眼鏡が無い
灰崎千尋
眼鏡が無い
違和感に気づいたのは、家を出て数分のことだった。
至って普通の住宅街、通勤や通学で人がまばらに行き交う時間帯である。かくいう自分も寝ぼけ眼で会社へ向かっていたのだが、どうも見られている気がする。すれ違いざま二度見されたり、女子高生がこちらを見ながらひそひそ話していたり。何かおかしいところでもあるのかと、歩く速度を緩めながらショーウィンドウで自分の姿をそっと見てみる。いつものスーツに、普通のネクタイ、寝ぐせは許容範囲のはずである。靴下が派手だとか左右違うということも無い。そもそも、見られているのは顔のような気がする。それとなく顔を撫でてみても、髭の剃り残しも無さそうなのだが。
バス停に着いてみると、疑問はさらに増えることになった。
前に並ぶ人々がぎょっとしたような顔で私を見て、すぐさま顔を背けた。その中にはいつも同じ便に乗る学ランの高校生もいる。猛烈な速さでスマートフォンに何かを打ち込むその顔には、見覚えのない眼鏡があった。いや、彼だけではない。そこにいる全ての人が、眼鏡をかけているのだ。
はっとして辺りを見回せば、犬と散歩する老人も銀縁眼鏡、ランドセルを背負って駆けて行く小学生も青い眼鏡、一人残らず眼鏡だった。自分以外の、誰も彼もが。
咄嗟に深く俯いた。謂れのない羞恥にぎゅっと背を丸めた。おかしい。流行と言っても限度がある。こんなに町じゅう眼鏡だらけになるものか。しかし今ここで、異物なのは自分だった。何が起きているのかはわからないが、それだけは確かだった。
そのうちに、バスが来た。顔をなるべく上げないようにしながら前の人へ続いたが、ステップに足をかけようとした途端、「お客様」と車掌のくぐもった声がスピーカーから聞こえた。
「眼鏡はお持ちじゃないんですか」
バスの中の視線が私に集まるのがわかった。その視線に首をきゅうと絞められたようになって、「今日は、その、忘れてしまって」としどろもどろに答える。すると車掌が極めて平坦な声で「申し訳ありませんが、それではお乗りいただけません」と言ったかと思うと、目の前でバスの扉がぷしゅうと閉まった。バスはそのまま走り去り、私一人が取り残された。
「ねぇママー、あのひとなんでめがねしてないのー」
少女の甲高い声にがばりと顔を上げる。バス停の向かいにある一軒家から、幼い子がこちらを指さしていた。その顔にもしっかりと、小さな丸い眼鏡が乗っている。一緒に出掛けようとしていたに違いない母親が「見ちゃいけません!」と焦ったように子の手を引いて、家の中へ消えていった。
何がいけないというのか。
私は当てもなく駆けだした。
老婦人のきらびやかな眼鏡、学生の黒縁眼鏡、四角い眼鏡、楕円の眼鏡。レンズの奥の目が、私を見る。嘲笑うように、非難するように、忌むべきもののように私を見る。何故だ。眼鏡をかけていないだけで。目は良いのだ。遠くも近くも見るのに苦労していない。だから私に眼鏡は要らない。それなのに、どうして。
トラックにクラクションを鳴らされてはじめて、私は立ち止まった。馬鹿野郎と怒鳴る運転手の男も、薄紫のレンズが入った眼鏡をしていた。
交差点の歩道で立ち尽くす私の、ポケットが震える。スマートフォンに着信があった。表示されているのは勤め先の名前である。画面の隅を見れば、とうに始業時間を過ぎていた。
「やっと出たな。頼んでいた資料、急ぎだと言ったろう。何をやってる」
上司の声は苛立たしげだが、その顔が見えないことに安堵してしまう。しかし何をどう言ったものか。「黙ってないでなんとか言え」と、上司も急かしてくる。
「実は、眼鏡をなくしてしまって」
そう言ったのは、僅かに望みをかけたからだった。眼鏡だらけなのはこの辺りだけで、電話の向こうはいつも通り、それならば叱られるか馬鹿にされるか、そのどちらかだろう。それに、私が眼鏡をかける人間ではないのを上司は知っているはずだった。
しかし返ってきた声音は「何だって」と低く真剣な響きをしていた。
「それは大変だ。すぐに眼鏡屋へ行きなさい。午前休にしておいてやるから」
そんな風に細々と何か説かれたが、私はまともに聞き取ることができなかった。私の望みはここに絶たれたのだ。
眼鏡を買おうと思ったことが無いものだから、眼鏡の買い方がわからない。どこにでもあると思っていた眼鏡の量販店は、調べてみると一番近いのが二つ先の駅だった。バスで断られたのに、電車に乗れるとは思えない。試してみてまた視線を浴びるのは耐えられないし、人の集まる場所に行くのも避けたかった。地図アプリの情報が正しければ、この辺りにも小さな眼鏡屋があるらしい。今はただ、眼鏡が手に入りさえすれば良かった。安くてマシなのがあれば万々歳だが。
とある商店街の片隅に、その眼鏡屋はあった。シャッターは閉まっており、店名のわかるものも無いが、眼鏡を象ったサインが壁から浮き出て私を見下ろしていた。ここはたまに通っていたはずだが、今の今まで私はこの店の存在を知らなかった。
開店時間にはまだ早い。どこか建物の陰で待っていようと踵を返したその時、やって来た女性と目が合う。鼈甲柄の眼鏡をかけたその女性は、口元を手で押さえながら目を見開いた。
「あらまぁ、すぐに開けますから。お入りになって」
女性は慌てた様子で鍵を開け、ガラガラとシャッターを上げた。古びたアーケードの切れ目、陽の光が僅かに差し込んで店先に並んだ眼鏡を照らす。硝子扉は厚く重い。しかしここは今日初めて、私を受け入れてくれた場所だった。私は情けなく泣きたい気分ですらあった。
「その様子じゃお困りだったでしょう。任せてくださいな、とびきりのをお見立てしますわ」
女性の年齢は分かりにくいものだが、落ち着いた物腰の女店主の歳は尚更分からなかった。ともあれ、その柔らかな笑顔を見たことで、私は飲み込めずにいたあらゆる事を溜息としてようやく吐き出すことができた。
「何でも、何でも良いんです。この顔に掛けられるものなら」
私がそうこぼすと、照明をつけたり開店の準備をしていた様子の女店主は、きりりと厳しい顔で私を振り返った。
「何でも、とは行きませんわ。眼鏡はあなたという人の象徴であり、証なのですよ」
思いの外大層な言葉が返ってきたもので、私は面食らった。女店主がつかつかと歩み寄って言う。
「眼鏡は、その人の在り方を表すもの。現在のあなただけでなく、こう在りたいという信条をも象徴するもの。だからこそ今この世では、眼鏡が信頼性の証明になっている。あなた、適当な人間に見られたいわけでは無いでしょう?」
そこまで言って、女店主はハッと息を呑み、バツが悪そうに苦笑した。
「御免なさいね、眼鏡のこととなるとつい熱くなってしまって。勿論そんなこと、ご存知でしょうに」
ああ、いえ、と口篭る私に、女店主はカウンターの椅子をすすめた。それから「あまり慣れていらっしゃらないようだから、検査から始めましょうか」と、私の目の前に奇妙な機械を設置した。ゴーグルのようなものと、十字ボタンなどが付いている。
「画面の指示に従ってもらえばすぐ終わりますわ。その間にいくつか見繕って来ますから」
そう言われるので、私は機械と向き合うしかなくなった。
恐る恐るゴーグルを覗き込むと、見覚えのある「C」のような記号が見えた。ただの視力検査か、と胸を撫で下ろし、切れ目の向きを十字ボタンで選んでいく。記号はどんどん小さくなり、もう分からないというところでキャンセルボタンを押す。視力は少し落ちているかもしれなかった。
それが終わると、今度は画面に色鮮やかな気球が表示された。下の方に『画面中央を見ていてください』とある。仕方ないのでぼんやり気球を眺めていると、その文章がいつの間にか『読み取り中』に変わっていた。
読み取る、何を?
「お顔が少し角ばっていらっしゃるから、丸みのあるボストンなんかお似合いだと思いますの。誠実さを損ねず柔軟性を表現できますから。最終的にはデータに寄せますけれど、私こうやってお見立てするのが好きで」
女店主の弾んだ声がやけに耳に障る。眼鏡は必要だが、この機械が恐ろしい。頭を固定されているわけでもないのに、気球から目を離すこともできない。背中に、腋に、冷たい汗が伝う。いつまでこの時間が続くのか。目玉もすっかり乾ききった頃にようやく、ビーッと濁った音を鳴らして機械が止まった。
女店主は「あら、おかしいわね」と機械を確認する。店の奥からはガタガタと古めかしいファックスのような音がして、そこから吐き出された紙に目を通しながら、女店主の表情が困惑に染まっていく。嫌な予感がした。
「御免なさいね、あなたの眼鏡をお作りすることはできないようですわ」
私は堪らず、女店主の肩を掴んだ。
「何故だ、何故できない」
「あなたは“不適合”なのです」
「何が!」
「あなたは眼鏡に相応しくない、と読み取り機の結果が出ていますの。残念ですわ。本当に残念」
女店主が本心から落胆しているのが見て取れたので、私は手を離すしかなかった。それにしても“不適合”とは何だ。私は何を読み取られた。何をもって相応しくないなどと言われなければならない。たかが眼鏡に。
わなわなと震える私に、女店主がぽつりと言った。
「目が、覚えているのですわ。あなたの罪を」
罪だなどと。
自分が清廉潔白だとは言わないが、眼鏡を買えないほどの罪とは何だと言うのだ。
私は頭を掻き毟りながら、その眼鏡屋を後にするしかなかった。
人目の無い通りを選んで歩いた。私はすっかり日陰者だった。昼を過ぎ、会社からはまた着信があったが出る気にもなれない。
やはりここは、私の知る世界では無かった。見渡せばあちこちに『眼鏡以外立入禁止』などという表示があり、飲食店やコンビニにも入れない。腹も減ったが、使えるのは自販機が精々である。眼鏡をかけていないというだけで、警官に職務質問もされた。その時の私を憐れむような顔が脳にこびりついて離れない。
兎にも角にも、家に帰ろう。
そこだけはせめて安全なはずだった。家賃もちゃんと払っている、私の家である。しばらく出鱈目に歩いたので多少距離はあるが、今日はもう寝てしまいたい。起きたら元通りになっていてくれ。或いは私に眼鏡を与えてくれ。
そう思いながら路地裏を歩いていると、私は遂に、眼鏡をかけていない人間に出くわした。それは
小汚い髭面が私を見て、ニイッと口を歪めた。なんとも例えようのない臭いがした。
「その顔、もしかして新入りかい? ハハ、“眼鏡不適合者”って言われやしなかったか」
私はその時、どんな顔をしていただろうか。希望に縋るような気持ちと、絶望の淵に立たされた気持ちと、どちらもがせめぎ合っていた。
「あんたも、不適合なのか」
「そうとも。やっぱりね、ヒヒヒ、ようこそ新入り」
差し出された手を、迷った末に握った。砂か何かでざらざらとしていたが、確かに温かい人の手だった。
「行く当てが無くなったら、そこの公園の先にある橋の下に来ると良い。もう何人か、仲間がいる。歓迎してやろう」
「他に何人も?」
「ああ。最近少し若いのが増えてきたがね。全く可哀想に」
そう言いながらも、男は引き攣るように笑った。それが私には不気味だった。この男はどこか、壊れている。
「なぁ、“不適合”って何なんだ」
「眼鏡に相応しくないんだとよ」
「それは聞いた。私の何がいけない。何が罪だ」
男は私の鼻先まで顔を近づけて、殊更体を震わせながら笑った。
「罪! そう、罪だ。俺たちの罪。最初のうちは誰も分からなかった。覚えが無かった。眼鏡に縁なんて無い奴がほとんどだったからな。けど寄り集まって身の上話をしてる内にぼんやりわかって来た。俺たちは同じ間違いをしたんだ。ちっぽけな罪で、この重い罰を食らってる」
男は舞台役者のように、大袈裟に手を広げながら喋った。口の端に泡を吹き、黄色い歯を覗かせながら、目をぎょろりと見開いて。
「だからその罪は、何かと聞いている」
「ヒヒ、知りたいかい。余計に苦しむかもしれないのにかい」
「教えてくれ!」
私はもはや叫ぶように懇願した。これが罰だと言うなら、せめて分かりたかった。
男は笑いを抑えられないという風に、やはり体を震わせている。それからうんうんと頷き、散々勿体ぶってからこう言った。
「俺たちの罪はな、眼鏡をバカにしたことさ」
私は言葉を失った。未だ何もわからない。疑問ばかりが頭を巡る。
「眼鏡を、バカにするなんてこと……」
「してない? 本当にそうか? 眼鏡はダサいだとか、クソメガネだとか、一度でも言ったことは?」
脳裏に一瞬、或る顔が浮かんだ。無茶ばかり言ってくる取引先の担当者。その澄ました顔が気に食わず裏でクソメガネと呼んではいたが。
「それは、相手をバカにしてるのであって」
「あー、やっぱりやったんだな。残念。たったそれだけでこの世界は許しちゃくれない。眼鏡が悪いわけではないのに罵倒した、ってことになる」
「そんな、それだけで」
「そうとも、それっぽっち。でも駄目なんだ。俺たちにはもう、眼鏡は手に入らない。いやそれだけじゃない。眼鏡のない人間は家も金も取られてみぃんなこうなるのさ。ハハ、お前さんがそんな小奇麗にしていられるのも今の内だ。大事なもんがあるなら早く取ってきた方が良いかもしれんよ。ヒヒ、ヒヒヒ……」
私は後ずさり、その場から逃げ出した。男の臭いが、笑い声が、纏わりついてくるように思えた。私の行く末はあれなのか。眼鏡が無いばかりに。眼鏡をバカにする気持ちなど無いのに。悪いのはあのクソメガネ、いや、あの取引先だ。こんな罰は不当だ。何故私の眼鏡が無い。
気づけば私は、女店主の眼鏡屋に戻ってきていた。
「あるはずだ、私の眼鏡が。ここにはこんなに眼鏡があるのだから」
女店主は怯えきった顔で奥に引っ込んだ。私は手当り次第に眼鏡を引っ掴み、懐に押し込んだ。適当な黒縁を一つ、顔に乗せてみる。これで良い。眼鏡姿も悪くないじゃないか。
しかしその眼鏡はすぐに引き剥がされてしまった。女店主が警察を呼んだのだ。盗みはしなかったのに。値札に足りる金を置いていったのに。警察が、これは私の眼鏡では無いと言う。私の眼鏡は無いのだと言う。
私は今、留置場にいる。
私の罪は、何だ。
今はただ、ひととき鼻に乗せたあの重さが恋しい。
眼鏡が無い 灰崎千尋 @chat_gris
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