天使の石棺。
朝吹
天使の石棺。
その卵は黒かった。
「黒い卵。中華料理にあるよね」
「検索してみた。温泉卵にも墨色のものがある。温泉成分の鉄分が付着して、硫化水素と反応して硫化鉄となり、それにより殻が黒くなるんだって」
「この卵は温泉卵の何倍も大きいし、重たいよ」
崖上の祠のそばで見つけたその黒い卵を、男の子は鬼か天狗の卵だと云い、女の子は人魚の卵だと云い張った。
黒い卵は、掘り起こした石の祠と一緒に見つかった。
打ち寄せる波の音。樹々の隙間から見晴らせる海際のはるか遠くには、発電所の廃墟がある。
「竜の卵」
「人魚の卵よ」
この黒い卵をどうしよう。相談していると、児童に帰宅を促す鐘の音が役所から夕焼け空に鳴り始めた。
いそいで家に帰ると、「泥だらけね。穴堀りでもしたの」と母から訊かれた。
百五十年前、千年に一度という大津波が沿岸を襲った。津波で電力を失った原子力発電所が爆発事故を起こし、人は故里に住めないようになった。さらに廃炉を覆っていた建屋の一部が崩落する悲劇があった。
百年の間、住人は誰もいなかった。一世紀が過ぎた頃から少しずつ、移住者支援に惹かれて祖先の墓のあるこの土地に戻る人が増えてきた。
とはいえ、避難先で既に代を重ねていた人々にとっては未知の大地に等しい。行政の肩入れで人口はゆるやかな右肩上がりではあるが、子どもの数は少なく、わたしの通う小学校も下学年と上学年の二クラスしかない。
かつての居住区は更地にされて、新しい町がその上に建造された。しかし少し離れると、放棄されて朽ち果てた家や商店の残骸がまだ方々の叢に残っている。私たちはよく「遺跡めぐりだ」と云っては、自転車を飛ばし、親には内緒で廃村の探険に出かけていた。地面をちょっと掘ると、風呂のタイルなどが見つかるのだ。
祠と卵もそうやって見つけた。樹の根元に埋もれていたのだ。石を掘り抜いて作った、蹴ったら壊れそうな素朴な祠だった。
流れる雲は白く、海流は穏やかだ。
あちこちに建つ津波慰霊碑。移住者の二代目にあたるわたしは、空ばかりが広い、がらんとした天地の間に、海風に漂う蔓草のようにして暮らしていた。
黒い卵が動いていた。それは木漏れ日のみせる錯覚だったが、孵化が近いのではないかという気持ちに襲われて、私たちは交替で黒い卵に耳をつけてみた。
海底の砂が流れるような音がした。
「人魚」
「海竜」
「今にも殻から出てきそう」
海。そうだ海だ。もし人魚ならば下半身は魚だ。きっと水が要るだろう。たとえこの卵が鬼や海ガメのものであったとしても、海の近くに移し替えて何の障りがあるだろう。
みんなで黒い卵を浜辺に運ぶことにした。
楽しくなってきて私たちは笑った。この卵のことは大人は誰も知らない。人魚が生まれたら、淡水と海水が混ざる小川の浅瀬に石を積んで生簀を作り、稚魚の世話をするのだ。
樹々がひらけ、視界に海が広がった。急坂を下る途中で、友だちが一斉にわたしの方を振り向いた。
ランドセルを祠の近くに置いたままだよ。
確かにそうだ。ランドセルを取りに戻ろうとわたしは卵から手を離した。
黒い卵が子どもたちの手から滑り、坂道を跳ねながら転がって、下の浜に落ちていくのが見えた。
現場から回収された重傷者はわたしだけだった。
「そのお友だちは何処の子なの」
警察や親から訊かれた。病院に搬送されたわたしは、確かなことを何も覚えてはいなかった。名はおろか、顔も。彼らは影法師のように古びた祠で毎日わたしを待っていた。
悪質な悪戯か、大戦時の不発弾。
そう処理された。証拠が吹き飛んでいる上に、行方不明者もおらず、わたしの証言も首を傾げるようなものとあっては、推測でそうなるしかなかった。
「成長過程の子どもはよく空想の友だちを作るものです」
「祠はありました。現存する大海嘯の記録よりも古い時代の石造物でした」
退院してからも、わたしは何度も想い返した。
土中からわずかに角を出していた祠と黒い卵を掘り起こしたこと。卵が炸裂した時に天使を見たこと。
瞼を焼く閃光の中に、左右にすっと鋭く伸びた鋼鉄のような黒い影。力強く羽ばたいている。耀きの中から、ぬっと現れた白い顔。
怖い顔はわたしの背丈の何倍にもなり、羽根は海の果てまで広がった。卵の化石から甦った翼が大風をおこす。
そして飛び立つ翼は、わたしを吹き飛ばし、崖下をえぐり、わたしの右耳の鼓膜を破って一帯を轟きで塗り替えた。その爆音は風に乗って内陸にまで届き、次世代エネルギーの研究所が大爆発を起こしたのだと誰もが想ったそうだ。
わたしは誰と喋っていたのだろう。
破れた鼓膜は手術で再生されたが、それからというもの、わたしの右耳からはいつも波の音がする。波音に誘われて夢にみる海崖には誰もいない。砂銀のような陽光ばかりが海上に揺れている。
[了]
天使の石棺。 朝吹 @asabuki
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