第21話
ガノンダールとの一件が終わってから二週間が経ったある日、アスフォデルスは〈見えざるピンクのユニコーン亭〉にいた。右手に握った手鏡には、忌み嫌っていた姿が映っている。
その隣にはファングインがおり、彼女の右手には分厚い包帯が巻かれていた。
時間は、少しだけ巻き戻って過去の花が咲く――
「戻らない。私、私の姿が……」
結論から言えば。
迷宮山の『不凋花の迷宮』の最奥、そこに眠った哲学者の卵に何度浸かってもアスフォデルスの姿が戻る事は無かった。肉体は問題ない、心肺機能も霊覚も何もかも元通りとなっているし、賢者の石も機能している。
しかし魔族に取り込まれた事が影響しているのか、生命原形質が彼女の身体に応える事はもう無かった。魔術を使おうとしても痛みが走る事はないが、簡単な呪文すら熾せない。
……ガノンダールの研究資料があれば事は違ったかもしれないが、既に警吏に押収され手の届かない所に保管されている。何より、他者の研究を利用する事は研究者としてのアスフォデルス自身が許さぬだろう。結局、何も彼女の手に戻る事はなかった。生き残った事が必ず幸福を与えるという訳ではない、これはその一例と言える。
「……アスフォデルスさん、その……」
同行したユーリーフが何か言いかけた所で、それはバルレーンが無言で止めて一先ずこの場を去る事を促す。悲嘆に暮れた者には声をかけても無駄だからである。総身から人工羊水を滴らせながら、姿見の前でアスフォデルスはただただ絶望する。
ガノンダールの一件が終わり、アスフォデルスは数日間枯れる程の涙を流した後、何かに取り憑かれたかの様に力を取り戻す為の行為を繰り返していた。バルレーンもユーリーフもファングインも、それは悲しみを癒す為の代償行為だと考え、まるで幽鬼の様になったアスフォデルスに付き従っていた。
「何故だ、何故……何が間違ってる、何を間違えた」
その姿はまるで妄念に取りつかれた悪霊の様である。否、まさしくアスフォデルスは魔術師アスフォデルスという悪霊に取りつかれているのだろう。……それは僧侶を呼んだとしても、祓う事は出来ない。もう、彼女には力しか縋る物が無かったのである。
「今更、魔術を失ってどうやって生きて行けばいい……」
そこで光を失いつつある青い瞳はふと、机の上に置かれた鋭いナイフに向いた。それは彼女が冒険者に登録した時、集めた装備の一つである。苦悩と苦痛の天秤が崩れた時、人に見せてはいけないのは尖った鋭利な物だろう。その時人は現状より刃に惹かれてしまうのだから。悲しみの匂いを漂わせ、アスフォデルスは光の消えた目で刃に向かう……。
それを止めたのは――
「うー」
ファングインであった。緑ローブの少女は、アスフォデルスの右腕を掴んで止める。その顔は目深に被られたフードに覆われて見えないが、声は悲しみの色が浮かんでいた。
「離してくれ、ファングイン……こうなったら次の手を取るしかない。だって、力が無いんだぞ? 師匠だって死んだ、生きる意味がなくなったんだ。なら……もう私」
ぽつり、ぽつりと思い浮かんだ感情を吐露する。銀髪の大女から目を背け、再び姿見に目を向けると……いつの間にかアスフォデルスの顔右半分には深い火傷の痕が浮かんでいた。
「ほら、火傷だって……こんな顔じゃ私生きていけないよ」
それでも、ファングインは首を横に振る。まるで子供がいやいやをする様に。
「どうしてだ、ファングイン。……何故、お前は何時も助けようとするんだ?」
何故、銀髪の大女がここまで自分を助けようとするのかアスフォデルスには一切理解出来なかった。しかし、その答えを待たず彼女は自嘲する様に呟く。
「でもな。どうしようもないだろう、魔術師が魔術を使えなくなったら終わりだ。安心しろ、誓約の魔術はない。お前等が死ぬ事はない、痛みだって走ってないだろう?」
確かに誓約の履行痛は走っていない。しかし、それでもアスフォデルスに対し、ファングインはふるふると首を横に振った。それに対し、彼女はしばし自らを止める銀髪の大女をその青い瞳で見つめた後。
「……お前には感謝をしてるんだ、ファングイン」
続く言葉はファングインの心を抉るのに、十分過ぎた。
「お前は、あの魔族二人を殺してくれた。どれ程礼を言っても足りない……」
その言葉に、ファングインは思わず琥珀の左目を丸くした。それは、アスフォデルスが魔族の秘密を知っていたからだ。一瞬自分の正体がバレたかと思った矢先、アスフォデルスの言葉は続く。
「お前は、あの悍ましい化け物を殺して、私の悪夢を祓ってくれたんだ……お前が一番信じられる」
言葉と身体の匂いからは、何かを隠している感じはしなかった。少なくとも自分の正体には気づいていないらしい。そこでファングインは、目の前の彼女は魔族と同化した際に真実を知ったのだと推察する。正体がバレなかった事に安堵する反面。子供じゃないと否定されたあの二人が、どの様な気持ちで果てたかを思えば自然とファングインの顔は曇る。
「お前が終わらせてくれた、それだけが救いだ」
アスフォデルスのその顔に、彼女は何も言えなかった。自分が今どんな顔をしているのか分からない。ただ痛む心を必死に押さえ、自分が望まれない存在である事に耐えるしかなかった。
「本当は、私が、私の手で全部ぶち殺さなきゃいけなかったんだ……殺してやりたかった」
「……」
「でも、最後の一体は師匠が既に処分してる……汚点は跡形もなく清算されたんだ、もう思い残す事はない」
そう呟くと、アスフォデルスはファングインの右手に嚙みつき、拘束が緩んだ所でナイフに駆け寄る。そして首元に当て、刃を喉に押し込め瞼を瞑る。
……肉を穿つ感触がした。しかし、痛みは何時まで経っても来ない。意識は今も連続し続けている。ぽたり、ぽたりと顔に生暖かい何かが落ちる感触に瞼をあける。
「うー」
そこには、ナイフに穿たれたファングインの右手の甲があった。『不凋花の迷宮』で死脳喰らいと戦った時、そしてこの前のガノンダールとの戦いでは身に纏ったローブが少し解れた以外、傷一つ付かなかった彼女が今この時は傷を負っている。銀髪の大女は刺された刃に眉一つ変えず、自分の手を穿った刃を握り込む。
そして、ファングインに流れる黄金の血が止めどなく零れ落ちた。一瞬の内に、甘い極楽百合の香りが部屋に広がる。
「おい、ファングイン。お前、その血は………………………何だ?」」
直後に響くのは、自分がたった今救ったアスフォデルスから漏れる上ずった、まるで信じられない物を見た様な声だ。その青い瞳から一切の光が無くなる。
「ファングイン、なぁ……お前は」
沈黙するファングインに対し、アスフォデルスは戸惑い躊躇いながらその言葉を告げる。まるで、否まさに有り得ない物を見るかの様に。稀血に同じ香りは存在しない、つまりそれは……アスフォデルスが答えに辿り着くのには数秒もかからなかった。
「お前、そうなのか?」
「……」
「お前、う、嘘だろ。嘘だと言ってくれ……な、頼むよ」
ナイフを握ったアスフォデルスの指から、一切の力が抜けた。柄は五指をすり抜け、ファングインはそのままナイフが突き刺さった右手に左手を翳し隠す様な素振りを見せる。
その時、ファングインの琥珀の瞳から涙が一筋零れ落ちる。それは瞬く間に溢れ出し、ファングインはその場にぺたりと座り込んで嗚咽を漏らしながら泣き出した。まるで悪事が見つかり、怒られる子供の様に。
それに対し、アスフォデルスは生理的嫌悪から直ぐにファングインから身を離した。そして喉を逆流する吐瀉を両手で咄嗟に押さえ込もうとするが、堪えきれずその場に吐き出す。
「……ファンちゃん!」
「ファン!」
その泣き声に、ユーリーフとバルレーンが血相を変えて部屋に再び入った。惨状を見た瞬間、バルレーンは思わず凍りつき、ユーリーフは血の気が引いた顔を浮かべ直ぐにファングインの元に駆け寄った。
「……ファンちゃん! どうしたの、何があったの!? アスフォデルスさん、何があったんですか!?」
二人にそう訪ねながらも、ユーリーフは答えを待つ事はせず、ファングインの右手に向けて回復魔法をかけようとする。しかし、それは――
「きゃ……」
「答えろファングイン、お前は何者だ?」
胃の中の物諸共、それまでファングインに抱いて来た感情全てを吐き出したかの様なアスフォデルスが冷たい声音で黙らせた。彼女は濡れた茶色い長髪を引きずり、まるでグールの様にゆっくりとファングインに歩み寄る。そして、涙の止まらないファングインのフードをゆっくりと剥いだ。これ以上、少しの隠し事も許さないという暗喩の様に。
「ファングイン、ファングイン……こっちを見ろ。こっちを見ろ!」
彼女が叫ぶと、ファングインは一瞬涙を止まらせアスフォデルスと目を合わせた。
「お前は、知っていたんだな……覚えているぞ。最初に出会った時の素振り。あれは知ってる奴の素振りだ」
震えながら、ファングインはこくりと首肯する。
「……アスフォデルスさん、何を?」
状況が未だ把握出来ておらず困惑気味に訊ねるユーリーフに対し、バルレーンは一度鼻をひくつかせるとそれで全てを察した。
「なるほど、こう巡るか」
そうして、赤髪の女盗賊は短くそう漏らした。……宙に浮いたユーリーフの問いは、アスフォデルスの次の言葉で答えが与えられる。
「お前、私から生まれたな?」
それに対しても、ファングインは震えながら首肯する。そこでユーリーフの顔も凍りつき、バルレーンは現実逃避をするように視線を外した。ただ一人、アスフォデルスの青い瞳だけが冷たい輝きを鬼火の様に灯している。
誰も、何も言えない中。アスフォデルスは淡々と、まるでガノンダールの命を言葉で奪った時の様な声音で話続ける。
「さっき、どうして私を助けると聞いたが……その理由が少しだけ解った気がするよ。だから、どんな時でも私を守ってくれたんだな。あれだけ酷い事を言ったのに命を賭け続けたのは、お前の愛か」
その言葉に対し、ファングインは数十秒かけてゆっくりと首を縦に下ろした。そんなファングインに対し、アスフォデルスは無表情に数秒見つめた後。
「く、ふ。くふふ、くふふふふ……」
乾いた笑い声を漏ら始めた。目を皿の様にし、瞳孔まで開いてしまいそうな程見開きながら、まるで飲み込めない物を無理矢理飲み込む様な不気味な笑いだった。そしてその笑いは、徐々に勢いを増していき、最後には絶叫の様な笑いとなった。
そして、その壊れてしまったかの様な笑いが一度ピタリと止まる。次いでアスフォデルスはファングインの頭を両腕で抱き締めた。
「お前は、辛い状況の中、それでも私を守ってくれていたんだなファングイン……優しいな本当に。本当に」
それはまるで生まれたばかりの赤子を抱き締めるかの様に。アスフォデルスはファングインの後ろ髪を一度、あやす様に撫でる。そして自分の顔をファングインの左耳に寄せると――
「お前は殺す」
――優しい声音のまま、そう言った。
「なぁ、解ってるだろ。お前は生きてちゃいけないんだ、お前は人間じゃない、人間じゃない奴は生きてちゃいけないんだよ」
呟く様に、自分に言い聞かせる様にアスフォデルスはけして視線をファングインに向けずそう言う。
「お前は、私が必ず殺す」
「……そ、そんなアスフォデルスさん! ファンちゃんはアスフォデルスさんの事を、ずっと守ってて――」
「そんなの解ってるよ!」
ユーリーフの叫びに、アスフォデルスはそう叫び返した。ファングインの頭を抱き締める力が一層強くなる。
「こいつは! ずっと私の事を守っていた! 命を賭けて、ずっとな!」
「……じゃあ、どうして殺すんですか!?」
「こいつが人間じゃないからだ! お前に股座から怪物を入れられた事があるか!? 腹を開かれ、人の形をした物が取り出された事があるか!? それを子供だって、何で思える!? ……私、お母さんになんてなれない。無理だよ、そんなの」
最後には啜り泣く様な声に、とうとうユーリーフは言葉を失った。誰も何も彼女にかけられる言葉を持ち合わせていない。ただ、ファングインの頭を抱き締めながらそう言うアスフォデルスの姿は、まるで恐ろしい物から自分の身を呈し我が子を守ろうとする母親の様であった。
「恩もある、幾ら感謝してもし足りない。でも、お前を胎に入れていた時の事を思えば……もう人間として見る事は出来ない」
アスフォデルスは、その自分とは似ても似つかぬ銀色の髪を労わる様に何度も撫でるのは、未練を断ち切る事の暗喩だったのかもしれない。そして、ぼそっと彼女だけに聞こえる様に。
「………………お前、もっと優しい人の所に生まれて来れば良かったのにな」
それは我が子を案じる母の言葉と何が違うのか。それに対し、ファングインはただ静かに覚悟を決めた後、アスフォデルスから身体を離した。一瞬虚を突かれたアスフォデルスに対し、ファングインは痛みに顔を顰め右手からナイフを引き抜くと、そっと柄を彼女に差し出す。
その時起こった奇跡を、きっと彼女達は一生忘れないだろう。言葉を語らぬ筈の、ファングインの喉が意味ある韻律を生み出す。
「い、いよ……」
「え?」
「ころ、して……いい、よ……」
自分はこの人に望まれていない。じゃあ、逆にこの人を殺す事が出来るだろうか。例え誓約が無かったとしても、出来はしないだろう。ファングインが出した答えがこれである。
何より鼻を通して、アスフォデルスの感情の匂いが察して取れた。彼女から香るのは驚きと悲しみだけで、怒りや憎しみはそこにないのである。それだけで、もうファングインにとっては十分だった。
「……だめ」
ぽつり、と呻く様に声を上げたのは黒髪の女魔術師であった。ユーリーフは薄紫の双眸から涙を流し、一言一言を振り絞る様に言った。
「……だめですよ、剣士様。何を言っているんですか? 剣士様が死んだら、わたしどうすればいいのですか?」
ユーリーフ――ユーファウナ・ルアルフォス・アルンプトラが言葉を震わせ、まるで信じられない様にそう言う。自分に殺される為に付いてきた彼女にファングインは顔を向けると、申し訳なさそうに微笑んでただ一言。
「ごめ、ん、ね」
その一言は、ユーリーフからあらゆる希望を奪うのに十分過ぎた。愕然とした表情を浮かべ、黒髪の女魔術師はその場に崩れ落ちる。ファングインはと言えば、ただ静かに一つの言葉を繰り返した。
「して、ころして……ころして」
「……お願いします、やめて下さいアスフォデルスさん。お願いします、お願いしますお願いします……」
ユーリーフに出来たのは、その場にに跪きアスフォデルスにひたすら乞い願う事だけだった。アスフォデルスの壮絶な人生に言葉は失えど、それでもファングインの命と天秤に賭けた時、彼女はファングインを取る。そういう女である。
ユーリーフのその必死な様に、アスフォデルスは一度渋面を浮かべる。亡き親友の系譜が、こうまでしているのだ。応えてやりたいという心が片隅に浮かぶ程度には、アスフォデルスは冷静だった。それでも、その薄紫色の瞳から目を背けて彼女はナイフの柄を取る。
つぷり、と皮膚を裂いて血が一筋流れると、ファングインは目を瞑る。その時、一瞬銀髪の大女の耳元に囁く声が一つ。
時が凍る。
「しばらくさ、アスフォデルスと距離を置いてほとぼりを冷まそう。皆、ちょっと熱くなり過ぎちゃってる」
それはバルレーンだった。赤髪の女盗賊は何時もと全く変わらない声で、ただただ陽気に話しかける。言葉はまるで遊びに熱くなった仲間達で、一人だけ冷静に場を取り仕切る様に。
「そうすれば、ひょっとしたら風向きが変わるかもしれないじゃないか……で、ほとぼりが冷めたら何か楽しい事をしよう。劇で知ったけど、人間はこういう時気分転換をする物さ。そうすれば――」
「……むり、だよ。ばるれーん」
時の狭間の中で囁かれたその言葉に、ファングインは諦めた様な口調でそう言って首を横に振った。そもそも、どうして時の狭間の中で会話出来るのか。それはファングインの並行世界を観測する右目が理由に他ならなかった。バルレーン・キュバラムが時の狭間を発生させた瞬間、ファングインはその狭間を観測して認識する。……バルレーン程あまり多くの事が出来る訳ではないが、多少の素振りと会話ぐらいは可能だ。
ファングインには、アスフォデルスの感情がけして冷めぬ事が理解出来ていた。優れた記憶力の持ち主であり、それを以って魔道を生きて来たのだ。それで何とかなる様な人間ではない。
何より、この人は理性で自分を殺すと決めたんだ。恩や愛着を捨て、それでも殺すと選んだのだ。……なら、どうしようもないだろう。
「解った、君がそれを望むならあるがまま受け入れよう。何かして欲しい事はある?」
「……ゆーりーふ、おねがい」
ふと、バルレーンがその赤瑪瑙の目を走らせると、そこには泣き崩れたユーリーフが――その手元にはゴーレム生成の彫像が滑り込んでいた。察するにユーリーフが今作ろうとしているのは、蛇遣いのゴーレムである。蛇に見立てた鎖によって相手を拘束する物である。
悲しみの裏に冷静な強かさを見せる、それがユーリーフという女であった。
「ユーリーフは君を思ってるぞ、ファン。言ってあげなよ、一言好きとか愛してるとかさ。……君抜きには生きられない女だ」
「……」
「嫌な女だね君も、解ってて尚袖にしちゃって……」
バルレーン・キュバラムに人の心は解らない。どこをどうすれば泣き、どこをどうすれば笑うのか。そもそも人との精神体系が違う。しかし、もし今から行う事に人間らしい……もっともな理由を付け加えるとしたのなら。きっとこれが相応しいのだろう。
「仕方ない、全ては君の為に。好きだぜ、ファン」
――ファングインを止めるのも愛であるならば、好きにさせるのもまた愛であった。その後、まるで笑う様に一度。
「お互いバカだよねー」
そして、時が動き出す。その時バルレーンがまずやったのは、ユーリーフの首の付け根に針を刺す事だった。狙ったのは声経体という点。ここを指せば、首から下一切の自由を奪って声しか出せなくなる。不意を突かれたユーリーフは、為す術もなくその場に首から突っ伏す形で倒れ込む。そんな彼女に対し、赤髪の女盗賊は両手でユーリーフの肩を掴むと上半身を引き上げる。……丁度、これから何が起こるのかを目を逸らさせぬ様に。
「……バルちゃん、何をするのッ!?……」
「悪いね、ユーリーフ。ここから先は立ち見しか出来ないよ」
「……剣士様がどうなってもいいのッ!? あの子はやると思ったらやる女よッ!?」
「知ってるさ」
「……なら何で行かせるの!?」
「愛って良い言葉だよねー、愛の為なら何でも許されるんだもん」
苦しみもがくユーリーフに対し、笑いながら話すバルレーン。そんな赤髪の女盗賊の対応に、黒髪の女魔術師の怒りが沸点を迎えた。
「……このッ、すべたぁ!」
「見なよ、ユーリーフ。ボク達の存在理由が砕け散るよ」
彼女達の視線が注がれる中、アスフォデルスはよろよろと両手で握り締めたナイフの切っ先をファングインに向ける。あれだけ無敵だったファングインの命が、今この刃渡り幾らもないナイフの上に載っている。アスフォデルスはこの時呼吸を止めていた。その中で、自分の中の有りっ丈の悪魔を駆り立てる。そうだ、今目の前にいるのは化物だ。人間ではない。
自分の人生の汚点だ。存在を許してはいけない。この世にいてはいけない物だ。
――憎め、憎め、憎め!
――殺せ!
「……やめて、お願い……します」
ファングインの白い首に少しずつ血が流れ始め、極楽百合の香りが一段濃くなった。彼女の顔が痛みにどんどん歪み始めたのを見て、その命が陰り始めたのを見て、ユーリーフは耐え切れず薄紫の目を一杯に開いて叫んだ。
「……や”あ”あ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”め”え”え”ぇ”ぇ”ぇ”ぇ”て”え”ぇ”ぇ”ぇ”ぇ”ぇ”」
そして、彼女はファングインの白い喉に血に染まった刃を突き立てて――そのまま凍った様に動きを止めた。
たった一歩。ただ一押しの力が、出なかった。代わりに、彼女は腹の底から振り絞る様に声を上げる。
「何故だ……」
答えはない。
「何故、よりにもよってお前なんだ……」
ぺたり、とアスフォデルスもその場に座り込む。まるで糸が切れた人形かの様に。代わりにファングインの鼻をくすぐるのは悲しみと仄かな愛情、憐憫の複雑な匂いだ。
「何で、お前は……私から生まれたんだよ」
嗚咽と共に、青い瞳から涙は止めどなく零れ落ちる。殺せなかった、殺せる訳なかった。……何故ならファングインは命を賭けて守ってくれて、どれ程酷い言葉をかけてもそれを曲げずにいて、最後には命まで差し出したのだ。どうして殺せよう。それでも、どうやって生まれたかを考えると止められない吐き気がした。
そして一拍の後、アスフォデルスの碧い目が見開かれると。
「これは一体何!? なんでこんな事になってる!? ファングインが私の娘って、一体どういう事なんだ!?」
その言葉は怒りと困惑に満ちていた。その小さな身体が壊れかねない程、ファングインが恐怖を覚え、ユーリーフは瞠目し、バルレーンが目を丸くする程の有様である。
「あの日、あの時全て殺したと貴方は言った筈だ! 一体全体どういう事なんですか、師匠!? 何で今になって悍ましいホムンクルスが、ファングインになって私の前に現れたんだ!?」
そう叫んだ直後。アスフォデルスは自分の言葉に一度噎せ、荒い咳込みを何度かした。そして少しばかり息を整えた後、まるで啜り泣くかの様に――
「どうして、なんでこんな……答えて、答えて下さい師匠……」
ただ悲痛な声が漏れる。こんな時でもアスフォデルスが求めたのは、この場にいる誰かではなく、彼方へ去っていたファルトールであった。この期に及んでも、未だ誰も彼女の楔になる事は出来ていないのだ。
「……もういい、もうたくさんだ。もう、疲れた……」
ふらふらと、覚束ない足取りでその場から離れたのは急速に湧いたファングインへの忌避感の発露だったに違いない。殺せなかった、けれど許す事、一緒にいる事もできない。……身勝手なのは解っているが、それでも割り切れない感情の現れであった。
一拍遅れた後、そんな彼女をファングインは追おうと再びその傷ついた右手を伸ばすも。
「……やめろ、来るな!」
その一喝で、ファングインの手が僅かに怯む。
「何かを失った時。人生はここからだ、とか。明日生きる事が大事、とか。……そう言う奴がいる、でも私は違う」
直後、握り締めたナイフに再びの力が籠る。今度こそ自分の喉に狙いを定めて。もうこの因果を終わらせるには、やはりこれしかないとアスフォデルスはそう思った。
「記憶がな、記憶は何時までも残るんだ……嫌な事、辛い事、悲しい事。楽しい事の記憶で打ち消せる訳じゃないんだ」
そう言って、アスフォデルスは涙を流しながら下腹部を一度摩る。そこに刻まれた十字の傷は、今も尚彼女に残っていた。全てを失って残ったのは、痛みの記憶だけである。
「もう、何も残っていない……全て失ってしまった。何もかもを失って、またこれから生きるなんて……無理だよ。だって、私強くないもん……」
滔々と流れる涙を前に、誰も何も言える事は無かった。文字通りアスフォデルスはここに至るまで、全てを失った。
魔術も、財産も、美しさも。親友であるアルンプトラも、そして生きる望みであったファルトールすらも。後に残ったのは、忌まわしい記憶の根源である無力な少女の姿。そして、痛みと悲しみと恥辱の化身であるファングインだけであった。
「師匠、どうして消えちゃったんですか? どうして、病気の事言ってくれなかったんですか? どうして、名も知らない土地で一生を終えたんですか? わ、私の事が嫌いだったんですか……私から逃れたかったんですか?」
一息置いて。
「どうして、ファングインが生きてるんですか? どうして、アルンプトラに義眼を預けたんですか? ――あなたは一体、何を考えていたんですか?」
あなたは、一体何を考えていたんですか? ……アスフォデルスのこの二百年は、つまりそれ尽きるのである。しかし、それが答えられる事は無いだろう。
「…………いいです、今そこに行きますから」
――そうして、自らの白い喉に刃が迫った。
「うー!」
ただ一度、それでも止めようとするファングインの声が響くも、伸ばした右手は瞬間痛みが走り僅かに届かない。
その時。アスフォデルスの右目が不意に、淡い光を放つ。光の中から現れたのは金色の髪に、淡褐色の瞳。それが誰なのか、彼女は知っている。次いで、ファングインの琥珀の左が大きく見開かれた。それは、あの日あの時見た女性であった。
《アスフォデルス……》
「師匠……」
魔術師ファルトールがそこにいる。記憶のままの姿で、気まずそうに後髪を搔きながら。
《あー、これを見てるって事は……死を望む精神に呼応し現れる仕組みにしたし、恐らくお前の事だ。どん底の泥沼に落ちて死のうとしてるんじゃないかなって思う》
そう言った幻影のファルトールに対し、
「……そうです、助けて下さい師匠。迎えに来て下さい……傍にいて下さい、一人にしないで下さい……」
《まぁ、そういう前提でこれを残しとくよ。まず最初に言っとく、――死ぬな》
記憶の通りの口調で死を止める師匠に、数拍遅れてアスフォデルスは振り絞る様にこう答えた。
「無理ですよ……なら、何でいきなり消えちゃったんですか」
一度鼻を啜り。
「なんで、病気の事言ってくれなかったんですか。私、師匠の為なら何でも差し出せた……肺でも肝臓でも命でも……」
《アスフォデルス、私はお前に技術を教えた。魔術を教え、目を与え、友を与えた……けれどな、ただ一つだけ教えきれなかった物がある。お前自身の生き方だ》
そこで、アスフォデルスの動きが止まる。直後、背後にいたバルレーンが何処か納得した様な素振りを見せた。
《お前は、徹頭徹尾自分を嫌っていた。その姿を嫌悪し、鏡を見る事を極端に嫌がってた……最初は化粧の仕方でも教えてやればなんとかなると思ってたが、お前はずっと自分以外の誰かになりたかったんだよな。私がそれをようやく知ったのは、お前が私になった時だったよ》
幻影のファルトールの目が細まる。
《予兆はあった、アルンプトラとお前が会話してる時。ある日を境に私みたいな口調になっていたな……思えば、あの時からお前は私になろうとしていた》
「だ、だって……こんな顔嫌いだし。私……私、師匠みたいになりたかったんだもん……師匠みたいに、師匠になれば」
師匠みたいになれば、という言葉の続きが絶えた。それは彼女の中のドグマの欠陥であった。憧れる、崇拝する存在と同一化するまでは良かった。その後にどうなりたいのかを彼女は今まで一回も考えてなかったのだ。
その時、幻影のファルトールは視線を逸らす。奇しくも、現実のアスフォデルスからも目を背ける様に。
《私は……育て方を間違えてしまった》
育て方を間違えてしまった、そう言った時アスフォデルスの目が大きく見開かれる。それは一人の親が子に向けた言葉の中で、一番言ってはいけない言葉だろう。その致命的な言葉を、ファルトールは続ける。
《一人の人間として、お前を育てる事が出来なかった》
「し、師匠?」
《そして、それを正す時間は私にはもうない。だから、一計を案じる事にした。理由なく姿を消せば、きっとお前は私を探し続けるだろう。あらゆる痕跡を消し、死後は無名墓地に入れば特定は困難だ。……私の帰りを待つ事、それがお前の生きる理由にした》
「……」
《そして、アルンプトラには全てを話した後に言葉を詰めたこの義眼を預けた。奴の事だ、私と意が反する事はないだろう……アレもまたお前の事を案じている。
後は、お前がこれを見ている時。傍らに、誰かいる事を願うだけだ。お前が私の後を追わない様に、道を間違えない様に支えてくれる誰かが》
「……」
《……憎んでくれていい、恨んでくれていい、お前が自らの人生を愛して、生きてさえいてくれればそれで構わない》
そこで、徐々にファルトールの姿は消え数瞬後には何も残らなくなっていた。死を望む事に感応する仕組みであるなら、幻影が消えた事は生への渇望を意味する事は、誰の目にも明白であった。
その中で、アスフォデルスが重たい口を開いた。
「そっか、師匠は……そんな事を考えてたのか」
突如与えられた答えに対し、アスフォデルスはまるで何かを喉に詰まらせたかの様に重々しくゆっくりと話し始める。
「蓋を開けてみれば、なんて事のない事だったな……なぁ皆」
そのまま、不器用な笑みを浮かべるが誰も何も答える事はない。ただただ、アスフォデルスのその姿が痛ましかった。
「……育て方を間違えた……って何?」
あざ笑うかの様に一度そう言う。そして続く声音は静かであった。
「なんだ、聞いていれば……私の人生が全部まるごと失敗作だったみたいな言い方をして」
一人の人間として、ここまで言われてどうして怒らずに言えよう。それは彼女の今までの人生そのものへの侮辱である。……そしてそれが、自分が今さっきファングインに対しずっと行って来た事となんら違いがない事に気付くのに、そう時間はかからなかった。
その矛盾を自覚して尚、言葉は止められない。
「一言言ってくれば、それで済む話だったろう……病気の事とか、私の事とか、一言言ってくれれば……信じてくれれば」
自分でも解っている、恐らくあの時師匠から言われればどうなっていたのか分からない。けれど、自分にだって分別は持ち合わせていた。アルンプトラの時は彼の意思を尊重出来たのだ。だってあれだけ生きてて欲しかったのに、心が壊れる程悲しかったのに、送り出す事が出来たのだから。
……心を読める訳でもないのに、こんな裏切りの様な真似をして許せる筈がない。ファルトールが行った事に比べれば、過去の傷などクズみたいな物だった。しかし、何を言おうともファルトールはもうこの世にいない。
「憎んでくれていい、恨んでくれていいだって? ……今更、今更そんな綺麗事言うな!」
アスフォデルスにとって、その言葉は欺瞞に過ぎなかった。自分を信じなかったのに、お前の為という体裁を取り繕って自分を綺麗に見せようとする様にしか見えなかった。
「貴方がやったのは……都合で拾って、都合で捨てただけじゃないか! 本当に生きてほしいなら言ってよ! 違うだろ、貴方になっていく私が悍ましかったんだろう!?」
そこで言葉の矢がアスフォデルスの胸に突き刺さる。ふと右に目を向けると、そこには大きな姿見があった。物言わぬ姿見は、ただ静かに彼女の姿を映していた。
今まで気づかなかった、悍しいと今まで思わなかった物が一番悍しい有様であるのだと。怪物は自分が怪物だとは夢にも思わない、……鏡に映るのはそんな人間であるアスフォデルスであった。
「貴方は裏切ってばっかりだ、その証拠にファングインが生きている!」
解っている、殺せなかったのだファルトールは。少なくとも、直接手を下す事は出来なかったのだ。何故ならそれが師匠の優しさであり、そしてそれはアスフォデルスをガノンダールの下から救ったのと同じ物である。頭では分かっている、これを裏切りというのはこじつけが過ぎているだろう。……アスフォデルスはファルトールを嫌いになろうとしていた、あえて未練を残さぬ為に。
「私は……」
その瞳に滲むのは、人工羊水である。涙なんか流す筈は無かった。流れる筈がないのだ。
一度声が詰まる。それを無理矢理飲み込んで、もう一度最初から言葉を紡ぐ。自らの意思で、ただ生きていく為だけに。
ありったけの意地を振り絞って、アスフォデルスはその言葉を紡ぐ。それはまさに弔辞と言えた。心から愛してくれた師ファルトールのいなくなった世界で一人で生きて行かなくてはならない。だから、それはどうしても言わなくてはならない事だった。
例え師に届く事が無かったとしても、言わなくてはならないのだ。自らを絶望から奮い立たせる為、再び立ち上がり、己の足で人生を歩いていく為に。
「私は、けして死なない。後なんて死んでも追ってやるものか。だけど……」
そこに去来するのは、今は遠く過ぎ去ってしまった日々だ。そこにはアルンプトラがいて、ファルトールがいた。あのボロ家で三人暮らしていた時の、他愛もない日々だ。目蓋の裏に焼き付いたその残滓を、振り払った後。
――それは、今は遠く過ぎ去った過去の話である。
「……貴方は私に沢山の物をくれた、その恩だけは永遠に変わらない。今まで大変お世話になりました師匠。……でも貴方とは、もう、これまでです……」
からん、とアスフォデルスの右手からナイフが零れ落ちる。そこにはもう死の影は微塵も残っていなかった。力への妄執も、美しさへの慙愧も何も。……ただそれでも、何処かほっとけば今にも消え去ってしまいそうな儚さもあった。
これが本当に明日を生きれる人間なのだろうか、この場にいる全員がそう思ってしまう程に。……奇しくも、それは遠い日に過ぎ去ったアルンプトラが抱いたのと全く同じ思いであった。
「本当に、何もかもなくなってしまったな」
刹那、ファングインは右手の甲の傷を物ともせず背後から力一杯アスフォデルスを抱き締めた。その様に思わず虚を突かれ目を丸くする。
「あれだけの事があって……」
一瞬、言葉を詰まらせる。憎まれて当然の面罵をしたのにも関わらず、銀髪の大女はそれでも彼女を力一杯抱きしめていた。未だ痛む手を物ともせずに。それをアスフォデルスは裂けた右手に柔らかく指をかけ――
「やめろ、私は……お前に抱きしめられる資格なんてない」
――そう言って外そうとするも、そうしたらファングインが抱き締める力が余計強まった。
「それでも、それでもまだ私を抱き締められるのか……お前は」
そう漏らすと、アスフォデルスはファングインの右手の傷を塞ぐ様に両手で覆う。
それは今にも散ってしまいそうな彼女をこの世に繋ぎ止める新しい楔かの様に。いつまでも、いつまでも……。
「ちょっとー、おばあちゃん。準備長いよ」
「おばあちゃん言うな、今行くからー」
扉の向こうで、バルレーンが催促する声が響いた。これから潜るのは迷宮山にある『金榮殿の迷宮』である。事前の情報だと十階を境に遠く離れた距離から弓で狙い撃ちにされる事が多いという。この徒党は何せ遠距離への攻撃手段が少ないのが難点だ。
ファングインの斬撃飛ばし、バルレーンの針の投擲は何れも弓より射程が短い。ユーリーフは矢の魔術を使えるものの、ゴーレムの操作や回復とやる事が多すぎる。そこで役に立つのが魔法銃と言えよう。
アスフォデルスは手鏡を机に置くと、自分の髪に手を伸ばす。腰まで届く髪を一房の三つ編みにし、その先を止めるのは黒いリボンだ。そこで少し手が滑り、リボンを床に落とすがそれをファングインが拾う。そして最後は彼女の手により、アスフォデルスの髪は結ばれた。
「ありがとう、ファングイン……」
「うー」
あの日以降も、アスフォデルスはファングイン達と共にいた。それの理由の半分は誓約で、もう半分は経済的な節約と嘯いて。……あれだけの事があったからか、どことなくギクシャクした空気が漂っているが、不思議とアスフォデルスの中には徒党を離れる事はなく、徒党の方もアスフォデルスを離す事は無かった。その中でファングインはあれ以降、付きっきりでアスフォデルスと共にいる。
ユーリーフはファングインとアスフォデルスを二人っきりにするのに、少しばかり難色を示したが、バルレーンがもうアスフォデルスにファングインは殺せない旨を説得されると渋々了承した。
「なぁ、ファングイン。お前の顔、見せてくれないか?」
彼女がそう言うと、銀髪の大女は黙ってフードを上げその顔を見せる。そうするとアスフォデルスはぽつりと……。
「お前、やっぱり化粧っ気が無さすぎるな……ちょっと動くな、口紅を引いてやる」
……彼女がそう言うと、ファングインは目を瞑り何処かぎこちなく顔を差し出す。アスフォデルスはポケットから口紅の入った平たい皿を出すと右の小指で一掬いしファングインの唇に右から引いた。この前やろうとして結局出来なかった化粧の続きであった。
「ほら、これで美人が出来た」
銀髪の大女が目を開けると、アスフォデルスは右手に手鏡を持っており、ファングインの顔を映した。唇には鮮やかな朱色が引かれている。……それがファングインが生まれて初めて引いた口紅であった。
少しの間を空けて、アスフォデルスはゆっくりと口を開く。
「なぁ、ファングイン。私は、やっぱりお前の事を自分の子だとは思わないよ……」
「……うー」
ファングインは重たく、静かに答えた。
「でもな、それでも色んな事を考えたけど……今はお前がいてくれて良かったと思ってる。生きてちゃいけない奴だなんて、殺してやるなんて言ってごめん。それは、お前の人生に対する侮辱だったな」
そうだ、ファングインの人生は彼女自身の物である。それを認めないのは、かつてファルトールにされた事を自分がもう一度繰り返すのと同じだ。
「なぁ、ファングイン」
その顔を、アスフォデルスは改めて見て彼女は思う。こうしてファングインの顔を真正面から見るのは、そう言えば初めてであった。……今、ファングインの顔は何処か悲しそうで、何処か不安げな色で染まっている。こんな時、どうすればいいのか解らなかった。けれど、記憶の中である人が言った事を思い出す。
こんな時は笑うのである。
――誰かと訣別したとしても、ほんの少し。ふとした言葉の端々にその影が響く時がある、それが人生という物だ。
「ほら、笑って」
笑って、そう言うとアスフォデルスはあの時と同じ様にファングインの頭を両手で抱き寄せた。そして、感謝の印としてある物を渡そうとする。
「あのさ、ファングイン。お前には、私の本当の名前を知っていて欲しい」
そう言うと、彼女は自分の髪を結う為しゃがみ込んでたファングインの右耳に寄せ。そっと、誰にも聞かれない様に。
「あのな、私の本当の名前は……」
彼女にそんな気はなかったかもしれないが、ファングインを抱き締める事、自らの本当の名を明かす事。それは彼女が自分自身の人生を生きる事を意味していたに違いない。
この日を境に、魔術師アスフォデルスの名は一切の記録から消える。代わりに一人の冒険者が生まれたが、その因果を結びつける物は何もない。
アスフォデルスが何処へ行ったのか、それを知るのはただ一人の剣士だけだ。
一つの時が止まり、一つの時が動き出す。
そして、アスフォデルスの一生は消えた。
(了)
消えたアスフォデルスの一生 ともい柚佐彦 @tomoi66
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