「私が私である」ということ

 「私が私である」、というのは常に俺の目指す全ての行き先の頂点にある。それは一瞬一瞬の刹那にあり、人生にあり、命にあり、在り方にあり、生き様にある。あらゆる全ての事柄において、優先される。

 自己中心的、といえばそれもそうだ、と頷こう。極論、俺は他人のことなどどうでもいい。「私が私であるため」他者を思うこともあるし、関係を結ぶ事もある。だがその全ての人間関係もまた、「私が私である」に奉仕せねば意味がない。

 俺は孤独に死ぬかもしれない。または、誰かに悲しまれ、愛を受けながら死ぬかもしれない。もちろん後者のようなことがあればそれは幸いだ。俺のような自己中心的な、変わり者の側にいてくれる人間がいるのならば、俺はそれに感謝を惜しまない。それはこの瞬間を生きている今も全く同じ事だ。

 だが、そのどちらになったとしても、「私が私である」かどうかには関係がない。故に、俺にとってそんなことは突き詰めればどうでもいいのだ。

 ここまで読んで、読者の皆様は俺をどう思うのだろう。自己中心的なパーソナリティの、頑固で、偏執な、周囲から人が去っていって当たり前の人間だと思うのだろうか。もしそうならば、たしかにそうなのだろう。俺はその通りの結末を迎えたとしても、異論はない。「私が私であった結果そうなった」のならば。

 数年前、俺は自分をプレパラートの上に載せて観察する、というような文章を書いた記憶がある。その感覚は今も同じだ。結末がどうなるかは誰もわからない。そしてそれはどうでもよい、副産物に過ぎない。重要なのは、それに至る過程だ。死に際して、ただ重要なのは、「私は私でいられたか」ただその一点だと俺は思っている。

 これらは、酷い我儘だと思うこともある。自分勝手の極みだとよく自分自身を評することがあるが、卑下でもなく、本当にそう思う。俺は到達物としての優しさを持たず、愛情を持たず、物理的成功を持たない。「私が私である」を目指す時、それらは全て副産物に過ぎないのだから。

 「私」を世界が受け入れてくれるかどうかはわからない。むしろ拒絶されて然るべきだろう。それでも、「私が私である」と俺は最後の一瞬まで言い切りたいのだ。孤独も、解離も、雑言も何もかも受け入れよう。賛美や、共感や、寄り添う人々が居てくれるのならば、それらには深い感謝と敬意を示そう。このような我儘な人間を受け入れてくれるのだから、その程度の恩返しはいくらでも行なって然るべきだ。

 『ドロップアウト』にこれを書くべきか、違うところに場所を設けるべきかは悩んだ。今も実際悩んでいる。だが、あえて俺はここにこれを書き残そうと思っている。ドロップアウト…つまり、世界から拒絶された人々にこそ一読してもらいたいと思ったからだ。

 それもまた、勝手な願いからだ。


「あなたがあなたであるか?」

「あなたはあなたらしくいられたか?」

「あなたは孤独への恐怖や、愛情への恋慕によってあなた自身を捨てていやしないか?」


 孤独や、世間からの孤立や、変わり者と指を刺されることや、周囲と比較して劣っている自分や、愛情を持てない愛情をもらえないことや、劣等感や、どうしようもなさや、自己嫌悪や、我儘や、列挙に暇のないあれこれや。

 何もかも、何もかもだ。あえてはっきり俺の考えを書いておく。


「あなたがあなたらしくいられたなら、それでいいのだ」

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ドロップアウト 鹽夜亮 @yuu1201

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