「磯」「一日」「雨戸」

才羽しや

「磯」「一日」「雨戸」

 海が見える。ほぼそれが決め手で入居した学生用マンションの一室で、窓ガラスにもたれかかってため息をついた。ガラスに打ち付ける雨の音。雨。そう、雨。

 お世辞にもアウトドア派とは言えないこの私が、今日に限って出かける用事をひねり出したというのに、あろうことか天気は残酷だ。こんな雨では出かける気にすらならない。せっかく買ったばかりのワンピースを来て、自慢のヘアアクセサリーで髪をまとめあげたというのに。

 仕方がないのでそのままの恰好で部屋の掃除をすることにした。もう部屋着に着替える気力も削がれていたのだ。そしてついでに、という軽い気持ちで雨戸に手をかける。


「……やっぱり、死んでる……」


 最近、なんだかずっと雨戸を開閉するたびに変な音がしていたのだ。それがとうとう、今日のこの雨がとどめとなったらしい。押しても引いてもびくともしない。

 スウェットのポケットからスマホを取り出す。雨戸修理業者の一覧を見て、がっくりうなだれた。アルバイトと奨学金と、お情けの親からの仕送りで食いつなぐ大学生には無情な額だ。

 仕方がないので友人に電話した。少し変わり者だが、明るくて好奇心旺盛。つまり日曜大工に明るい身の回りの人物といったら彼女しかいない。


『んもー、しょーがないにゃぁー』


 もったいぶった言い方をしながらも二つ返事をくれた友人は、三十分後に私の部屋へとやって来た。こんな雨の日だというのに、ふわふわのスカートに整えられた巻き髪とナチュラルメイク。変わり者だが、可愛いのだ。

 可愛らしいフェイクレザーのショルダーバッグを床に放ると、彼女はずかずかと窓辺へ寄ってきてあれこれ検分しながら言った。

 

「あー……やっぱりだこれ、あんた掃除サボったでしょ。後ほら、ここ。戸車交換したらだいぶマシになるよ。まあ業者に依頼してもいいけどさ……」

「知らない人家に上げるのやだよ。それに業者さん高いし。頼むよピザ焼くからさぁ」

「しょーがないにゃぁー。じゃあ戸車買いに行くから近所のホムセンまで行こっか」

「ええー外出るのだるいよ。雨だよ?」

「じゃ、なんでそんなめかし込んでんのさ」


 彼女には言えなかった。言いたくなかった。

 本当は今日、晴れた日にはこの窓から見えるあの海辺を歩いたところで、先月オープンしたばかりのカフェに行く予定だったなんて。

 ――高校からの片思いの先輩の、バイト先にお茶をしに行く予定だったなんて。


「……雨だから、だよ。ほんとは今日着てみるつもりだったんだけどさ、ほら。こんな天気だし、なんか外出る気になんなくて。でも買った服に罪はないわけだし、だから家の中で着てみた次第……」

「ふーん。じゃ、ちょうどいいじゃん。ホムセン行こうぜ、おしゃれして」


 あっけらかんと言いながら自分のバッグを拾い上げて肩に担ぐ、後ろ姿まで可愛いそいつが少し憎かった。

 いつもおしゃれなこいつとは違う。今日の私のは、特別なおしゃれなのだ。


 結局雨戸をそのままにしておくわけにもいかないので、言われるがままに車を出し、最寄のホームセンターへ向かった。田舎なので大学への通学は車があった方が良い、ということで私は免許を取り、兄のお古の軽自動車を運転できるわけだ。一方のこいつときたら、そんな私の事情を知った瞬間に私のことを足扱いしている。


「海すげえ。暗いしあらぶってるし世紀末みてえ。テンション上がるわ」


 可愛い顔で恐ろしいことをのたまう友人が、助手席で海を見ながら勝手にはしゃぐ。

 最も軒に近い駐車場に車を止め、速足でホームセンターに駆け込んだ。

 少し濡れた髪を耳にかけながら、隣ではしゃぐ声がする。


「なんかさ、こうやって二人で買い物してると、あれだね」

「どれ」

「新婚みたい。それか同棲直前のカップル」

「何だそれ」

「商業BLで絶対にある描写」

「あーあるある」


 くだらない話に相槌を打っていたら、いきなり私を見捨ててそいつが小走りに逃げ出した。どうやら品だし中の店員さんに、私の家から持ってきた戸車を見せているようだった。

 ゆっくり歩いて私が追いつく間に、奴は店員さんとのにこやかな会話を終えていた。


「あんたそんな、ふわっふわのスカートのポッケに何ちゅうもんを入れてんの。それもむき出しで」

「だって鞄の中に入れると見つかんなくなるじゃん」

「あー、そういやそうだったね。あんたの鞄の中ってブラックホール搭載型のタイムカプセルだもんな。先週なんか、去年の処方薬出てきてたし」

「そうそう。昨日なんかさ、あんた午後の講義いなかったから見せてあげられなかったけど、すげーもん出てきたのよ」

「何だろ。海外のお金とか?」

「惜しい。薬莢だよ」

「惜しくねえよ。マフィアかよ」

「古着屋で買ったジャケットに入ってたの。で、それを鞄に入れて忘れてて……」


 相変わらず変な話題が飛び出てくる友人だ。目当ての戸車をかごに入れ、笑いながらレジへ向かう。しれっと横からお菓子がカゴに入れられるのを視界の端に捉えたが、私は咎めなかった。業者に依頼するよりは十分安い手数料だ。

 外に出ると、雨足はまだ健在だった。再び小走りで車に飛び込む。シートベルトをしめていると、助手席から聞かれた。


「あー、ねえ。今腹減ってる?」

「まあこの時間だしな。……え、だから私が帰ってピザ焼くんじゃないの?」

「ピザは帰って食べるよもちろん。その前にさ、ちょっとお店寄ってかね?」

「どこ? マック?」

「カフェ。ほら、海が見えるロケーションがエグいって、深夜テレビで言ってたとこ。ねー行こーよ行こーよー。病気の妹が感想聞きたがってんだよー」

「お前一人っ子だろ……」


 言いながら、心臓が跳ねる思いだった。断念したはずのカフェに、まさか、自分よりも何倍も可愛いこいつと入店することになろうとは。

 ただ……結局、今日晴れていたところで私はどうしていただろうかと考えた。晴れた日なら、散歩がてらに立ち寄ったという体で、何気ない顔をしてカフェに行くつもりだった。だからわざわざ雨の日に行くのは、「彼に会うために来ました」感が強くて断念したのだ。

 しかし、私のこの性格だ。晴れたからといって、一人で好きな人の働く姿を眺めに行けたとは思えなかった。


「まあ……業者に頼むよりは、安いからいいけどさ……」

「マジ? おごり? うひゃあ~感謝だぜ石油王!」


 何も知らないそいつが、盾にされているとも気づかずはしゃぐ。

 時間は昼下がり。そこそこに人の入っているカフェへ入店した。オープンしたばかりだからか、内装も綺麗だ。


「いらっしゃいませ」


 いきなり会えるとはさすがの私も思わない。見たことのない、綺麗な女性店員が出迎えてくれた。


「窓際! 一番窓際の、海が見えやすいとこで!」


 こんな雨だというのに、連れはロケーションを重視したがった。店員さんは優雅に微笑んで、注文通りに窓際の席を案内してくれた。

 ――同じ職場に、こんな美しい女性がいる場所で、彼は働いているのか……。

 席に座り、メニュー表を渡して去っていくしなやかな後ろ姿をぼんやり見つめていると、にやにやと話しかけられる。


「何、きれーなおねーさん見つめちゃって」

「いや……いや、別に。まあ綺麗だなって多少は見とれてたけど……」

「やらしー」

「やらしくねーよ。やらしいって言うやつがやらしいんだよ」


 ぼやきながら店内から視線を逸らす。窓の向こうにどす黒い雨雲と、無理に引っ掻き回されるように荒れる海面が見えた。

 あれこれ言いながらも、一分もかからずにメニューを決めるそいつに倣って私も似たような注文を決めた。

 その瞬間だった。


「ご注文お決まりですか?」


 隣から、ふと聞こえた声に心臓が跳ねる。

 私は店員を呼んだ覚えがない。正面を剥くと、友人が手を上げていた。呼んだのはこいつか。


「ケーキセットのBで。飲み物はレモンティーのアイス……」


 言いながら友人がこちらを見る。まんまるの可愛い瞳は、先ほどと打って変わって、全く笑っていなかった。おどけた表情を消し、真剣そのものだ。

 悪友、さすがあなどれない。私のことを彼女は見透かしていたようだった。


「あ……えと……あたし……あたしは……」


 言いながら口がもごつく。言えない。言えなかった。

 メニューも。彼を好きなことも。高校のときからずっと見てきたことも。

 あなたを目指して大学に入ったこと。あなたがバイトをしているからって、今日、このカフェに来るつもりだったこと――。

 しびれを切らしたらしい。正面で親友が店員さん――先輩に、話しかけた。そのネームプレートを指差しながら。


「あー……あれ、もしかして斉藤さんって、A大の国際科の斉藤先輩じゃないっすか? 私、一年の後藤です。一回お話ししたんですけど覚えてません? ほら、丸山教授のゼミで……」

「丸山教授の? あー、そう言えばー……見たこと、あるかも……」

「いやそれ覚えてないやつでしょ。はー、がっかりだな。朱肉貸してあげたのに」

「朱肉? ――待って、鞄から魚肉ソーセージと一緒に印鑑ケース引っ張り出してた子?」

「そーですその魚肉の子です。あはは、こんなんで記憶回路が繋がってんのウケるわ。――で、こっちの子もそんとき一緒にいたんですよ」


 ね、と視線を送られ、彼の視線もこちらを向く。一度は私とがっつり目が合ったのに、彼は気まずそうに目を逸らした。


「えと……あー……ごめん、よく覚えてなくって……何さんだっけ?」


 テーブルの下、花柄のワンピースの上でぐっと拳を握る。


「あは、はは。覚えてなくて当然ですよ。あたしの方は全然会話してないですから。――あの、あたしもケーキセットのBでお願いします。アメリカンコーヒーで……」


 俯いたまま、無理に会話を断ち切った。しばらく下しか向けなかった。

 店内BGMの洋楽が次の曲にかわる頃、ようやく上目に見上げると、彼女は不機嫌そうに頬杖をついてじっと窓から海を睨んでいた。


「どんなにおいがするんだろうね」

「へ?」

「あの辺だよ。ほら、あの、磯のとこ。こんな雨だし、波は高いし。なんかすっごい海って感じのにおいが濃縮されてそう」

「……こんなおしゃれなカフェきて、そんなん思うの、あんたくらいだろうね。多分エグいにおいするよ。わざわざ行こうとも思わんけど……」


 私の答えを聞いて、ふん、と鼻を鳴らして友人はついた頬杖に口元を埋めていく。

 その口が、かすかに「いけよ」と呟いた気がした瞬間、再び隣に彼が来た。


「お待たせしました。ケーキセットのBです……」


 お決まりの文句と共に、ごゆっくりどうぞ、と伝票を置いて去って行った。


 ***


 あれから少し不機嫌になった友人と一緒にケーキをつついて、あまり会話も弾むこともなく、伝票を持って会計へ向かった。

 レジには先ほどの女性が立っていた。それを見て、友人が言い逃げする。


「あたしお花畑行ってくる」

「お花を摘みに、っていうんだよそういうのは」


 トイレへ消える友人を見届けてから、私はレジに伝票を出した。女性が落ち着きのある声で値段を読み上げ、私は財布を取り出し……。


「――待って、ちょっと――加藤さん!」


 いきなり名前を呼ばれて、思わず振り返った。え、と呟くと、間違いなく私を見て先輩が目の前に走って来た。


「これ……これ落とし物。君のじゃない? ボールペン……」


 そう言って一本のペンを手渡された。すぐにわかった。これは私のではなく、先ほどお花畑に行ったあいつのものだ。これは修学旅行で奴とお揃いで買ったペンで、私も同じものを持っているが、家の引き出しにしまってあるから、こんなところで落とすわけがない。


「なんで……」

「え?」


 しかし今、彼から手渡しで受け取ったペンより気になる事があった。


「なんで、名前……」

「あ、えと……」


「彼、高校のときあなたのこと好きだったんですって」


 割って入ってそう言ったのは、会計の女性店員だった。グロスの乗ったリップで、にこりと笑って言う。


「ふふ、妬けるよね。高校の体育祭で一生懸命に走るあなたを見て、名前と学年だけ知って、それから何もできずに今に至るんだって」

「え……え……? まさか……」

「おい、言うなよ! あーごめんほんと、困らせて。ていうかこの人見覚えない? 多分加藤さんと同じ講義取ってる人だよ。ほら、いっつも派手な格好しててさ……」

「派手って言うな! じゃあ自分好みの服着てくれる人と付き合い直しなさいよ」

「おい、付き合うとか人前で……」

「いーじゃない。その方が加藤さんも困らないでしょ? 大丈夫よ加藤さん。この男、もうあなたへの未練はないから」


 目の前で繰り広げられる、まるで別世界の出来事のようなやり取りを見ながら、私は茫然と口を開くしかなかった。


「あー……あはは。それは、良かったです。ほんと……あの。お幸せに……」


 それだけ言って、レシートは要らないと早口に告げ店を出る。逃げるように出た後で、友人を置いてきてしまったことに気づいた。

 しかし、今さらもう、あの空間には戻れない。どうしようかと手をこまねいていたところに、


「どうだったよ、磯の、エグいにおいは?」


 背後からそう声をかけられた。彼女は笑っていなかったし、怒った顔もしていなかった。綺麗な顔をした人の真顔は、なんだか迫力があって怖いと思う。


「お前……悪趣味にもほどがあるだろ……」

「だってこうでもしないと気づかないでしょ。あんた」

「気づきたくなかったよ。もう遅すぎたんだから……」

「は? むしろ今始まったんだろが」


 私の手からペンを取り上げ、彼女は言う。


「絶対未練あるぞ、まだ。多分今からでも間に合う。明日からまた大学で仕掛けていけよ。今度はもっとグイグイと。で、あの派手女から寝取っちまうの」

「寝取るって……エロ漫画の読み過ぎだろそれ……。ていうかいいよもう今さら」

「なんで? あんた略奪愛モノ好きだったじゃん。同じことしちゃえよ。チョロそうだからコロっと落ちるぞ、あの人」

「なんでだよ今さら……」

「だって好きなんでしょ。なら」

「高校の時から知ってたじゃん! なら何でっ、今になってネタばらしすんの!」


 私が怒鳴ると、真顔のそいつが一瞬ひるんだ顔をした。そして少し視線を落とし、気まずそうに語り始めた。


「……知ってたよ。高校の時から、あんたが先輩を好きだったこと。先輩のために受験勉強頑張ったこと。……で、先輩があんたのこと気にしてたこと……」

「なら、なんで」

「寂しいじゃん」

「は?」

「……寂しい、じゃん……。あんたと先輩が付き合ったら……私、一人じゃん……」


 子どものようにむくれた表情だった。


「私、今までに人を好きになったことってない。だから恋も分かんない。付き合いたいなんて思ったことない。私はあんたと一緒にいるのが一番楽しいの。で、そのあんたが、何か、顔が良いとか背が高いとか、それだけの理由でよく知らん人と一緒になりたがってる。あんたも先輩も、多分私が背中を押せば簡単にくっつく。でもその後は? あんたらはよく知らん者同士でくっついて、上手くいくかもしれないしダメになるかもしれない。でもあたしは? あんたがいなくて、他の子と仲良くすればいいの? で、もしダメになったときはまたあんたを受け入れて、もし上手くいったときはそのままあんたを手放して祝福しろって? それってどうなの。そもそも私が背中を押さなきゃくっつかないような二人なら、本当に無理にくっつけて上手くいくの? 運命を無理やり狂わせただけってことにはならない?」


 最後の方には支離滅裂で舌ったらずな口調になりながら、気まずそうに涙ぐんでそう言われてしまえば、こちらはもう何も言えなかった。


「…………ごめん。やっぱ雨戸自分で直して。さっき買ったやつ交換するだけだから、簡単にできるよ……」


 逃げるような口調で言いながら、鞄から折り畳み傘を――それも骨が何本か折れた、いつの物かもわからないものを――取り出して、友人は速足に歩き出した。可愛らしいシフォン生地のスカートが、泥跳ねするのも気にしていない。

 私はまた、そこで茫然としていた。

 とりあえずのろのろと車に入って、助手席に置かれた、ホームセンターのレジ袋を見つめ、エンジンをかけられずにただぼーっとする。

 ビニールの中に埋もれる新品の戸車と、隣で嬉しそうにあいつがカゴに入れたお菓子。


 数分経って、私はやっとエンジンをかけアクセルを踏んだ。

 たった数分のハンデだ。徒歩の人間に車が追いつくのはそう難しくない。自分のアパートとは真逆に向かう車線を、できるだけ安全運転で、それでも急いで走った。

 とぼとぼと歩くその後ろ姿を見付けたのは、本当にすぐだった。

 私はクラクションを思い切り鳴らした。煽り運転をされたって鳴らさなかったクラクションを、生まれて初めて鳴らした。

 後続車が来ていないことを良いことに、歩道に寄せて車を止める。窓を開けながら叫んだ。


「おい、乗れよ!!」


 びくっと肩を跳ねさせて振り返った、鼻水をにじませたそいつに向かって。

 こいつのこんな顔を、私は生まれて初めて見た。

 クラクションも、先輩の気持ちも、友人の泣き顔も、今日の私には初めてのことが多すぎる。


「……何で……」

「ピザ、食べるんでしょ。あと、さっき勝手に入れたビスケット。あれあたし嫌いな奴。責任持って食ってけ」


 雨が相変わらず降っていたが、もう、新品のワンピースが濡れても汚れても気にする理由はないのだ。

 私は運転席を降りるや否や、雨に打たれながらも強引にそいつの腕を掴み、車に引きずり込んだ。

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「磯」「一日」「雨戸」 才羽しや @shiya_03

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