本編
采女祭りのために、私ははるばる東京から奈良へ足を運んだ。
安い料金の夜行バス。固いシートの指定席。甘い私の旅行プランは、快適とは言い難いバスの旅から始まった。
早朝、降りたバス停近くに予約したホテルがあり、早々にチェックインを済ましてルームキーを受け取ろうと早足に向かった。けれど、チェックインの時間前に来たために、恐縮されながらかえされた。
これが旅の洗礼か、と私はホテルから出ると、なんだかウキウキした気分になり、ウッキウキに目的地へ。
猿沢池へ向かった。
三条通りはまだ眠っていて、街道を
「おぉ」と感嘆していたが、何人かいる通行人が眠そうに、憂鬱そうに、鹿もとぼとぼと絹まみれの街道を行ったり来たりするものだから、なんだか、神聖さにも欠けて、改めて、この先にある池へと前進した。
霧で覆われていると言っても、進むのに支障はなく、光がしっかりと差し込まないが、奈良の地というのもあって、神仏の気配のようで楽しめた。
白いシャッターとすべり坂。老茶の木札が何枚か。次に視線をすべらせると、猿沢池があった。
「これが伝説の池か」
池に顔を覗かせた。
「澄まず、濁らず……いや、ちょっと濁りすぎかな?」
なんなら油の膜が浮かんでいる。伝説もまあこの程度かと、されどこれが采女の伝説の舞台なのかと、いっそう胸が高鳴った。
「お兄ちゃん、池ばかりだと、あの神社は見過ごしてしまうよ」
ふと、隣りから、からかうような中性的な声がして、チラと向く。
視線を下にやると、帽子のつばからはみ出すように、にこにこと子供が伺うようにして笑っている。
「あっちだよ、あっち」
白い人差し指を池の反対側へと向ける。指が示す方へ目をやると、神社があった。
「采女神社だよ」
あどけない顔が親切に笑むので、ぎこちなく会釈をしてやると、よりいっそうに微笑む。
とにかくと、私は導かれるように、ひっそりと佇む朱色の鳥居へと近づいた。目の端に止まった看板には、縁結びのご利益があると書かれている。特に想いが通じて欲しい異性もいないため、とりあえず、この神社を教えてくれた少年に感謝の祈りを捧げた。
「ねぇ、この神社。おかしいと思わない」
滑らかな声が耳に心地よく、「おかしい?」とつい返事をしてしまう。
ついと言ってしまったが、実際は楽しんでいた。というのも、少年は人懐っこく、気配りな印象もある。地元の子供っぽいし、歳の離れた弟のようで心が和む。
だから、「どこらへんがおかしいのかな」と、演技っぽい声で話しかけた。
「お兄ちゃん、分からないの」
「う〜ん…、あ、神社が小さいとか」
見てることをそのままに言ってやると、「小さいよね。春日大社と比べたら、アリみたい」といった。子供らしい答えに私は満足して、分かったと手を打ち、分かっていた采女神社の違和感を説明する。
「神社が池に背を向けてるね。普通は入口である鳥居を、祀るものに向けたりはしない」
入水した池を見るのは忍びないと、采女の霊は一夜にして社ごと背を向けた伝説がある。
実際のところは分からないが、入水した池を死後も眺めるのは億劫。これで安心なら良しと思える。
「そうだよ。でもね、でも、おかしいと思わない? なんで、顔を向けた方には、のっぺりとした色の建物があるの?」
傾げた頭を正して見れば、確かに建物が祠の前に塞ぐようにしてあった。霧かかって、距離がはっきりとしないが、一メートルもないくらい窮屈。
「これじゃ何もかものっぺりしていて、可哀想だと思わないのかな」
「う〜ん、仕方ないことかな。でも、神社の横にはカフェがあるし、色んな声を聞いて楽しんでるかも」
「……本気で言ってる、お兄ちゃん」
どんよりと、空気が重くなった。
わずかに手足が硬くなるのを感じたが、私は、苦笑を浮かべながら、少年の視線に合わせるようにして屈み込み、頭を前に落とす。
「ごめん。悪気があって言ったんじゃないよ。それにさ、今日は采女祭り。毎年行われている行事だし、少なくとも、今日は采女も楽しみだと思うんだ」
精一杯、今日の祭りを話題に使ってなだめてみる。すると少年も、「そっか」とつぶやくので、良かったと内心ホッとした。
「……ところでお兄ちゃん、采女の意味って、知ってる」
私から離れて、少年は猿沢池に顔を向ける。
少年は、またも質問する。
霧のせいで霞んでみえる子供の背中は、どこかおぼろげで、切なく悲しい。
機嫌を直してもらうため、考えるフリでもして喜ばせようと考えたが、あの背中に向かってそれはどうなのか、良心が咎めたので、知ってることを淡々と告げた。
「天皇の身の回りを世話する女官、だよ、ね」
「そう。天皇の世話をした人」
複雑な何かを転がすように、自信のない私の解答を口にする。
いたたまれない空気は続き、手汗なのか、それとも霧のせいなのか、しっけた手のひらを何度も擦って、いよいよ私はどうすればいいのか分からなくなった。
「猿沢池は、柳と月と五重塔が映る
少年が語る。猿沢池の月のことだった。
「でも、美しいって、いつ頃から言われてるんだろう。采女をバカにしてるのかな。采女は見るのも嫌だから背を向けているのに」
「……」
中性的な声には、もう子供の可愛さなど微塵もない。
どこか、どこか恨めしく語るその声は、沸騰する感情を持ち、どんよりと沈んでいる。
何かしなきゃ。使命感のような気持ちに駆られて、少年の横に立つ。腰を落とそうとしたが、水面に映るそれに、反応せずにはいられなかった。
「池が……赤い」
赤い水面、映る顔は、青白い。
「な…だ……」
赤い池を凝視していると、ところどころ黒い点があった。魚の影か、そう思うも動かない。
その黒い点は同じところを、ゆうらゆうら、と揺れるが、移動はしない。
「お兄ちゃん」
平坦な中性の声、一瞬、子供のだとは思わず、背筋を凍らせた。抑揚のない柔らかな声が、私の恐怖を撫でる。
「あそこに見える、柳」
おそるおそる、顔を上げる。水面にも映る、黄色の柳。
「一枚ずつ、散り尽くしていくんだ」
たおやかに揺れると、葉が一枚池に落ちる。はっきりとは見えないけれど、黄ばんだ葉は、しなやかな女のように見えた。
だから、まるで、女が池に飛び込むようで。
「ねぇ、お兄ちゃん」
帽子と頭の隙間から、さらさらと、長い髪が滑る。
声が、悲しいほどに美しい。
着てるものは、いつの間にか白い装束で、身体つきも、女性と分かる程に変化していた。
「お兄ちゃん」
霧がかる世界に、女の声がする。
「こっちに、来て」
誘う手に、私の手が伸びる。あと少しで掴める。そう、あと少し、前に――。
「兄ちゃん! 行っちゃアカンッ!」
「え?」
男の声が、私を呼び止める。
見れば、すっかり陽が昇り、霧が晴れている。
猿沢池を照らし、池の水は濁った緑。赤じゃない。
一呼吸、した。一呼吸して、ようやく、身体が、震えた。
遅れた恐怖が、やっと追い付いた。
「あの、ありがとうございます」
声のした方に感謝を述べたが、誰もいない。いたのは鹿だった。たくましい角を持った鹿が、黄色い柳の葉を噛んでいた。
鹿は興味が失せたように、坂をとぼとぼ降りていく。
私は、やっと呼吸が落ち着き、腰を持ち上げ、陽光に照らされる猿沢池を眺めた。
水面には柳の葉が映る。
風に遊ばれ、葉を散らす柳の葉が。
背向け神社と水面の柳 無頼 チャイ @186412274710
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