煉獄の囚人
さかたいった
脱獄
カンカンカンカン。
囚人たちが集う食堂に、甲高い音が鳴り響いた。ナツミは口に運ぼうとしていたところどころカビの生えたような白い塊を皿の上に戻し、顔を上げて状況を確認した。
左右に看守たちを従えながら、黒い仮面をつけたこの監獄の看守長が食堂に姿を見せた。看守長がわざわざこの薄汚れた囚人たちの食堂に姿を見せることは珍しい。何かの見せしめでも行われるのかとナツミは思った。
「明日、きみたち囚人に一年に一度のチャンスを与える」
鳥の顔を模したような黒い仮面をつけた看守長の抑揚のない冷たい声が響く。
「明日、1200より三時間、きみたちに脱獄の機会を与える。時間内に監獄から抜け出した者は、晴れて自由の身だ。脱獄の手段は問わない。どんな手を使ってもいい。その三時間、きみたちは何をしても罪に問われることはない。ただし、行動は全て自己責任。脱獄を試みるのもその身朽ち果てる時までこの監獄に残るのもきみたち次第。以上」
看守長が身を翻して食堂から出ていった。
静まり返っていた食堂にガヤガヤとした喧騒が戻ってくる。
「ナツミ」
ナツミは向かいに座っているユキに名前を呼ばれ、顔を向けた。
「一緒に脱獄しよう」
ユキの熱のこもった視線が目に入る。
「うん」
「約束だよ」
その日の夕方、わずかな自由時間。
ナツミは人通りのない廊下で、ユキと一緒にいた。
ユキの背中を壁に押しつけ、縞模様の囚人服の襟から出るユキの首筋に触れていく。
ユキの体には痣がある。わずかに肌が露出している首筋、手、顔にも。今は服に隠れているだけで、痣のある箇所は全身に渡る。
ナツミはユキの首筋に自分の唇を当てた。そして軽く吸い込む。目を閉じているユキから熱い吐息が漏れた。
ユキの両手がナツミの体に回り、引き寄せようとする。
自由時間が終わるまで、二人はそこにいた。
1200
カンカンカンカン。
監獄の中に甲高い音が鳴り響いた。脱獄が許される時刻がきたのだろう。
ナツミは一人牢屋の中にいた。周囲の他の牢から慌ただしい音が聴こえ始めた。
遠くで雄叫びが聞こえ、重いものが床に打ちつけられる音と振動があった。きっと野蛮な手段で脱獄を試みる者たちの仕業だろう。
しばらく待っていると、ナツミの牢の前にユキがやってきた。ユキは周囲を警戒しながら鉄格子の扉に鍵を差し込んだ。内側に向けて扉が開く。
「ナツミ、行こう」
ユキが手を差し出した。ナツミは彼女のその手を握る。
「うん」
二人は牢を出て、薄暗い石造りの廊下を走っていく。既に複数の牢の扉が開いている。看守たちだけでなく、他の囚人たちの挙動にも気をつけなければならない。ナツミが信頼できるのは、ユキ一人だ。
廊下の端に、くずおれている看守の姿を見つけた。二人はその横を通り抜けて階段を上っていった。
ドン。ゴツ。ボコ。
中庭のあるフロアに出た。左右の通路は幾重にも敷居が立てられ封鎖されている。先に進むには中庭を通らなければならない。
ボン。バコ。ドコ。
中庭の真ん中に優に二メートルを超える人型の黒い影がいた。影が実体を持ったような姿。目の部分だけが丸く黄色い光を放っている。影は手に巨大な棍棒を持ち、近くを通ろうとする囚人たちを次々と殴りつけていった。既に気絶した囚人にさらに容赦なく棍棒を打ち下ろしている。
ナツミが遠目から中庭の様子を眺めていると、傍にいるユキが急にしゃがみ込んだ。
ユキはしゃがみながら両手で頭を抱え、異様なほど目を見開きながら体の震えでガキガキと歯を鳴らしている。顔色が真っ青だ。
「ユキ。ユキ」
ナツミが声をかけるが、ユキは痛ましい表情でここではないずっと遠くを見つめている。
ゴン。グシャ。バキッ。
ナツミはユキに覆い被さり、ユキの体の震えを抑えようと手を回した。ユキの体がとても冷たい。
「ユキ。ユキ。大丈夫だから。私がいるから」
ナツミは手でユキの体を何度もこする。ユキの体は震えたままだが、ゆっくりと動いた瞳がナツミを向いた。
「私がいるから。大丈夫。私だけを見て」
ナツミは一度ユキから離れ、近くに落ちている酒ビンを棍棒を持った影に投げつけた。影は棍棒を振り、酒ビンを粉々にする。中身の酒が飛び出て影の全身にかかった。
ナツミは懐から取り出した煙草を一本咥え、ライターで火を点けた。監獄内で苦労して調達した嗜好品だ。
一度大きく吸い込んで堪能してから、火の点いた煙草を影の足元に放った。影の足元から炎が上がっていく。
ナツミはしゃがんでいるユキを抱えて立ち上がらせた。そのままユキを横に抱えるようにして移動する。
ウォォォン。
炎に飲み込まれている影が奇妙な叫びを上げている。ナツミはユキの視線を遮るようにしながら影の横を通った。
中庭を抜け、廊下に入る。
ナツミは足を止め、ユキの体を撫でた。ユキの顔にある痣に指先で触れる。ユキは体を震わせながら泣いていた。
「ユキ。大丈夫だよ」
可哀想なユキの頭を何度も撫でる。
「行こう」
1300
ところどころに倒れている囚人たちの姿があった。しかし他人に構っている余裕などない。踏み台にしてでも突き進まなければ。
ユキの状態はだいぶ落ち着いた。ナツミとユキは手を取り、二人で進む。
通路の先に両開きの扉が見え、その扉を開けた。
中は何もない石造りの立方体の部屋だった。奥に扉がある。
部屋の中央まで進んだところで、異変が起きた。周囲の壁に次々と赤い文字が浮かび上がっていく。
■■■、■■■■。
■■■■■■■■。
声が聞こえた。呪いの声が。
ナツミはバランス感覚を失い、体から力が抜けた。
体の芯が冷たくなっていく。上手く呼吸ができない。
■■■■■。■■■■■。
■■、■■、■■■■。
床にも天井にも赤い文字が浮かんでいった。全方向からナツミに向かって呪いの声が飛んでくる。
「ナツミ!」
ユキの声はずっと遠かった。ナツミはどんどん闇の底へと落ちていく。
情け容赦のない言の葉の数々。ナツミの精神は見えない刃で血を流していく。
■■、■■、■■、■■。
もう耐えられない。早く解放されたい。
その刃はナツミの内臓まで抉った。こんなんでどうやって生きろというのか。
ナツミは意識を手放した。
頬に冷たいものが降りかかった。
意識が少しずつ覚醒していく。
ゆっくりと目を開いた。
ユキがこちらを見下ろしながら泣いていた。
ナツミは先ほどいた部屋の中央で仰向けになっていた。赤い文字はもう消えている。
「ユキ」
ナツミが囁くと、ユキは泣き顔を見せ、ナツミに覆い被さって抱きついてきた。
ユキがいなかったら、自分はここまで来られていないだろう。それはユキにとっても同じ。
かろうじて、しがみついている。
この薄汚れた世界に。
1400
ナツミとユキは、尖塔へと続く橋梁の上を走っていた。乾いた風が肌をひりつかせる。監獄の出口は近い。
途中でナツミは足を止めた。ユキが不思議そうに振り返る。
「どうしたのナツミ」
「ユキ」
「お腹痛いの? その辺でしていいよ。あたしが見ててあげるから」
「違うよ」
ナツミの真剣な様子を見て、ユキは悲しげに眉をひそめた。
「ユキ。本当に脱獄する気?」
「何言ってるの? そのためにここまで来たんでしょ?」
「そうだけど。でも」
「ナツミならわかってくれるはず。あたしのこと」
「うん。でも」
「ナツミ」
「本当に他に道はないのかな?」
その問いかけを受けても、ユキの表情は変わらない。
「そうやって迷うふりをして無駄に長引かせても、痛みが増すだけ。あたしたちに救いなんてない」
「うん。そうだね。わかった」
ナツミはユキを説得したかったわけではない。迷っているのは、自分だ。
「ユキ。一つだけ約束して」
「何?」
「最後まで、私の手を離さないで」
ナツミを見つめるユキの瞳に鮮やかな輝きが灯る。
「了解」
1450
監獄のエントランスまでやってきた。ここを抜ければ、あとは門へと続く道があるだけ。その先に自由が待っている。
前方に一人の人間が立っていた。全身黒尽くめ。鳥の顔を模したような黒い仮面を被っている。看守長だ。
「よくここまで来た」
看守長がパチパチパチと気持ちのこもらない拍手をした。
「ここまで辿り着けたのはきみたち二人だけだ。さあ選ぶがいい」
「選ぶ?」
「言っていなかったか?」
看守長の不気味な仮面がこちらを向く。
「この監獄から出られるのは、一人だけだ」
「そんなの聞いてない!」
ユキが叫んだ。
ナツミはユキの手を握る自分の手に力を込めた。
「相談してもいい。殺し合ってもいい。早く決めたほうがいいぞ。もう時間がない」
「ユキ」
ナツミはユキの手を握る自分の手を解いた。
「行って」
ユキが愕然とした表情でナツミを見た。
「何言ってるの? 二人で行くって言ったじゃん。最後まで手を離さないって」
「ユキが自由になって」
「もしかして、怖いの? 怖気づいたの?」
「違う。そうじゃない」
「この薄情者!」
ユキが激昂した。その目には涙が浮かんでいる。ユキはかぶりを振って走り出した。
これでいい。これでいい。ナツミは自分を納得させようと呪文のようにその言葉を繰り返した。
看守長の無機質な仮面が黙ってこちらを眺めている。
このままユキを行かせていいのか? 自分だけがここに残るのか?
ユキは監獄の外へと向かっていく。
待って。
ナツミはユキに向かって手を伸ばした。
行かないで。
ナツミはユキのあとを追いかけた。
ユキは暗闇の先の光へと進んでいく。
「ユキ!」
ユキのシルエットが立ち止まり、振り返った。
「ユキ!」
ナツミは彼女の名を呼んだ。全身全霊をもって手を伸ばした。
◇◇◇
「
崖から空中へ身を投げ出そうとしていた有希の手を掴んだ。渾身の力で引っ張る。
勢い余って後ろへ倒れ込んだ。その上に有希の体が重なる。
「
有希は顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。
冷たい風が吹く。空は厚い雲で覆われている。下のほうで波が岩肌を打つ音が鳴っている。
「私がいる。それだけじゃ駄目?」
七海は静かに問いかけた。
有希の目尻から雫が垂れてくる。
「だって、こんな場所。こんな地獄」
「でも、巡り逢えた」
七海は仰向けになりながら有希の首に両手を回し、引き寄せた。
有希は七海の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
七海は近くから視線を感じた。目を向けると、そこに一羽のカラスがいた。
カラスは感情の伴わない冷たい目を七海たちに向け、それから飛び立った。
波の音が響く。
日も隠れたままだ。
それでも、自分たちはまだ、生きていた。
煉獄の囚人 さかたいった @chocoblack
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