旧校舎のあの日

藍沙

旧校舎のあの日

 そういえば小学校のとき、とある突飛な噂が流行った――ウワサってはやるものだっけ――時期がある。


 白く無機質な蛍光灯の光が点滅する洗面所で化粧をしていたら、ふとそんなことを思い出した。


 鏡に映る自分の顔を見る。薄化粧をまとった陰気な女がじっと 見つめ返してくる。そう、あのとき学年中で話されていた都市伝説 も、鏡にまつわるものだった。


 小学3年生のとき、わたしには友達がいなかった。


 いじめられていたわけではない。嫌われていたわけでもない。 けど、そう、好かれてもいなかった、というか、何とも思われて いなかった気がする。


 どういうわけか、わたしは誰にでも忘れられやすかった。 いなくても、みんな、誰かいないのは分かっているのにわたしだということは気づいてくれない、そんな空気みたいな存在だった。


 そんな自分を、ずっと変えたかった。


 だから、クラスメイトの女の子たちの会話が聞こえてきたとき、 わたしは飛びつかずにはいられなかった。


 旧校舎の第二理科室の鏡にお願いごとをすると、なんでも一つ、 叶えることができるらしい。


 もしも、『みんなに好かれたい』、そんな願い事が叶ったとしたら。 目の前がぱっと明るくなっていくような気がした。


 きゃっきゃっと盛り上がる彼女たちの話を、一言の漏れもないように聞いた。友達が欲しかった。友達が、本当に欲しかった。


 放課後の旧校舎は、何かおどろおどろしいものが立ちこめて いそうな気配が漂っていた。


 真夏の夕方、まだ町は明るい。


 騒がしいセミの鳴き声と、じりじりと肌を焼く太陽から逃れるように旧校舎の中に足を踏み入れると、その冷蔵庫のような冷気 に思わず鳥肌が立った。


 おかしい。そう思う一方で、これは何か起こるぞ、と、そんな確信 にも似た何かがわたしの足を進ませる。


 例の第二理科室は、すぐそこだった。


 薄暗い教室の窓際の隅に、大きな姿見が立てかけてあった。


(あれだ……!)


 興奮と焦りでおぼつかない足取り、そろそろと鏡に近づく。


  これでもう、わたしは一人じゃない。


 そうして鏡を覗き込んで――、背筋が凍りついた。


 鏡に映るわたしの、その背後に。


 黒い人影が立って、じっとわたしを見つめていた。


 喉の中を、ひゅるっと空気が通り抜ける。


 叫び声が、口から出た。


「きゃああああああああああああ!!」


 無我夢中で、人影を突き飛ばし、わたしは走った。


 旧校舎の外に出て、校門にたどり着くまで、振り返ることができなかった。


 帰ったあとはお母さんに抱きついて、ひたすら泣いた。


 それから一週間くらいは、家の鏡すらまともに見ることができなかったのを覚えている。


 わたしの一人ぼっちは格段に増し、卒業するまで結局、クラスメイトとはほとんど話さなかった、話せ、なかった。



 けれど今、1人暮らしのアパートの鏡を見つめていると、ある一つの疑惑が浮かんでくる。


――わたしが突き飛ばしたのは、本当にだったのか?


 考えてみれば、おかしいだろう。突き飛ばしたものは、ぬるりとしていた。あれは、汗だったんじゃないか。そうだあれは、真夏、だった。


 それに、いくらわたしが話せなくなったとはいえ、ああも完全に無会話な生活など普通は送れるのだろうか。


 あれはクラスメイトたちによる、集団無視だったんじゃないか。


 加えて、あの部屋で逆光になっていれば、黒く見えるんじゃない か――人間であっても。


 わたしが突き飛ばしたのは、本当は。


 嫌な予感に、脳がつづきの言葉を紡ぐのを阻止しようとする。 が、遅かった。


――クラスメイト、だったのでは?


 噂話で盛り上がっていた彼女たちは、ただ噂するだけだったのか?本当に?


 もしか、すると。


 鏡に映る大学生のわたしの額に、ひびが入っている。鏡に指を当ててなぞる。ざらざらとした感触が、生々しくわたしをむしばむ。


 急に気持ち悪くなって、やけどをしたように指を離した。


 背中、太もも、首、その全てに、じっとりと汗がにじんでいる。


 全部、気のせいだ。


 そう自分に言い聞かせる。


 もうやめよう、思考に強引にピリオドを打って玄関に向かった。


 リュックを背負い、靴を履いて、家を出る。鍵をかける。ちゃんとかかっ たか確認する。何度も、何度も。


 安心したのか不安なのかわからない、複雑な気持ちを抱えて歩いていると、向かいから歩いて来たサラリーマンと目が合った。


 彼はすっと顔を背けて、そそくさと歩いていく。


 そのとき、まだ化粧が完了していなかったことに気付いた。


 大学に着いたらトイレでつづきをしよう、と思ったときろで、化粧道具も忘れて来たことに気付いてため息をつく。


 結局こういうところなのかもしれない、と思った。


 あのときも、わざわざ盗み聞きせずとも、盛り上がっている彼女たちに声をかけることができていたら。


 もしもできていたら、現状はもう少し違っていたかもしれない。


だろう?


 心の中で、小学3年生のわたしに話しかける。


 今のわたしはね、化粧道具を貸してもらえる友達もいないんだよ。


 それを聞いた小3のわたしの反応を、想像できなかった。


 前を向く。歩きだす。なんだかどうでもよくなった。


 あれから十年。


 今でもわたしは、友達がいない。





(了)

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旧校舎のあの日 藍沙 @Miyashita-Aisa

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