レンズ越しの景色はトラウマ
柴田 恭太朗
トラウムグループの謎
明るい店内にクラシック音楽が流れている。
聞き覚えのある優美なメロディ。曲名は何ていったかな? オレは記憶の中を探る。確かトロイ……そうだシューマンの『トロイメライ』だ。
「レンズの奥に気球がありますから、それをじっと見つめてくださいね」
黒マスクをつけた女性がオレの耳元でささやく。若い女性の声はなぜか高く甘ったるいアニメ声だった。彼女は気球と言ったが、実は測定機器のメーカーによって見える画像が異なる。それは気球であったり飛行機であったりするのだ。
「これトロイメライですよね」
オレは視力を測る器械をのぞきこみながら店員に聞く。曲名を確認したかったわけじゃない。店員のアニメ声が耳に心地よかったからだ。もう少し声を聞いていたいと思った。
「そうでーす。トラウムグループのテーマソングだもん」
店員はテキパキと器械を操作しながら、下っ足らずな口調で答える。
英文字4つで綴られた店名のメガネ屋。この店もトラウムグループの傘下だったのか。オレは初めて知った。
「測定完了でーす」
店員の声でオレはのぞき込んでいた器械から顔を離し、あらためて彼女の顔をマジマジと見つめた。顔の大部分を大きな黒マスクが隠していたが、まつ毛の長い大きな瞳が印象的だ。
「その黒マスクって、トラウムお仕着せのコスチューム?」
オレは日ごろの疑問を口にした。なぜかトラウムグループの店員はそろいもそろって黒マスクを身につけている。
「これですかぁ、花粉対策ですよぉ。他のヒトは知らないけど、あたしは花粉アレルギーなので」
「この季節は大変だね」、花粉症ではないオレは気の毒に思った。「それにしても不思議だな、トラウムグループって。日本中の企業が、いつの間にかその傘下に組み入れられてしまった。誕生して間もないグループだというのに」
事実、製造・販売・流通・金融系から、果ては神社のような宗教施設までトラウムグループに所属していると聞く。
「それは
黒マスクの彼女は頬を上気させて言った。
「魅力?」
「そうよ。トラウムが誕生した経緯を知りたければ、もう一度この器械をのぞき込んでみて」
言いながら測定器械のスイッチを手早く操作する。
「視力はもう測ったけど」
オレはいぶかしく思いつつ器械に顔を寄せる。黒い二つの穴に目を近づけると、まるで
「あれ?」
オレは異変に気が付いて驚く。さきほど気球が見えていたはずのレンズの奥がまるで様相が違っていた。よくある気球でも飛行機でもない。そこは赤く燃えさかる平原。こんな映像は防災訓練の映画か、さもなければ地獄である。
「そのとおり、そこは地獄よ」
アニメ声の女店員が歌うように言う。
――なぜオレの考えが分かったのだ。
オレの疑問はすぐに消し飛んだ。
視力測定器械が見せる凄まじい映像の前ではそんな疑問は小さすぎた。トラウムの誕生とその歴史。それは人類の歴史とともにあった。
長いスペクタクルを要約すれば、トラウムとは夢魔。人間の想像力が産み出した恐れ、あるいは現実を誤魔化すための欺瞞が結晶化した存在である。夢魔は人間に近寄り、弱みを効果的に突いて忍び込み、そして制御を奪う。
それがトラウムグループ急成長の秘密であった。
オレは思った。
確か女性の夢魔はサキュバスといい男の精を奪う。その際は、被害男性の好みの姿をとって現れるという。しかし、オレは別にアニメ声の美少女が好きなわけではないと信じていたのだが、いまこうして白昼のメガネ屋で堂々とこのサキュバスは……ああ、なんてことを!
そんなわけで、トラウムグループの真相が知りたい方は英文字のメガネ屋へ行くといいと思う。
終
レンズ越しの景色はトラウマ 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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