桜の記憶
真花
桜の記憶
一面の曇り空の下、校庭には桜が咲いていた。
入学式が終わり、割り当てられた教室に入ると、
重村が猛烈な勢いで僕のところにやって来た。
「なあ、
重村とは用があれば話す程度の仲だったので、僕はその接近に身構えた。続々とクラスメイトが教室に集まって来ている。男子校なので男ばかりだ。それでもグループ的なものが構築されることは予測が出来るから、その端緒を重村で塞がれるのは可能性を失うようで、だからと言って話しかけて来たのを邪険にしたくもなかった。……最初だけが全てではない。今は重村と話そう。
「知らない」
重村はギラリとした目と笑いをして、声を落とす。
「木肌を削ると、女の匂いがするらしい。花が咲いている間だけだそうだ」
僕の好奇心がむくりと顔を出す。現象への興味だけじゃない、女の匂いを知りたいと言う気持ちが、刺激されて確かに現れた。それが表情に映ったのだろう、重村は嬉しそうに頷く。
「脈ありだな。どうだ、今夜校庭の桜、削ってみないか?」
「夜に?」
「昼間にやってたらおかしい人に見えるだろう?」
僕は首を振る。
「学校に忍び込むのは無理だよ。セキュリティがある。それだったら、丘の上の公園の桜ならいけるんじゃないかな」
重村は、おお、と言ってから、右手の親指を立てる。
「ナイスアイデア。それで行こう。持ち物はスコップだけ」
僕は首を傾げる。
「ナイフじゃなくて?」
「ナイフだと危険人物になっちゃうだろう。スコップで十分削れるはずだから、それで行こう」
「了解。じゃあ九時に公園の入り口でどう?」
「いいね。それで」
担任が教室に入って来て、重村は自分の席に戻った。その後の休み時間はそれぞれ新しい関係を作る試みをして過ごし、帰るときも別々だった。僕は帰路に就くときまで桜の木の匂いのことを忘れていて、電車の中から流れる桜を見て、やっと思い出した。女の匂いとはどんなものなのだろうか。知っているようで知らない。この車両にも女性は何人もいるが、匂いを嗅がせて下さいと頼んだら通報されるだろう。きっとたまらない匂いがするのだ。僕の胸は膨らむ。胸いっぱいに吸い込もう。
丘の上の公園の入り口にスコップを持って向かう。裸で持つのも不審なので小さなバッグに入れた。
約束の場所にはもう重村が来ていた。手にスコップを持っている。全身真っ黒の服で、悪いことをこれからすると宣言しているような格好だ。
「重村、早いね」
「気持ちはもっと早くここに着いていたよ」
僕達は連れ立って丘を登る。二人とも、ただ坂を登るのにしては息が荒い。重村が深呼吸をする。
「わくわくするなぁ」
僕も応じて深く息をする。春の生暖かいまるで実体を伴うような空気が胸に満ちる。
「どんな匂いだろう」
「俺は女の匂いなんて嗅いだことがないから、全く分からん」
「僕もそうだ」
それから二人とも黙って、息荒く坂を登る。犬の散歩をしていたおじさんがじろじろと僕達を見て行った。僕達は構わずに進む。
桜の木の前に二人で立つ。薄いピンクの花びらが街灯に照らされて朧に光っている。僕は鼻をひくつかせるが、あまり香りはしなかった。重村がスコップを立てる。
「やるか」
僕達は桜の木の幹の前に立ち、周囲を伺う。誰もいない。僕が、今だ、と言うと同時に重村はスコップで木肌を削り始めた。僕も待っていられなくて、重村から九十度ずれたところを削る。思っていたよりも幹は硬くて、だがなんとか削れる。
「どれくらい削るの?」
「分からん。多分、質が変わったらそれでいいと思う」
僕は削って、削って、そして幹の質が変わった。これだ。鼻を近付けて、匂いを嗅ぐ。木の匂いだったが、その中に甘さがあった。僕は貪るように嗅ぐ。段々、甘い匂いを的確に捉えられるようになった。胸の中に侵入して、僕をとろんとさせる。これが女の匂いか。これはたまらない。
「おい、お前達! 桜の幹に張り付いて何をしてる!」
声の方向を向くと、さっきとは別のおじさんが懐中電灯で僕達を照らしていた。警備の人だ。ちらと視界に入った重村は夢中で匂いを嗅いでいる。重村の肩を叩く。
「やばいぞ! 逃げろ!」
僕はスコップを手に持って、反対の手にバッグを抱えて走り出す。振り向くと重村も駆け出している。
「おい! 待て!」
おじさんの大声を背中に聞きながら、人生で一番のダッシュをする。重村が僕の横に並び、競い合うみたいに駆ける、駆ける、駆ける。公園の入り口を突破してまだ勢いを緩めず、住宅街を走り抜け、僕達は去年まで通っていた中学の前で止まった。息が切れて、汗がぼたぼた落ちる。僕が重村を見ると重村も僕を見て、乱れた呼吸のまま少し笑む。
息が整って来ると、周囲がよく見えて来た。校門の内側には桜の木が立っていた。僕が桜を見ていると重村が僕の横に立って僕の見ている方を眺める。
「もう一回、嗅ぐか?」
「十分だよ。……でも、いい匂いだった」
重村は頷いて、手に持ったスコップを反対の拳でコンコンと叩く。
「本物の女の匂いって、あんななのかな」
「さあ。いつか嗅げるときが来るのかな」
「きっと俺は嗅ぐ」
「僕だって」
それから二人とも黙って、まるで春の夜を体に馴染ませるような時間になって、汗が引いた頃、重村が、帰るか、と言った。僕も、帰ろう、と言って、その場で別れた。
家に帰っても桜の木の匂いが頭から離れない。風呂に入ってみても、布団にくるまってみても、匂いの記憶が僕を支配してなかなか眠れなかった。
次の日、朝から重村はいたが、僕達は会話をしなかった。自然と出来た新しいグループのようなものにお互いに入って、その後も話をすることはなかった。桜の花は落ちて、匂いももう削っても出ないような青々しい枝をときに見ては、嗅いだことを僕は思い出した。
翌年の春も、その次の春も、僕は桜の木の匂いを嗅ぎには行かなかった。重村にも誘われなかった。それでも、春が来る度に僕はあの匂いを思い出した。いつか本物の女の匂いを嗅いだとき、桜の記憶は消えてしまうのだろうか。それとも。
(了)
桜の記憶 真花 @kawapsyc
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