第13話『あの子を案ずる暇なく』

 その後もラウルはたびたび病院へ足を運んで、アメリーに会った。何気ない言葉を交わし、互いの近況を訊き、ラウルは毎回違う物語をアメリーに披露した。

 ラモールの正体には気づいていない振りをして、二言三言、ラモールとも喋った。ラモールは優しく懐かしく、ラウルに近しいひとの友人のような雰囲気の女性であった。即ち、死であったのだ。この冷たさと悲しさを、ラウルは痛いくらいに知っていたのである。

 そんなある日のことであった。

 ラウルは一人、出版社に向かっていた。新しく書き上げた原稿を持っていく最中であった。ラウルが新人賞を獲りなおして現在所属している出版社ルテティウム書房は、パリ大学病院の近くにあった。なのでラウルは病院の前の通りを、原稿が入った封筒を抱えながら歩いていた。

 歩きながら、ラウルは遠目に病院の屋上を眺めた。すると屋上にアメリーがいるのが見えた。車椅子に乗って、下の景色でも見ているのであろうか。


(アメリー……)


 屋上から下を見ていたらしいアメリーも、ラウルに気づいたようであった。車椅子に乗ったまま、此方に向かって手を振ってくる。いてもたってもいられなくなって、ラウルは病院へ向かった。封筒を抱えたまま、階段を駆け上がって屋上へ。


「アメリー!」


 屋上の扉を勢いよく開ける。息を切らせて猛然と階段を駆け上がってきたラウルを迎えたのは、アメリーではなく、死神のラモールであった。ラウルはそこにいたのがアメリーではなく死神のラモールであったので、息の上がった身体が凍えそうなくらいに寒く、足が氷柱にでもなってしまったかのようにその場から動けなくなってしまう。


「アメリーちゃんなら、もう戻ったわ」

「……」


 やはりラモールは何もかも知っているような顔をして、微笑む。その笑顔が怖かった。口の裂けたバルタザールの笑みの方が、そういった意味ではまだましなような気がした。

 ラウルは引き返そうかとも思った。しかし足はその場に根を張ったように動けない。

 死とは恐怖なのである。

 幼い頃には両親を、その後には妹を奪った死に、ラウルは心の何処かで未だに恐怖していたのかもしれない。また自分から大切なものを奪い去ろうとしている死を前に、ラウルは唇を引き結ぶ。

 ラウルは動けずにいたが、このときを待ちわびていたのかもしれなかった。今、アメリーはいない。ラモールと二人で話すには、今しかない。アメリーはラモールが死神だなんて、露とも思っていないのだから。

 ラウルは短い沈黙を破り、ラモールを見据えた。冷たい風がばさばさと、ラウルの薄茶色い髪を嬲る。ラウルはラモールを、名前で呼ばなかった。


「……死神」


 思わぬ呼びかけにラモールは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに凛とした眦に戻った。自分の正体をラウルが知っていることにも大した驚きは示さずに、白い外套に包まれた細い腕を組む。ラモールは短く呟いた。


「バルタザールから聞いたのね、私(わたくし)の正体を」

「ああ……驚いたよ。おれはずっとお前をアメリーの侍女くらいに思っていたから」

「そう」

「訊かせてくれ、死神」


 ラウルは拳を握りしめて、ラモールをじっと見つめた。灰色の瞳が、かすかな期待をこめて澄んでいる。

 ラウルはバルタザールが言っていたことが事実なのか、ラモールに問いただした。


「お前は本当に死神で、ひとの死が見えるのか?」

「……あなたの言う通りよ、作家先生」


 ラウルの質問はラウル自身の絶望をより深くしただけに終わった。どうしてバルタザールの言を疑って訊いたりしたのであろうか。本当のことをまた聞いたところで、再び傷つくだけだというのに。否、疑っていたわけではなかった。ただ、信じたくなかったのだ。


「……お前の気持ち次第で、ひとは死ぬのか」

「ええ、そういうことになるわね」

「あの子……アメリーは死ぬのか」

「ええ、そのうち」


 ラモールは明日の天気でも話題にするような軽さで、アメリーの死を曖昧に宣告した。ラウルの顔からじわじわと血の気が下がり、やがて紙のように表情が白ちゃけてしまう。

 ラウルは手のひらを握り込んだ。


「あの子から……」

「?」


 声は震えていた。ラウルはその場に吸い込まれたような足を踏ん張って、叫んだ。二人の他に誰もいない屋上で、寂しげな絶叫が響かずに霧消した。


「あの子から離れろ!」


 ラモールはくすりと笑っただけであった。血が凍るような、冷たい笑みであった。ラウルは立ち尽くして、わなわなと唇を震わせる。


「何笑ってる……? 何が可笑しいんだ!?」

「私は見える未来に従っているまで」

「アメリーが死ぬ未来にか」

「そう」


 また思考までが白く淡く弾けてしまいそうなのを何とか抑えながら、ラウルは言い募った。冷たい表情を保ったままのラモールに懇願する。


「あの子を殺さないでくれ!」

「……何故?」

「え……」


 ラウルはとっさに理由が答えられなかった。

 ラモールは美しい薄紫色の目を細めて、問う。優しい問いではなかった。理解に苦しむ、と言ったラモールの心が窺えるような語調であった。


「どうしてそんなにあの子を思うの? 赤の他人なのに」

「他人……」


 ラモールの質問は的を得ていた。すぐに切り返す言葉が見つからなくて、ラウルはうろたえる。

 どうして自分はアメリーを死神の手から守りたいのか。

 それはアメリーがラウルの死んだ妹に似ていたからであった。アメリーと出会って、死んでしまった妹の代わりに、アメリーにしてやりたいことがまだたくさんあった。

 なのにアメリーが死んでしまったら、ラウルは妹を二度も亡くしてしまうようで悲しかったのだ。アメリーの死は、何としてでも避けたいものがあった。

 反論できずにいるラウルに、ラモールは静かな声で追い討ちをかけた。


「作家先生、あなたはアメリーちゃんのことなんて何も思ってはいないわ」

「な、馬鹿なことを言うな! おれはアメリーを」

「あなたは自分本位で、自己防衛のために、そのためだけにアメリーちゃんを大切にしているんでしょう? 笑わせるわね」


 ラモールの指摘に、ラウルは凍りつく思いであった。そうかもしれないと、ラモールの言うとおりだと思っている自分が、心の何処かにいたのである。

 自分は、自分の精神の均衡を保つために、アメリーに生きていてほしいと願っているのではないか。もうこれ以上死別を悲しみたくないから、アメリーに元気でいてほしいと思っているのではないか。ラウルは青ざめる。今まで深く考えたことがなくてそんなつもりはなかったが、ラモールの言ったことは図星であった。

 ラウルは周章した。だが退かなかった。しつこくラモールに、アメリーから離れるように頭を下げる。


「頼む! アメリーから離れてくれ!」


 だがやはり、ラモールの返事はすげないものであった。


「……惚れて恋人にする女でもあるまいし」

「頼むよ!」


 身を翻しかけたラモールの肩をラウルは強引に掴んだ。ラモールは首だけで鬱陶しげにラウルを顧みたが、肩を軽く振ってラウルの手を払いのける。


「……まだ十五歳だぞ」

「だから?」


 ラウルの懇願なんて毛頭聞き入れるつもりはないと言わんばかりにラモールは冷たく返してくる。

 ラウルの頭に浮かんできたのは、アメリーの姿ではなく、死んだ妹アニエスの影であった。

 病気が治って元気になって、学校へ通い、美しく成長して、普通に結婚して、幸せになるはずであったアニエス……

 アメリーだって同じだ。今のアメリーを不幸だとは言わないが、アメリーは普通に幸せに生きる権利がある。

 ラウルは必死であった。アメリーに生きていてほしかった。例えそれが自分のためのエゴイズムであっても。ラウルは訴えかけた。


「あの子には未来がある……あの子の未来を奪わないでくれよ……!」


 ラモールはラウルのアメリーを想う言葉を聞いていたが、またにべなく、そして妙なことを口にした。


「あの子は死ぬ――そして作家先生、あなたもじきに、あの子を案じている暇などなくなる」

「……どういうことだ」


 不吉な予言を前にラウルは立ち竦んだ。しかしラモールはラウルに解を与えない。


「そういうことよ」


 ラモールは今度こそ屋上を去っていった。

 一人残されたラウルは途方に暮れて、風に吹かれていた。


「どうしたらいいんだ……」


 氷になっていたように地面に根を張っていた足はいつしか動くようになっていたが、ラウルはしばらくその場を離れることが出来なかった。

 出版社に行かなくてはいけない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る