第16話『多忙にかまけて』

 結局翌日も丸一日入院で、ラウルが退院したのは入院から二日後のことであった。ラウルはアメリーの元に顔を出す余裕もなく、仕事の待つ自宅へと引き返す。

 バルタザールが問うた。


「先生、あの子のところに行くんじゃなかったんで?」

「仕事が片付いたらな」


 家に帰ったら帰ったで、仕事の山だ。図らずも入院してしまったので休んでいた分の仕事を取り返さないといけない。ラウルはさっそく、原稿に取り掛かる。

 ラウルが書いている原稿は短編童話集の原稿であった。病み上がりとは思えない気迫で文字を書き連ねているラウルに、バルタザールがプリンを食べながら思案げに言った。


「あの子はもう先生のことなんて忘れてるかもしれませんぜ?」

「……覚えてるさ、今の仕事はアメリーのためにしているんだから」


 そんな言い訳をしながら原稿をしていると、担当が訪ねてきた。


「ドルレアク先生、編集部に届いたファンレター、持ってきましたよ!」

「ありがとう」

「ドルレアク先生、具合はどうですか?」

「ああ、もう平気だ……あと少しで原稿終わるから、待っててくれないか?」

「コーヒーでも淹れますよ、担当サン」

「あ、おかまいなく」


 担当はコーヒーを断って、持ってきた紙袋をテーブルの隅に置いた。暇なバルタザールが紙袋の中を覗き込んで、手紙の入った封筒をいくつか勝手に取り出して眺めている。


「流石、大先生、ファンレターが山のようだ」

「仕事も山のようだけどな……よし、これで終わりだ!」


 ラウルは最後の一文をまとめて、短編集の原稿を終わらせた。万年筆にふたをして、テーブルの上に置く。原稿に欠けや抜け落ちがないか確かめてから、封筒にしまって担当に渡す。


「本ができたら献本をよろしく」

「はい、ではドルレアク先生、次は新人賞の最終選考の原稿チェックをお願いします」


 そう言って担当は四編分もの原稿を置いて帰っていった。

 バルタザールが驚いた顔をして、スプーンをくわえる。


「先生、新人賞の選考委員までやってたんで?」

「今回からな……ファンレターを読む前に原稿を読まないと。時間がないな」


 バルタザールが紙袋の中からファンレターを一つつまみあげて笑った。


「おれさまが音読してさしあげましょうか?」

「よせよ、あとで自分で読む」


 倒れたばかりだというのに、ラウルは大忙しの日々に舞い戻った。原稿作業は新作も連載も同時進行、雑誌のインタビューも入り、目が回るような忙しさであった。それでも器用に仕事をこなしている自分に自分で感心しながら、ラウルは原稿に向かい続けた。


 休日なんて一日もない忙しい日々は続いた。連載用原稿を捌き、読みきりの長編を書き上げる日々は二ヶ月続いた。勿論この間、アメリーに会いにいくどころか一歩も外出していない。ラウルは家にこもってひたすら作業していた。外の空気なんて、久しく吸っていなかった。

 二ヶ月後、季節は早春を迎え、雪がとけて冬の寒さが綻びはじめた頃であった。


「よし、これで脱稿だ! 仕事終わり!」

「脱肛?」

「……何をふざけてるんだ、堕悪魔」

「すいません」


 ラウルがいそいそと出かける用意をはじめたので、バルタザールはきょとんとした。


「お出かけですか、先生? 珍しい」

「仕事がやっと片付いたんだ、暇が出来たからアメリーに会いに行くんだよ」

「アメリーちゃんに?」


 ラウルは二ヶ月前に原稿を提出して先日献本として手元に届いた本を一冊手に取った。

 バルタザールが首をかしげる。


「何の本で?」

「例の短編集が出来たんだよ、これをアメリーに持っていく」


 ラウルは本を開いてバルタザールに一ページ目を見せた。そこにはしっかりと、〝この本を親愛なるアメリー・エマールに捧ぐ〟と書いてあった。

 かつてラウルが妹アニエスに語り、そしてアメリーのために書き直した短編集。ラウルはその本を一冊手に、家を出て、パリ大学病院へ向かった。バルタザールもついていく。

 ラウルは大事に本を持って、久々に外へ出た。爽やかで少し冷たい早春の風を感じながら、アメリーを想い大通りを歩く。

 もうアメリーとは何ヶ月も会っていない。久しぶりに何を話そうか、本を受け取ってもらえるか気を揉みながら、病院へ行った。

 その道中で、珍しくバルタザールがこんなことを言った。


「……アメリーちゃん、喜んでくれるといいですけどねえ」

「そうだな……おれとアメリーだけの話を売物にしたこと、許してくれるといいけど……」


 二階の奥の病室をノックする。返事はなかった。ラウルはそっと扉を開けて、室内に足を踏み入れた。

 部屋には誰もいなかった。アメリーの姿はない。


「あれ?」


 ラウルは部屋の名札を見たが、アメリーの名前はなかった。バルタザールと顔を見合わせ、ラウルは眉を寄せた。


「一般病棟に移ったのかな」

「あら、ご機嫌よう、作家先生」

「死神!」


 そのとき背後から声をかけてきたのは死神のラモールであった。アルビノのように白い美貌で、相変わらず氷のように冷たくラウルを見やる。ラウルはぎょっとして振り返った。

 どうしてラモールが一人で此処にいるのであろうか。ラウルはラモールに、アメリーの居場所を訊いた。


「まあちょうどよかった、アメリーの病室は何処になったんだ?」

「……」


 ラモールは大きく目を見開いたが、すぐにラウルの愚かさを憐れむように笑った。ラウルは嫌な気を感じて、半歩退く。


「な、何だよ……」

「あの子ならもう二ヶ月も前に死んだ」


 死神の宣告に、ラウルは耳を疑った。


「死んだ? アメリーが……?」


 全身から音を立てて血の気が引いた。頭の中が真っ暗になり、手にしていた本を足元に落としてしまう。


「あらら……」


 バルタザールは気の抜けた感嘆をこぼしたきり、気まずすぎて閉口してしまう。ラウルは目に涙を浮かべて呟いた。


「そんな馬鹿な……!」

「最期まで作家先生、あなたのことを気にしていたようだったわ」


 ラモールは思い出したように付け加える。


「そうそう、あの子は最期に作家先生宛てに手紙を書いていた……見ていないの?」


 ラウルは血相変えて身を翻すと、一目散に走り出した。


「先生っ!?」


 バルタザールも慌ててラウルの後を追う。

 床に落ちて真新しいページを外気に晒していたアメリーに渡すはずであった短編集が、残されて風に吹かれ、ぱらぱらとめくれていた。


 自宅に戻ったラウルは二ヶ月前に担当が持ってきてまだ目を通していなかったファンレターの入った紙袋を逆さにひっくり返して中身を床に撒いた。


(そんな、嘘だろ、そんな馬鹿なことが……!)


 ファンレターの山を掻き分けていると、バルタザールが遅れて帰ってくる。息を弾ませて、


「どうしたって言うんですか、先生!?」

「アメリーの手紙を探しているんだ! 堕悪魔、お前も手伝え!」

「分かりましたよ、もう……!」


 ファンレターの山に手を突っ込んで、手当たり次第に差出人の名を確かめる作業が小一時間も続いた。

 しばらくすると、バルタザールが白い封筒を掴んで、黒い目をかっと開いた。


「〝アメリー・エマール〟、せ、先生、これだ!」

「貸してくれ!」


 ラウルはバルタザールの手から手紙をひったくると、乱暴に開封した。

 封筒の中には、初めてアメリーがくれた手紙と同じ便箋が一枚入っていた。はやる気持ちを抑えて、ラウルはアメリーの手紙を音読した。

 内容はこうだ。


「〝ラウル先生、お久しぶりです。お元気ですか。近頃ラウル先生が来てくれなくなったのでお手紙を書きました。先生の新しい作品、拝読しました。面白かったのですが、先生は変わられてしまったのですね。先生のお話は以前より安っぽく、読むひとに媚びているような印象を受けました。どうしてそんな話を書かれるようになったのですか。何かあったのですか。わたしはラウル先生が心配になりました。以前のラウル先生は読み手一人一人に語りかけるような物語を紡いでいらしたのに。残念ですが、わたしの憧れていた物語作家のラウル先生はもう何処にもいませんでした。ラウル先生、あなたは一体、何処へ行ってしまわれたのですか。わたしの中で今のあなたはただの嘘つきです。でもわたしによくしてくれたラウル先生がいつまでもお元気で書き続けて、いつか以前のように戻ってくださることを祈っています、ラウル先生がまた変わってくださる日が来るのを、楽しみに待っています――アメリー・エマール〟」


 目の前が真っ暗になるとは、きっとこういうことなのであろうか。


「そん、な……」


 ラウルは泣き崩れた。手紙の端を握り締めたまま。アニエスのときと同じように間に合わせることができなかったのはおろか、アメリーを失望させたまま死なせてしまった。忙しさにかまけて自分は一体アメリーの何を見ていたのであろう。淡い疑問が頭の隅の方で、静かに弾けていった。

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