終幕 糠星
二00一年一月十日。
静寂の部屋。あの日と同じように、雪が降り出した。
白で統一された病室の窓から臨む海は、極寒の衣を纏った波によって厳格という表情を浮かべさせられている。
う……た……。
白の病室の中、微かに動く影と微かな息遣いが聞こえた。
詩……。
微かな意識の下、それだけが、闇の中を漂っていた。光の届かぬ中を、闇雲に歩き続けたが、何も見つからない。振り返ってくれる人も、応えてくれる人も、何も、
どこに行けば、どうすれば逢えるのだろうか……。
死んだような眠りを繰り返し、いずれは自分さえもこの闇に溶けるのだろう。
微かに開いた目。その先に――自分を見下ろす顔が見えた。
詩ではない、片目が見えない、別の――。
「八雲さん……聞こえますか?」
闇の中、聞き覚えのある声が光った。それを目指し、溶けかけた足を動かす。
「八雲さん」
再び、闇の中でその声は光った。陽炎のようになった自分の腕が伸び――何かを掴んだ。
「八雲さん? 私の声がわかりますか?」
温もりのある手に包まれ、自らの手が形を成した。
「う……た……?」
「八雲さん、私です、海堂飛鳥です、わかりますか?」
海堂……飛鳥――海堂飛鳥。
「……君も、死んだのかい……? ずいぶんと……早死にしたね。もったいないなぁ……」
再び手を強く握り締められた。
「いいえ、八雲さんも生きています……! ここは現実です」
現実……? 現実なら、自分は生きている……?
そう思った瞬間、ガラスのように闇は割れ、白い病室が姿を見せた。
「あの日からほとんど眠りっぱなしだったみたいですから……少し混乱すると思いますが、あなたは生きています」
確かな温もりを感じ、八雲は飛鳥を見た。
「生きてる……生きてた……どうして……」
至極当然な質問。自分は崩壊する時計塔と運命をともにした。到底助かるとは思えないが、微かに動かしてみた四肢は、反応は悪くとも無くなってはいない。
「詩さんが……あなたを庇いました」
「うたが……?」
思わず上半身を起こした――が、その身体を頭痛が引き倒した。
「説明します。あの日……時計塔は崩壊しました。榊原さんと思われる遺体も収容されましたが、あなたは……瓦礫の中、無傷で発見されたんです。……詩さんの人形に庇われるようにして……」
詩が……自分を庇った……?
「人形は壊れてしまいましたが、八雲さんは著しく衰弱していたので、すぐに病院へ運ばれました」
「どうして……どうして俺は……」
力なく天井を見つめる八雲。
「目撃者だからと水羽のお父さんに無理を言って、あなたに会わせてもらっているので……時間はほとんどないですが、これを……」
そう言って、飛鳥は鞄の中から一枚のカードを取り出した。
「愚者……か」
「側に落ちていたので……あなたのでしょう? 返しておきますね」
差し出された愚者のカードを見、八雲は溜め息とともにかぶりをふった。
「もう……俺にはいらないよ。旅立つ道なんて残されていない……どうして死ねなかったんだ――」
「八雲さん、私調べたんですけど……愚者の逆位置の意味は知っていますか?」
かぶりをふる。
「考えることを放棄している、だそうですよ。崖の先に落ちるのか、それとも羽ばたくのか、それすらも今のあなたは放棄しています」
「放棄……?」
「はい。自由奔放でお気楽だと勘違いされるみたいですが、愚者は考えているんです。考えて、考えて行き着いた先が愚者なんです」
「考えた先が……愚者?」
「はい。考えましょう? これからどうするのかを……」
「なら決まっている……それは――」
八雲の声を飛鳥は遮る。
「あなたにとって死ぬことが、考えた末の愚者――自分への断罪だと思っていたようですが……それを決めるのはあなたではなかったようです。あなたを裁いたのは……詩さんです」
「な……に?」
「おそらく……生きろ、という裁きを下したのではないかと……私は思っています」
生きろ? 穢れてしまった俺に生きろと……? 詩……。
彼女に問いかけた。だが、詩は消えてしまった。脳裏に浮かび上がっていた詩の顔も――笑みも消えてしまった。
「……生きて……どうしろと……詩……」
こぼれた涙がシーツを染める。
「……惨めに生きろ、とは違うと思います」
自殺してしまいそう。そう思った飛鳥は堪らず言った。
「死ねば終わりですが……詩さんはそんなあなたを迎え入れたくなかった……そう思います。死が断罪、という考えを否定は出来ませんが……償う道を拒絶して逃げ出しただけに思えませんか? 私は法律にも、幽霊が視えても死後の世界に詳しくありませんし、誰かに講釈出来るほどの人生を歩んでいませんから、何が本当に正しいのかもわかりません。だけど……自分で考えて出した答えなら、はっきりと言えます。私が詩さんなら……死のうとしたあなたを受け入れたくありません。自分の罪と向き合うことから逃げ出してしまったあなたを……」
「逃げた……罪から……?」
その時、飛鳥の背後のドアからノックが聞こえてきた。
「あっ……すいません。そろそろみたいです」
飛鳥はパイプイスから立ち上がると、八雲に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい、あの時みたいに偉そうに言ってしまって……それでは」
そう言うと、飛鳥は静かに病室から出て行った。
生きろ……? 詩……俺に生きる意味は――。
何かがひらりと床に落ちた。
……愚者……か。
拾い上げたのは、飛鳥から返されたカード――愚者だ。
正位置の意味は……誰が為でもない……一度きりの自分の人生……そして、愚者は考えることを放棄していない。死ぬ答えではなく、生きて罪を償う道を考えろと……。
「ようやく……はっきりとした意識になったようですな」
飛鳥と入れ代わるようにして中年の刑事が病室に姿を見せた。
彼の言葉を無視し、八雲は心の中でもう一度、詩を想った。
詩……いつか……笑ってくれるよな……?
「刑事さん」
はっきりとその男を見据えた。
「叢雲邸事件……全てお話しします」
了
穢山山荘殺人事件 かごめ @reizensan
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