隅の沈黙

烏川 ハル

隅の沈黙

   

 自動ドアが開き、電子音が鳴る。

 しいて擬音で表すならば「カランコロン」だろうか。ドアベルの音を模しているようだが、本物みたいな軽やかさは感じられない。

「いらっしゃいませ!」

 という挨拶と同時に、バイト店員の涼子りょうこは、来客の方へと営業スマイルを向けた。

 入ってきたのは、黒縁眼鏡をかけた男。水色のシャツの上から青いジャケットを羽織り、紺色のスラックスをはいている。

 毎週水曜日にこの喫茶店を訪れる、数少ない常連客の一人だった。

 いつものように、彼は店の隅へ。一番奥の席に座る。


 涼子は彼のテーブルまでメニューを持っていくが、

「ご注文が決まりましたら……」

 彼女に「……お呼びください」まで言わせずに、男はサッとメニューを開くと、その右上を黙って指し示していた。

「チーズケーキセットですね、承りました。ご注文は以上でよろしいですか?」

 涼子の確認に対して、男は何も言わず、ただ首を縦に振る。

 ここまで注文の仕方も注文内容も、完全にいつもと同じだった。


「チーズケーキセット、ひとつです」

 涼子がカウンターまで戻り、その奥へと声をかけると、フロアにいた先輩バイトが、彼女に小声で尋ねてきた。

「やっぱり今日もチーズケーキなのね。やっぱり今日も無言?」

「はい、そうです」

 いくら小さな声とはいえ、店内で常連客についての噂話はいかがなものか。涼子はそう思いながら、もしも当の本人に聞こえても問題ないよう、当たり障りない言い方をする。

「うちのチーズケーキ、美味しいですものね」

 あえて「うちのチーズケーキ」と言ったが、この喫茶店のオリジナルではない。店の主人は飲み物にしか頓着しておらず、ケーキは近所のケーキ屋から調達していた。ピラフやスパゲッティーなどの軽食に至っては、業務用の冷凍食品だ。

「まあショートケーキよりチーズケーキの方が美味しいのは、私も同意だけど……」

 先輩バイトが苦笑する。彼女が「ショートケーキよりチーズケーキの方が」と比較したように、この店で出しているケーキは2種類のみ。どちらも単体ではなく、ブレンドコーヒーとのセットメニューだ。

「……そんなに気に入ったなら、直接ケーキ屋へ買いに行けばいいのにねえ」

 身も蓋もない言い方をする。涼子としても、本来ならば「うちのコーヒーと一緒に食べたいからでは?」とフォローするべきなのかもしれないが、この店のコーヒーがそれほど――店の主人がこだわっているほど――美味しくないのは、バイト一同の共通認識。だから何も言えなかった。

 そんな涼子に対して、半ば独り言のように、先輩バイトが言葉を続けている。

「いったい何が目当てで、うちにかよってるんだろうね? あの『沈黙』は」

   

――――――――――――

   

 喫茶店の店員達から『沈黙』という渾名あだなで呼ばれている常連客。

 彼が初めて来店した日のことは、涼子も覚えている。その日は彼女にとって、ちょっと特別な日だったからだ。


 大学生の涼子がこの喫茶店でバイトとして働くのは、水曜と金曜の週2日。バイトが終われば真っすぐアパートへ帰り、一人で夕飯を作って食べる。

 それがいつもの行動パターンなのだが、その日は違っていた。バイトの後、友達と会う予定があったのだ。

 小学校時代の友人である真美まみだ。一年生の時のクラスメートなのだが……。涼子は父親の仕事の都合で、二年生の夏休みに転校しているので、最初の小学校の友達で今でも連絡を取り合っているのは真美一人。貴重な幼馴染だった。


 最近できた彼氏と一緒の旅行で、涼子の大学がある京都を訪れるという。

「えっ? だったら彼氏さんとの貴重な時間、私のためにいてもらうのは悪いよ……」

「大丈夫、大丈夫。太一たいちの方でもね、京都の大学に進学した地元の友達がいて、京都へ行くついでに、そいつと久しぶりに会うんだって。男同士で遊びたいらしいから、私は邪魔みたい」

 と真美が説明するので「それならば私が気を遣う必要もないのか」と涼子は納得。涼子のバイトが終わったら二人で遊ぶ、という約束になっていた。


 そんな日に来た客の一人が、のちに『沈黙』と呼ばれるようになった常連客だ。

 その日も涼子の接客で、シャツやズボンは違っていたが、確か同じ青いジャケットだったと思う。

 自分と同じくらいの年頃だから大学生だろう。どこかで会ったような気もするけれど、おそらく気のせい。あるいは、もしかしたら同じ大学で、構内ですれ違ったことがあるのかもしれない。

 それが涼子の第一印象だった。

 続いて、男が店の隅に座ってチーズケーキセットを注文したところで、ふと子供の頃に読んだ探偵小説を思い出す。確か、喫茶店の隅でチーズケーキを食べながら事件を解決する探偵のシリーズがあったはず。でもあれは老人だったし、それにケーキと一緒に飲むのは牛乳だったから、目の前の客には当てはまらないなあ……。


 涼子の意識はそちらに向いていたので、最後まで男が一言も口をきかないことには気づいていなかった。

 また、その日は友達と会う予定のためにバイトが終わり次第――他のバイト達と雑談をする暇もなく――急いで帰ったから、彼らがその客に『沈黙』という渾名をつけて盛り上がっていたことも、次のバイトの日まで知らないままだった。

   

――――――――――――

   

「ありがとうございました」

 レジで対応した涼子が明るい声で挨拶すると、軽く頭を下げてから、今日も無言で『沈黙』が店を出ていく。

 彼の後ろ姿が完全に見えなくなってから、先輩バイトが涼子に話しかけてきた。

「やっぱり今日も、最後まで沈黙を貫いたね。『沈黙』だけに」

 先ほどよりも少し大きな声だ。当の本人がいなくなり、聞こえてしまう心配がなくなったから、それほど声を潜める必要はないと考えているのだろうか。

 でも、まだ店内に他の客はいるから、彼らに聞かれたらまずいはず。たとえ自分のことでなくても「店員が客の悪口を言っている」と思われるのは、店にとってはマイナスだろう。

 そう、先輩バイト達は良い意味でなく悪い意味で『沈黙』と呼んでいるのだ。注文の際も無口だし、注文確認にも「はい」すら言わないのは変人だ、みたいに思っているらしい。


 涼子個人としては、男性が寡黙なのはむしろ悪いことではないと感じていた。

 おしゃべりは男性よりも女性の領分。「男は黙って」みたいな言い回しは不言実行に繋がるポジティブなイメージだし、強くてかっこいい男性を主人公にした『沈黙の〇〇』みたいな映画シリーズもあったはず……。

 しかしフォローの意味でそれを口にすれば、先輩バイト達からは「えっ? 涼子ちゃん、ああいうのが好みなの?」と揶揄からかわれるに違いない。

 そうも思うので、涼子は何も言えないのだった。

   

――――――――――――

   

「はあ、今日も何も言えなかった……」

 店を出た陽介ようすけは、少し歩いたところで立ち止まり、今日も溜息をついていた。

 本来の彼は、むしろ口数の多いタイプだ。小学校時代には、同じクラスの女の子――名前は確か遠木とおきさん――から、何度も「ようすけ君、うるさい! 男のくせに、おしゃべり!」と注意されたほどだ。


 その遠木さんは、一年生か二年生の途中くらいに転校して、いなくなってしまった。最初は「小言こごというやつが消えて、せいせいする」と考えていたが……。

 そう感じたのは最初だけ。逆に彼女の注意がないのを、寂しく思うようになった。胸にぽっかり穴がいたような気持ちにもなり、ついつい遠木さんのことを考えてしまう。

 そして中学に上がった頃、彼は自覚した。一人の女の子のことがずっと気になるのであれば、それは恋なのではないか、と。自分にとって遠木さんは初恋相手だったのではないか、と。


 なまじ二度と会う機会もないからこそ、彼の心の中で遠木さんに対する気持ちは大きくなり……。

 高校の英語の授業で「Absence makes the heart grow fonder」という英文を教わり、教師がつけた訳「会わねばなお増す恋心」を耳にした時も、陽介は「遠木さんのことだ!」と実感するくらいだった。


 そんな陽介が、親元を離れて京都の大学へ進学。新生活の忙しさで、ようやく遠木さんへの想いも薄れてきた頃……。

 同郷の――中学時代の――友人が、旅行で京都へ来るという。陽介と会うのがメインではないが、ついでに久しぶりに会おうという。

 陽介としても異存はなく、その約束の日。


 予定の時間までまだ少しあるので、ちょっとした暇つぶしのつもりで喫茶店に立ち寄った。

 これから昔の友人と遊ぶ。そう思うと少し気が大きくなって、いつもは一人で入らないような、いかにも「街の喫茶店」という雰囲気の店に入ってみた。

 しかし、そこで驚くべき事態に遭遇する。

 注文を取りに来た女性店員の顔に、なんとなく見覚えがあり……。ふと胸の名札を見れば、そこに書かれていた名前は「遠木」。

 ずっと会いたかった、あの遠木さんだったのだ!


 しかし「ずっと会いたかった」は、あくまでも陽介個人の気持ちに過ぎない。遠木さんの方では違うだろうし、ならば慎重に声をかけるべき。いきなり「僕のこと、覚えていますか?」みたいなのは悪手……。

 ついつい色々と考えてしまったせいで「ご注文は?」に対しても言葉が出ず、無言でメニューの一つを指さすだけ。

 会計の際、レジで対応してくれたのも遠木さんだったけれど、やはり彼女の顔を見ると何も言えずじまいだった。


 それでも「彼女も大学生だとしたら、喫茶店はバイトのはず。バイトならば、毎週決まった曜日だろうか」と考えて……。

 水曜日の夕方になるたびに、陽介は彼女が働く喫茶店へ。そして「思った通り! 今日も遠木さんがいた!」と心の中で喝采をあげながらも、緊張で話しかけられずに店を出て「今日も何も言えなかった」と落胆。

 そんな喫茶店がよいを続けるのだった。




(「隅の沈黙」完)

   

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