あなたの景色をこの手の中に
森陰五十鈴
唯一遺されたもの
兄が死んだ。
交通事故だった。
社会人としていざ一歩踏み出したところで、自動車に跳ねられた。
霊安室で見た兄は、きれいな顔をしていて。
でも、白い布で覆われた
あとりは、ただ呆然と、真っ白になった兄の安らかな顔を見続けていた。
両親の嗚咽を聞きながら。
左側だけひしゃげた眼鏡が、兄の頭の横に添えられていた。
ちん、と仏壇の
あとりは、畳に正座した足を立たせる。視線を上げると、兄の遺影が目に入った。賞状を入れるくらいの大きさの額縁に入ったカラー写真。作り笑いの顔に、銀縁の楕円の眼鏡。スーツ姿なのは、合成でも何でもなく、大学の卒業式に撮ったから。
あとりは、眼鏡の下の一重の眼を睨みつける。
「なに人生まで卒業してんの」
不謹慎なことを吐き捨てられたのは、今この家に両親のどちらもいないからだった。朝八時。両親ともすでに仕事へ向かっている。
あとりも、通学の時間だった。線香を消してから、家を出る。
春はもう過ぎようとしていた。紺色の長袖のブレザーは、少し汗ばむ。アスファルトの照り返しにうんざりしながら、学校へ。白く面白みもない高校の校舎の中は、少し涼しかった。
教室はいつも通り、喧騒に包まれている。けれど、あとりが入ると、少しだけ騒がしさに遠慮が生まれる。密かに集められる視線を無視して、あとりは窓際に寄った。あとりの席は、窓際の一番後ろ。気楽な席だった。
教科書を出して、机の中にしまう。鞄は横に掛ける。支度を終えると、あとりは頬杖をついて窓の外を見た。青く眩しい空。白く線を引くのは、飛行機雲か。砂漠を切り取ったような色気のないグラウンド。その向こうの松林。そして、さらにその向こうには、遊園地。
絶叫マシンからの悲鳴が十分届く距離に、あとりの通う高校はある。
今は開園前だから、静かなものだ。
喧騒は遠く、あとりはぼうっと遊園地を眺めた。ある程度距離があるものだから、園の敷地を横断するジェットコースターも掌に乗るサイズ。ミニチュアみたいなそれを、可愛いと思った。特に観覧車が良い。赤、橙、黄色、緑、水色、青、紫。七色に塗り分けられた円いゴンドラが可愛らしい。暗くなれば、イルミネーションも点灯する。本当にミニチュアならば、インテリアにでもすれば素敵だろう。
でも、それよりも、実際に乗るほうがもっと素敵だ。昔、家族で行った遊園地は、ゴンドラから見下ろすとまるでおもちゃ箱のようだった。夕暮れ時ならば、さらに燃えているように見えて――。
燃える。
火葬場。
兄は、燃やされた。
今は、骨になって、仏壇の隣に置かれている。
唯一兄のひしゃげた眼鏡だけが燃やされず残って、仏壇に置かれている。
とりとめのない思考からの連想に、あとりは溜め息を吐いた。二週間ほど前に齎された兄の死は、どこまでもあとりにつきまとうらしい。身内が死ぬとはこういうことか、とあとりは実感させられる。胸の奥底が、ひやりと氷のように冷たかった。
仲の良い兄妹ではなかった。
でも、仲が悪いわけでもなかった。
同居している他人。それが一番、あとりの感覚に当てはまる言葉だろうか。もちろん生まれてからずっと見てきているわけだから、兄の人柄はそれなりに知っている。けれど、そこに感情は伴わなかった。好きだ、とも。嫌いだ、とも。
兄もまた、同じなはずだ。六歳離れた妹より、友人たちのほうに関心を持っていた。趣味が共通しているわけでもなかったから、どちらといるのが楽しいかは分かりきっていることだった。
ドライな関係。それがあとりと隼人の兄妹性。
それは、兄が一人暮らしで家を出ていっても変わりがなかった。四年も続けば、兄の居ない生活は、もう当たり前のことだった。
だから、〝居ない〟なんて、今更特別なことではないのに――
どうして、こうも虚しいのか。
なにとなしに学業をこなして、下校の時間を迎える。部活はやっていなかったから、放課後は帰るだけ。
共に帰る友人はいなかった。新しいクラスになったばかりで、あとりはまだ新しいコミュニティを築けていなかった。それは、家族を喪ったことで、ますます難儀になった。みんなあとりに遠慮する。腫れ物に触るように扱う。可哀想だからと気を遣って、あとりのことを遠巻きにする。
――いや。
『早苗さん、お兄さんが亡くなったっていうのに、葬式のときも涙一つ流さなかったらしいよ』
気遣いの中に、雑音が混じっていた。
『ご両親は憔悴されているというのに、妹さんだけ平気な顔してるわね』
雑音は、葬儀のときからところどころ紛れていた。
こんな鬱陶しい声を聴くくらいなら、一人でいたほうが気楽だった。
泣かなかったからって、なんだというのか。
夕方といえども、日はまだだいぶ空高いところで煌々としていた。寄り道していこうか、と考える。例えば、学校から見える遊園地。観覧車のことを思い出したら、なんとなく行きたくなった。入るだけなら、小遣いに大した負担はかからないけれど――
「……やめた」
またどんな雑音が入るか、分かったものじゃない。
真っ直ぐに家に帰る。
しん、と冷ややかな空気が鎮座していた家の中。靴を脱いだあとりは、真っ直ぐに兄の仏壇の前へと向かった。靴下で畳を踏みしめ、あとりより少し背の低い仏壇を見下ろす。
「……ただいま」
返事はない。家には誰もいない。両親はどちらもフルタイムだから。だが、最近はより忙しくしていた。忙しくすることで兄の悲劇を忘れようとしているのだ、とあとりは悟っていた。それくらい両親は、真っ当に兄の死を悲しんでいた。
――なら、自分はどうだろう。
葬儀のとき涙一つ流さなかった自分は、真っ当ではないのだろうか。
思えば自分は、昔から『変わっている』と言われていた。周囲からも、家族からも。
昔、家族みんなであの遊園地に行ったときのこと。
一日中アトラクションを遊び尽くした最後に、観覧車に乗った。
黄昏の残光に燃える景色を、ゴンドラの中から見下ろした。両親が遠くの景色を指差す中で、あとりだけはアクリルの窓に張り付いて、真下ばかりを見つめていた。
中世の舞踏会を思わせる豪華さを持つ、メリーゴーランド。
水面に三色のイルミネーションが揺らめく、白鳥のボートが走る池。
レールに沿って光が走る、ロケット発射台のようなジェットコースター。
青い光に暗く照らされた、廃墟風のお化け屋敷。
それらが炎に放り込まれているような幻想的な景色が、そこにあった。
あとりはそれに魅せられていたけれど、両親は下ばかりを見続ける娘を「変わってる」と苦笑交じりに評価した。
でも、兄だけが――
つまらなそうにしていた、兄だけが。
『ああ、ホントだ。綺麗だな』
あとりのことを、肯定した。
あのとき、本当にあとりに同調したのか。それとも適当なことを言ったのか。
あとりにはもう、知るすべがなかった。
兄はもう、あとりに何も話すことはない。
あとりは仏壇の前に置かれた座布団に座り込んだ。スカート姿なのも構わぬまま、胡座を掻く。見つめるのは、位牌ではなくひしゃげた眼鏡。金属製故に棺に入れる事ができず、兄が唯一あの世に持っていけなかった、兄の一部。
これを覗き込めば、何か分かるだろうか。
あとりは、眼鏡を拾い上げた。眼鏡の
だんだん近づいていくレンズの中の景色は小さかったのに、いよいよ鼻あてが自分の鼻に当たる距離になった途端、視界が歪んでくらりとした。度数が強いのだ。
眼鏡をただちに自分の顔から引き剥がした。
「……ド近眼」
溢れた言葉には、笑いがこもっていた。昔、中学生になった兄が眼鏡をかけ始めた頃にも、幼いあとりは同じことをしたのだ。自分でやっておきながら、きもちわるい、と騒ぎ立て、両親と兄を呆れさせた。
そんなこともあったのだ、とあの頃の記憶が蘇ってくる。
兄のことは、好きでも嫌いでもなかった。でも、こういうささやかな思い出の中に、当たり前のように兄の姿が入り込んでいた。
これからは、それがない。
夏休みのクーラーの効いた部屋にも、年末年始の炬燵の中にも。
観覧車のゴンドラの中にも。
兄の姿は何処にもない。
その虚しさを形容する言葉を、あとりは持たなかった。
涙は今も流れない。
でも、欲しい物ができた。
あとりは眼鏡をそっと握りしめる。
「兄貴の眼鏡さ、私が貰っていいかな」
母が帰ってくるや否や、あとりはそう持ちかけた。母は怪訝そうにしたものの、すぐに承諾してくれた。
あとりは眼鏡を部屋に持っていく。父の道具箱からドライバーを借用し、
兄の見た景色を、見たいと思った。
そうすればもっと、兄のことを知れるのではないかと思った。
今更な気がするけれども、あの日観覧車で兄が何を思っていたのか、このレンズを透かせば分かるのではないかと思った。
だから、あとりは兄の形見に眼鏡を選んだ。形見を身に着けることも。
自分を認めてくれた兄のことを、忘れたくないから。
あとりは、レンズを透かして、自分の部屋を覗き込む。
レンズの中で、景色が縮小して見えた。
あなたの景色をこの手の中に 森陰五十鈴 @morisuzu
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