第15話『仕事がしたい』
時間と仕事に追われて、ラウルは売れはじめたころと比べてかなり痩せた。特に毎日見ているバルタザールにはやつれているようにも見えた。
この頃は一ヶ月に一冊の新刊刊行イベントを行っていて原稿は大忙し、いくら速筆なラウルでも締め切りに間に合わせるのに徹夜が続いた。
命を削るように執筆しているラウルの背中に、バルタザールが心配そうに声をかける。時刻はもう、夜中の三時だ。
「……先生、大丈夫ですか」
「何が」
「何がって休んだ方がいいですよ、もう三時ですぜ? 徹夜何日目だと思ってるんです?」
「三日目だ……堕悪魔、コーヒー淹れてくれ。そうしたらお前こそ休め、おれにつきあって起きてることないんだぞ」
「いや、おれさまは寝なくても生きていけるんで」
バルタザールが台所に行って湯を沸かしはじめると、ラウルは伸びをしてようやく椅子から立ち上がった。何だか足元がふわふわする。ラウルはふらふらと台所へ向かった。
ラウルは呆っと額に手を置いて、呟いた。身体がぐらぐらするのだ。
「地震かな……?」
「先生の頭が揺れてるだけでしょう」
「はは、それもそうか……あれ?」
ラウルの視界がぐにゃりと変化したのはそのときであった。目に入るもの全ての線が歪み、ほつれて、絡まり、見えていたものが全てどろどろのジャムのようになってしまう。バルタザールの姿も見えない。オレンジ色の糸の塊のような物体にしか見えない。
(あ、やばい……)
「せ、先生っ!」
バルタザールの慌てふためく声が聞こえたのを最後に、ラウルの世界は暗転し、意識の糸はふっつりと焼き切れた。
次に気がつくと、そこは病院の一室であった。ベッドに仰臥していたラウルは灰色の目をぱちくりさせて、天井を見上げる。
何があったのかは分からなかったが、此処が病院のベッドの上なのだけは分かった。腕に点滴がつながれている。
ベッドの中で眠ったのがいつ以来であろうかと思うほど徹夜していた時間が長かったように感じられた。事実、起き続けていた時間は長かったが、その時間は三日以上であったように思えた。肩の力が抜けていく。
「あ、先生が起きた。大丈夫です?」
「堕悪魔……」
意識をなくしている間、ラウルの側にはバルタザールが座っていた。呆れた顔をしてラウルを見下ろしている。ラウルはバルタザールに問うた。
「堕悪魔、おれはどうして……」
「覚えてないんで? 先生、仕事のしすぎでぶっ倒れたんですぜ、過労だって医者が言ってましたよ」
「お前がおれを此処に?」
「救急を呼びました……全く、おれさまは肝が冷えました」
「……おれが死ねばおれはお前の奴隷だ、さっさとおれが死んだ方が都合がいいのに何を言ってる。変な奴だな」
「おや、ちゃんと契約を覚えていたんですね」
ラウルは自嘲した。悪魔なんかに心配されている自分が酷く滑稽に思えた。こんなときに案じてくれるのが悪魔だけなんて、少しだけ寂しかった。
ラウルはバルタザールを見つめて、弱い声で頼んだ。
「……仕事をさせてくれ、堕悪魔」
「何を言ってる」
ラウルは上半身を起こして、バルタザールに訴えた。その顔つきは必死であったが、痩せて頬が少しこけてしまって、切ないものがあった。
「早く仕事を片付けてアメリーのところに行くんだ!」
「駄目だ! また倒れますぜ、迷惑をこうむるのはおれさまだって分かってるんですか!?」
「じゃあ今すぐアメリーのところに行く! 此処は何階だ」
「此処はパリ大学病院じゃない」
「何だって?」
「此処は中央病院ですぜ」
「そんな……そうか……」
パリ大学病院には救急外来はなかった。
「とにかく! じっとしてることですな、先生」
ラウルは脱力して再びベッドに倒れこんだ。どうしてもアメリーに会いに行ける状況ではないことを悟ると、重い溜め息が出る。
しばらくの間、ラウルはぐったりとして天井を仰いでいたが、やがてぽつりと、こんなことを言い出した。
「あのときは、あの頃はよかった……」
「あの頃?」
ラウルは額に腕を乗せて、静かに呟いた。
「妹が、アニエスがまだ生きていた頃だよ……」
今から十三年前、ラウルがまだ十七歳であった頃の話だ。
兄ラウル十七歳、妹アニエス十二歳。親のない二人は、離れていてもいつも寄りそって暮らしていた。
ラウルの妹アニエスは重い病を抱えていて、病院で暮らしていた。アニエスは血液の病気で、今の医学では治すことが難しかったために対症療法をパリ大学病院で受けていた。だからラウルとは離れて暮らしていたのである。
ラウルが中学を出るまではラウルとアニエスはそれぞれ孤児院と病院で暮らしていたが、ラウルが中学を卒業して進学せずに働きはじめてからラウルはアニエスの親代わりとなった。ラウルは中学に通っていた頃から、卒業したら進学せずに働いて、アニエスを引き取ろうと考えていたのである。
当時十七歳のラウルは工場で働いてアニエスの治療費を稼ぎながら投稿生活をしていた。仕事が終わるといつもまっすぐにアニエスの入院しているパリ大学病院へ向かって、アニエスに自作の物語を聞かせてやるのが日課であった。
ラウルは一仕事終えると、病院へ走った。ラウルが平日にアニエスに会える時間はわずかであった。仕事のあとだとすぐに面会時間が終わってしまうのだ。
「アニエス、ただいま!」
「お兄ちゃん!」
アニエスは美しい少女であった。ラウルと同じ色素の薄い長い茶髪をいつもサイドテールにして、ピンク色のカーディガンをパジャマの上に着ていた。
ラウルはアニエスの元を訪ねるときはいつも、ただいま、と言った。そう言うとアニエスも喜ぶし、何よりラウルにとってラウルの帰ってくる場所はアニエスのいるところだと決めていたからであった。
ラウルはアニエスの好物のプリンを、給料日になると買ってアニエスを訪ねた。当時は妹のためのプリン一つ買うのも大変であった。アニエスがいつ帰ってきてもいいように借りている広めのアパートの家賃とアニエスの治療費を払ってしまうと、ラウルの手元に残る金は少しだけであった。
生活は決して楽ではなかった。それでもラウルは、自分のことは少ない金でやりくりしていたものであった。家の財政が苦しい月も、絶対にアニエスには困っていることを悟らせなかった。
ラウルはベッドに腰かけると、アニエスの頭を大きな手で撫でてやった。アニエスは嬉しそうにはにかむ。ラウルはちょっと高いプリンの入った小箱をアニエスに渡した。
「プリン買ってきたんだ、食べなよ、アニエス」
「ありがとうお兄ちゃん、もらうね」
アニエスが小さい口で、すくったプリンを美味しそうに食べているのを見て、ラウルは微笑んでいた。アニエスが嬉しそうにしている姿を見れるだけで、ラウルの仕事の疲れなんて吹き飛んでしまう。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「今日は何のお話をしてくれるの?」
「そうだな……病気のお兄さんを助けるために旅をするお姫さまの話をしようか?」
「うん、それがいいな!」
「それじゃあはじめるよ。昔々アニエス姫という名前のお姫さまが、とある王国で王様である兄ラウルと共に暮らしていました……」
その昔からラウルは妹に、アニエスに喜んでもらうためだけに物語をつくっていた。それが高じて作家という夢を持つようになったが、作家を志すきっかけをくれたのは他でもないアニエスであった。ラウルの書く物語が読み手一人一人に語りかけるような優しさを持っているのは、かつてアニエスのためだけに話をつくっていた名残であろう。ラウルはアニエスの笑顔が見たかったが、面白いことを言って笑わせられるような性分ではなかったから、楽しい話をつくることにいつも頭をひねっていた。仕事場から病院へ行く途中、病院から家へ帰る間、そして投稿原稿を書く休憩に、アニエスのための物語を考え続けた。
「お兄ちゃん、原稿は捗っているの?」
その日の物語を話し終えると、アニエスは決まって現行の進捗がどうか訊いてくる。毎日会っているのに、アニエスはアニエスなりに、働きながら投稿生活をしているラウルを案じているようである。
「うん、捗ってる。一作やっと書き終わったんだ。まためげずに送ってみるよ」
「そっか……あんまり無理しちゃ駄目だよ?」
ラウルは拳をつくって、アニエスの額を小突いた。
「いたっ」
「お前は自分の心配してろ。おれは丈夫だから多少無理しても平気だって」
「そっか……早くデビューできるといいね」
「そうだな……デビューしたら本に書くよ、〝この本を妹アニエスに捧ぐ〟って」
「本当? 嬉しい……頑張ってね、お兄ちゃん」
ラウルは爽やかな笑みを笑窪にためて、小さく頷いた。
「うん、ありがとう、アニエス……」
一緒に暮らすことは出来ないけれど、ラウルにとってアニエスはたった一人の家族で、大切な妹であった。両親がいなくなった今は自分が病気のアニエスに寄り添って、守っていこうと誓っていた。
例え病床を離れることが出来なくてもアニエスが笑顔でいてくれるなら、例えつらくとも自分を心の支えにしてくれているなら、ラウルはそれでよかった。
アニエスの病気が治ってくれるのが一番ではあるが、アニエスが楽しいことにずっと微笑んでいられるなら、言葉を交わして共に笑い合うことが出来るなら、ラウルに望むことなんて何もなかった。
――何も、なかったのに。
「アニエス……」
ラウルが投稿生活をはじめて三年が過ぎた。ラウルは二十歳になっていた。
十五歳になっていたアニエスは体調を崩しがちになり、眠っている時間が増えた。アニエスは、植物状態になってしまったのである。
それでもラウルは気丈でいた。ひとは植物人間になっても耳だけは聞こえていると本で読んで知ってから、気丈夫にアニエスに話しかけ続けた。アニエスの白く細い手を握って、囁くように話しかける。
「ただいまアニエス、お兄ちゃんが来たよ……今日は仕事で失敗しちゃって、アニエスに慰めてもらおうと思ってさ……」
「喉乾いてないか、アニエス? えっと、水差しは何処に置いたかな」
「また新作を投稿したんだ、今度のは手ごたえがある……賞が獲れるといいけどな。応援してくれよ、アニエス。お前に捧げる本にしたいからさ」
返事は、ない。それでもラウルは一方的に話し続けた。アニエスは自分の話を聞いていてくれている。そう信じて、本当は誰よりも泣いて悲観したい自分を制していた。
「こうしてアニエス姫は幸せに暮らしました――おしまい」
返事も相槌もなくても、ラウルはお決まりの、アニエスがお姫さま役の物語を語った。もうアニエスは物語を聞いて自分に笑いかけてくれないけれども。そうでもしていないと、ラウル自身が気丈でいられなくなって壊れてしまいそうであった。
「……じゃあアニエス、また来るよ。面会時間が終わるから……またね」
ラウルは眠るアニエスにそう告げて、家に帰った。当時ラウルが一人で住んでいた家は広いアパートであった。アニエスが車椅子でも入れるように、大きな部屋を借りていた。アニエスがいつ帰ってきてもいいように、ラウルはアニエスの部屋を一つ用意していた。だから一人で暮らすにはあまりにも広く、寂しかった。
きっとアニエスが此処に帰ってくることはないと思いつつ、ラウルは毎日神に祈った。アニエスの病気が、少しでもよくなりますように、と。
しかしアニエスは日に日に弱っていった。ラウルの祈りとは裏腹に。
ラウルは毎日アニエスの元へ通った。アニエスが弱っていく姿を本当は見たくなかったが、それでもアニエスのところに行って、毎日物語を聞かせては、家に帰って一人で泣いた。
そしてとうとう、その日はやってきてしまう。
ラウルが送った原稿が新人賞を射止めた知らせが来たすぐ後に、病院から自宅に電話があった。アニエスの容体が急変したという連絡であった。
吉報を携えて、ラウルは通りを駆け抜けた。アニエスとの思い出が、走馬灯のようにからっぽの頭の中をめぐった。アニエスも今、苦しみながら同じ夢を見ているのであろうか……
(アニエス、待ってくれ!)
ラウルは病院に着くと廊下を走って階段を駆け上がった。廊下を走るなという看護師の声なんて耳に入らなかった。
(待てよアニエス、おれ、やっと新人賞を獲ったんだ!)
(まだお前のために話させてくれよ、話したいことがおれにはまだたくさんあるのに……!)
ラウルが病室に駆け込むと、すでに何人もの医師が集まっていた。
「アニエス!」
昏々と眠るアニエスにラウルは近づいて、強く肩を揺さぶった。急いで新人賞受賞の報告をする。
「アニエス、おれ、賞を獲ったんだ! 作家デビューが決まったんだ!」
するとアニエスは大きな灰色の目をぱちり、と一度だけ開いた。形のいい唇が、かすかに動いた。
アニエスが笑った。ラウルがそう思ったのも束の間、アニエスが植物状態になってから側に置かれるようになった心電図が、無機質で一本調子の機械音を長く吐き出した。
「アニエス、アニエス!」
主治医が開きっぱなしのアニエスの瞳孔に光を当てて、そっと、固まった瞼を下ろさせた。
「残念ですが……」
ラウルはその場に崩れ落ちた。立っていられず、病室の床にがくりと膝をついてしまう。
自分が泣いていることにさえ気づかずに、白んでいく思考がアニエスとの死別を信じたくなくて、おぼつかない唇が呟いた。
「おれを、おれを一人にしないでくれよ――!」
思いだして、ラウルはさめざめと泣いていた。
でも今思うと、ラウルは自分のことをただの自分本位な男であるような気もしていた。一人になるのが怖くて、一人になりたくなかったから、アニエスを大切にしていた気がするし、今アメリーに生きていてほしいと願うのはアニエスのときのような儚い離別をもう味わいたくないと言う自分の弱さで、わがままであるかもしれないとも思った。
ラモールが、いつぞやか言っていたように。
それでも、自分本位だと責められても、ラウルはアニエスを愛していたし、アメリーを大事に思っていたのである。
ラウルは枕を濡らす涙を拭って、呟いた。
「……あのときはよかった、妹のためだけに物語を紡いでいられて。利益や反応に一喜一憂しなくてよかったあの頃が……」
バルタザールはラウルの独白を終始憐れむように聞いていたが、やがてぽつりと言葉を発した。
「……先生、もう寝た方がいいですぜ。先生は疲れてる、だからそんなことを考えるんだ」
「仕事がしたい……」
「いいから寝てください」
「……分かったよ」
ラウルはバルタザールに言われて渋々眠りについた。よほど疲労が溜まっていたのか、すぐに寝息を立てはじめる。
眠りこけているラウルを目を細めて見つめながら、バルタザールはラウルが起きないように小さい声で一人言ちた。
「おかしなお人だ、こうなることを望んだのは先生自身じゃないか」
部屋の電気を落として、バルタザールは窓辺に寄ると、まだ冷たい月の面を見上げた。
今日は満月であった。
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