般若心経

 会場に設置された複数のスピーカーからは、絶えず『般若心経』の読経が流れています。しかし、それを唱えているのは人ではなく、初音ミク。


 私が会場で聞いたのは4パターンの般若心経だったと記憶していますが、初音ミクの読経に合わせて、前述した『蟲筆』表面の経文が一文字ずつ光ったり、ランダムに光ったりなど、実にバリエーション豊かな「電子音声と光」の表現がなされていました。


 音源を作曲したのは、頃安ころやす 祐輔ゆうすけ氏。


 視覚的な他の展示物と合わせて、聴覚的及び皮膚感覚的(複数のスピーカーの振動によって、肌が震える感覚がしたことをはっきりと覚えています)にアプローチする作品でした。


 何とも言えない奇妙な感覚に陥ったことをハッキリと覚えています。


 そう、飽くまで私個人の感覚ですが、奇妙。


 その奇妙さをなんと表現すればいいのか、またどこからやってくる奇妙さなのか、展示会場で考えたり、外を散歩したり(実は訪問当日、情報量を処理できずに頭痛がしたので、一度出てまた戻りました)しながら考えていました。


 考えた結果、私が感じた奇妙さの正体は、以下の3つであると気付きました。


1、『般若心経』が人の声ではないこと

2、読経をしているのが初音ミクだということ

3、しかし、確かな「経を聞いている感覚がある」こと


 以上の点により、私の中にはある二つの「対立する奇妙な感覚」が生じていたと考えました。


 人間が読経するときは、呼吸や滑舌、経文の箇所など、複数の要因によって「テンポの揺らぎ」が存在します。初音ミクによる読経にはそれらがありません。この意図して設定された「一定のリズム感・パターン性」とでも呼ぶべきものが、第一の奇妙さの正体でした。


 しかし、これと対立するような感覚も、私の中にはありました。それが「これは確かに般若心経だ」という確信です。


 会場で聞いたオーソドックスな読経や、まるでドラムのハイハットを叩くようなリズミカルな読経、複数の声が重なり複数人で読経しているかのようなもの、様々パターンはありましたが、間違いなく慣れ親しんだ『般若心経』だという納得感を感じました。


 この、矛盾するふたつの感覚の対立が、初体験の「奇妙さ」の正体だと感じました。しかし、人は慣れるもので、15分もその展示の中にいるうちに、私は地下空間に流れる「読経」に、自分が馴染んでいくかのような感覚を覚えました。


 初音ミクを初めとしたあらゆる電子プログラムは、もともとを辿れば0と1だけの二進数で記述されます。この空間にいる自分も、まるで0と1だけで構成されるプログラムの世界の一部になったような感覚を覚えました。

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『響き煌めく境界線』を訪ねて 藤野 悠人 @sugar_san010

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