相対する僕と彼女の感傷

山猫拳

***SIDE H***

 来週から中間考査が始まる。数Ⅱの授業が終わると同時に、後ろの席に座っていた緋音あかねが背中をつついて、出題範囲の三角関数の応用問題を一緒にやろうと言い出した。こんな時の彼女の一緒にやろうの本当の意味を、僕は知っている。


「どこが分からなかった?」

「分からなくはないけど、一人だと難しいから」


 振り返って聞いた僕を長い睫毛まつげの間からちらりと見て、斜め下に目線を落として下唇したくちびるを少しむ。

素直じゃない人。


――――――

 一つの机の上に、お互いがノートと教科書を開いて問題を解く。途中から緋音あかねは教科書を持ち上げて、音読おんどくするみたいに顔の前に両手で広げている。


 ノートには応用1(2)の途中まで計算式が書いてある。緋音の動きに意識を取られ、周囲の喧騒けんそうが急に気になった。ノートを開いて騒いでいる同じ制服や、母親よりも少し年上の女性客たちのおしゃべり、幼稚園児を連れた若い親子の高い笑い声。


 もうすぐ夕食の時間だというのに、どうしてファミレスにはこんなに人があふれているんだろう。


 コンと音がする。緋音あかねが教科書を机の上に放り出してこちらを見ている。僕はノートから顔を上げて緋音を見る。緋音の唇が動く。

「つかれた」


「ドリンクバー、いく?」

 緋音はふるふると首を横に振る。問題のどこでんだのだろう。


「ううん、眼鏡めがね貸して」

 僕は溜息ためいきく。最近緋音は僕の眼鏡を借りたがる。

 良くわからない人。


「なんで?」

「なんか、頭良くなれそう」


「人の眼鏡かけてると、眼が悪く―――」

 悪くなる、と言い終わらないうちに緋音の白くて細い指が僕の眼鏡を顔から引きがす。そして当たり前のように自分の耳にかける。


 黒縁のウェリントンはサイズが合っていなくて鼻の途中までずり下がる。


「ほとんど度が入ってないから平気」

 眼鏡の端に手を添えて、レンズ越しに僕を見る。ヘンな言い訳をする人。


「眼鏡、好きなら自分の作ればいいのに」

 少し目を細めて彼女の顔を見つめる。

 眼鏡が似合う、僕のすきなひと。



***SIDE S***

 中間考査も期末考査もきらいだけど、伊月いつきと一緒に勉強するのは好きだ。授業で分からないところは伊月に聞く方がずっと丁寧ていねいに教えてくれる。


「どこが分からなかった?」

 ただ一緒に勉強しようって言っただけなのに、さとい人。


「分からなくはないけど、一人だと難しいから」

 一緒に勉強するのが好きだとは言えないから、言い訳がましくにごす。伏せた目を上げると、口元に白い歯がのぞいている。

 声を立てずに笑う人。


――――――

 自分からファミレスで勉強しようと言ったのに、周りの音が気になって集中できない。はす向かいに座っている伊月いつきを見る。


 シャーペンの先からはよどみなく数式が生まれてくる。ワックスで綺麗に流した前髪の奥に黒い太い縁の眼鏡があって、さらにその奥に筋張った鼻と、男子にしては量の多い睫毛まつげに囲まれた瞳がある。


 何だか盗み見ているみたいで申し訳ない気持ちになって、教科書で顔を隠す。教科書の下の隙間すきまから伊月のノートをのぞくと、すでに応用2(1)に取り掛かっている。


 集中できていないのは私だけで少し心に波が立つ。

 音を立てて教科書を置くと、伊月の目が私をとらえる。

「つかれた」

「ドリンクバー、いく?」


 黒い縁の奥から二つの瞳が私を気遣きづかう。私が首を横に振ると、今度は私のノートに目を移す。私の次の言葉を予測している。

 真面目で、少し困らせたくなる人。


「ううん、眼鏡貸して」

「なんで?」

 またかと言うように息をいて、私を見上げる。困った顔がかわいい人。


「なんか、頭良くなれそう」

「人の眼鏡かけてると、眼が悪く―――」


 忠告は最後まで聞かずに、私と彼をへだてるよろいぎ取って、自分に装備する。私の横暴おうぼうとがめることなく、諦めた表情で眼鏡を見つめている。

 優しい人。


「ほとんど度が入ってないから平気」

 レンズで少しぼやける世界では、伊月いつきの表情が良くわからない。嫌でも分かるその気持ちの変化を、恐れる必要がない。


「眼鏡、好きなら自分の作ればいいのに」

 私が眼鏡を好きだと思っている、とても鈍感な私のすきなひと。

「別に、好きじゃないし。これが好きなの」


 了

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相対する僕と彼女の感傷 山猫拳 @Yamaneco-Ken

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