先輩と猫

秋木真

先輩と猫

     1


 グツグツと音をたてて、鍋が火にかけられていた。その中身は、見たこともないような紫色をしていて、臭いは芳香とは言い難い。部屋は薄暗く、鍋の前で妙に嬉しげな顔をした女の人が立っていた。

 この状況を一言で言い表せと問われたら、魔女がなにか悪いものを作っている、と僕は答えるだろう。

 そして、それは大きくは違っていないと思う。

「ねえ、どうして人間はしなくてもいいことをすると思う?」

 彼女が不意にこちらを見て言った。

 手入れのしていないショートボブの髪の毛には、あちこちに寝癖がついていた。はっきりとした黒縁の眼鏡に気をとられるが、顔の作りはとても小さく、実は可愛らしい。でも、その可愛らしさを、制服のシャツの上から白衣を羽織るいつもの彼女のスタイルが打ち消していた。

「しなくてもいいことって、例えば?」

「いろいろあるでしょ。人間が生きるためには、食べて、寝て、適度な運動をすればいいだけなのに、それ以外のことばかりしてる」

「今の氷室先輩のしていることとか?」

 僕の問いに、彼女は視線を僕から大鍋に移し、また僕に戻ってくる。

「そう。これもしなくてもいいことだね」

 彼女はそう言って、おたまを手に取り、鍋をかき混ぜた。

 ただよう臭いが強くなる。いますぐ退散したくなるような臭いではないが、長時間は嗅いでいたくない、そんな臭いだった。

「ところで、一つ聞いていいですか」

「なに?」

「なにを作ってるんですか?」

「ああ、これ」彼女は困ったように、苦笑いをして鍋を見た。「最初はさつまいもを入れた、スープを作ろうとしたのだけれど、なぜかすでに食べ物の気配がしないのよね。やっぱり、隠し味にテトラドトキシンを入れたのがまずかったかしら」

「な、なるほど……」

 僕は言いながら後ずさる。テトラドトキシンといえば、フグの猛毒だ。これだけ煮立てたら、気化していて近づくだけでやばいんじゃないか?

「やーね。冗談よ。テトラドトキシンなんか入れるわけないじゃない」

 氷室先輩は笑いながら言うが、なんだか目が笑っていないような気がして恐い。

「ところでさ、山名くん」

 氷室先輩が手を止めて、僕を見た。

「なんです?」

「今週末、アレらしいの。また、よろしくね」

「ああ、もう一ヶ月でしたっけ? わかりました。用意しておきます。……それじゃあ、そろそろ僕は帰りますね」

「うん。わたしはもう少し残っていくから」

 氷室先輩にあいさつをして、僕は理科室を出た。一応、部活動ということにはなっているけれど、一二人いるはずの部員は、僕と部長の氷室先輩しか出てこない。他の部員は、内申のための席を置いているだけだ。私立中学の部活なんて、こんなものかもしれない。顧問の先生だって、顔を出すことはまれだし、元々期待されてもいないようだから、その点は気が楽だけど。

 僕は電車に乗り、自宅の最寄り駅で降りると、自宅とは違う方向に足を向けた。今日は木曜日だから、先輩のアレは明後日の土曜日かその次の日曜日なのだろう。まだ一日余裕があるが、準備を早めにしておくことにこしたことはない。

「キャットフード、キャットフードと……」

 僕は家から遠いスーパーマーケットまで足をのばして、キャットフードをかごに入れる。うちは一戸建てだけれど、動物の類いは一切飼っていない。家族に動物嫌いがいるわけでもないけれど、特別飼いたいと言い出すほど好きな人もいない、という、よくある理由だ。

「七三五円になります」

 レジのおばさんにお金を支払い、おつりとレシートを受け取って外に出る。雲が多く、風が湿り気をおびていた。もうすぐ雨が降るかもしれない。

 足早に帰路につく。駅までもどり、さっきとは反対方向に歩く。家の近くにもスーパーマーケットはあったが、そこでは近所のおばさんがパートで働いているから避けている。キャットフードを買っていることを、母親に告げ口されると面倒なことになるからだ。

 家につくまでに、なんとか雨に降られずにすんだ。僕はリビングにいるだろう母親に「ただいま」とだけ言って、二階の自分の部屋にあがった。

 キャットフードは、もちろん鞄の中に放りこんである。

 部屋のドアを閉めて、ほっと息をつく。この瞬間までは何回やっても緊張する。悪いこと(少なくとも法は犯していない)をしているわけでもないのだけれど、見つかれば言い訳をしなきゃならない。そういうのは、僕は得意じゃない。

「先輩には、ほんと世話をかけられるよな」

 僕はぼやきながら、キャットフードを引き出しの奥にしまう。毎回、そんな風に一人で面倒くさそうに装っているけど、自分でだってわかっている。結構、楽しみにしているってことに。



     2


 雨音に混じって、猫の鳴き声がした。

 ベッドに寝ころんで雑誌を見るともなしに見ていた僕は、飛び起きて、窓の外を見た。

 外はものすごい勢いで雨が降っていたけれど、その中を猫が一匹、部屋の窓の前で座っていた。びしょぬれになっている。

「氷室先輩!」

 慌てて僕は窓を開けて、猫に手を伸ばし抱きかかえる。こちらも濡れてしまうけれど、そんなことはどうでもいい。用意しておいたタオルにくるんで、優しく拭いてやる。

 ニャアァ、と気持ちよさそうな鳴き声を、のんきに上げているところをみると、風邪などは大丈夫そうだ。茶と白が混じった、カフェオレみたいな毛並みがふわりとしていて、どことなく愛らしさがある。

 一通りふいてやると、猫は軽やかに僕の腕から飛び降りた。音もたてずに床に着地して、今では定位置になっているベッドの上に飛び乗って丸くなる。

「相変わらず、マイペースだなぁ」

 僕は苦笑いをして、ベッドに腰かけた。



 さて。ここまでくると僕は先輩に焦がれすぎて、猫まで先輩に見えてしまう変な中学生と思われてしまうだろうから、説明をしておこうと思う。

 そのためには、多少……いや、かなりの柔軟な頭が要求されるから、心して聞いてほしい。

 まず、この猫は氷室先輩だ。あっ、今やれやれって顔をしなかったか? ちぇっ、まあいいけど。

 僕だって、バカじゃない。信じるに足る理由というのが、ちゃんとある。もう一年も前のことになるだろうか。まだ僕が一年生の頃、入り立ての理科部に毎日のように顔を出していた。氷室先輩はまだ部長じゃなくて、違う人がやっていたはずだけれど、いつもいるのは氷室先輩だけだった。

 後輩に指導する、なんて人じゃないから、なんとなく氷室先輩のすることを見たり手伝ったり、自分で勝手に危険じゃない程度の実験をしたりして、時間をつぶしていた。

 そんなふうにして過ごして、夏休み前のことだった。いつものようにまったりと実験にはげんでいたら、氷室先輩が手を止めて突然言ったのだ。

「山名くん。わたし、明日猫になりそう」

 真顔だった。氷室先輩って、真顔で冗談を言う人だったのか、と場違いなことを考えたのも覚えている。それはあながち間違いでないことは、後々知ったけれど、この時は違っていた。

「どうしよう?」

 本当に焦ったような顔で、氷室先輩が言うから、僕はつい言ってしまったのだ。

「それなら、うちで預かりますよ」――と。

 冗談の受け方としては、悪くないと今でも思う。でも、それが始まりだったのだ。

「そっか。なら、大丈夫だね」

 氷室先輩はにっこりと微笑んで、冗談だと笑い飛ばしもせずに、そのまま実験を再開してしまった。

 取り残された形の僕は、「いや、まさかね」などと、ぼそぼそとつぶやいていた。

 そして、翌日の土曜日。お昼過ぎに猫が一匹、僕の部屋の窓を引っかいた。



 それから毎月のように、彼女(=猫)はやってきた。

 間隔はほぼ一ヶ月。学校が休みの土日祝日のどれかで、お昼頃から、五~七時間で元に戻る。猫の間の記憶は、曖昧だけどかすかには残っている。

 ここ一年でわかったことは、それぐらいだ。規則性と呼べるほどのものなのかどうかもわからない。そもそも、猫=氷室先輩という図式すら、疑う余地は十分にある。

 でも、いわゆる変身シーンは見たことなくても、限りなくそれに近い状況は何度も確認している。

 というのも、元に戻るときは、前もって預かっておいた着替えを入れたバッグと一緒に、押し入れに入ってもらうことにしているからだ。そうしてしばらく経つと、氷室先輩が押し入れから出てくる。マジシャンでもない限りは、猫=氷室先輩は成立する、と考えていいのではないかと思う。

 ちなみに帰りは、二階から屋根を伝い塀の上に移って、そこから飛び降りてもらっている。幸い、僕の部屋側には他に家がなく、見られる心配も少ない。

「今日もありがとう。それじゃあ、バイバイ」

 元に戻った氷室先輩は、雨が小降りになるのを待って、窓から屋根へと慣れた様子で降りていった。人間のときも、まるで猫みたいだ。

 足をすべらせないかと心配したけれど、氷室先輩はあっさりと着地に成功し、小さく僕に手を振ると小走りにかけて行ってしまった。

 僕はその様子を、笑みをうかべて見送るしかなかった。氷室先輩が帰った後は、いつも目が回るような息苦しさを感じる。それは、苦しいんだけれど、どこか心地よさもふくんでいた。

 この気持ちをなんと表現するのだろうか。最近の一番の問題はそのことだ。


     3


 猫の後の月曜日に氷室先輩と会うときは、いつも緊張する。

 気恥ずかしいというか、気まずいというか。

 氷室先輩にとって、猫姿というのが恥ずかしいものなのか、それとも記憶にもあまり残っていないから、忘れたいと思っていることなのかわからない。ただ、好んで話題にはしたくなさそうだな、という印象は受けている。

 放課後になり、理科室に行くと教室の中は薄暗く、誰もいなかった。たいていの場合、氷室先輩が先にやって来ているのに。

「ホームルームでも長引いてんのかな」

 僕は明かりをつけ、一人で実験をする気にもならず、窓際のイスにすわった。

 ここからはグラウンドは見えないが、サッカー部か野球部あたりが、練習で声を張り上げているのは聞こえた。

 放課後は人気のない場所ということもあり、近くでは足音もしない。高等部に比べて、中等部は人数は少ないとはいえ、四〇〇人近くはいるはずだ。それなのに人が来ないというのも、不思議な感じがする。

 そんなことをぼんやりと考えていたら、携帯電話のメールの着信音が鳴った。

 氷室先輩からだ。

『ごめんなさい。部活出られなくなった』

 一行、そう書かれていた。

 なんだよ、それ。

 理不尽だと思っても、いらついた。他の人は無断でさぼっているし、氷室先輩がいるかいないかは、部活動には正直あまり影響はしない。理屈ではそうだ。そうだけど……。

 拳を握りしめる。なんだか、やるせない。なにがやるせないのかすらわからないけれど。

 握った拳をほどいて、大きく息をする。ほこり臭かったけど、かまわない。

 鞄を持って、理科室を出た。大股に早足で校舎を出る。強い日差しに目を細める。梅雨に入ってから、久しぶりの晴れだけれど、もうすぐ夏を感じさせる暑さだった。

 駅に向かって歩いていると、段々と落ち着いてきた。氷室先輩だって、なにか理由があって部活を休んだのだろう。昨日の雨で風邪気味なのかもしれない。それなら、メールに書いてくれてもよさそうなものだけれど、もともと無精の氷室先輩にそれを望むのは贅沢というものだ。

 駅の改札まで来て、定期券で中に入ろうとしたら、道路を挟んだ反対側になにかを見た気がした。

 後ろの人に迷惑そうにされながら、僕は改札の脇にそれて、確認した。

 やっぱり氷室先輩だ。声をかけようとして、言葉を口の中に押しとどめる。 隣に、高等部の制服を着た男が歩いていた。目立つ感じではないけど、人の良さそうな笑顔を浮かべた男だった。氷室先輩も楽しそうに笑っていた。

 氷室先輩に兄がいるという話を聞いたことはない。従兄弟、又従兄弟、その他親類縁者とか色々な可能性を考えて、最初の兄以外の可能性はみんな一緒だと気づいた。

 一緒だと思う自分に気づいた、というほうが正しいかもしれない。

 つまり、僕は氷室先輩を好きだっていうことだ。


     4


 部活を休み始めてから、二週間になる。

 我ながら情けないとは思う。氷室先輩が男と歩いていたから部活を休むなんて。

 でも、どうしても足が向かない。何度か氷室先輩ものぞきに来てたけれど、その度に僕は姿を隠して逃れてきた。

 氷室先輩に直接確認したい気持ちもある。あの男は誰ですか? そう一言聞くだけでいい。氷室先輩は答えてくれるだろう。ただ恐いのだ。もし氷室先輩の口から「彼氏」なんて言葉が出てきたら、僕は、僕の気持ちはどこへいくのだろうかって。

 お昼休みになって、クラスの友達とお弁当を食べているとメールが入った。ポケットから携帯電話を出して確認すると、氷室先輩からだった。どうせ部活を休んでることだろう。もう、何度も同じようなメールをもらっている。

 そう思って開いたら違っていた。

『ネコ』

 そう一言書いてあった。

 意味がわからない。猫? 猫がどうしたというのだろう。僕と氷室先輩の間で猫といえば、あのことしかない。でも、それがいったいどうしたっていうんだろうか?

 僕は気になったけれど、放っておくことにした。今は氷室先輩のことを考えていたくない。

 

 メールのことを思い出したのは、放課後になってからだった。いくら氷室先輩だって、あんな変なメールを送ってくるなんて、やっぱりおかしい。

 放課後に、恐る恐る理科室に行ってみるが、誰もいない。あまり気が進まなかったけれど、三年生の教室に行ってみることにした。

「えっ、氷室さん? お昼頃に具合が悪いとか言って、早退したけど」

 まだ教室に残っていた女子にお礼を言うと、僕は学校の外まで歩きながら考えた。

 どうにも腑に落ちない。どうして、氷室先輩はあんなメールを送ってきたのだろうか。まさか急に猫になりそうになったとか? でも、氷室先輩が猫になったのはつい二週間前だ。今までそんなに早い間隔でなったことはない。

 そもそも、僕に連絡してこなくたって、あの一緒に歩いていた男に連絡すればいいじゃないか。

 うまく考えがまとまらないまま歩いていると、少し先にこの間の男が友達数人と歩いていた。

 彼女が早退したっていうのに、のんきなもんだ。

 僕はむかつきを覚えながら、早足で高校生たちを追い抜く。そのまま段々と速度を上げて、最後にはかけ足になっていた。

 肩で息をしながら駅につくと、僕は思いきって氷室先輩に連絡してみることにした。

 携帯電話を操作して、氷室先輩の電話番号を呼び出す。最後のボタンを押すときに、指がちょっと震えた。

 呼び出し音が鳴るがつながらない。留守番電話サービスに切り変わったところで、電話を切った。

 どうするべきか? もし、氷室先輩が猫になってしまったとすれば、それはかなり危険な状態だ。猫の間は氷室先輩は自分の意志で動いているわけじゃないから、どこへ行ってしまっても不思議じゃない。

「ああもう! くそっ」

 僕は舌打ちをして、駅から離れて走り出した。

 猫が行きそうなところを片っ端から探すしかない。

 こんな時だというのに、空はどんよりとして、今にも雨が降り出しそうだった。



 周りはどしゃ降りの雨で、視界が悪かった。

 制服は雨で重くなって、まるで重りをつけているみたいだった。

 めぼしいところは探したはずだけれど、最後に一カ所だけ思い出した場所があった。前に一度、氷室先輩が猫の時に抜け出したことがあった。その時は近くで見つかったのだけれど、後から聞いたら「川が見たかったような気がする」と言っていたことがあった。

 この辺りで川といったら一つしかない。

 土手までやってきたが、相変わらずの雨が視界をさえぎって、間近にいかなければ確認できない。しかも、川も増水していて危険だった。

 土手を慎重に歩きながら、呼びかけてみるが、声も雨音に消されてしまう。もうダメだろうか。そう考えたとき、かすかな鳴き声が聞こえた気がした。

「氷室先輩?」

 僕は辺りを見回すが、姿は見えない。

 土手の下の方は、川の水がせまってきている。僕は意を決して土手の下にすべり下りた。足下を気をつけながら探す。

 ――いた。背の高い草が茂っている根本に、体を丸めていた。白と茶色が混じった毛並み、このどこかすっとぼけた顔つき。氷室先輩に間違いない。

 僕は抱きかかえると、駅に向かって走り出した。腕時計を見ると、四時半を過ぎたところだ。

 いつもの通りだとすれば、あと三〇分すると、いつ氷室先輩は人間の姿に戻ってもおかしくない。そうなるとどうなるか。考えるまでもない。

 電車のスピードをもどかしく感じながら、僕は駅を下りると、傘も差さずに家まで走った。時間はどうにか間に合いそうだった。

 家に着いたのが、五時ちょうど。親はちょうど出かけていた。あとで、家の留守電を確認したら、雨がおさまるまで待つと入っていた。姉貴は友達と旅行中なのが幸いした。僕はバスタオルにくるんだ猫を、姉貴の部屋に放り込み、メモ書きを一枚、ドアの下から滑り込ませた。

『姉貴の部屋です。適当に服を着てください』

 一息つくと、僕はシャワーを浴びて、氷室先輩が出てくるのをただ待った。これで、あの猫が野良猫だったら、僕はただのバカだ。そうじゃない、と思いたいけど、一〇〇パーセントの自信があるわけじゃない。

 六時過ぎになって、姉貴の部屋で急にがさがさと音がし始めた。それからさらに数分後、ドアが開いて、氷室先輩が出てきた。

「山名くん……」

 哀しそうな、それでいて嬉しそうな、複雑な顔を氷室先輩はしていた。

 なにか声をかけようと思いながら、なにを言っていいのかよくわからなかった。

「ありがとう。助けてくれたんだよね?」

「そりゃあ、あんなメール送ってこられたら、助けないわけいかないじゃないですか」

 僕は照れくささから明後日の方を向いて言った。

「急だったから、人気のないところに行くのが精一杯だったの。あと、短いメールを送るのが」

「……一つ聞いていいですか?」

「いいよ」

「どうして僕にメールを送ったんですか? 氷室先輩、高等部の彼氏がいますよね? どうして彼氏に送らなかったんですか」

 問い詰めるような口調になったことを、言った後に後悔した。

 氷室先輩は、ちょっと驚いたような顔をしたけど、すぐに真顔になった。

「当たり前じゃない」

「当たり前?」

「だって、私の本当を知っているのは山名くんだけなんだよ」

「そ、それなら、彼氏に教えればいい」

「イヤダ」

「子供のワガママみたいなこと言わないでください。僕は氷室先輩の保護者じゃないんですよ」

 氷室先輩は僕の言葉に、黙ってしまった。言い過ぎただろうか? でも、これが本当の気持ちだ。僕は氷室先輩の保護者じゃない。

「帰る」

 氷室先輩は呟くように言って、玄関に向かっていく。

 怒らせてしまったかもしれない。それでも僕は、きちんと言わなくちゃいけなかった。いつまでも保護者みたいな立場でなんていたくない。

 後を追いかけて玄関まで向かう。氷室先輩は玄関で立っていた。僕が行くと、振り返った。

「クツと傘、借りていい?」

 氷室先輩の表情は怒ってはいなかった。でも、笑ってもいなかった。

「どうぞ」

 僕は姉貴の使っていなさそうなスニーカーを出し、傘立てにあったまともそうな傘を渡す。

「ありがと」

 氷室先輩はぎりぎり聞き取れるぐらいの小さな声で言って、玄関から出て行った。

 ドアが閉まると、僕は大きく息を吐いた。

 いつの間にか握りしめていた拳をほどき、自分が緊張していたことに気づく。

 今言ったことは賭だった。自分はただの保護者のつもりはない。そう宣言したのだから、今までみたいにはいかなくなるだろう。

 もしかしたら、このまま避けられて、氷室先輩は彼氏に自分の特異体質のことを相談するかもしれない。それでも、今のままよりはマシだと思った。こんなはっきりしない状態よりは。

 不意に玄関のドアが開いた。

「あら健一、なにしてるのそんなところで」

 母親が怪訝そうな顔で聞いてくる。僕はぼんやりとした頭のまま、あいまいな笑みをうかべた。


     5


 氷室先輩についての疑問は尽きることはない。

 なぜ猫になるのか? という根本的な疑問もあるし、猫になった氷室先輩がウチに真っ直ぐやってくるのも不思議だ。僕が知る限り、この間のイレギュラーを除けば土日にしか猫にならないというのも、とても都合がいい。良すぎるぐらいだ。

 そんな山積みの疑問が今まで氷室先輩と一緒にいる中で、話題にならなかったわけじゃない。ただ、氷室先輩はあまり猫の間のことを話したがらないし、僕がいることに安心しきっている様子だったので、あえて考えてこなかった。

 だけど、もうそのことを、本気で考えなきゃいけない時期なのかもしれない。

 理科部をさぼり、帰路につきながらそんなことを考える。

 だからそれは偶然だった。

 駅近くのファーストフードに入っていく、氷室先輩の彼氏を見たのは。

 自分の中の感情が、グラリと揺れるのを感じた。それは激しく強く、僕をなにかに駆りたてようとする。

 今すぐに、あの氷室先輩の彼氏のところへ行って、

「ふざけんな。お前なんか氷室先輩のことなにも知らないくせに! とっとと別れろ!!」

 と叫んでやりたい。叫んでやりたいけど、……できない。そんなことをしても意味がない。逆に氷室先輩が、僕を避けるようになるのは目に見えている。それぐらいのことは、まだ僕にも冷静に判断できる。

 でも、そんな判断をできてしまう自分が嫌だった。

 渾身の力をこめて、その場を離れる。駅の改札を通り、電車に乗るとようやく落ち着いた。

 氷室先輩の彼氏のことは、ここ数日で少しだけ調べた。名前は有沢悠。高等部の一年で、理科部。氷室先輩との接点は言うまでもない。

 中等部と高等部の部活は、基本的に分けられている。だけど、僕が来るまで事実上一人だった氷室先輩なら、高等部の見学とか接点はいくらでもあっただろう。

 勉強もスポーツも並。大人しそうな顔立ちで、事実、目立つタイプじゃないらしい。そんなヤツが、変わり者で通っている氷室先輩を好きにならなくたって、いいじゃないかと思う。

 そしてすぐに思い直す。自分だってそうだろ? と。

 堂々巡りだった。いくら考えたところで、なにも結論が出ない。科学と同じだ。時に実験でしか得られないデータがある。成果がある。発見がある。それが例え、自分の予測に反していても、考えに反していても、研究者は発見自体を喜べる。

 では、僕はどうだろうか?

 その時には僕はもう決めていた。氷室先輩に問いかけようと。


     6


 授業以外で久しぶりに来た理科室は、相変わらずほこり臭い。

 ホームルームが終わってから、真っ直ぐにやってきたので、まだ氷室先輩は来ていない。

 なにか実験でもしてみようか、と考えたけれど、そういう気分にはなれなかった。

 実験器具を見るともなしに見ていたら、理科部に入って初めてやった雲をつくる実験を思い出した。

 まずフラスコに水を入れ、ふたをする。よく振ってから、ふたをしたまま線香の煙を中に入れる。そして、注射器で中の空気を抜いてやれば自然と雲ができる。

 そんな単純な実験だったけど、初めての僕は緊張していたし、やり方を書いたプリントを渡すだけだった氷室先輩も、僕の方をちらちらと見ていた。

 フラスコの中に、雲ができたときは、思わず氷室先輩と顔を見合わせて笑った。

 あのときは、まだなにも考えていなかったし、思ってもいなかった。

 不意にトビラの開く音がした。

「山名くん」

 振り返ると、氷室先輩がいた。驚いた顔じゃなかった。僕が来ることを予感していたのだろうか。

「ひさしぶりだね」

 氷室先輩はカバンを机の上に置き、理科準備室のロッカーから白衣を取り出しはおった。いつものスタイルだ。

「先輩……あの」

「ひとつ、わかったことがあるの」

 氷室先輩がさえぎるように言った。

 僕は戸惑いながら、氷室先輩を見る。実験の準備を黙々として、こちらには一瞥もくれない。

「なにが……わかったんですか?」

 恐る恐るきく。

 自分の本当の気持ちが、なんて言ってくれないだろうか、と期待しながら。

「どういうタイミングで猫になるのか、が」

「えっ?」

 予想外の言葉に僕は驚く。それは重大な発見だった。それがわかれば、対処の方法もあるかもしれない。

「私が猫になるのって、寂しいと思ったときみたいなの」

「寂しい? それってどういう……」

「正確に言うとね。山名くんに会いたくなると、ってことみたい」

「僕に、ですか?」

 信じられない言葉だった。今言ったことをまとめると、氷室先輩は僕に会えないと寂しくて、そして猫になる、と。

「この間、初めて土日以外で猫になったの。あれは、山名くんと会えなかったからだと思う」

「で、でも、それは変ですよ。僕と出会ってからは、一年と少しですよ。それまではどうだったんですか?」

 反論したくないのに、僕は反射的に反論していた。理系の哀しい性だ。

「それまではないの」

「ない?」

「うん。私が猫になるようになったのは、山名くんと出会ってから」

「そんな……、わけがわからない」

 僕は近くにあったイスに、ドスンとすわりこんだ。

「私にとって、山名くんは保護者じゃないよ。いないと寂しいの」

「彼氏がいるのに?」

 口をついて出る言葉が、つい皮肉っぽくなってしまう。

「有沢さんは別だよ。彼も大事だけど、私にとって山名くんも大事なの」

「都合がいいですよ。それに証拠がない。僕と出会わないと猫になる証拠が」

 むなしい反駁だ。そんなものがあれば、猫にならない解決策だって、とっくに導き出せる。

 でも、氷室先輩の答えは意外なものだった。

「あるよ。というより、山名くんも気づいてるでしょ? 私が猫になると、なんでいつも真っ直ぐに山名くんの家に行くの? 猫になっている私はほとんど意識がないのに」

「それは……」

 以前考えたことがあったが、餌を与える僕に対する帰巣本能か、または氷室先輩の無意識がそうさせる、ということしか思い浮かばず、途中でやめてしまったことだった。

「これは仮説だけど、猫の私が山名くんをとても好きなんだと思う」

「猫の先輩が?」

「うん。それなら説明がつくでしょ」

 人ごとみたいに氷室先輩に問われて、僕は開きかけた口を閉じる。

 たしかに説明はつく。この間、川に行ったことは例外だけれど、それも僕に探させることを目的としたのなら、一応の説明はつかないこともない。猫にそんな知恵がまわるとは思えないけれど、ただの猫ではないわけだから。

「だとすると、僕は猫の先輩に必要とされている、ということですか?」

「そうなるかな。でも、私にとっても山名くんは大事な後輩だよ」

 笑顔で言う氷室先輩には、その言葉がどれだけ残酷か理解していないに違いない。

 でも、希望を捨てるべきじゃないかもしれない。猫の氷室先輩が僕を好きなら、いつか人の氷室先輩も好きになってくれるかもしれない。ただ、一つ問題があるとすれば……。

「二股ですか?」

 僕の問いに、氷室先輩は首を傾げてニヤッと笑って言った。

「二股じゃなくて、猫股じゃない」

 力が抜ける。とても、重大なことを話している最中だとは思えない。

 反論する気はもうなくなっていた。僕にとって氷室先輩が必要なのは違いないのだ。相手も必要と言ってくれているわけだから、問題は……あるけど。

 有沢先輩にバレたときはバレたときだ。その時考える。

「なんだか先輩といると、楽天的になるみたいです」

 僕が言うと、氷室先輩は今頃気づいたの、という顔をして、

「ま、猫だからね」

 と言った。

 当分僕は、氷室先輩に振り回されることになりそうだ。

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