第1話 走馬灯

 耳に響く重低音がその場の全てを支配していた。暗い防空壕の中、唯一の光源である小さなランプの明かりが心もとなく揺れ、その場にひしめく数名の男女の陰を背後の冷たい壁に刻んでいる。

 重低音の正体は半刻ほど前から続く空襲である。19XX年、アジアの植民地化に乗り出した日本は列強諸国と真っ向から対立し、今や戦況は移り移ろいで日本の劣勢となっていた。毎日の食べるものや着るものにすら難儀する有様であり、国全体を敗戦の色が包んでいたが、ラジオから流れるのは今日も勇ましい大日本帝国の国歌であり、国民は最後の士気を振り絞って一日一日を生き延びていた。


 ここ、某都市の駐屯にあたっていた自分は、よりひどい戦地と化している焦土の都市群から一歩離れたこの地にあっても毎日命の灯をなんとか消すまいとして必死で走り回っていた。いつも身に着けている薄い布製の財布には、それほど多くない小銭の他に、ただ唯一の財産と言える恋人の写真。幾度も幾度も取り出しては眺めたそれは、今や手垢に汚れ薄茶けている。

 薄っぺらいその紙片が今の自分の精神をなんとか繋ぎ止めていた。


 開戦から間もなく国中にくまなく掘られた防空壕の一つであるここには、現在ようやく避難してきた親子連れが数組、それも母とまだあどけなさの残る赤ん坊の組み合わせばかりである。働ける年と性別のものは皆、戦地か軍の工場に送られていた。

 そして、駐屯兵である自分の他に、男手は無い。手にした銃器も軍のおこぼれのもので、もしこの場に敵の兵が現れたなら、なすすべもなく全員がお終いであった。


「あの、兵隊さん」


 母親の一人がぐずって今にも泣きそうな我が子を強く抱いたままこちらに声をよこす。


「いつまでここに居れば良いんでしょうか」

「…直、空襲も終わります。もう少しの我慢です」


 自分などに一体それ以外のどのような言葉が掛けられよう。防空壕の頭上を走る人の足音や爆撃の音はちっとも鳴りやむ気配を見せず、もはやこの場の誰も、自分ですらもが生存を諦めかけていた。



 そんな最中、防空壕の扉を外から叩く者があった。その場の全員が身をこわばらせるが、その音は二つ叩いて、一泊空けてからもう一つ。


「…やあ、大丈夫です、味方のようです」


 こちらからも三つ内側から扉を叩くと、自分はゆっくりと扉を上に押し開けた。


「すみません、思った以上に避難が難航していて遅くなりました」

「いや、よくやってくれた。お前ひとりか?」

「…まあ、一人と言えば一人」


 この場に馴染まない横柄な口調でぼやきながら入ってきたのは、最近駐屯兵団に入団した若い兵士だった。

 しかし…。


「なんだそれは」

「ああ、この鍋ですか。いやー…何と言いますか」

「役に立つと思って」

「黙って。いやまあ気にしないで下さい」


 いきなりべらべらと喋り出す新米兵に、普段なら怒鳴りつけるくらいすべきなのだろうが今は救われている自分がいた。その、巨大な鍋を頭からすっぽりかぶっている新米兵は、やはり粗末な銃器を担ぎ直すと身軽な動作で防空壕に入ってくる。



「さて、白のキング発見」

「黙って。黒のキングも間もなく到着するんだよね?」

「黙らせるのか尋ねるのかははっきりしたほうが良いと思うよ」


 相変わらずぶつぶつと独り言を大鍋の中に響かせる新米兵を、自分の他の人間は気味悪げに見つめていたが、しかし自分同様わずかだが安堵に気を弛めているらしかった。防空壕内の塞いだ空気が若干軽くなる。自分は一応軽く咳払いをしてから、心の隅で新米兵に感謝を述べた。



「それで、外の状況はどうだ?」

「芳しくないですね。どうやら敵兵の一部がこちらまで侵入してきているようで、今防衛陣を張り直していますが…」

「こんな僻地まで侵略か…くそっ」

「とは言え、この街一個で言うならそれほど劣性でもないようです。近くに逗留中の海軍兵団がいるそうで、どうやら間に合うとか」

「ふむ…?」


 何か違和感を感じる。新米兵の口ぶりはとても確かで客観的だったが、どうも客観的過ぎる。大体戦地に於いて情報とはとても得難いものであるはずだ。これほどまでに全体を見渡した戦況を把握できるものだろうか?


 そこまで考えた時、今までの重低音が高くうねり巨大な爆発音となって防空壕を揺らした。



「おでましだね」



 防空壕の扉が蹴破られ、一人の男が転がり込んでくる。一目見てその場の全員――二人を除き全員が戦慄した。その男の軍服も、手にした銃も、まぎれもなく敵国のもの。

 そこまでを一瞬で視認した所で、自然に体が動いた。手にした小銃を構え、全員の壁になるように敵兵の間に立ちふさがる。新兵も鍋をゆらゆら揺らしながら、やけに慣れた仕草で小銃の狙いを定める。

 その間にも鳴りやまない爆撃と銃声が鼓膜を揺さぶり、防空壕内に溢れかえる悲鳴と共振して頭を真っ白にした。引き金を引こうとする。


「マ、マッテ…!」


 たどたどしい日本語がその動作を止めた。

 よくよく見ればその敵兵は、破れた軍服のあちこちから血を流し、ホコリと泥にまみれている。…敗残兵か。どうやら新兵の言っていた通り状況はこちらの優勢に転じたのだ。

 敵兵はよろよろと壁際に後ずさりながら、手にした機関銃を放り投げた。乾いた音を立てて地面に転がる。


「タスケテ…マケタ」

「日本語が話せるのか? どうなっている、お前は降伏するつもりなのか?」

「マケタ…コウサン。ウタナイデ」


 相変わらず舌に絡まるような日本語で敵兵が言い、自分はその場の安全を確信した。


「分かった。とりあえずお前はここに居ろ。後で海軍本隊に引き渡す」

「いやー、めでたしめでたしだね」

「黙って。まだ終わってない」


 敵兵を拘束するために歩み寄ろうとした自分の腕を、新兵が思い切り引っ張った。



 余りにも軽い発砲音。敵兵の手の中に仕込まれた小型の拳銃からかすかに火薬の匂いが広がり、そして断続的に響いた甲高い音と共に新兵の頭の鍋がはじけ飛んだ。



「ね、役に立ったでしょ」

「黙って」


 新兵は自分の利き腕を掴んだまま、そこに握られた小銃を正確に敵兵に向ける。


「チェック」


 自分の意思とは関係なく、小銃を持った指が引き金を引いていた。


「チェックメイト」


 敵兵の額に空いた風穴にすべてが吸い込まれ、暗転する。




 ぼんやりと目の前に光が差し、重い瞼を開けた。しかし目が霞み、わずかに周囲に人の気配が感じられるだけでよく見えない。体も凍てついたように動かなかった。唯一まともに働いているらしい耳から、読経と聞き慣れた親族たちのすすり泣きが聞こえてくる。


 そうか。あれは自分の走馬灯だ。


 上手く開かない口で呟いた。


「俺…が、あの時…生き残れたのは…」


 現実の世界もそこで途切れた。

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夢踏み 山田 唄 @yamadauta

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