やけど

星野イオリ

第1話

 私の右腕には火傷の跡がある。

 二の腕の辺りに、10センチぐらいに細長い爛れた痕だ。物心つく前に、母が食べようとしていた熱湯が入ったカップラーメンを私が倒して、火傷を負ったそうだ。カップラーメンというのが、なんとも映えのない人生を送ってきた私らしい。

 私はこの跡を見ると、複雑な気持ちになる。ほとんどが悪いことばかりだったけれど、いいこともあったから。


 小学生の時に何が嫌だったかといえば、体育だった。私の通っていた小学校では、体操着は半袖だけ。だから、必然的に私は週に1度以上火傷の跡を晒さないといけなくなった。当然、小学生には配慮とか遠慮をわきまえている子供のほうが少ない。

 気持ち悪いと、揶揄われ陰口を叩かれクラスメイトから距離を取られた。無視されて物を隠されたりもした。


 なにより嫌だったイジメは、体育の後に服を隠されたこと。体操着から着替えられなくなった私は、その後の授業でも醜い火傷の痕を晒し続けなければいけなくなった。服を隠されたことより、そのことの方が悲しくて惨めだった。

 そのうち私は、図書室で過ごすようになった。そのため小学校時代の記憶は、ひたすらに本を読んでいたことだけだ。


 休み時間に図書室で本を読んでいれば、イジメられることもなかった。司書の先生がいて騒ぐことを禁止していたし、私の状況をそれとなく察していて、私の周りで騒ごうとするクラスメイトを早めに注意してくれていた。

 でも、司書の先生はそれ以上は関わってはこなかった。イジメから助けようとか、話し相手になろうという気はなかったらしく、ただ私が静かな図書室の利用者であることを認めてくれていた。それだけで、私は十分だった。


 なんの思い出もない小学校を卒業し、私は私立の中学校に進学した。地元の中学校に行けば、私の火傷を知っている人がいる。それに小学校では暇だったので、勉強をしている時間はたくさんあった。

 両親にイジメのことは話していなかったけれど、それとなく事情を察していたのかあっさりと私立への受験を認めてくれた。そして私は合格した。


 中学校での生活は、小学校の時よりは幾分かマシだった。なにより体育で着る体操着のデザインに長袖が選べた。この中学を選んだ大きな理由だった。私は忌々しい火傷の跡を隠すことができた。

 ただしプールの授業では水着になるため、火傷の跡を見られないというわけにはいかなかった。それでも毎週のように見られることがなくなり、それだけでも私の精神的な負担は軽くなった。


 中学生になって難しくなった面もある。美醜について敏感になったからだ。私は火傷の跡以外は平均的な顔と体つきで、特に美人でもないし痩せすぎでも太りすぎでもなかった。でも、私の右腕に火傷の跡があるという1点で、私は醜いとされていた。

 そのためクラスメイトの中でのカーストが低く、雑な扱いを受けることも多かった。軽く殴られたりスカートをめくられたり、雑用を押しつけられたりすることは日常茶飯事だった。


 友達も出来ずに、孤独に過ごしたのは小学生時代と変わらなかった。それでも納得していたのは、自分でもこの火傷の跡が醜いと思っていたからだ。こんな醜いものが腕にあるのだから、そう言われても仕方がない。当時の私はそう考えていた。

 幸いというべきか、中学校時代の私には特別なことは何も起こらなかった。小学校の時以上のイジメは起きなかったし、だからといって誰か助けてくれるような人も現れなかった。ただただ孤独だった。


 何の思い出もなく中学校の生活も終わり、高校へ入学した。勉強する時間はあったから、入試は希望通りの電車で30分離れた高校へ入学した。

 高校生になると、中学までと違って干渉を避けることができた。私はアルバイトにせいを出すことにした。制服が長袖のカフェでアルバイトをするようになって、私は「彼」と出会った。

 彼は大学2年生で、私より4つ年上だった。特別に目を引くような顔立ちではなかったけれど、とても気の利く優しい人だった。


 私はいつの間にか惹かれていた。人を好きになるのは、それが初めてだった。今まではそんなことを考える余裕も余地も存在しなかったから。

 彼は不思議と、私なんかと仲良くしてくれた。アルバイト終わりにちょっとお店に寄ったり、ファーストフードを食べて帰ったり。

 今までクラスメイトがするのを遠目に見てきた事を、自分がしていることが信じられなかった。

 ただ、それも彼が私の火傷を知らないからだ。そう思うと、怖くなった。彼と別れた後には、いつも家で恐怖から泣いていた。

 今まで同級生からいくら避けられても、蔑まれてもなんとも思わなかったのに、彼に同じように思われるのは嫌だった。自分がそんな感情を抱くことに驚いた。


「ねえ、今度の休みにプールに行かない?」

 彼とアルバイト終わりにファーストフードを食べている時、誘われた。バイト帰り以外に遊びに誘われたのは、初めてだった。

 バイトを始めて1年が経ち、彼は大学三年生で就職活動のためにこの夏の終わりにバイトを辞めることが決まっていた。

 なんとなくこれを断ったら、もう彼は私から離れていくんだろうな、という予感があった。でも、よりによってプールだ。水着になれば私は醜い火傷の跡を晒すことになる。

 でも、それでいいのかもしれない。彼に火傷の跡を見られて嫌われるのであれば、私はこの気持ちを諦められる。またいつもの孤独の生活に戻るだけだ。

「いいですよ」

 私が返事をすると、彼は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。


 次の日曜日に、私と彼は遊園地のプールにやってきていた。水着なんて学校指定のもの以外持っていなかったので、私は慌てて新しい水着を買った。露出の少ない水着で火傷の跡を隠すことも考えたけれど、彼を騙しているようで嫌だったから、白を基調とした花をあしらったタンキニにした。

 彼は私の水着姿を見て、とても可愛いと褒めてくれてから火傷の跡を見て驚いた顔をした。

 ああダメか。私は今すぐにプールに飛び込みたい気持ちになった。


「それ……痛くないの?」

 ためらった口調で、彼が言った。

「うん。物心つく前の火傷の跡だから。気持ち悪いでしょ」

「そんなことないよ。君と一緒に今まで生きてきた跡だろう。だったら、俺にとっても愛おしいものだよ」

 愛おしいなんて、言われたことのない言葉に私は目を白黒とさせた。

 彼も口がすべったという顔で、困っていた。

「本当は今日の帰りに言うつもりだったんだけど、俺と付き合ってくれないか? 好きなんだ。恋人になってほしい」

 彼が照れた様子で、だけど真っすぐに私を見つめて言ってくれた。

「……はい」

 私は顔が熱くなって、そう答えるのが精一杯だった。


 そうして私と彼は恋人同士になった。彼がアルバイトを辞めてからも、連絡を取り合って毎夜電話で話をした。

 彼の就職が決まった時は、2人でお祝いした。私と彼の関係がより深くなったのは、その時の夜だった。彼は私の火傷の跡に、何度もキスをして愛おしそうにしてくれた。

 彼には今までの私の人生について話してきたから、同情もあったのかもしれない。でも、それでも私を火傷の跡も含めて愛してくれたことが嬉しかった。


 彼が大学を卒業して就職してからも、恋人関係は続いた。私は大学には行かずにフリーターをしていた。成績は悪くなかったので、高校の先生からは進学を勧められたが閉鎖的な学生という空間にいることがもう嫌だった。

 私が高校を卒業して3年が経ち二十歳を越えたこともあって、彼が結婚について話すようになっていた。

 私も彼となら、と思っていた。彼以外はあり得ない。たぶん私の人生に二度と彼のような人物は現れないだろうと思った。


 私の21歳の誕生日を一週間前に控えた日。アルバイトを終えると、スマホに着信が10件も入っていた。相手は彼の母親からだった。既にご両親とは会ったことがあり、付き合っていることも伝えてあった。とても優しいご両親で、こんな人たちだから彼のような人が育ったんだと納得した。

 嫌な予感がして、私はすぐに折り返しの電話をした。

 スマホから聞こえてきた彼の母親の声は、泣いた後とわかるぐらいガラガラだった。


 ━━彼が交通事故で車に轢かれて亡くなった。

 彼の母親の言葉をまとめると、そういうことだった。

 信号無視をした乗用車が横断歩道を暴走し、轢かれそうになった小学生の子供を助けて彼だけが亡くなったそうだ。

 小学生の子供はすり傷だけで助かったそうで、彼の行動は周りから褒められ称えられた。

 新聞の地方欄に載ったり、ネットのニュース記事にもなっていた。

 彼らしい、と私は思った。

 私の火傷の跡を愛してくれる優しさを持っていたように、彼はその子供を見逃せなかったのだろう。


 彼の通夜と告別式が終わり、私と彼の間には何もなくなった。彼の両親も彼のことは忘れるようにアドバイスをしてくれた。

 ……そんなことは無理なのに。

 私は自分の部屋の中をぼんやりと見つめていた。

 眠気が断続的に襲ってきていた。さっき睡眠導入剤を一箱まとめて飲んだのが効いてきたようだ。意識が飛びそうになるのと同時に、きゅっと首に巻きつくロープが締まって苦しくなる。

 ロープは私の首にかけて、反対側はリビングのドアノブにくくりつけてあった。意識を失えば首は自然と締まる。


 不思議なものだ。今までイジメられても死のうなんて思ったことはなかった。それなのに彼がこの世からいなくなったら、死ぬことしか考えられなくなった。

 部屋の中で死ぬのは、大家さんにとても迷惑がかかるのはわかっている。だけど、誰にも邪魔されずに行動に移せるのがここしか思いうかばなかった。

 アルバイトも辞めていて、私の家を訪ねてくるような友人もいない。両親は離れた場所に住んでいて来ることもない。しばらくは見つからないかもしれない。

 私は今まで貯めておいたお金を、リビングのテーブルの上においておいた。100万円ほどあった。本当は火傷の跡を消す治療を受けるためと、彼との新しい生活のために貯めていたお金だった。


 でも、もうどちらも必要がなくなった。あの額では迷惑料にも足りないかもしれないが、私が出せる額の精一杯だった。

 私は火傷の跡を見る。結局、この火傷の跡からは逃れられなかった。悪い思いも良い思いもした。お金が貯まっても、すぐに火傷の跡を消さなかったのは、結局は私の一部だと思っていたからかもしれなかった。

 ああ眠い。瞼が落ちてくる。

 彼が私がこんなことをしようとしてる知ったら、とても怒るだろう。怒鳴られたことは一度もないけれど、怒鳴られるかもしれない。

 怒鳴ってくれるなら、よかったのに。


「……ごめんね。こんなふうにしか生きられなくて」

 私は誰にともなく呟いた。

 彼に向けたのか、今まで生きてきた自分に向けたのか。それとも今まで一緒に生きてきた火傷の跡に向けたのか。よくわからなかった。

 そうして私は意識を手放した。

 

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