第14話『嘘つき作家』

〝あの子を案じている暇などなくなる〟


 それからすぐのことであった。ラモールの言ったことが現実になった。再デビュー作のロングヒットで、ラウルは忙しくなったのだ。著作〝沈んだ世界〟の一巻二巻は続々重版、今までの著作も増刷されて、ラウルは担当に続きや新作を求められた。

 ますます有名になったラウルは、ばりばりと精力的に原稿をこなし〝沈んだ世界〟の三巻を上梓、更に原稿の合間に取材を受けて、文芸雑誌にインタビュー記事が掲載されるまでとなった。

 そんなある日のこと、担当がラウル宅にやって来た。


「ルテティウム書房のシャロレイですー!」

「はいはい、今開けますよっと」


 ラウルは原稿にかじりついているので、ラウルに代わってバルタザールが扉を開けた。


「あ、こんにちは、居候のバルタザールさん」

「どうも」


 この担当は何故か〝居候の〟という部分を強調する。

 バルタザールは担当を部屋の中に導いて、テーブルに向かっているラウルに声をかけた。


「先生、担当サンが来ましたぜ」

「こんにちは、ドルレアク先生。原稿捗ってますか?」


 ラウルは万年筆を置いて、大きく伸びをした。担当を顧みて、苦笑する。


「捗ってるよ……もうすぐ四巻の原稿が終わりそうだ」

「流石ドルレアク先生、速筆だなあ」

「今日はどうした?」


 ラウルは担当に椅子を引いてやると、凝りはじめた首に手を当てた。首を倒すと関節が音を立てる。

 この担当が突然訪ねてくるときにはだいたい何か吉報を携えている。またサイン会の話でも持ち上がったのかと思い、ラウルは担当が何か言うのを待った。

 しかし担当が持ってきた吉報は、サイン会とは全く違う、別の吉報であった。


「実はドルレアク先生に雑誌での冒険小説の連載と、新聞へのコラム連載の話が来ているんですよ!」

「れ、連載!?」


 ラウルは驚きのあまり変な声で担当の言葉を反芻した。


「よかったじゃないですか、先生」


 バルタザールがしれっとした顔をして言った。喜んでいるやらいないやら、無表情で口だけは笑っている。

 とうとう連載の、しかも小説以外の文章の依頼まで来るようになったとは、ラウルは幸せが過ぎて何か嫌なことが起こらないか逆に心配になった。だが連載が決まれば今までの文庫書き下ろしとは収入が違ってくるであろうし、何よりやりがいというものがある。一流作家の仲間入りを果たすにしても、連載ははじめてみたいところであった。


「どうします、ドルレアク先生? 連載二本、やりますか?」

「やる! ずっと温めていた話があるんだ! コラムも書くぞ!」

「そうこなくっちゃ! すぐに打ち合わせをはじめましょう、その話、聞かせてください!」


 ラウルは二つ返事で雑誌への新作連載とコラム記事の連載をすることを決めた。頬を上気させて、担当とああでもないこうでもないと話をはじめたラウルを見つめて、バルタザールはにまりと笑った。


「そういえば堕悪魔、お前時間を食べなくて平気なのか?」


 担当が帰ったあと、三時にプリンを食べはじめたバルタザールに、ラウルは尋ねた。バルタザールは大口開けてプリンを食べながら、気だるそうに答える。


「平気ですぜ。今はおれさま、先生が読者から奪った時間をこっそり食ってますから。先生も大した時間泥棒になりましたね」

「ふーん……そうか」


 ラウルはテーブルにコーヒーカップを置いて、また原稿に取り組んだ。万年筆の先端はさらさらと原稿用紙の上を走り、升目を埋めていく。少しも休まない働き者のラウルを見て、バルタザールは苦笑した。


「大忙しですね、先生」

「ああ……でも」


 ラウルは真剣な顔つきで原稿に向かいながら、手を止めることなく返事をする。

「でも今は上手くいっていて、苦労が苦労じゃないんだ。頑張らないと……まずは行為ありき、だろ?」

「はは、おれさまのありがたみが分かったようなら何よりで」

「ふん、よく言うよ。プリン食べてだらだらしてるだけのお前が」


 ラウルの新連載は若者たちの話題をかっさらった。ラウルは冒険小説で連載をするという一つの悲願を叶えた。そして新聞のコラムには大好きで書き続けている冒険小説についての記事を連載した。

 かくしてラウルは物語作家としての地位を確立していった。ラウルの作品の需要は跳ね上がり、原稿料も上がった。

 しかし、いいことばかりではなかった。

 ラウルは多忙を極めて、全ての時間を執筆、取材、打ち合わせなどに食い荒らされてしまい、自由な時間がほとんどなくなってしまったのだ。食事の時間や寝る間も惜しんで、全ての時間を執筆に当てるくらいの忙しさであった。

 アメリーに会いに病院に行くことはとんとなくなった。毎日忙しくて、外出もままならない。書き上げた原稿は今まで出版社に持っていっていたが、今では毎回担当に取りに来てもらい、食糧などの買い出しには暇をしているバルタザールに代わって行ってもらうようになっていた。

 やがて連載は軌道に乗り、連載の合間に文庫書き下ろしで新作や再デビュー作の続編を書いているラウルには、あるときから心を蝕みはじめた心配事が出来た。

 枯渇である。

 ラウルは常に、話のアイディアに詰まり、話の種が枯渇してしまったらどうしようと思うようになっていた。

 文章を書いていても、アメリーと話しているときほど空想は広がらない。それでもラウルは似たような話をつくらないようにと、頑張った。忙しくて全く会いに行けないが、アメリーが自分の作品を読んでくれているであろうと、そのことだけを支えに書き続けた。

 しかし流石に引き出しの多いラウルでも、絶えず新しい話をつくるのは困難になった。そこでラウルは一つのアイディア、物語の種から三つくらいの違う話をつくるようになった。

 それでもラウル作品の需要はふくれ上がった。読者はよく飲み込みもせず、次を要求した。

 ラウルは連載をこなしながらコラムの記事を書き、文庫書き下ろしの原稿を数本分抱えているのが常であった。原稿用紙が次々と文字で埋まり、万年筆に何度もインクを注ぎ足した。

 昼も夜もなく原稿を書いているラウルは、時折バルタザールを相手にぼやくのであった。


「ったく、作家は物語製造機じゃないんだぞ。ちゃんと読まれているのかな……?」


 ラウルが出版した本は再デビューしてから今までで両手の指の数ほどにまでのぼった。

 たまに読者に怒りを覚えつつ、ラウルは書き続けた。入ってくる印税をつかう時間もなく、収入はバルタザールのプリンに充てられるくらいで、金は貯まる一方であった。貧乏であったときとは違う意味で、金を使う余裕さえなかった。


 ある日ラウルは訪ねてきた担当に、次の新刊についてこう打診した。


「次は冒険ものの童話集みたいなのを出したいんだ」

「童話集ですか、新しいファンの開拓にもなりそうだし、いいですね!」


 ラウルの提案を、担当は快く承知してくれた。かくしてラウルの初となる短編童話集刊行への動きがはじまった。

 打ち合わせの様子を遠くから見るバルタザールは、なにやら不穏な表情を白面に刻んで、ラウルと担当の話に聞き耳を立てている。


「短い話を十篇くらい集めた本にしたいんだ」

「それとこの本を捧げたいひとがいて……名前を入れてほしいんだけど、いいかな?」

「そうそう、誰々さんに捧げる、って冒頭に」


 何も知らない担当は手早く企画書をまとめると、うきうきと胸を躍らせて言った。


「いやー、楽しみですね、ドルレアク先生の童話集! これで新しくファンになった子供たちが少し大きくなったらドルレアク先生の別の本も読んでくれそう……さっそく編集長と打ち合わせしてきます!」

「よろしく頼むよ」


 担当が出て行くと、バルタザールがオレンジ色の眉を寄せてラウルに訊いた。


「……いいんですか、先生?」

「何がだよ、堕悪魔」

「だって先生が本にしようとしている話って」

「言うな!」


 ラウルはバルタザールの言葉を遮った。制されてびくりとして顔を曇らせたバルタザールに、ラウルは念を押すようにもう一度言った。


「言うな……!」


 バルタザールは唇を噛んだ。牙が柔らかい唇に沈みそうになる。だがバルタザールは黙らなかった。いくら傍観者であるとはいえ、黙っていられなかったのだ。細い声で、力なく、呟く。


「先生が本にしようとしている話って――アメリーちゃんにしてやった話じゃないですか」


 ラウルはゆっくりと項垂れる。軽く唇を噛み、原稿の上を走っていた万年筆を置いた。ラウルは疲れた声で肯定して、額を押さえる。


「……そうだ」

「何でです? そんなことしたらアメリーちゃん、先生がしてやった話を売物にしたら怒りますぜ?」


 ラウルは遂にしてはいけないことをしてしまった。手を出してはいけないところに手を出してしまった。ラウルが担当に新刊の案として打診した短編集に入るのは、全てアメリーにしてやった即興でつくった話であったのだ。

 とうとうラウルはアメリーにしてあげた、大切な、自分とアメリーだけの話を単行本化する動きをはじめてしまった。それはラウルが枯渇しはじめていたことを意味していた。病室でのラウルとアメリーのやりとりを聞いて覚えていたもの覚えのいい悪魔バルタザールは、ますます白面を曇らせる。


「先生、アメリーちゃんに言ってましたよね……〝君とおれだけの話だ〟って。それを、それを売物にしちまうなんて……」

「黙れ堕悪魔! お前には関係ない!」


 バルタザールはもごもごと口を閉ざした。悪魔の癖に悲しそうな顔をして、ラウルを憐れむように見つめている。

 ラウルはテーブルに突っ伏すと、つらい心の内を吐露した。


「分かってるよ、おれが今、しちゃいけないことに手を染めてることくらい……」

「先生……」

「アメリーとおれだけの大切にして来た話を売物なんかにしようだなんて、どうかしているのは分かってる……二人だけの秘密みたいに、素敵だって言ってくれたアメリーを裏切ることになるのも分かってる……」


 ラウルは泣きそうな声をしぼって呟き続けた。

 〝君とおれだけの話〟、自分で言った優しい言葉が今、荊の蔓となってラウルの首を締め上げる。担当に言っておいた、本を捧げたいひとというのは、アメリーのことであった。アメリーに捧げることを言い訳にした、短編集であった。

 ラウルはバルタザール相手に、胸の中でつかえている重たい石をとってくれと言わんばかりにすすり泣いて、目をこすった。


「つらいよ堕悪魔……こんな思いをしておれは、生きながら身を裂かれる心地だ……!」


 悲しみを誘われたバルタザールはただ目を細めて派手髪を掻いている。あまりにもラウルのしているつらい思いがひしひしと伝わってくるので、バルタザールまで胸がつぶれてしまいそうであった。かける言葉さえ見つからない。

 悩んで悩んで、バルタザールがようやく紡いだ言葉は、無名時代とは別の意味で窮しているラウルを案ずる言葉であった。


「……先生、少し休筆したらどうです?」


 顔を上げたラウルはぼろぼろ泣いていた。白い頬を滴った涙がぱたぱたと書きかけの原稿用紙に落ちて、インクが青黒くにじんでいった。鼻水をすすって、首を横に振る。


「駄目だ、休筆なんて……」


 ラウルは目をごしごしこすった。拭っても拭っても、涙があふれてくる。アメリーを裏切る選択をしたラウルは、自分の愚かさに身を噛まれていた。

 目の前は涙で見えなかった。それでもラウルは万年筆を握りしめ、再びがりがりと原稿を書きはじめた。連載、新聞のコラム、読みきり、そして新たに企画した短編集の原稿がラウルにのしかかる。


「何でそこまで……」


 バルタザールは理解に苦しむ声を上げた。万年筆が白い原稿に文字を刻んでいく無機質な音を聞きながら、ラウルを殴ってでも休ませたい衝動に駆られる。

 今のラウルが万年筆を握り続ける理由は一つであった。それはとても悲愴な理由であった。何に駆り立てられているわけでもないのに、ラウルは書き続けた。書きすぎてもう手が痛くて、字がいつものように綺麗に書けなかった。手が震えている。

 バルタザールはたまらなくなって、ラウルを止めた。


「先生、やめろ! やめてくれ!」

「嫌だ! 今頑張らずにいつ頑張る!? 今を頑張れないような奴に次なんてないんだ、怠け者のお前とは違うんだよ!」

「だけど!」

「おれは――!」


 ラウルは掴みかかってきたバルタザールの手を先に掴んで止めた。その泣き顔が、ほろっと崩れる。


「おれは、成功に見放されるのが怖いんだ……!」

「先、生……!」


 ラウルはバルタザールを突き飛ばすと、また原稿をはじめたのであった。

 バルタザールは何も悲しむ必要なんてないのに、白い顔をもやもやと曇らせて、その場に尻餅をついて動けなかった。


 ラウルは次々に新作を書き、世に発表した。と言っても、その新作というのは皆、ラウルが十年前の投稿時代につくった没作を改稿・改題したものにすぎなかった。しかしそれらの話は新作として受け入れられて、またもや大増刷となった。


「時間がない! 早く次を書かないと……!」


 この頃のラウルは時間に追われて、すっかり口癖が〝時間がない〟になっていた。もはやバルタザールの相手をしている暇もなかった。あまりにもラウルの執筆している様子が鬼気迫っているので、バルタザールはラウルにプリンを買って来いと気軽に言えなくなった。そんな用件で声をかけることすら、申し訳ないと思えるありさまであった。

 仕方がないので買い出し係と化していたバルタザールは食糧を買いにいくついでにプリンを買いにいく。


「成功に見放されたくない、か」


 買いもの帰りにラウルの痛切な言葉を思い出しながら、バルタザールは食料の入った紙袋を抱えてプリンの入った小箱を下げて、自宅へと引き返した。

 バルタザールが住宅街のアパートに着くと、何故かアパートの入口のところでラモールがうっそりと佇んでいた。バルタザールは露骨に顔をしかめる。


「うげ」

「ご機嫌よう、バルタザール……すごい荷物ね」


 バルタザールはさも不快気に眉を寄せて尋ねた。


「何しに来た、ラモール?」

「此処が作家先生のおうちかしら」

「話を聞いてるのか」


 ラモールは優雅とも言える挙措で耳に白い後れ毛をかけると、また妙なことを言った。


「死の匂いがしたから、来てみたのよ」

「死だって?」


 察しのいいバルタザールははっとして黒い目を見開いた。


「まさか先生の身に何かあるとでも言うのか!?」


 ラモールは首を横に振って否定した。


「分からない、まだ……」


 ラモールはバルタザールを冷え冷えとした視線で見つめて、腕を組んだ。高圧的に話し出す。


「バルタザール、お前、当初の目的はどうしたの? お前は目的を忘れている――作家先生の魂を奪うということを」


 バルタザールは何も言えなかった。ラモールは続ける。


「目的を忘れるほど作家先生に入れ込んで、やはりお前は悪魔失格、堕悪魔、否、堕ちた悪魔ではなくただの駄目な悪魔、駄悪魔よ」

「――帰れ」


 バルタザールは目を細めて言い放った。それきり何も言わなかった。ラモールは長い睫毛をしばたたく。そのラモールの横を通り過ぎたバルタザールは二階への階段を上っていった。


「悪魔失格、ねえ……」


 バルタザールは呟いた。

 ラウルを知れば知るほどに、ラウルは真面目な努力家で、厳しく身を持していて、胸に熱いものを秘めているけれど、普通に普通の青年なのがよく分かる。それがはじめは哀れっぽさからであったとしても、応援したくなるのが、ラウルというひとの人柄であったのだ。

 魂を得る賭けに過ぎなかった、ラウルに召喚されてやったのは。しかし今は少しだけ、気持ちが変わっていた。ラウルという人間がどういう人間で、どういう末路を辿るのか、見届けたくなるくらいに。


「はは、確かに、失格だ」


 バルタザールは家の前に着くと、合鍵で鍵を開けた。


 〝時間がない〟から夕食をつくっておいてくれ。というラウルの台詞がもはや日常になりつつあった。バルタザールは悪魔のはずが、すっかり主夫になっていた。バルタザールが家事をしている間に、ラウルはひたすら原稿をする。


(はあ、これが終われば……)


 アメリーには忙しくて会いに行けなくなった。

 そして時間をけちって結果として安っぽい大衆向けの売れる話を量産した。読者に媚びるような物語を書き、仕事への矜持をいつしかラウルは忘れていた。

 たった一人の読者に語りかけるように物語を紡いでいた頃の面影は、今のラウルにはなかった。

 でも今の仕事が片付いたら、アメリーに会いに行こうと思っていた。そのためだけに、寝る間も惜しんで、ラウルは書き続けた。

 アメリー。あの子は元気にしているであろうか。そんなことを考えても、思考はすぐに忙しい原稿に持っていかれた。


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