でも、何でも取っていけよ」


 ラウルの宣言に、バルタザールは慌てた。バルタザールはラウルに、もっと成功を見せてやってもいいのだと言い募った。


「もっと成功を望んだっていいんですぜ? 先生はそれしきの、此処で終わる人間なのか? たかだか小娘一人に死なれたくらいで!」

「――してあげたいいことが、話が、たくさんあったんだ」


 ラウルはとつとつと話し出した。


「アメリーがアニエスの代わりだとは言わない……でも、おれはアメリーにアニエスを重ね見てた……」


 妹アニエスにしてあげられなかったことを代わりにアメリーにしてやりたかった。成功した自分を見せてあげられなかったから、アニエスに似た儚いアメリーにしてやりたいことがたくさんあった。けれどもそれは叶わないまま、アメリーを失望させたまま、会うことも出来ないうちに死なせてしまった。

 成功を追いかけ、時間がないことにかまけて、アメリーを想うつもりが、ラウルはアメリーを忘れていた。

 ラウルは悟って、ソファーに寝そべったまま誰に言うでもなくぼやいた。額に乗せていた腕を胸の上に置いて、遠い目をする。


「……人生で一番悪いことは、絶対に叶わない夢を叶えることだ」


 ラウルはむくりと起き上がって、言葉を失い口を小さく開け放っているバルタザールを見た。ラウルはバルタザールに問いかける。


「おれが自分の力で手に入れた成功があったか、堕悪魔?」

「それは……」


 バルタザールは何か考える表情になったが、結局何も言えなかった。ラウルの成功は全て、バルタザールの力の元に成り立っていたからだ。

 言葉を詰まらせているバルタザールに、ラウルは確かめるように言った。


「ないだろ? 何一つとして」


 自分は所詮、悪魔の操り人形。今更気づいたラウルは、吐き捨てるように嗤った。

 売れる作家になるだなんて、最初から無理な話であったのだ。ラウルは思い知らされた。自分には最初から、そんな力量はなかったのだと。

 ラウルはゆらりと立ち上がって、ふらふらと作業用テーブルの元に近づいた。


「悪魔の力で得たものなんかに、何の価値がある?」


 ラウルは言い捨てて、テーブルの上に転がっていたナイフを手にとった。鉛筆を削るための、いつもテーブルの上に置いてあるナイフである。ナイフは鈍いきらめきを放ちながら、くすんだ鈍色の刃にラウルの疲れた顔を映し出している。

 バルタザールはぎょっとして黒い目を剥き、ラモールがうっそりと微笑んだ。

 バルタザールがうわずった声でラウルを止める。


「は、早まるなよ、先生!」


 ラウルはすでに死人のような瞳でバルタザールを見たが、すぐにナイフに視線を戻した。空しく自嘲をこぼしてから、傾けた首筋にナイフの刃をあてがう。


「今のおれは嘘の塊、そんなおれにどうしてこれ以上生きながらえる価値がある?」


 ラモールが微笑んだ。もう一つの、ラウルとバルタザールの賭け以外の賭けが、此処に終わろうとしていた。自殺した魂は、必ず死神のものになるからである。バルタザールは歯噛みして、ラウルとラモールを交互に見やった。勿論、ラウルはバルタザールとラモール、堕悪魔と死神の事情なんて知らない。

 ラモールが微笑した瞬間、ラウルは何の躊躇いもなく、ナイフで首筋を掻き切った。

 頸動脈が切れて血が蛇のようにうねりながら壁を這い、ラウルは倒れた。

 アニエスの遺影にも、血は迸った。

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